開錠者 -4-



ニューオプティン駅に着き、三人で軍用車を見送ったあと。
駅の構内に踏み込まず、マスタングはそのまま大通りを行き過ぎて行こうとした。
「大佐?」
呼び止めるホークアイをちらりと見やって、いや、正確にはホークアイの側に立っているエドワードを見やって、マスタングは小さく顎をしゃくった。
「中尉。悪いがしばらく、待ってくれ。すぐ戻る」
ついて来い、とすらも言わずに歩き出したその背中を、エドワードは早足で追った。
エドワードは、ニューオプティンの街をよく知らない。
何年も前から賢者の石を探し歩いて、一度は立ち寄ったことはあるものの、有力な石の情報があったわけでもなく、いくつもの地方都市のひとつ、というイメージしか持っていなかった。
マスタングは、傍らに連れなどいないかのように無言で歩き続ける。
わずかにオレンジ色がかった、午後の強い日差しを、足元の石畳が白く受け止める。
その石畳の上を、エドワードの思惑など関係なく、人々がゆったりと行き交ってゆく。
雑踏を、数分も歩いただろうか。
突然、マスタングは通りの脇の石段を登り、大きな扉を構えたその建物の側面へ、ぐるりと回り込んだ。真正面の大きな扉には、鍵がかかっているらしい。
建物の側面に造りつけられた小さな扉から、彼を追ってエドワードも踏み込む。
暗いその中は、広大な空間だった。
「教会…?」
背もたれを緑色に塗った長椅子が、整然と祭壇に向けて並んでいる。天井はひたすら高く、空に近い壁面一杯に不思議な色のガラスがはめ込まれ、独特の紋様をかたちづくっていた。
ガラスを通して、色とりどりの光が落ちる床を踏みながら、マスタングは長椅子の列の中程まで進み、そこでようやっと、振り向いた。
「聞きたいこととは、なんだね?」
落ち着き払った声は、さほど大きくないにもかかわらず、薄暗い聖堂の壁の隅々にまで届き、反響する。
見知らぬ教会に踏み込んでいいものか、戸口で躊躇していたエドワードは、マスタングとの距離をゆっくり詰めながら、聞き返した。
「いいのかよ。こんなとこ入りこんで」
「ここの『神』は、寛容なんだそうだ」
「へっ」
あきれた吐息を吐き捨てながら、エドワードはマスタングの側に立つ。
その不心得な吐息すら壁に反響したが、ここに「おわす」はずの「神」は、エドワードを罰する気配もない。
「君の話は、お茶を飲みながらできるものではなさそうだったからね。静かに話せる場所を探していたら、ここに行き着いた」
ここへ来て、マスタングの顔を真正面からじっくり見る機会を与えられ、エドワードはわずかに驚いた。
こんなに、マスタングは血色の悪い男だっただろうか。
光の加減か、マスタングの顔は紙のように白い。
高い窓から落ちてくる光は、マスタングの頬骨の下に、昨日司令部で見たときにはわからなかった、薄い影を映し出している。
そげた頬には、シニカルな笑みすら浮かばない。
「で?」
エドワードへ質問を促す唇は、乾ききっている。
だが、それらがエドワードの怒りを完全に鎮めることはなかった。
「…あんた。知ってたのか?ヒューズ中佐の事件で、自分が疑われてる、って」
「薄々はね。確信できたのは昨日だが」
乾いた唇は、よどみなく答えを紡ぐ。
「なら。なんで、疑われたまま、ほうっておいたんだ。なんで、事件のあの日にオレが電話したこと、隠したりしたんだよ?あんたがひとことそれを言えば、ハクロ将軍にあんな難癖つけられずに済んだんじゃないのかよ?」
光の中で、マスタングの黒い瞳がもう一度エドワードを捕らえた。
「隠したりしていない。忘れていただけだ」
「ウソつけ!!」
黒い瞳の中で、エドワードは怒鳴る。
「あんたが、そんなこと忘れるはずないだろうが!!オレをバカにすんのもいいかげんにしろ!!」
マスタングの唇が、ようやく笑みのようなものを浮かべた。
「ずいぶんな自信だな。君とのことならば、私は決して忘れない、と?」
「そんなことを言ってんじゃねぇ!あんた、わかってんのか?もうちょっとで、地位も何もかも失くすとこだったんだぞ!?ハクロ将軍は、真実なんかいくらでも作り変えられる、証人の口封じなんか簡単だ、って言ってやがったんだぞ!!」
「で?」
