快楽をもたらすもの -1-



まさか、彼の方から要求してくるとは思わなかった。
「水でいい。ぶっかけろ」
空っぽのバスタブの中で、一糸もまとっていない身体を弛緩させ、エドワードはアルフォンスに静かに命じた。
こんな明け方に、このアパート付属のボイラーが稼動しているはずもない。バスルームのシャワーで用を足そうとしても、水しか出ないのだ。
片手にシャワー、片手にバスタブの縁を握りしめて、アルフォンスはエドワードを見下ろしている。
いくら今が夏の盛りとは言っても、夜、ことに明け方は肌寒い日の方が多い。冷水なぞ浴びれば、風邪をひく。
そうやって困惑しているアルフォンスのことなど、エドワードは気にも留めていないようだ。
「いいから。早くぶっかけろ」
狭いバスタブに男2人が収まるのは難しい。アルフォンスの方は身づくろいをほぼすませ、上半身だけ脱いで、バスタブの外からエドワードの身体を洗ってやろうとしていた。
ついさっきまで、ベッドの上で、このエドワードと深く繋がり合っていた。
バスタブの縁を握るアルフォンスの指に、力がこもる。
以前に一度だけエドワードを抱いたが、よもや二度目はないと思っていた。
だからアルフォンスは、いつも通りにふるまってきた。
エドワードに何も押し付けず、淡々と研究室に通い、食事をし、寝て、起きて。
あのことがあってから、いつも張り詰めていた感情の糸を一本残らず断ち切ってしまったエドワードに、アルフォンスはもう何も要求出来なかった。
ロケットの研究を続けろ、とも。
規則正しく生活しろ、とも。
何も言えなかった。
まして、自分ともう一度寝てくれ、などという破滅的な要求をエドワードにつきつけることなど、出来るはずがなかった。

───だから、いつも通りにしていたのに。

それなのに、エドワードから要求してきたのだ。




「まだ起きてんのか?早く寝ろよ」
おざなりなノックの後、遠慮も何もなくずかずかとアルフォンスの部屋に踏み込んできて、エドワードは図面を広げた机の前に座っているアルフォンスを、ぬう、と後ろから覗き込んだ。
もう一度、図面に興味を取り戻してくれているのなら嬉しいが、以前と全く同じような動作をしていても、エドワードの目はどこか硬く澄みすぎるほどに澄んでいて、熱っぽさを失っていた。
肩にエドワードの胸が当たり、彼の義肢と腕の継ぎ目部分の凹凸が、薄いシャツを通してアルフォンスの肌にまで、鮮明に伝わってくる。
エドワードが精神的な支柱を失ってさまよっているという、先日からの大問題の前では、アルフォンスのちっぽけな欲望など、存在しないに等しい。
それでも、時折こんなふうに身体が触れてしまうと、アルフォンスの心の中で強制的に冷凍されていた柔らかい何かが、こらえきれずにどろどろと溶け出してしまう。
溶け出すそれも、それを意志の力で完全に封じられない自分も、たまらなく卑しく思えて、アルフォンスは鉛筆を投げ出した。
乾いた音を立てて机上を転がる鉛筆が停止する前に、がばりと立ち上がろうとして、押し止められる。
首筋に、エドワードの腕が絡んできたのだ。
何かの格闘技のまねごとかと思ったが、そうやってふざけるほどの心の余裕が、今のエドワードにあるはずもない。それに、以前関係を持った後、エドワードの方から触れてきたことは皆無だったのだ。
ただ一度の、例外を除いては。

───オレを、お前の家に置いてくれ。

今となっては、あの時エドワードから受けたキスは、現実だったのかどうかもあやしい。夢だったと言われても、すうっと納得出来そうなほどに、アルフォンスの中でその記憶は色彩を薄めている。薄めなければ、アルフォンス自身も精神のバランスを保つのが難しいという事実も厳然と横たわっているが、いちいちそんな事実を直視していては、身体がいくつあっても足りない。
だから、エドワードが柔らかく絡めてくる両腕の感触を、アルフォンスは可能な限り機械的に処理しようとした。
「すみません。寝ます。どいてもらえませんか」
動揺しているのに、なぜか声は平坦に出せた。
エドワードは答えない。
答えずに、両腕をもっと強くしならせ、絡めてくる。
アルフォンスの呼吸が瞬間、止まった。
「離してくれませんか」
声に息が混じってしまい、顔に血が上る。
そのまま力任せに立ち上がろうとすれば、エドワードを抱き上げるような格好になってしまう。
抵抗らしい抵抗も出来ないまま、頭をすっぽりエドワードの腕の中に預ける形になり、アルフォンスはますますしゃべれなくなる。
頬に柔らかく触れるシャツは、以前と全く変わらない、エドワードの匂いを含んでいる。
何も変わってなどいない。
左右で感触の違う腕も、意外に大きい手のひらも、肩からこぼれてくる長い髪も、全て、そのままのエドワードだ。
それなのに、変わらないその身体のどこかに収まっているエドワードの心は、もうどうしていいかわからないほどに、アルフォンスから遠く離れている。
今ここでアルフォンスの頭を抱いているのは、エドワードであって、エドワードでない。
これがアルフォンスの知らなかった新しいエドワードの一面であることは間違いないし、この数ヶ月、彼を理解する努力もしてきたが、アルフォンスはどうしても、現在のエドワードに馴染むことが出来ないでいた。
それでも。

