開錠者 -5-




***

ホークアイはひそかに息を飲んだ。
すぐ戻る、と言ってなかなか帰って来ないのはマスタングのいつもの癖だが、それにしても。
エドワードを連れて、ニューオプティン駅前の雑踏に戻ってきたマスタングは、いつも通りの顔をしていた。
この場合、「いつも通り」の定義は、マスタングを常に側で見ているホークアイと、その他の人々の間では、少し異なるものとなる。
ホークアイ以外の人間には、マスタングは本当に「いつも通り」に見えた。
頬のそれはどうしたんですかとホークアイが尋ねると、鋼のにひっかかれた、と、「いつも通り」に不機嫌にため息をつき、ふいと視線を逸らす。
ひっかき傷ができるほどにつかみ合うなど、いったいあなたたちはいくつといくつの人間なんですかと軽く説教でもしてやりたくなったが、ホークアイはマスタングのその異変に気づき、とっさに口をつぐんだ。
マスタングが「いつも通り」になっている。
それはホークアイにとっては異変だった。
ヒューズの葬儀以後、この半月ほどずっと、感情のない機械のようだった上司は、ヒューズの葬儀以前の、「いつも通り」の顔を取り戻していたのだ。
何もかもが元通り、というわけではない。
マスタングの頬は相変わらず削げていたし、顔色も良いとも言えず、笑顔らしい笑顔もなかった。
だが、その目に。
その、つらい凍夜を思わせていた黒い瞳に、ごくわずかに、温度が戻っている。
不機嫌なため息もどこか温かく、視線を逸らした横顔も、この半月で見たことがないほどに穏やかだ。
あの陽気な准将が天国から舞い戻って、彼を慰めたわけではあるまい。
だとしたら。
ホークアイは傍らの子供を見た。
赤いコートを着た傍らの子供は、珍しくマスタングに口答えもせず、向こうを向いている。
まるで、その場にいる全員に、顔を見られたくないと、照れてでもいるようだ。
いつも薄着の彼にしては珍しく、エドワードは首に見慣れない白いマフラーを巻いている。先程マスタングと出かけて行った時には、なかったものだ。
瞬間の視線をエドワードに悟られぬように、ホークアイはすぐにマスタングに向き直る。
「お二人が列車の時間に間に合わないようでしたので。ハボック少尉に、取ってあったチケットのキャンセルと、予約の取り直しを頼んであります。もう一便あとか、空席がなければそのもう一便あとの列車になるかと思います。ご了承いただけますか」
「すまない。それで、よろしく頼む」
素直に部下に詫びたマスタングは、温かく目を細めた。
その落ち着いた表情とは対照的に、そっぽを向いていたエドワードは、壮絶な顔で振り返る。
「ええ!?ひょっとして、オレのチケットも取ってあんの?」
「そうよ。何か困るかしら?」
「じゃあまさか、オレも大佐と中尉と一緒に、おんなじコンパートメントでイーストシティまで帰らなくちゃいけないわけ?」
マスタングがぼそりとつぶやく。
「何か問題が?」
いつもなら。
「問題大アリだ!!」という少年の絶叫が響くところだ。
しかし少年は絶叫しなかった。
マスタングの声に、ひく、と肩をすくめ、エドワードは唇をギリギリと噛みしめてうつむいてしまったのだ。
その頬は、見間違いでなくうっすらと赤い。
うつむいた口元からは、これまた彼らしからぬ小声で、ぶつぶつと何かつぶやきが漏れる。
マスタングは肩を落としてまた、不機嫌にため息をついた。
だがもうホークアイにとって、そのため息は笑みを含んでいるようにしか聞こえない。
どうしようもない冷酷な人間を、悪魔と契約した、と評することはあるが。
今のこの上司は、まるで天使と契約でもしてきたかのようだ、とホークアイは思った。
こちらを見ないエドワードの顔は相変わらず赤い。

───この子に私は、感謝しなければならないのかもしれない。

なぜか、自分にはできなかったことをやってのけたエドワードに、今、謝礼の言葉を述べてはならないような気がした。
それはエドワードへの気遣いであることに間違いはなかったが、そのためらいに、わずかな、そしてひどく深く、ひどく晴れがましい嫉妬が含まれていることに気づき、ホークアイは知らず苦笑を漏らした。