マスタングは、エドワードを哀れむように笑んだ。
「君は、何を聞きたいんだ。私が何もかも失くすことは、君の長年の望みじゃなかったのかね?」
どこかで聞いたような気がする質問を蒸し返されて、エドワードは息を飲んだ。
怒りといらだちに阻まれて、とてももう一度、あの人非人の将軍にしたのと同じ説明をする気にはなれない。
「質問してんのは、オレだ!!あんたが、ちゃんと自分の潔白を自分で最初から証明してりゃ、オレはこんなとこまで来なくてすんだ!機械鎧もへこまなかった!」
自分の声の反響に飲み込まれながら、エドワードはなおも叫ぶ。
「…そりゃ、あんたはオレのことなんかもう関係ないと思ってんだろうけど!オレだって関係ないと思ってるけど!だけど、だけどオレは、あんたが犯人じゃないって知ってた!知ってたんなら、他に誰もそれが証明できないなら、言わなくちゃいけねぇだろうが!!あんたが、どんな極悪人だったって!!」
反響は聖堂に満ち、あふれてゆく。
「救いようの無いお人よしだって、笑いたきゃ笑えよ。オレに感謝しろなんて言わねぇよ。だから、教えろ!!なんでオレの電話のこと、忘れたフリなんかしてたんだ!!!」
散ってゆく反響の中、マスタングは立ち尽くす。
その唇から、笑みが消えた。
「正しいことさえしていれば、真実を手に入れる権利があると、言いたいのかね?君は」
肩で息をしながら、エドワードはマスタングを見上げた。
マスタングの目が、ちらりと不穏に輝く。
「そうだな。それは全く正しいよ。君は、命を賭けて、良心にのっとって、憎い私という人間を助けようとしてくれた。君の主張は、本当に正しい」
その輝きは、エドワードの背筋を急激に冷やした。
「だがね」
獣のすばやさで、エドワードの喉元に腕が伸びてくる。
悲鳴を上げる間もなかった。
マスタングの右手が、エドワードの喉笛を覆い、その指はそこを砕く勢いで締めつけてくる。
「正しければ、何をしてもいいというものではないのだよ。鋼の」
空いた手で鋼の腕をも封じられ、エドワードは残った左手で、喉元に食い込むその指をかきむしることしかできない。
「私から真実を聞きさえすれば、君は自分の気が済むと思っているのだろうが。その真実が、自分の何もかもを壊すようなものである、という予想をしたことはないのか?」
息が苦しい。
「いや。愚問だな。予想などしたことがないから、君はここでこうしているのだから」
鼻の頭に、せき止められた脈動が集中し、その脈動がエドワードの視界を狭くする。
「正義に満ちた君は、本当に、美しいね」
耳鳴りにさえぎられ、マスタングの声が小さくなる。
「殺してしまいたいくらいだよ」
エドワードは、あらん限りの力で、喉元のマスタングの手首を握った。
声とも、吐息ともつかない音が、狭められたエドワードの気管をかろうじて通過する。
エドワードの頭蓋内で、破裂するかと思われた脈動は、突然に解放された。
マスタングは手を緩め、自らの手首に食い込むエドワードの指を、エドワードの身体ごと振り払った。
失神寸前のところを突き飛ばされ、エドワードはあっけなく床に崩れた。
猛烈に咳きこむ少年を見下ろした後、マスタングはその側をすり抜けて戸口へと歩き出す。
「私は、君からの電話のことなど、忘れていた。それだけだ」
エドワードの咳に、規則正しい靴音がかぶさり、離れてゆく。
だが、その靴音が何歩も床を鳴らさないうちに、しわがれた声がマスタングの背中に刺さった。
「壊せるもんなら……、壊して、みろよ」
靴音が止む。
「あんたの、『シンジツ』を聞いて、オレの、何が、壊れるってんだ…」
マスタングは振り向いた。
長椅子の端にすがるように手を掛けて、エドワードは立ち上がろうとしている。
「あんた、そのシンジツとやらを、言うのが怖いのか?オレにやつあたったって、何にも問題は解決しねぇぜ?」
口元をこぶしで拭って、ゆっくりと背筋を伸ばす少年を、マスタングは無言で見つめる。
この、痛いほどに冷えたような、熱いような。
怒りというには、あまりに深く。
嘲りというには、あまりに重く。
それでいて、ひどくちっぽけなような気がする、この感情は、何なのだろう。
目の前の光景が歪みそうだ。