───オレを、お前の家に置いてくれ。

どんなに今のエドワードをアルフォンスが受け入れられなくても、あの時、エドワードは望んでくれたのだ。
あの時アルフォンスが一番聞きたかった言葉を、エドワードは言ってくれたのだ。
どれほど無気力で傲慢な世界に堕ちようと、エドワードはまだ、アルフォンスを必要としてくれている。
それが単に、エドワードの物理的な生活の保障のためだけであったとしても、まだ、エドワードの内的世界に、アルフォンスは存在を許されている。
それがどうしても嬉しくて、そして悔しくて、アルフォンスは身動きすらままならない。心さえすくんだまま、動けない。
ふと、エドワードの腕が緩む。
ここから解放されるのかと息をつきかけたアルフォンスの頬が、がしりと捕らえられた。
左頬に、緩く冷えた義肢の指。
右頬に、熱っぽい生身の指。
左右でちぐはぐな温度の指が、椅子に座ったままのアルフォンスの頬に食い込み、顎すらすくい上げられる。
上向かされた額に、こつりと額が押し付けられて、まつ毛さえ触れ合いそうな至近距離で、硬く光る黄金の瞳が、アルフォンスの視界いっぱいに広がった。
「寝るんだろ。なら、寝ようぜ」
アルフォンスの頭蓋内に低く響き渡ったその声は、すぐに弾力のある肉の感触になって、唇を襲ってくる。
アルフォンスは反射的に目を閉じた。
何が起こったか、わかっているのだが、わかりたくない。
そこから溶けてただれそうな口付けの感触は、唇を経由して、アルフォンスの身体の中心部分を、正確に撃ち抜いた。
「エドワー…」
「しゃべるな」
柔らかく、けれどどこか冷めた動きで、定められた目標を淡々と攻略するように、エドワードの唇はアルフォンスをまさぐってくる。
「エドワードさん、僕は」
口を開けた隙に、舌で歯列を割られ、アルフォンスはもう一言も発することが出来なくなる。

───これが。

もしもこれが、半年前の出来事だったなら、どんなに幸福な気分になれただろう。
考えても虚しいだけの仮定を、アルフォンスは重い胸の内に浮かべ、そして沈めた。
ロケット製作のために、飛び跳ねるような軽快さと熱心さで設計図に取り付いていた、半年前のエドワードの横顔が、アルフォンスの脳裏を通り過ぎてゆく。
切れ切れに瞬く回想の中の彼はいつも横顔だ。
あの頃は気恥ずかしくて、それに、小さな下心を悟られるのが怖くて、とても正面から見つめることなど出来なかった。
怖くて、けれどあんなにも触れたかったエドワードの唇が、今、この口の中までを湿らせようと不敵に滑り込んで来てくれているのに、その熱は、アルフォンスの心の中にまで行き渡らない。
熱くなるのは身体だけだ。
心とリンクしていない自分の身体をうとましく思いながらも、アルフォンスは、潔白すぎない自身の身体に、少し安心もしていた。
エドワードの舌の動きは優しい。
甘みすら感じる、柔らかさと熱さだ。
その熱が、この身体の中にわだかまったいまいましい理性を、根こそぎ流し去ってくれればいいのにと、これまた都合のいいことを考える。
自分にも、エドワードにも、寒々しい敗北を感じながら、アルフォンスはエドワードの肩に手を伸ばした。
どこか、彼の身体の一部分を捕まえていないと、彼の存在そのものまで、ふわふわとどうしようもなく飛んでいってしまいそうな気がしたからだ。




エドワードを抱きとめたまま、先に立ち上がったのはアルフォンスだった。
しかし、ベッドへと先に歩を踏み出したのはエドワードの方だった。
エドワードを振り払えない悔しさのままに、エドワードに腕を引かれて、アルフォンスは自分のベッドに腰掛ける。

