開錠者 -3-



エドワードは思わずソファから立ち上がる。
泣き出しそうな音で、グラスの中の氷が崩れた。
「嘘だ!!!」
「残念だが、本当だよ。捜査本部に、今から確認してみるかい?」
「あいつは、日にちを勘違いしてるんだ!オレは、確かに電話した!あの日!!」
「…不思議なことだね。あの抜け目のないマスタング大佐が、自分のアリバイを証明するそんな重要な事項を、そう簡単に忘れるとも思えないが」
エドワードの握りしめた機械鎧のこぶしが震え、その震えがテーブルに伝わり、きしきしと堅苦しい音を立てた。
「それに、不思議なのは、君もだよ。エドワード君」
ハクロは、組んでいた指を解いて、とん、と両手をテーブルに置きながら、わずかに首をかしげて、立ち上がったままのエドワードを見上げた。
「なぜ、君はそんなにマスタング大佐をかばうんだね?私は、マスタング大佐が軍部から去れば、君が喜ぶのではないかと思っていたんだが」
見上げられた金の瞳は、新たな怒りに見開かれた。
「君をここへ呼んだのは、君に、マスタング大佐失脚の可能性があると伝えたかった、ということもあるんだよ。殺人の容疑をかけられるような人間の下についていても、ろくなことはない。早めに船を乗り換えておいた方が、君のためになる」
「人のことを勝手に決めるな。オレが、大佐を…上司を、か、かばっちゃ悪いのか…?」
怒りのかたわら、心にもない言葉を口にせねばならなくなって、エドワードの舌は滑らかに動かない。
「悪いとは言っていないよ」
ハクロはすいと立ち上がった。
そのまま、大きくないテーブルの脇を回って、エドワードが顔を上げてハクロの顔を見上げねばならないほどの至近距離にまで、歩み寄る。
「不思議だ、と言っているんだ」
半歩、あとずさりたくなるのをエドワードはかろうじてこらえた。
見下ろしてくるハクロは、ぬめりを帯びた怪魚のような顔をしている。
怪魚は、笑みの形のままの唇で吐息し、きらりとよどんだ瞳を光らせた。
「君は、ずっと以前からマスタング大佐を嫌っているのだろう?それなのに、なぜ、こんなところまで来て、彼の潔白を証明しようとしているのかね?君の行動を見ている限り、君には、大佐をかばう理由などどこにもないと思うのだが」
ハクロの言葉は、やはりエドワードを監視していたことを暗にほのめかしている。そのことに対して怒りを再燃させる前に、エドワードはある予感におののいた。

ひょっとしたら。
ハクロは、知っているのではないか?
あの忌まわしい「契約」の内容を。

「それとも、君が大佐を嫌うのは単なるポーズで、本当は、その逆なのかな?」
ハクロの白い指が、硬直したエドワードの喉元に伸びた。
親指と人差し指で、その下顎を、つ、と軽くつまむ。
「マスタングも酔狂な男だよ。こんな子供の、何がいいんだか」



どこまでも高く、どこまでも青い空の下。
列車の窓から見える風景は、飛ぶように、無神経に、後方へ流れて行く。
特急列車のコンパートメントの窓から、風景を眺めようともせずにうつむくホークアイに、マスタングは穏やかに声をかけた。
「やはり、後ろめたいかね?」
時間は、エドワードがニューオプティンに着く一時間ほど前に戻る。
マスタングとホークアイは、エドワードが乗った何本か後の特急列車で、彼と同じくニューオプティンに向かっていた。
エドワードを追っているわけではない。
のらくらと出張をかわし続け、ならばとイーストシティに出向いてゆけば、しらばっくれて休暇を取るマスタングにしびれを切らしたニューオプティンの古狸に、どうにも強引に呼びつけられていたのであった。
「君は、当然のことをしたまでだ。後ろめたく思うことなど、なにもない」
「後ろめたいとは、思っていません。ただ…」
「ただ?」
「…いえ。申し訳ありません。あとは個人的なことなので。ここで申し上げる必要もないことです」
「そうか」
上官の前で言葉を濁してしまったことをひどく後悔しながら、ホークアイは元通り、視線を向かいの空席に落とした。
ホークアイの斜め向かいに座ったマスタングは、彼女をそれ以上問い詰めもせず、窓枠に肘をついて外を眺め直している。
一等客室のコンパートメントが必要以上に広く感じる。
検札に備えて通路ドアのすぐそばに座っているホークアイには、窓際のマスタングがひどく遠いように思われた。