疑問の余地など、本当は、ない。

喉の底へ飲み込むこともできないその感情の正体を、マスタングは、すべて、知っていた。
「オレは、何度だって聞いてやる。わからねぇことは、とことん、どこまでも」
エドワードの右手に、鋼の刃がすばやく錬成される。
そのまま、聖堂の入り口を背にして立つマスタングに、駆け寄った。
腹をかすめて振り払われる刃を、マスタングは敏捷に退いて、避ける。
マスタングは素手のままだ。
聖堂の壁に沿って後ずさりながら、エドワードの次の攻撃、そしてまた次の攻撃を的確にかわしてゆく。
エドワードは、まだ荒い息をついた。
「言えよ」
勢いよく突き出された鋼の切っ先が、ひそやかな音を立てて青い軍服の繊維を小さく小さく裂いた。
マスタングはもう一歩、後ろに退く。
「言えよ!その、あんたの、真実を!!聞くまで、逃がさねぇぞ…!」
まだ痛む喉から無理に声を絞り出したせいで、エドワードはまた咳に襲われた。
そのわずかな隙をつき、マスタングの右手が、その腰の拳銃に伸びる。
咳き込みながらも、エドワードは手を合わせ、這いつくばるように床から石の塊を錬成した。
急に床から生えた石の花に足元をすくわれ、マスタングが体勢を崩したところを、体当たりで押し倒す。
背中から倒れたマスタングの顔に、エドワードの右手がわずかに触れ、刃に錬成したままのそれが、マスタングの頬骨近くに一筋、血をにじませた。
ひどくあっけなく、マスタングに馬乗りになったエドワードは、銃を持つ彼の右腕を、左手と左膝で押さえつける。
もちろん、右腕の刃の先は、マスタングの喉元だ。
背中を強打したマスタングは、しばらく顔をしかめていたが、やがて喉元の刃に気がつくと、小さなため息をひとつ吐いた。
「……言えよ」
眼前で、金色の目が光る。
まさに、猛獣のごとく、獰猛に。
「言え、大佐!!!」
短い絶叫が、長く尾を引いて天井に反響した。
人形の顔にはめ込まれたガラス玉のように、エドワードを見上げるマスタングの瞳は動かない。
長いとも、短いともいえない沈黙の後、マスタングは右手の指を開いて、銃を床に転がした。
驚くエドワードを、マスタングはやはり人形のように見上げ続ける。
その喉元の刃が、ふと震えた。
「そのまま刺せばいい」
静かな声が、エドワードの耳に届いた。
何を言われているのか瞬時に理解できず、体勢を保ったまま、エドワードの肩が小さくけいれんする。
「手を汚すのが嫌なら、その銃で私を撃て。撃った後で、銃を私の手に握らせてくれればいい」
既に抵抗する意志もなく、だらりと脱力した身体を組み敷いたまま、エドワードは声を出すことができないでいた。