───どうして、なんて訊きたくない。だけど。

どうして、この人は僕と寝たいなんて思うのか。
どうして今なのか。
僕の身体で、失望を紛らわせたいのか。
そんなことをしても虚しいと、この人がわかっていないはずはないのに。
何もかも、もうどうでもいいのか。
それとも。
僕に何かを期待しているから。
僕を、まだ好きでいてくれるから。
だから、何もかもを僕にぶつけたいのか。
最後のその疑問は、思い浮かべるだけで、心臓がひきつれそうに冷たく痛む。
それは、「期待を諦める」痛さだった。
アルフォンスが最も期待しているそのことは、きっと、今アルフォンスが思い浮かべた幾つもの疑問の中でも、最も真実である可能性が低い。
それは違う、それは思い込みだと他の誰かに否定して欲しいのはやまやまだが、こんなことは誰にも相談出来ないし、この数ヶ月、魂が別質のものに入れ替わってしまったようなエドワードを、間近で見つめなければならなかったアルフォンスには、自分で自分を客観視して、期待と予想にちょうど良く折り合いをつける精神力さえ残っていなかった。
本当は、エドワードの理由を訊きたくないのではない。
訊けないだけなのだ。
そして何よりも。
そうやって、訊けないことが。
それらの疑問を口に出して、エドワードに訊けないことそのものが、ひとつの確実な答えであるような気がした。
肩を突かれ、ためらいも何もなく、どすんと仰向けにベッドに沈められ、アルフォンスは後頭部をくらくらと鳴らす痛みに目をつぶる。
まだ足を床に着けたまま、靴も脱いでいない。
自分だけはちゃっかり靴を脱いでベッドに上ったエドワードは、軽々とアルフォンスの胴体をまたぎ、馬乗りになった。乱暴な動作に見えて、それでいて、自分の体重をアルフォンスにかけすぎないように、彼が絶妙な角度で膝を立ててくれていることを、彼の気遣いだとここで解釈してしまうのは、お人好しすぎるだろうか。
首筋に顔を埋められて、そこに沁みる温かい吐息の感触に、アルフォンスは肩をすくめた。
エドワードに呆れたのではない。
どれだけエドワードが支離滅裂でも、理解不能でも、不公平でも、卑怯でも。
どれだけこの行為が、敗北や虚無に近いものであったとしても。
エドワードがそのぎりぎりの魂を、いや、ぎりぎりで魂を繋ぎとめているその身体を、どこにも拡散させず、こちらにだけ向けてくれているそのことが、どうしても、嬉しい。
破滅、というほどおおげさではないけれど、それに似たものが、あっけらかんと口を開けて自分の背後に控えているのがわかる。その確実な予感が、背筋にも、喉元にも湧き上がってくる。
アルフォンスは、力を込めた唇の端で、予感を噛み潰した。
エドワードの吐息で、首が本当に温かい。
されるままだった体勢から、腕を上げて彼の肩を引き寄せる。
少しの抵抗の後、エドワードは全身をアルフォンスの身体の上に投げ出してきた。
改めて背中に回される腕の力をじかに感じて、アルフォンスは開けかけていた目をまた閉じた。
これが単なる、物理的接触の結果でもかまわない。
この温かさを手に入れられるなら、もう、何もいらない。




そうして、全てが終わった後。
「もういい。あとは、自分でやる」
濡れたバスタブの真ん中に、もっとずぶ濡れになって座り込んだエドワードは、顔すら上げずに、アルフォンスの手を押しとどめた。
エドワードはこれ以上、アルフォンスに触れられたくないらしい。
言われるままに、エドワードの身体に隅々まで冷水を浴びせ続け、やっとそのシャワーの水栓を止め、タオルで彼の肩だけでも拭いてやろうとしたのだが。
初めてエドワードと寝た時、彼は身づくろいを手伝われることをとても嫌がったことを思い出し、アルフォンスはタオル越しに触れていたエドワードの肩から、すぐに手を離した。