エドワードとの約束を、守れなかった。

ホークアイの脳裏に、エドワードのせっぱつまった顔が浮かんでは消える。
昨日の朝、電話交換室で交換手に謝罪を述べたエドワードは、ひどく苦しげな表情で、付き添いに立つホークアイを見上げてきた。

───中尉。お願いだから。

お願いだから、いったん部屋を出ててくれないかな。
もう絶対に、さっきみたいな乱暴はしないから。
この人に、どうしても、聞きたいことがあるんだ。

困惑し続けている傍らの女性交換手を指して、エドワードはホークアイに申し出た。
エドワードの個人的な用件であるのなら、彼のプライバシーは尊重せねばならない。
だがその前に、あくまでも、ホークアイはマスタングの副官であった。
ヒューズの事件について何か知っているらしいエドワードを、そして、そのことでマスタングに対して口を閉ざしているエドワードを、みすみすここで放すわけにはいかない。
かの上官は、このところ、様子がおかしい。
なぜマスタングはエドワードを問い詰めないのか、その時のホークアイにはどうしても納得がいかなかったのだ。
何か考えがあるのだろうことはわかっているが、電話を盗聴されても飄々としている上官につのるいらだちも、臨界点を超えつつあった。
なぜエドワードはこうも通信記録にこだわるのか。
なぜそのことを自分たちに知られたくないと思っているのか。
考えたくもないが、エドワードが、既にマスタングと敵対する人間の手に落ちている可能性もあるのだ。

───わかったわ。では私は部屋に戻ります。

ホークアイはエドワードを残し、交換室を出た。
そして、薄く開けた扉の隙間から、その後の室内の会話を───エドワードと交換手のやりとりを、すべて聞き取ったのだった。
今、こうして上官と二人きりでニューオプティンに向かうのは、ある意味「賭け」だ。
下手をすれば、ニューオプティン支部において、マスタングは拘束されるかもしれない。
ハクロの意図が見えた以上、マスタングが単身で支部を訪れるのは危険すぎる。
しかし、飄々たる上官は、仮面が無理やり笑むような生気のない顔で、にっこりとホークアイの引き止めを却下したのだった。

───錬金術戦にしろ、素手の殴り合いにしろ、接近戦には、大変な危険が伴うが。

それらは最も確実に急所を狙えて、かつ手ごたえがある。
相手にどのぐらいのダメージを与えたのか、その場で確かめられる。
その確実さが、私は好きなんだ。
野蛮な上司で、すまないね。

相手を刺すなら、その懐に飛び込むのが、効果的だと。
銃器の扱いにたけたホークアイを皮肉る上官のその表情には、いつもの、わかりづらいながらも部下をいたわる優しさなど、かけらもうかがえなかった。
マスタングがこうして行動することで、結果的に情報を漏らしてしまったエドワードの身に、危険が及ぶ可能性も高い。
何をおいても、マスタングは、エドワードを守るはずだった。
いつからかそう信じていたホークアイの思惑を、マスタングは簡単に裏切ってゆく。
マスタングの変貌の原因など、わかりきっている。

───准将。見ておられるのでしたら、なんとかしてください。

私には、無理です。
黙ったまま、意識の隅で。
自分で自分に吐いた弱音が、胸に刺さる。
ホークアイは膝の上に置いた手を、祈るように強く、もう片方の手で握りしめた。
けれども、従うしかないのだ。
今ホークアイがすべきことは、エドワードをおもんぱかることでも、変貌した上司の冷酷さを嘆くことでもない。
いつか自らに課した通り、ただ、守るだけだ。
この、ロイ・マスタングという男を。