この男は。
死んでも、言いたくないというのか。
こんなつまらない疑問のために。
そんなつまらない意地のために。
死ぬ、というのか。

がつん、と。
耳障りな音を立てて、鋼の刃が、マスタングの耳をかすめて、石の床に刺さる。
刃がそばを通り過ぎ、小さな風が、冷たくマスタングの頬の傷に沁みた。
「……あんたは、」
肩を震わせながら、エドワードは真下の黒い瞳に、慟哭にも近い声を絞り落とす。
「…いつもそうだ。そうやって、オレをいたぶるだけいたぶって、怒らせるだけ怒らせて……いつも最後は、殺せ、って言いやがる!オレが、人も殺せない甘ちゃんだって、そんなにバカにしたいのか!!自分だけは殺されないって、タカくくってやがんのか!!」
エドワードの顔が、歪む。
深い憤怒の表情と、深い悲嘆の表情は、本当によく似ている。
「……オレは、あんたの理由が聞きたい、って言ってんだ。いっつも勝手に話を終わらせやがって。…あんたを殺したって、何も聞けねぇ。何も終わらねぇ。オレは、もういやだ。もう全部終わらせたいんだ。あんただって終わらせたいんだろう!?だから、契約解除とか言ってたんだろうが!!」
少年は息を継ぐ。
「…それをあんたは!」
新たな声が、やわらかな光に溶ける。
「…それをあんたは、簡単に、殺せとか、死ぬとか、言いやがって!こんなことのために、死ぬのかよ!?あんたは、何のために、生きてんだ!!上り詰めて、この国を牛耳りたいんじゃなかったのか!!ヒューズ中佐の仇を、討ちたくねぇのか!!」
マスタングの耳のそばの刃が抜かれ、それはいらだたしげに、もう一度同じ床を刺した。
「そうだよ!オレは、今だってあんたなんか死ねばいいと思ってる!!殺しちまいたいって、何度思ったか知れねぇ!!だけど…オレは…オレは……」
もう、叫べない。
「何のために、生きてんだ…あんたは?」
もう声が出ない。
肺の中の息は、この、愚かな男を罵るためにみんな、使い果たしてしまった。
エドワードは固く目を閉じる。
その暗い視界に、低い声が響いた。

「君のためだ」

エドワードは目を開く。
「私は、君のために生きている。君に会いたくて、関わりたくて、そのためだけに生きている」
何を。
「でも君は、私を憎んでいる。君が幸福になるために、私の存在は邪魔だ。そして私は、君と関われないのなら、死んだほうがいい。だから、私を殺せと言っている」
何を、言っている?
「……あん、た…」
マスタングの頬の傷から、血の粒がひとつ、重力に引かれて落ちた。




何もかもが、止まる。
思考も。
吐息も。
周囲の酸素の流れも。

ひたと静止した空間で、自分のか細い声が、口腔を頼りなく響かせてこぼれるのを、エドワードは聞いた。
「あんた。狂ったのか?」
静止した酸素の中で、見下ろす男の唇がゆっくりと動く。
「私が疑われている、と。君が知った時、君の方から、私の潔白を証明してくれないかと思った。私が君に証言を強制するのでなく。君自身が、君の意志で」
静止した酸素はエドワードの喉に詰まり、目もくらむ冷たさで、その粘膜を焼く。
「私は、君が証言してくれるのを、待っていた」
「何を、言ってん、だ?」
冷たく焼かれた喉が痛い。
「それが理由だ」
言い終えて、沈黙の形に収まろうとする唇は、色を失って、白い膜をまとっている。
───憎い、と。
この男を、ひたすら憎いと、思ってきた。
そして、哀れだ、と、思ってきた。今まで。
そして、この男のことを哀れだと思うのは、苦しかった。
そんな感情をこの男に投げかけてやることさえも、おぞましく、悔しかった。
彼を哀れむ自分すら、憎悪してきた。
だから、そんな感情など、投げ捨ててきたつもりだった。
だが、そんなにも投げ捨てたくなったのは。
一度ならず何度も何度も、投げ捨てたいと苦しんできたのは。
それが、どうしても捨てられなかったからなのだ。
他人の要らぬ感情から逃げることはできても、自分の中の要らぬそれからは、逃げることができない。
逃げて逃げて、恥も外聞もなく。
終わりなかった逃亡の苦痛を、終わらせようとして、たどりついたのが、これ。
終わらせるためには何が必要か、などということは。
最初から。
すべて。