───こんな、手先にかかっただけでこんなに冷たい水。

こんなに冷たい水をかぶった身体を、一刻も早く拭いてやりたいアルフォンスの焦りは、気まずさにあっけなく押し流される。
何を言ってるんですか、さっさと拭かせてください、と、そんな親愛とないまぜの叱咤すら、もうエドワードに浴びせることが出来ない。
その場に立っていることが自分勝手に辛くて、アルフォンスはエドワードの納まるバスタブから、ついと離れた。
半歩も踏み出せないまま、背後から右手の指を掴まれて、飛び上がりそうになる。
筋肉が固まって回しづらい首をなんとか回して振り向くと、バスタブの中から手を伸ばしたエドワードと、まともに目が合った。
アルフォンスの人差し指と中指をまとめて、力無く握りこんでくるエドワードの瞳は、濡れた前髪に半分以上閉ざされて、暗く黄土色に濁っている。
「ごめんな。こんなに手、冷たくしちまって」
緩く締めつけられるように痛んでいたアルフォンスの胸に、鋭いショックがねじ込まれる。
ついさっきまで、まるっきり自分のことしか考えていなかったくせに、どうしてこの人は急に、こんな言葉を口にするのか。
さっきまでの横暴さは、演技だったのか。
それとも横暴だからこそ、急にこんな言葉も口に出来るのか。
本来なら、この痛む胸を奥の奥まで温めてくれるはずのエドワードの謝罪なのに、それはもう意味を失い、変質して、空中分解しかねない勢いでその場の空気を騒がせる。
いくら考えてもわからない。
考えすぎて、わかりすぎて、だからわからなくなってしまった。
どうしてこんなふうになってしまったんだろう。
「だいじょう、ぶです」
黄土色に翳る瞳に向けて、アルフォンスはやっとつぶやいた。
動きが乱暴にならないように細心の注意を払って、エドワードの指から自分の指を引き抜き、小走りで駆け出して、バスルームの外に出て、ドアを閉める。
閉めたドアにもたれていると、ショックをねじ込まれた胸の底から、焼けつくような痛みがこみ上げてきて、本当に咳き込んでしまった。十まで数えられるくらいの時間たっぷりに咳き込み続け、肩で深呼吸する。
やっと吸い込んだ息がどこか鉄錆臭くて、アルフォンスはふと悪寒に襲われた。
唇が不自然に濡れている。咳き込みすぎたのを恥ずかしく思い、そこを指で拭うと、指が赤く染まった。
目と胸に沁みる、赤だった。




アルフォンスが、自分を避けている。
遅い朝食代わりのパンをかじりながら、エドワードはだらしなく窓枠に頬杖をついた。
研究室から足が遠のいてしまった今となっては、エドワードの起床時間は定まらず、たいていエドワードが目覚めた時にはもう、アルフォンスは出かけてしまっていることがほとんどだった。最初の頃は、静かすぎる朝の部屋の空気がずいぶんと物悲しかったものだが、一人で目覚めることが普通になってしまうと、もはやどうということもない。
エドワードがアルフォンスと顔を合わせている時間は必然的に激減し、週に二、三度、なんとか二人で夕食を取るのが精一杯だ。それとてお互い努力しているわけでもなく、外食しそびれたアルフォンスが、エドワードを誘って簡単な夕食を作るという、消極的な理由にもとづいているだけである。
それほどに短い接触時間であっても、この数日のアルフォンスの態度は、エドワードに大きな違和感をもたらした。
アルフォンスは、家に帰ってきても、エドワードに近づこうとしない。
近づくどころか、視線すら合わせようとしないのだ。
最低限の挨拶の一言ですら、エドワードの目を見てくれない。彼を追いかけようと、エドワードが、座っていた椅子から腰を浮かせようものなら、キツネと鉢合わせたウサギのように、自室のドアの奥へ逃げ去ってしまう。
以前のように、お互い熱っぽく研究の成果について話すことはなくなったが、それ以外のたわいない日常会話は、少ないながらも二人の間には、それまで普通に存在していた。帰宅後のアルフォンスは、エドワードが自室にこもっていても必ずエドワードに声をかけ、エドワードにドアを開けさせ、その顔を見ることを日課にしていたのだ。それはある意味監視とも取れる煩わしさだったが、幸か不幸か、エドワードは以前から、アルフォンスに優しく監視されることには慣れていた。
きちんと食べているか。
きちんと寝ているか。
顔色が悪くないか。
どこか痛そうに手足を引きずったりしていないか。
接触する時間が短くなった分、アルフォンスがエドワードを見つめる目は確実に厳しくなっていた。態度はいつも穏やかに、変わらないふうを装っているアルフォンスだが、エドワードはその彼の視線の厳しさを、敏感に感じ取っていた。
甘えきっている、とは充分自覚しているのだが。
アルフォンスに甘えきっていると、充分自覚しているのだが、その視線の厳しさが、エドワードには嬉しかった。
何もかもなくしてしまった今となっては、アルフォンスのその視線だけが、エドワードの拠りどころだった。
そんなふうに彼を拠りどころにしてしまうことを、自分であれほど恐れて、あれほど回避しようとあがいていたのに、いざ、その甘えの淵へ頭から落ちてしまうと、とても這い上がれそうになかった。
這い上がれないことが悔しくて、ぐるぐると巡るくだらない思考を停止させたくて、この間はアルフォンスを無理やりベッドに付き合わせてしまった。