鋼の腕で、思いきり。
エドワードは顎にからむハクロの指を振り払った。
高官らしく、だが軍人には不似合いに手入れされたその指を、エドワードは、心底汚らしいと思った。
触れられた顎が、柔らかく腐り、病み崩れていくような錯覚すら覚える。
「図星でも、指してしまったのかな。私は」
弾(はじ)かれた指を宙にぶら下げ、軽く顔をしかめながらも、ハクロは本当に楽しげだ。
自信の失せぬその顔を。
その横っ面を張り飛ばしてやりたい衝動をエドワードが抑えることができたのは、奇跡に近かった。
ハクロの陰湿な質問に答えぬまま、衝動に身を任せるのは、その質問を肯定することになる。冷えきり、透き通ってきそうな怒りが、その針の先ほどのエドワードの理性を、ようやく捕まえていた。
「…オレは、許せないだけだ」

───怒りが過ぎて、泣きたくなるなんて。

こいつの言う通り。
オレは、なぜこんなに、子供なんだろう。
子供でしか、ないんだろう。
喉元を押し潰しそうな、涙に変化しうる熱いかたまりを、渾身の力でエドワードは身体の奥に押し込んだ。
「ヒューズ中佐を殺した奴を。あんたがつまんねぇ罠をしかけてるうちに、まんまと逃げようとしてる、そいつを。オレは、許せないだけだ」
この心根の腐った男に、何を叫んでも無駄なのだろうけど。
それでも、オレは、知ってる。
「オレが、鍵を持ってる!オレが、真実を知ってる!!だから、オレは、言わなくちゃいけないんだ!!!」
ハクロは、どこか哀しげに───路上の、稚拙な大道芸人を視線で冷やかすように───諦め混じりの笑みをエドワードに向けた。
「エドワード君。教えてあげよう。君に甘いマスタング大佐は、君に、軍属として、大人として、大切なことを教えていなかったようだからね」
息を荒げるエドワードが口を開く前に、ハクロは辞書でも暗唱するごとく、すらすらとたたみかける。
「君は、証人が居ると言ったが。その証人が、法廷で必ず事実を述べる、という保証はどこにもないよ。人は、自分の得にならないことは、基本的にしない生き物だ。『真実』を証言することによって、自分や、自分の家族の身に危険が迫っても…それでも人は『真実』を証言するものだろうか?」
この、腐りきった男には。
証人の、あの、東方司令部の女性交換手の命すら、軽いものであるらしい。
「真実というものはね。金と権力で、いくらでも作り変えられるものなのだよ」
違う、とエドワードは叫ぼうとしたが、強い呼気が喉を擦るばかりで、瞬時に声にならない。
「それに、もう手は打ってある。マスタング大佐は、もうすぐ一人でここに来る。私が、逃げられないようにしておいた。彼がここに来る前に、君を説得したかったんだが…無駄だったようだね。彼がこの支部を出る時は、彼はもう大佐ではなくなっているだろうよ」
「大佐で、ない…?」
「まだわからないかね?」
ハクロはあきれたようにわざとらしく、ゆっくりと二度、まばたきをした。
「私が大佐を、容疑者として拘束すると言っているんだ」