───知っていた。オレは。

めまいのしそうな既視感だ。

エドワードは緩やかに顔を上げた。
放心したように動かないマスタングの瞳から逃れ、極彩色のガラス光が舞う中空に、視線を投げる。
「神」をあがめる賛歌の色は、まぶしく、美しく、虚しい。
その光を振りほどくように、エドワードは手を上げて、機械鎧を元通りの形に錬成した。
だが、立ち上がれない。
左膝はマスタングの右腕を拘束したままで、鋼の指が、青い軍服の胸倉を弱々しくつかんだ。
「……じゃあ、オレが」
酸素が、喉に沁みる。
「証言しなかったら……、オレが黙ってたら、」
喉は冷え切り、掻き切られたかのように痛む。
「どうするつもりだったんだ。あんたは。そんなの、黙ってる方の確率が高いに決まってる。そんな予想ぐらいしなかったのか」
芯の抜けた声が、マスタングの頬の傷に降りかかる。
細い血の筋を張りつかせた頬は、哀しげに、笑みの形に緩んだ。
「予想はしていた」
白い頬に浮かぶ血の筋は、もう黒く結晶しかけている。
「だから。どうにも。ならなかったかもしれないな」
直後、聖堂の天井高く、乾いた音が鳴った。
エドワードが、生身の左手で、マスタングの頬を打ったのだ。
「この…この、大バカ野郎が!!」
エドワードは吐息を震わせる。
「バカ過ぎて…怒んのもばかばかしいぜ!!どうにもならねえって、それで済むと思ってたのかよ?あんたが罪人にされたら、あんたの家族は。部下は。ヒューズ中佐は。どうするつもりだったんだよ?もうどうでも、よかったってのか!!」
マスタングは、頬の痛みに目をすがめながら、沈黙でその質問を肯定した。
痛みを逃すために固まった唇が、もう一度そのこわばりを解き始める。
「私は、誰にも愛されたことはない。愛したこともない。何も、持っていない。だから」
「バカ言え!あんた、親もなしに生まれてきたわけじゃねぇだろう!」
「私の両親は、私に付属する名誉を愛しているだけで、私を愛してくれたことはない」
「そんな…こと…」
「君には信じられないかもしれないが。『そんなこと』はこの世にいくらでもある。鋼の」
エドワードの喉に、また酸素が詰まる。

───この、卑怯者。

詰まった酸素は、びくともしない。
あんたが卑怯者以下なのは、知ってたけど。
今。ここで。オレに。
そんなことを、言うのか?
自分の手の内を、こんなところで、これでもかと、さらして。
「君だけだ」
卑怯者の声は、どこまでも無機質だった。
「私は、君に関わりたいという真実のほかは、何も。持っていない」
無機質なまま、温度もないまま、ただひたすらに、声はエドワードを追い詰める。
「……言うな。それ以上」
「何もない。家族も、愛情も、執着も」
「言うなっ!!」
つかんだマスタングの胸元を、大きく揺すって。
エドワードは、男の吐息を砕いた。
これは誰だ。
こんな男は、オレは、知らない。
ひときわ強くマスタングの胸倉を締め上げた後。
エドワードは、全身の力を痺れる膝に集め、立ち上がった。
よろめきながら数歩あとずさり、この聖堂に入ってきた時とは別の人間になってしまった男を、呆然と見下ろす。
見下ろした男は、魂が抜けたような風情で身体を起こし、頬の傷を指先で拭った。
その指先の血の跡を確かめて、ゆらりと立ち上がる。
その姿から目を逸らせないまま、エドワードはまた数歩、あとずさった。
「鋼の」
表情のない声は、オブラートにも包まれず、直接エドワードの胸を刺す。
「私を殺せないのなら。君が、自分を大切にしたいのなら、二度と、私に関わるな」
何か、先刻とは別の力を宿した黒い瞳が、エドワードの金色のそれを射る。
「いいか?二度とは言わない」
エドワードは動けない。
「もう私に関わるな」
足が、石にでもなったようだ。
「………先に、駅まで帰りたまえ。私は後から行く」
鋼鉄の片足にすら、神経はつながっているというのに。
何かにつかまれているかのように、神経までが硬直して。
「行け!早く!!!」
いきなりのマスタングの怒声に、石化していたエドワードの足は、短く震えて、神経信号を自覚した。
やっとひざまずき、錬成して荒らした床を元に戻して、エドワードはマスタングに背を向ける。
一歩、二歩と歩いて。
聖堂の、小さな扉に近づいた。
窓からの光が、石の壁に寄り添う影が、視界が、ゆらゆらと揺れる。
揺れるのは、歩いているから、ではないような気がする。