───そっか。そりゃ、あたりまえだよな。

パンを嚥下(えんげ)するのと同時に、エドワードの胸の中にも、ぽとりとひとつの納得が落ちてくる。
あの時のエドワードの行為は、アルフォンスの怒りを買っても、あたりまえだった。
気持ちなどかけらもこもっていない、空虚さを塗りつぶすためだけの行為に付き合わされて、怒らない人間などいないだろう。
通常の人間ならばとても付き合ってくれないだろうその行為に、アルフォンスを付き合わせた。彼が、まだエドワードに好意を持っているという弱みを利用して。
卑怯なんてもんじゃ、ない。
自分だけじゃなく、アルフォンスまで汚してしまった。
エドワードはパンを噛むのをやめた。考えることを先延ばしにしていた結論が、急に胸に迫ってきて、口元の筋肉さえ動かすのがおっくうだ。
支離滅裂だ。
こんなにアルフォンスにすがっているのに、こんなに自分からアルフォンスを遠ざけている。
失敗したと思うのに、失敗するだろうと思ったのに、自分の行動を自分で止められない。
アルフォンスに嫌われて、平静でいられない。

───怒鳴られたって、殴られたっていいんだ。

気に入らないことがあれば、アルフォンスは頑固にまっすぐに、オレを問い詰めてくれてたのに。
アルフォンスが、こんな方法でオレを嫌うはずがないのに。
ああ。
それも、甘えてる考えか。
そこまで、傷つけてしまったのだろう。
普段のアルフォンスが決して取らない態度を取らせてしまうほどに、エドワードはアルフォンスを傷つけてしまったのだ。
うっとうしく窓際ではためくカーテンを、エドワードは握りしめた。もう何も、喉を通りそうになかった。




検査の結果が出るまで二週間かかると、医者は言った。
数日前のその医者の言葉が、アルフォンスの身体の中に、深く根を張っている。
重い身体を引きずるように歩きながら、アルフォンスは深呼吸を繰り返す。

───可能な限り、外出は控えなさい。それから、君のご家族も検査を受けた方がいい。

結核患者など見慣れているというふうな、落ち着いた、そしてどこかぞんざいな態度で、医者はアルフォンスにそう告げた。
とてもポピュラーな、吐血する死病。
幼年学校に通っていた頃も、急に学校を休み続け、いつの間にか亡くなった生徒が何人かいた。特効薬のない、自分の体力と神だけしか頼れないこの恐ろしい病は、アルフォンスにとって、身近で遠い存在だった。

───まだ、検査結果は出ていない。結核と決まったわけじゃないんだがね。

ぞんざいながらも、あの医者は慰めてくれたのだろうか。
身体がいつもだるいのも、疲れやすくなったのも、単に過労だろうと思っていた。
まだ、自分が死病にかかっているなどと、とても実感出来ない。
考えるだけで、実際に胸が痛くなってくるような気がする。再度の吐血が恐ろしくて、アルフォンスは自分のシャツの胸元をぎゅっと押さえた。

───脅えてる場合じゃない。僕は、エドワードさんに。

死病への恐怖と同じ大きさで、もうひとつの恐怖がアルフォンスの心をみしみしと侵す。

───僕はエドワードさんに、病気をうつしてしまったかもしれない。

結核は空気感染する。
家族も検査を受けた方がいいと医者は言った。
しかし、エドワードを医者に行かせるためには、アルフォンスの事情を全て話さねばならない。

───僕が病気だとあの人が知ったら。もしも、僕の命が永くないかもしれないと、あの人が知ったら。

どんなにこの日常に対して覇気を失くしていても、アルフォンスのこの事情を知れば、エドワードは何らかの形で心を痛めるだろう。

───それで、あの人は僕の代わりに研究室に戻ってくれるだろうか。

戻ってくれたとしても、耐えられない、とアルフォンスは思う。
こんなことで、エドワードの同情を引きたくない。そしてきっと、研究には戻らないという意志をエドワードが貫いたとしても、奇妙に律儀な彼は、弱ったアルフォンスを目の前にしていれば、その意志を貫いたことを後ろめたく思うだろう。
だから、言えない。
エドワードには、何も言いたくない。

───だけど。だけど検査を、受けてもらわなくちゃ。

どうすればいいのかわからない。
今はただ、自分の容態よりも、エドワードのことが気にかかる。
すこぶる健康なエドワードが、今すぐに結核を発症することはないだろうが、危険な菌に感染していることを知らないまま生きていくのは、彼にとって迷惑どころではすまない話だ。

───落ち着け。まだそうと決まったわけじゃない。

落ち着け。
落ち着け。
自分に言い聞かせれば聞かせるほど、いっそう胸が苦しくなる。

───まだ僕の検査結果さえ出てないんだ。

ちっとも落ち着けていないのに、もうアパートの玄関が見えるところまで帰って来てしまった。
時刻は遅いが、真夏の太陽が沈むのはとてもゆっくりだ。まだ夕暮れは赤みも帯びず、白っぽくきらめいている。
肩にかけたカバンをゆすり上げ、アルフォンスは最後の深呼吸をする。
結果は、二週間後。
それまでに、可能な限り、エドワードから離れて暮らさねばならない。
エドワードに泣かれても、わめかれても、誤解されても、それだけは譲れない。