さんざん、人を待たせておきながら。
応接室にやってきたのは、この支部の司令官ではなかった。
ハクロは来客中であるから、と受付で知らされ、ニューオプティン支部の応接室に通されたマスタングとホークアイは暇を持て余していた。
「いい時間稼ぎになりそうだな」
「…だといいのですが」
給仕された紅茶もとうの昔に冷め、マスタングがゆったりと腕を組み、背後に立つホークアイに話しかけた数秒後。
「失礼します、マスタング大佐」
慇懃な声を合図に、扉から湧いて出た十数人もの兵士が、ソファから立ち上がったマスタングを取り囲んだ。
「動くな!」
ソファの脇に立っていたホークアイが、銃のホルダーに手をかけようとしたのを、鋭い声が押しとどめる。
小さく金属がぶつかり合うような音と共に、いくつもの銃口を向けられて、さすがのホークアイも、ホルダーから手を下ろさざるを得なかった。
マスタングは顔色ひとつ変えずに、眼球だけをすう、と巡らせて兵士たちをねめつける。
「…なんのマネだね?これは」
二人を取り囲む兵士をかきわけて、拳銃を手にした、この場の指揮官らしき男がゆっくりとマスタングに近づいて、奇妙に落ち着き払った声で告げる。
「マスタング大佐。ヒューズ准将殺害事件の重要参考人として、出頭命令が出ています。今すぐ同行をお願いします」
「それは、セントラルからの命令かね?」
「いいえ。ハクロ少将からの命令です」
「では。憲兵司令部を通していないわけだ」
「はい。緊急性を無視できないとのことです」
「緊急性?」
マスタングは鼻で笑った。
その笑みが消えないうちに、男はマスタングにもう一歩、歩み寄る。
「申し訳ありませんが、銃と手袋をお預かりします」
そう言って、男が両手でマスタングの腰を抱えるように手を伸ばしたとたん。
重い音がして、男は後方に吹っ飛び、しりもちをついた。
「無礼者が」
吐き捨てるマスタングに、周囲の兵士たちから改めて銃口が向けられる。
吹っ飛んだ男はうめきながら、銃を取り落とした右手で顎を、左手で胸の辺りを押さえている。マスタングの、肘を使った裏拳が、それぞれにヒットしたらしい。
「そんなにこれが欲しいならくれてやる。さっさと持って行け」
野良犬に餌でもやるように、マスタングはホルダーから抜いた銃と、ポケットから引きずり出した発火布を、まとめて床にほうった。
毛足の短い絨毯の上を、乾いた音を立てて銃が滑り、それはうめく男の膝元に回転しながら到着する。
同時に、ぐい、と背中に硬い銃口を擦りつけられて、マスタングは振り向きもせずに、かすかに唇を歪めた。
「では。ご同行願います」
兵士の輪の中から、無礼者の副官らしき男が、焔の錬金術師から安全距離を保ったままで宣言する。
「待ってください!私も行きます」
兵士の群れの中から飛んだ声に副官が振り向くと、そこには低くホールドアップの姿勢を取らされたホークアイの、必死のまなざしがあった。
「では、あなたの銃もお預かりする」
副官は無表情にうなずき、ホークアイの側に立つ兵士に目配せを送った。



エドワードは、無言で執務室のドアへと走った。
「もう遅い。応接室は今、取り込み中だ。君が行ってどうにかなるものでもない」
エドワードの背中に、勝ち誇ったハクロの声が突き刺さる。
ドアノブに手をかけたまま、エドワードは振り向いて、見えない腐臭を立ち上らせる将官に、熱く低く、硬直した声を投げた。
「やってみなきゃ、わかんねぇよ」
長大な廊下の隅にまで響き渡りそうな音を立てて、乱暴にドアが開けられる。
中から踊り出て来たエドワードを見て、ずっとそこに立っていたらしい護衛の兵士は一歩飛びのいた。
兵士にハクロの指示が飛ぶ。
「彼を止めろ!」
しかし、兵士が銃を構え直す前に、それはすばしこい錬金術師によって手から叩き落され、錬成光をにじませながら、グロテスクな鉄塊に姿を変えていた。



ざわり、と不安げな声を漏らして、廊下の兵士たちは道をあける。
奇妙な行列だった。
昼前の、窓からさんさんと日が降り注ぐニューオプティン支部の廊下を、物騒にも銃を手にした兵士がぞろぞろと歩いて行く。
十数人はいようかという彼らの輪の中に、支部では見かけない二人の士官がいた。
二人のうちの一人である黒髪の士官が大佐の階級章をつけているのを見とがめて、通りがかった兵士たちから、さらに小さな驚嘆の声が漏れた。
「おい。あれ」
「まさか」
マスタング大佐じゃないのか、という、さらにさらに小さなささやきが、廊下の壁に溶ける。
ささやきは、行列者の幾つもの靴音に踏みにじられ、不穏な沈黙が、またすぐに廊下に満ちる。
誰も行列を追わない。言葉もかけない。
ただ視線だけが、沈黙の中、行列を追いかけるのみであった。
その沈黙を。
小さな足音が、破った。
長い廊下の、曲がり角のずっとずっと向こうから、それは高く靴を鳴らしながら、恐ろしいスピードで近づいてきて───
「大佐!!逃げろ!!」
絶叫する、少年の姿になった。
廊下の果てにいきなり現れた、赤いコート姿の子供に、行列者たちは反射的に銃口を向ける。
子供は、銃口が狙いを定めるより早く両手を打ち鳴らし、姿勢を低くして床を叩いた。
誰もが瞬く間もなく、左右の壁に大穴が開き、壁石から錬成された大量の岩石が、兵士たちに降り注ぐ。
「中尉!!」
崩れかかる兵士の輪の中で、マスタングは後方に向かって叫んだ。
それは、危険を避けよという命令ではない。