「大将どうしたの、そのマフラー」
取り直してきたチケットをエドワードに渡しながら、ハボックは尋ねた。
エドワードの首にぐるぐると巻かれた白いマフラーの織り目は見えない程に細かく、その縁がけむるように柔らかな光沢を放っている。一見して新品であり、高価なものであることがわかる。
「…殴られ賃だってさ」
またもあさっての方角を向き、非常に不本意そうにエドワードは質問に答えた。
先にチケットを渡されたマスタングとホークアイは、もうプラットホームに向かっている。
「殴られ賃?」
内緒話なら喜んで聞いてしまおうと、長身の少尉は身を屈めて、少年をのぞきこんだ。
「オレが、壁ぶっ壊して。支部の人間にケガさせたから。とりあえず、支部の人間の前で殴っとかないと、自分の立場が悪くなる、って大佐が」
本当に本当にらしくなく、ぼそぼそとしゃべるエドワードの声も、その内容も聞き取りづらかったが、ハボックは数瞬の時間をかけてようやく理解した。
かの立ち回りの巧い上司は、この少年に、詫びたらしい。
今回の件で、いくら非がハクロにあったとはいえ、ハクロに従っていた兵士たちは、職務を果たそうとしただけなのだ。
マスタングが、ニューオプティン支部の皆の面前でエドワードを殴ることによって、かすり傷でもケガを負った者は少なからず溜飲を下げただろうし、また一方で、そのパフォーマンスは、エドワードがマスタングに命令されて破壊活動を行ったわけではないことを皆に知らしめた。
上官にゴマをすることは必要だが、軍を構成しているもとは、膨大な数の一般兵士だ。たとえ支部の人間であろうと、彼らからの人望を損なうことがあってはならない。
いずれこの件は大総統の決裁によって決着がつくだろうが、その時にまた、マスタングの足元の敵が増えてはまずい。
上を目指すと言いながら、上だけを見ていないマスタングらしいといえば、らしかった。
敵を増やさないためなら、大のお気に入りの小さな錬金術師にも手を上げる。上司のその狡猾さと苦渋を思い、そして目前の少年のプライドの行方を思い、ハボックは胸を痛めた。
手を伸ばして、エドワードの頭をつかみ、そのままくしゃくしゃとかき回す。
「わ、何すんだよ」
「ごめんな。俺がもう少し早く着いてりゃ、大将にあんなことさせずに済んだんだけどな」
「いいよもう。少尉が謝ることじゃねぇって」
頭から揺すぶられ、エドワードはあわてて首元のマフラーを押さえた。

エドワードにとっては、全く幸いにも。
長身のハボックは、「殴られ賃」で隠された、エドワードの首に残る鬱血の痕を、最後まで目にすることはなかった。



「オレは乗らねぇぞ」
プラットホームから、列車のデッキに片足をかけたマスタングは、その不機嫌な声に振り向いた。
ホームに突っ立った鋼の錬金術師は、顔はこちらを向いているものの、視線は相変わらずあさっての彼方だ。
「オレは別の車両に乗って帰る」
どうしても、マスタングと顔突き合わせて列車に揺られるのがイヤらしい。
マスタングとてエドワードのその気持ちがわからないわけではなかったし、あれほどの醜態をさらした相手と二人きりならともかく、第三者を交えて数時間も顔を突き合わせているのは、お偉方とのくだらぬ軍議からイシュヴァールの戦場まで、あらゆる精神的極限状態を経験してきたマスタングにとっても、快適とは言いかねる事態だ。
だだをこねるエドワードが、少し寂しく、少しありがたい。
マスタングはエドワードに、目で笑んだ。
「わかった。ではそのように中尉に伝えておく」
あまりに素直な返答に、エドワードは思わずあさっての彼方から帰って来て、金の目を見開いてマスタングを見た。
「ただし。車両は違っても、せめて同じ便には乗ってくれ。頼む」
この国軍大佐と知り合って三年余り。
その彼に、任務以外で頼み事をされるのは、これが初めてなような気がする。
マスタングは、デッキから足を下ろしてホームに再度降り、エドワードに数歩、歩み寄った。
瞳も、表情筋も、突っ立ったその身体も、驚愕で固まっているエドワードに、マスタングの穏やかな声が再び降り注ぐ。
「君に、大切なことを言うのを忘れていた」
「………なんだよ」
これまでとは全く違う意味の警戒心をあらわにして、エドワードの不機嫌な声が少しかすれた。
マスタングは穏やかな表情を崩さない。