「メシ、食ってきたのか」
部屋に帰り着くなり、エドワードが立ちふさがって来た。
いつもならもう、彼は夕食も勝手に終えて、自室にこもりきりの時間であるのに。
今日のエドワードは、アルフォンスが玄関のドアを開けた時には既にそのドア前に立ちふさがっていた。鍵を開ける物音を聞きつけて、すぐに飛び出して来たのだろう。
「食べてきました」
短い返事をして、アルフォンスはエドワードの脇をすり抜ける。
いきなりの試練に、アルフォンスは動揺を隠せない。だが隠さねばならない。
「待ってくれ」
すばやく身体を翻したエドワードが、もう一度目の前に立ちふさがり、正面衝突しそうになる。
アルフォンスはあわてて立ち止まった。
あわてすぎて前のめりになり、慣性の法則に逆らおうと、おぼつかない足取りで二歩、下がる。
自分より小さいはずのエドワードの身体が、壁のように大きく見える。
「…待ってくれ。おまえが怒ってんのはしかたがねぇと思うけど」
「え?」
「けど、………謝るから。だから、逃げないでくれ」
やはり、誤解されている。
この数日の自分の行動が、エドワードを少なからず不快にしていたことは、充分にわかっていた。
が、こんなにストレートに謝られるとは予想していなかった。
泣いて怒りをぶつけられるかもしれないとは、思っていたのだが。

───それも、ただの僕の願望だった。

そうだ。エドワードが、泣いたりするわけがない。どれほど絶望しても、彼がアルフォンスに涙を見せたことはないのだから。

───泣いて欲しい、なんて。子供じゃないのに。

相手への好意を表現しきれない子供じゃあるまいに、この願望のひねくれ加減はなかなか重症だ。
切なげにこちらを見上げてくるエドワードの視線が苦しくて、アルフォンスは足を前へ踏み出せない。怒鳴られた方が、まだ上手にエドワードをかわせただろう。
だが今は、なんとしてもかわさねばならないのだ。
「別に、僕は怒ってるわけじゃ…」
「それならどうしてオレを避ける?」
「…風邪気味なんです。うつるといけないですから」
「……おまえ、」
エドワードの、刹那の沈黙が恐ろしい。
アルフォンスは、目前にそびえるエドワードの肩を乱暴に押し退けた。
「待て!おまえ、何を隠してる!?」
肘を痛むほど掴まれて、思わず息を飲む。
「離してください!」
だめだ。
どうしても隠せない。
エドワードはもう気づいてしまった。

───いつも、あんなに僕の気持ちなんかほったらかしにしてくれてるくせに。

いつも、いつも、いつも。
僕はあなたが大嫌いだ。
もう何もかも、自分の人生は終わってしまったような顔をしているくせに、この世界のなににも興味がないくせに、この世界と一緒に僕のことなんか放っておいて欲しいのに、最後の最後で目ざといあなたが、大嫌いだ。
「何を隠してる、アルフォンス!」
アルフォンスは、肘を回してエドワードの指を振り払った。
思わずよろめくエドワードの目に、ほろりと崩れてしまいそうな驚愕が浮かぶ。
その目が、どうしても憎くてたまらない。
「言えよ!まさかおまえ」
振り払われても取りすがってくる指を、もう一度、指先で振り払う。
振り払ったとたんに、また覚えのある痛みが喉まで駆け上がって来て、アルフォンスはむせるように咳き込んだ。
「アルフォンス!おまえ、身体が…」
もう隠せない。