───今。渡しておいた、それをよこせ。

強運にも、周囲を固めていた兵士たちがクッションとなって、
マスタングと同じく岩石の直撃をまぬがれたホークアイは、折り重なる兵士をかきわけながら、自らの軍服のポケットを探り、白くひらめくそれを前方のマスタングに投げ渡した。
白い粉塵が視界をさえぎる中、奇跡的にそれはマスタングの指に絡めとられる。
足元の大小の石と、転がる兵士を踏みつけながら、マスタングは絡めとった手袋にすばやく指を通した。
「大佐!中尉!早くこっちに!」
手袋の甲に刻まれた、赤い火トカゲの錬成陣が粉塵を切り裂く。
しかし、ホークアイの手を引き、足元の邪魔な岩石を熱風で砕いたマスタングの耳に、銃の撃鉄を起こす小さな音が挟まった。
積み重なる人と岩石の間から、前方のエドワードを狙う銃口が見える。
「鋼の!!伏せろ!!」
マスタングがその銃口を、火花で吹き飛ばすより早く。
銃声が、ガレキと化した廊下に響き渡った。

ばん、と、重く、ガラスが割れるような音がして。

薄くなりつつある粉塵の中で、赤いコートの人影が倒れた。
「鋼の!!!」
岩の山からようやくまろび出たマスタングは、ホークアイが聞いたことのない叫び声を上げて、倒れた人影に駆け寄った。
「鋼の!鋼のっ!!」
固く目を閉じ、鋼の手首を左手で抑えて、エドワードは仰臥したままだ。
胸の前で交差したエドワードの腕を払いのけ、マスタングは赤いコートの前を乱暴に引き開ける。
どこを、撃たれた?
出血箇所は。
止血は。
もしも、致命傷であったなら。
だが、血液は、エドワードの身体のどこからも流れ出してこない。
もどかしく、彼のコートの下の、黒いタンクトップの裾をズボンから引き抜いたところで、小さなうめき声が聞こえてきた。
「触ん、な…どこも、撃たれてない…」
払い落とされた腕を再び胸の前で組んで、エドワードが薄目を開ける。
「くそっ……いてぇ…」
「なら、どこが痛いんだ!!」
怒鳴るマスタングを、エドワードは薄目のままにらみつける。
「機械鎧を…やられた。肩が…いてえ…」
聞くが早いか、マスタングはエドワードの鋼の手首をつかみ、彼の胸の上で固定する。そのまま彼の腕に視線を巡らせると、赤いコートの肘下に小さな穴が開いていて、そこから鉄板部分のへこんだ機械鎧が見えた。
問答無用でマスタングがコートの袖をまくり上げる。
「い、いてぇよ!まだジンジンしてんだよバカ!!」
銃弾は、エドワードの機械鎧に当たって跳ね返ったらしい。
人体で言えばちょうど尺骨に当たる部分の鉄板が、鋭利な杭でもねじ込まれたかのように陥没していた。
鋼の腕自体に痛覚はないとはいえ、それは神経と直結している。銃弾の衝撃はエドワードの右肩全体にかかり、彼に多大な苦痛をもたらしているようだ。
マスタングは、嵐のような勢いで吐息した。
安堵したのだ。
ホークアイの見つめるそばで、粉塵に白く汚れた軍服の肩が、吐息に従ってゆっくりと下がる。
だがそれも束の間だった。
「ぐずぐずしてんじゃねぇ!早くここを出ろ!」
マスタングの手をはたき飛ばし、痛みに顔をしかめながら半身を起こして、エドワードは叫んだ。
立ち上がるのに手を貸そうとするホークアイの腕を押し戻して、エドワードはなおも叫ぶ。
「オレのことはいいから!早く!」
一足先に立ち上がったマスタングは、鈍痛に耐えるように顔をこわばらせ、足元の最年少錬金術師を見下ろして、短く告げた。
「一緒に来い。命令だ」