───これで。終わり……?

留め忘れていたボタンを留めて、胸につかえていた疑問を解いて。
憎悪そのものだった男は、もう行けと言った。
なのに。
喜びも、安堵も。解放感すら、ない。
オレはこれから、どうすればいいんだ?

───何も。何もしなくていい。いつも通り、これまで通りでいいんだ。

エドワードの胸中で、もう一人のエドワードは、憎らしいぐらいにすばやく答えを返してくる。
あいつは?これから、どうするつもりなんだ?

───おまえが気にする必要はない。エドワード。

もう一人のエドワードは、それきり黙る。
その沈黙は、心臓が張り裂けそうに、残酷な冷気を含んでいた。
あのバカな男は失くすだけだ。
何もかも。
真実も、執着も。
生きる希望も?



エドワードの指が、聖堂の冷たい扉に触れた時、背後で小さな音がした。
金属を石に擦る、軽やかなその音は、エドワードの耳にずしりと重く染み渡った。
その音があと数秒遅かったら、エドワードは振り向くことなどなかっただろう。
振り向いてはいけないのはわかっていた。
だが、胸に満ちる、苦しいほどに残酷な何かが、エドワードをそうさせなかったのだ。
そうして、エドワードが振り向くと。
光の中で、マスタングは先刻捨てた銃を拾い上げていた。
小さな音は、銃が床石を擦り、響いたものらしい。
マスタングはすぐにホルダーにそれをしまわず、じっと手元を見つめている。

───生きる希望をなくした者がすることは、ただひとつ。

「だめだ!!やめろ!!」
エドワードは身を翻して、駆け戻った。
遠い遠い、マスタングまでのその距離を駆け抜けて。
エドワードは、銃を手にしたマスタングの右腕にしがみついた。
手首を押さえ込み、彼の指をなんとか引き金から外させようと、その大きな手の甲に爪を立てる。
マスタングはあっさりと指を緩めた。
そこを逃さず、拳銃の銃身をつかんで、エドワードはマスタングの指からその凶器をむしり取った。
凶器をむしり取られた手のひらを宙に浮かせたまま、マスタングは唖然としている。
大きく息をつきながら、エドワードは凶器を奪い返されぬよう、身構える。
手を伸ばしても届かない、微妙な距離でにらみ合って、何秒、経っただろうか。
しかし、にらみ合う、というのは正確ではなかったかもしれない。
マスタングは最初から、拳銃を奪い返そうとする様子もなかったからだ。
「何をするんだ」
唖然とした声が問う。
「……死なせねぇ」
エドワードは荒い息を吐いた。
「勝手になんか、死なせねぇぞ。自殺しようったって、そうはいかねぇからな」
「…私は別に」
言いかけて、マスタングは言葉を切った。
意図的に切ったのではなく、切れてしまったのだ。

───なぜ、君はいつも。

君はいつも。
私の心の奥底の、誰にも触らせたことのない場所に、易々と手を伸ばしてくるのだろう。
ヒューズでさえ、そこには手を伸ばしてこなかったというのに。
マスタングは、言葉を紡ぐはずのその唇を、もう操れなかった。

自らがずたずたに傷ついても、守りたいものがある、と。
守らねば、自らも壊れる、と。
君が自分に課している、その感情は、何だ?
事実、壊れるのは他者だけであるはずなのに。
知らぬふりをし、忘れることが、最も簡単な処方箋であるのに。
私には一生わからないその、感情。