───僕はあなたが大嫌いだ。

万事、休す。
アルフォンスが色々と諦めかけたその時、咳の合間をぬうように、玄関の呼び鈴が鳴った。
背を丸めて咳き込むアルフォンスを覗き込んでいたエドワードが、ふと玄関を振り返る気配はあったが、彼はアルフォンスから離れようとはしない。
「……く、ださい」
「え?なんだって?」
焦りと気遣いが複雑に混じったふうに聞き返してくるエドワードの声は、来客など放っておけ、というニュアンスを含んでいる。
「出てください、……エドワード、さん」
苦しい息の下、引き絞るように口元を押さえて、アルフォンスはやっとそれだけを口にした。
咳のスピードがゆっくりになり、それを待っていたかのように、もう一度呼び鈴が鳴る。
「出てください」
アルフォンスが繰り返すと、エドワードはそっとアルフォンスの背を押した。
「そこ、座っててくれ」
話はまだ終わっていない、自室のベッドにはまだ戻るな、という意味なのだろう。咳が治まり始めたアルフォンスに、ダイニングの椅子に座っているように言い置いて、エドワードは玄関へ向かった。
エドワードの背中が遠くなった隙に、アルフォンスは口元を押さえていた手のひらを盗み見る。
幸いにも、再度の吐血はしていなかった。
肩で息をして、アルフォンスは椅子の上にうなだれた。
玄関先で、聞き慣れた声がしている。大家のグレイシアと、誰かもう一人、客が来ているようだ。
顔を上げるのもだるく、座ったままテーブルの木目を見つめていると、突然エドワードの声が大きくなった。
「ちょっと、待ってくれ!」
何事だろう。
アルフォンスは座ったまま、玄関を振り返る。
開けっ放しのドアと、玄関に続く短い廊下の向こうで、背の高い、メガネをかけた男がエドワードに何か言っている。
「ちょっと待ってくれ!!今すぐオレに来いって言うのか?」
「俺だってこんなことしたかねぇさ。おまえみたいなガキがスパイなんて、はなっから思っちゃいない。けど、これが俺の仕事なんだよ」
「お願い。私もそんなこと信じられないのよ。何かの間違いでしょう?」
間に挟まるグレイシアの声が、メガネの男に何か懇願している。
あれは、このあたりを管轄している、いつもの警官だ。
アルフォンスは椅子から立ち上がった。
スパイ?
仕事?
エドワードが、警官に、連行されかかっている?
「エド。近所の手前もあるだろうし、出来るだけ目立たせたくねぇんだ。早くしてくれ。着替えは後からアルフォンスにでも頼んで、持って来てもらえばいい」
「だから、そのアルフォンスの具合が悪いんだ。オレは今この家を空けるわけにゃいかねーんだよ!」
「大声出すな。……グレイシアさん、悪いけど、そのアルフォンスのこと、頼めるかな」
「それは、かまわないわ。だけど」
「頼む。ヒューズさん、今日だけは見逃してくれ。オレ…」
「すまん。エド、こっちも時間がないんだ。あんまり抵抗されると、応援を呼ばなくちゃならなくなる。おおごとになる前に、一緒に来てくれ」
何がどうなって、こんなことになっているのか。
混乱する頭の中を整理する余裕も無く、アルフォンスは壁に手をつきながら、玄関先へと向かう。
「どういう、ことですか?」
「アルフォンス君、大丈夫なの?」
ヒューズを押し退けるように、グレイシアがこちらを覗き込んできた。
傍らのヒューズは、もうエドワードの腕を掴んで、外に出ようとしている。
「エドワードさんを、どこへ連れて行くんですか?」
もっと大声でヒューズに掴みかかりたいのに、アルフォンスの喉はカラカラで、低い声しか出ない。もっとも、大声を出せばまた咳が出るから、どのみち声のトーンは下げねばならないのだけれども。
「署まで、ちょっとな」
ヒューズはこれ以上会話を続けたくないようだ。
「エドワードさんが何をしたっていうんですか!?」
思わずの大声の後で、アルフォンスはまた一度だけ、咳をした。
「アルフォンス!」
ヒューズの手から逃れようと、エドワードが一瞬、もがく。
そのエドワードの声と姿をさえぎるように、ヒューズがさらりと言い捨てた。
「話を聞かせてもらうだけだ。すぐに帰れる。アルフォンス、後でまた連絡するから」




長い夕暮れがやっと終わり、明かりを消した部屋の中に、青い闇が満ちる。
こんな状況で、こんなにゆっくり考え事が出来る自分が、とても不謹慎だとは思う。
ベッドに横たわり、アルフォンスは目を閉じた。
いつもの時間に、いつものようにベッドに入り、身体を休める。アルフォンスに今出来ることは、本当に限られていた。
起こった出来事があまりにありえなくて、かえって思考スピードが落ちてしまい、あわてふためいていた気持ちも、今はずっしり治まりかえっている。
結局、エドワードは妙に落ち着いた態度で、ヒューズに連行されていった。
当初こそ驚いていたものの、エドワードが最終的に気にしていたのは自分の身の行く末ではなく、アルフォンスの容態だった。

───前々から知っていたけど。

エドワードは不思議な人間だ。
何の心当たりもなく、警察という馴染みがたい権力に連行されても、そのことに全く取り乱さない。まるで、そんな国家組織とはずっと小さい頃から付き合ってきたとでも言いたげな、諦めにも似た落ち着きぶりだった。
いつかぽつりぽつりと話してくれた、「あちらの世界」の中でも、彼はその世界の国軍に認められた軍属だったそうだが。
よくできた、そして自分自身を茶化しつつの、壮大な彼の自慢話は、自慢話なのに、なぜか聞いているこちらの胸が痛くなるリアルさで、アルフォンスは時々、話を聞きながら笑っていいのか悲しむべきなのか、迷うことがあった。
エドワードの自慢話がどこまで真実なのかは置いておくとして、彼は今まで、これに似た窮地───下手をすると、命にかかわる危機───を何度もくぐり抜けてきたのかもしれない。そう考えると、先刻のアルフォンスやグレイシアや、ややもするとヒューズよりも落ち着き払っていた態度にも、納得がいく。