「ありがとう」

恐怖でなく、エドワードは硬直する。

「君が、来てくれて。証言してくれて、嬉しかった。私は、君のおかげで地位を失わずに済んだ。感謝している」
気絶でもさせられそうに、マスタングの声が身体に沁みる。
声高に叫ばれたわけでもなく。周りに聞こえないように、彼はむしろ、抑えた声で話しているというのに。
この男の身体の中には、何人の「ロイ・マスタング」が住んでいるのだろう。
エドワードは透き通る驚愕を、やっとの思いで押し退ける。
「…感謝なら。大総統にした方が、いいんじゃねぇの」
マスタングは、今度は口の端で笑んだ。
「今の軍規では、将官を処罰することは非常に難しい。まあ、大総統閣下が、まだ私に情けをかける余裕を持っていて下さった、という程度のことだ」
「え。じゃあハクロ将軍はあのままなのかよ?あれだけやらかしといて?」
「降格はないが、これから昇進もないだろう、たぶん」
エドワードの眉間のしわが深くなる。
その深さを見かねたように、マスタングは言葉を続けた。
「彼は権威に弱い。ことが大総統に知れただけで、相当なダメージを受けただろうよ。しかも、彼の直属の部下は、知らなかったとはいえ、国家錬金術師である君を撃った。彼にひとつもいいところはない。当分はおとなしくしていてくれるはずだ」
そこで言葉を切り、マスタングは止まっている列車の前方を見た。発車時間は間もなくだ。
「行こう」
短い言葉で会話を終わらせ、マスタングは列車のデッキをゆっくりと上がった。
ホームより数段高くなった車両の中から、やはりついてこないエドワードを、残念そうに振り返る。
こちらへおいでと、幼子を誘うように伸ばされた手は、しばらく宙に浮いていたが、エドワードががんとして動かないのを悟り、ため息と共に下ろされた。

───子供だ子供だって、さんざんバカにしておいて。

あんただって、何だ。そのガキみたいなひしゃげた顔は。
エドワードは胸中でうそぶいた。
この男を子供っぽいと思ったのは、一度や二度ではない。
しかも、ついさっきまで、エドワードを腕に抱いて、泣きじゃくっていたような男なのだ。
そんなにも、何事もなかったような顔をしていられるのが、憎らしい。どうしてこんな男の、サルのような芝居に、こちらが合わせてやらねばならないのか。
あんた。勘違いしてないか。
オレがあんたをさっき突き放さなかったのは、あんたを許したからじゃねぇんだぜ?
汚れきった過去は、元には戻らない。
目を背けたくなるような自分の汚点を目前に突きつけられても、この男は、エドワードを欲しいと言った。
闘いが始まるのは、これからなのに。
愚かな過去の自分との闘いが、どれほどつらく、後悔というものがどれほど果てしないものか。
この子供のような男は、知らないのではないか。
いや、ひょっとしたら。知りすぎているから、諦めさえ通り越して、そんなふうにふやふやとした顔でいられるのか。
後悔の苦さを、手取り足取りマスタングに教えてやりたいと願う、非常に暴力的な親切心を、やはりエドワードは胸中で踏み潰す。
それが暴力的でも、悔しい。
湧いてしまった親切心が、どうしようもなく悔しい。
自分に確認するまでもない。
この男ともう一度闘うことを、既に決心している自分自身が、身悶えしたくなるほどに、悔しい。
「だぁっ!!うっとうしい!!手ぇ出せ!!」
デッキの上のひしゃげた子供に向けて、エドワードは手を突き出した。

さあ、乗ってやる。
あんたの、後悔行きの列車に。

マスタングはデッキの上で静止し、エドワードの鋼の手首がのぞく腕とその顔を、交互に何度か見て、また静止した。
傾いた日差しが、冷ややかに重い、夕風で洗われる。
夕風は、鋼を包む赤いコートの腕に、不思議なひだ模様を作って逃げた。
マスタングはエドワードを見つめる。
伸ばされた手は。
赦しではなく、挑戦であろう。
彼は扉を開けて、その手を伸ばしてくる。
その強さでもって。
彼の持っている、母の記憶。
すべてを投げ出して弟を守る、覚悟。
彼は生きて行くために、知っておかなくてはならない理を知っている。
理が強さなのか、強さが理なのか。
まだ自分には判然としないけれど。
その強さを、自分はいつも、畏(おそ)れていたのだと。
今さらながらに、マスタングは自覚する。

数段高い位置からではあるが、精一杯うやうやしく、王にひれ伏す臣下のしぐさで、マスタングはもう一度手を伸ばした。

───エドワード。

私は君が、羨ましかった。
そして今も。
君が、膨大な犠牲を払って開けた、その扉を。
次は、私が開けようと思う。

マスタングは、開錠者の手を取った。
汽笛は、じきに鳴る。