エドワードは、数歩の距離を駆けてきた男に、きつく抱かれた。
銃を渡すまいと、エドワードはそれを足元遠くに投げ捨てて。
マスタングが銃を拾えないように、その行く手を阻もうと立ち塞がったつもりだったが、マスタングの目的は銃ではなかった。
もがくエドワードに構わず、マスタングはエドワードの背中に手を回し、わしづかんで、その抵抗を圧しとどめようとする。
「離せ!離せよっ!!」
マスタングの腕にさえぎられ、絶叫も、絶叫にならない。
背筋も冷える力で抱きすくめられ、エドワードのかかとが床から浮いた。位置は低いが、ほとんど、抱き上げられているに等しい。足裏の重力感覚が抜けていき、それはエドワードの焦りと恐怖を倍増しにした。
足を踏みしめなければ、目前のマスタングの胸板を突き返すこともできない。
エドワードの耳に、固い何かが擦れる。
マスタングの胸ポケットの、銀時計だ。
顔を背けて、軍服の布越しに擦りつけられる、異物の痛みから逃れることすらできない。
エドワードの耳元からゼロに近い距離で、銀時計の鎖がちりちりと鳴く。
鳴いた鎖は、やがてもっと大きな振動を伴って、男の声になった。
「…二度目はないと言った」
エドワードはひくりと静止する。
そこを衝いて、マスタングはエドワードの足を抱え上げた。
「うわっ!あっ!」
反転する視界の中、あっという間に持ち上げられ、聖堂の堅い長椅子の上に乱暴に下ろされる。
「……!」
背中を強打して息もつけないエドワードの唇が、さらに塞がれる。
「ん…うっ…んっ!!」
エドワードの唇を噛み潰す勢いで、マスタングは口付ける。
灼けた砂漠で水を求め、湖に這いつくばる者のように。
水中で溺れる者が、酸素を求めるように。
マスタングのささくれだった唇が、エドワードの口の端を擦り、針の先を撫でるような危うい感触が、その皮膚の底へ染み込んでいく。
この、乾いた唇に殺されそうだ。
泣きたくもないのに、水膜でエドワードの視界がにじむ。
「んんっ!…ふ、あ……うぅ…!」
わずかに緩んだ歯列をこじ開けられ、緩んだ顎を指先で固定され、奔流となってなだれる舌が、何度も角度を変えて、エドワードの声も、吐息も食い尽くした。
最も敏感で繊細な粘膜のひとつである、口腔をこれほど犯されているのに、危機を払拭するために目さえ充分に開けられないのはなぜか。
エドワードは、自分を押し潰す男の胸元を虚しくつかみ止めた。
こんな男一人、突き飛ばせないとは。
危機に翻弄されている意識の、妙に冷えた一隅で、先程の既視感が、悠々と寝そべっているような気がする。

───オレは、こうなるのをわかっていたんじゃないのか?