───『グレイシアさん。アルフォンスを、お願いします』。
───『アルフォンス。ちゃんと寝てろよ。頼むから』。

一番危機的状況であるのは自分なのに、周囲の人間をこれでもかとなだめて、果ては少しの笑顔まで浮かべて、エドワードは出て行った。
驚愕も、不安も、恐怖までも押し隠せる、そんな哀しいまでの強さを、エドワードは、いつどこで手に入れたのだろう。
アルフォンスの心の中で、疑問は浮かんでは消え、消えてはまた浮かぶ。

───エドワードさん。

あなたはなぜそんなに強いの?
ひ弱な僕は、あなたのことなんか考えていない。
僕は、あなたと今離れることが出来て、ほっとしている。
検査結果が出るまでの時間を、少しでも稼げるから。
だからあなたも、僕のことなんか考えないで、自分を守ることだけ、考えていて欲しい。
お願いだから。
お願いだから、あなたのエネルギーを、あなただけに向けていて欲しい。
あんなにいつも、僕の心から遠いところにいるあなたなんだから、今さら物理的に離れたところで、たいしたダメージではないでしょう。
だからあなたは自分のことだけ考えていればいいんだ。
いつもみたいに。
僕の知らないところで手に入れた、あなたの強さを、あなたのためだけに使って欲しい。
エドワードさん。
あなたはなぜそんなに、強くて、弱いの?
弱くて、強いの?
弱いばかりで、あなたを守ることも出来ない僕には、本当にわからない。
でも、そう言って訊いても、きっと、あなたは答えてくれない。

───一番僕が知りたいことを、決して教えてくれないあなたが。

そんなあなたが、僕は、大嫌いだ。
張り裂けそうな不安が、エドワードへの罵りに転化していく。その無様で残酷な思考を、アルフォンスは止められなかった。
それでも、まぶたの奥の闇からは、柔らかくて頑固な疲労が湧き、アルフォンスの意識をとろとろと融かし始める。
病的な疲労に支配されている夜は、いつも、短くて長い。




もっと、手ひどい扱いを受けるのかと思っていた。
さんさんと日が射す、明かり取りの窓を見上げて、エドワードは身体を伸ばす。
連行されたのが夕刻であったので、本格的な聴取は夜が明けてからにすると言われ、昨夜は早々にこの部屋に押し込まれた。もっと、窓もないような暗い独房に叩き込まれるのかと思っていたが、エドワードが押し込まれたその部屋には、格子付きながら窓があり、ベッドもそれなりに清潔に整えられ、椅子やテーブルまで備え付けられていた。

───なんか。町外れの宿屋みてーだな。

旅から旅へと過ごした、かつての日々を思い出し、エドワードはベッドに腰掛けて、義足の膝を揺らす。
もしや没収されるかもしれないと思うと怖くて、眠る前に、義足も義手も外せなかった。こんな状態で幾晩も過ごすのかと思うと、今からかなり気が滅入る。

───長丁場は困る。すぐ帰れるとか、ヒューズさんは言ってたけど。どうだかな。

自分がこんな目に遭う理由は、あるといえばあるし、ないといえばない。昨夜から、うとうとと浅い眠りの中でこねくり回した考え事の続きを、エドワードはゆっくりと脳内に呼び起こす。

───ケーサツがこうやって出張って来るってことは。

ホーエンハイムに何かあったのだろうか。
いろいろと出自の怪しいホーエンハイムとエドワードであるから、この国のギスギスした風潮の中、誰かに不審に思われても無理はない。
スパイ容疑、などとヒューズは言っていたが。

───オレみたいなガキをわざわざ捕まえて、誰が得をするんだろう。

全く、敵の姿が見えない。
それとも、言葉通りに、本気で当局にスパイだと思われているのだろうか。
考えるだに馬鹿馬鹿しいが、その場合の心当たりも、残念ながらゼロではないことを、エドワードはかすかに思い出す。
長丁場は困る。本当に困る。
一日でも、一時間でも早くあの家に帰りたい。

───アルフォンスを、何日も一人にしておくわけにはいかねぇんだ。

そんな考え事の隙間に、外からの靴音が忍び込んできて、エドワードの胸はざわざわといらだった。
いらだつ靴音は、予感通りに扉の前で停止し、横柄な男の声になった。
「出ろ。エドワード・エルリック。取調べを開始する」