危険を知っていて、でも危険が存在するのを実感したくなくて、ないことにしようとして。
でも。
他に、どうしようもなくて。
絶対的な酸素不足と、粘膜に与えられる柔らかな衝撃でエドワードの意識が落ちかけた直前に、マスタングは喉の奥を震わせて、長く吐息した。
やっと呼吸を許され、エドワードは目を開ける。
目の前の男の顔は、形容し難く歪んでいる。
その歪みは、憤怒のようにも見えた。
「………言ったはずだ。私は。君に。自分を、大事にしろと。つい、さっき。………それを………、君は。台無しにした。自分で」
男は、エドワードの瞳に向けて、途切れ途切れに声をこぼした。
「もう……私は、…君に…言えない…」
エドワードの肩口をつかむ手に、さらに力が込められる。
「もう、私に…関わるなとは言えない。二度と言えない!君を、君を、遠ざけることなどもうできない!!」
悲痛としか言いようのない声が空気を圧し、硬直したエドワードの頬になだれ落ちる。
「君が、私を見捨ててくれれば!罪人にでもなんでもなれと、突き放していてくれたら!私は、それでよかったんだ。何もかも失くしてしまえば、もう、君にこんな…、無様な希望を…持たなくて、済んだ……。そのまま、抜け殻になって……、君がいなくても…ヒューズがいなくても…生きて行けるつもりだった……」
ヒューズ、という言葉を口にしたとたん。
エドワードの頬に、空を切って水滴が落ちた。
マスタング自身も驚愕して、濡れた真下の頬を、目を見開いて見つめる。
しかし、長くそれを見つめることはかなわなかった。
漆黒の瞳からこぼれたそれは、鈍いリズムで次々とマスタングの頬を伝い、顎に沁み、鼻筋を湿らせ。
終着点を求めて、エドワードの頬をさらに濡らした。
「私は君を幸福にすることはできない…けれど…けれど!!!」
もうそれは、悲鳴だった。
「誰に嘲られても。罰されても。君が居なくては、私は。生きられない…!」
椅子に横たえられたまま、のしかかるように抱きしめられて、エドワードも叫びにならない叫び声をあげる。
「……オレはできねぇよ!!」
マスタングに濡らされた頬が熱い。
「…今さら!あんな契約を…オレに押し付けた、あんたを許すなんて…、絶対できねぇ!オレはただ…終わりにしたいんだ。何もかも…!」
「…許してくれなくていい。そばに、居てくれれば」
エドワードの肩口に顔をうずめたまま、マスタングはすがる声で答えを返す。
「できねぇ…!オレは、アルと、行かなくちゃいけないんだ!!」
「身体はそばになくていい。私を…私を、ずっと、忘れないでいてくれるだけで」
「できねぇよ!!」
エドワードは、マスタングの胸板と自分のそれに挟まれて、自由にならないこぶしを握りしめた。
「そんなに…オレが必要なら。もっと、他の方法があっただろ。どうして、あんな…あんな、契約なんか…」
「…ごく普通に、女性にするように、優しい言葉をささやけば、君は振り向いてくれたのか?違うだろう?」
「開き直るな……バカ野郎…!」
「だから。私が…愚かだった。許してくれなくていい。だから」
エドワードの耳元を湿らせる声は、声の主が嗚咽をこらえるための振動となって、エドワードの全身に広がり始める。
その感覚を粉々に潰したくて、エドワードはなおも叫ぶ。
「あんたみたいな哀れなヤツは、見たことがねぇよ!オレは……終わりたいのに!あんたは、いつもいつもいつも、哀れ過ぎて!…ちっとも!ちっとも、終われねぇんだよ!!」
びくりと、マスタングの肩が震えた。
肩を、腕を、唇を震わせながら、突然マスタングはエドワードへの拘束を解き、椅子の端に手をついて、よろよろと上体を起こした。

───子供の、顔だ。
 
エドワードは息を飲む。
自分を今、見下ろしているのは。
君は腰抜けではない、と言った、いつかの、顔。
いつか見た───あの、イーストシティで、スカーに襲われた後に見た、泣き出しそうな子供の顔が、そこにあった。
あの時と違うのは───泣き出しそうだった大きな子供が、本当に泣いていることだけ。
「私を……哀れんで、くれるのか?」
大きな子供は、蚊のような声で泣き笑う。
「オレには…それしかできない…」
小さな子供は、残酷に宣言する。

「それで。充分だ……」

マスタングの瞳から、新たな滴(しずく)がこぼれた。
再び掻き抱いたエドワードの身体は温かく、彼は抱き返してはこないものの、もう腕を伸ばしてマスタングを拒むことはなかった。

───ヒューズ。

マスタングは問うた。
頭上で、極彩色の光をまとう「神」にではなく。
抱きしめることを許してくれた、腕の中の子供にでもなく。
既に自らの胸の中にしか存在しない、唯一の友人に。

涙とは、こんな味なのか?

痛みにも似た何かが、ずっと、コーヒーすら味わえなかった舌を、侵してゆく。






そんなくだらないこと、訊くな。と。
おまえは言うのだろうな。