エドワードがもう一度マスタングをにらみ上げた時、新たな靴音が聞こえた。
エドワードの錬成によって壁に開いた大穴の向こうから、ざわめく声と共にそれは近づいてくる。穴の向こうは中庭だ。いきなり建物が崩れたのが見えて、人が集まってきたのだろう。
「私がやる。鋼の、中尉を頼む」
再度手袋を手首へ向かって引き上げ、マスタングは中庭を鋭く見やる。
だがその発火布が火を吹く前に、エドワードにも聞き覚えのある声が、その場の緊迫感を砕いた。
「大佐ぁ!!マスタング大佐、そこにいますか!!」
マスタングは壁穴から身を乗り出した。
「遅いぞ!!ハボック!!」
「すんませ…ん!」
拳銃を握ったまま、数人の憲兵を連れて中庭を全力疾走して来た金髪の少尉は、上官に謝罪した直後、薄い粉塵にげほげほとむせながら立ち止まった。
「遅れて…申し訳、ありま…せん」
再度の謝罪後、上体を折ってなおもむせるハボックを、マスタングはいらだたしげに見下ろす。
青い瞳に薄く涙を浮かべながら、ハボックはひときわ大きくくしゃみをした後、やっと上官に向き直った。
「セントラルから電信、来ました。ヒューズ准将殺害事件に関連し、公文書偽造、および脅迫、および偽証教唆の疑いでハクロ少将を再度聴取したく、速やかに出頭を命じる、だそうです」
「例の交換手は?」
「引き続き、家族と共に我々の保護下にあります。状況に変わりありません」
「わかった」
「お怪我は?大佐」
「私たちは大丈夫だ。鋼のが、機械鎧を少しやられた」
え、とハボックがマスタングの背後をのぞき込むと、そこには大きな目をさらに見開いたエドワードが、ホークアイの側で棒立ちになっている。
「何が、どうなってんだ…?」
エドワードが発した問いを、振り向いたマスタングは真っ向から無視した。
積み重なった岩の間から這い出て来て、エドワードの背後遠くからよろよろと集結しつつある先程の兵士たちは、まだ銃をマスタングに向ける意志を捨ててはいなかったが、ハボックの到着とその報告の内容を耳にして、あからさまに動揺している。
その彼らに向けて、マスタングはゆっくりと、威圧的に宣言した。
「聞いての通りだ。大総統が、ハクロ少将をお呼びだ。私がその旨を少将に報告する。執務室まで案内したまえ」
粉塵で白く汚れた兵士たちは、互いに目を見合わせるばかりで、動こうとしない。
マスタングの右手が一閃した。
甲高いが腹に響くような音を立てて、火花と共に彼らの足元の無数の石がひび割れ、砕け、はぜた。
「この支部では、上官に対する礼儀も教えていないのか!!」

マスタングの怒声は、壁穴からのぞく空にまで轟いた。



タイヤが小石でも踏みつけたのか、車が一瞬、大きく揺れた。
すぐ隣に座る、まだうっすらと白い埃が乗っている軍服の肩も、同じ動きで揺れる。
マスタングとエドワード、そして助手席にホークアイを乗せた軍用車は、ニューオプティン駅へと向かっていた。
運転を務める兵士の顔からは緊張と困惑が拭えない。何しろ、どういう悪事を犯したものか、ついさっき支部の司令官に連行されかかっていた佐官を、数時間も経たないうちに、丁重に駅まで送らねばならなくなったのだ。
すべての事情をホークアイから聞かされ、エドワードは黙り込んでいた。
結局。
この男には、助けなど、必要でなかったのだ。
マスタングの力をもってすれば、自らの潔白の証拠をつかみ、証人の生命を保証し、セントラルに手を回して大総統にまで働きかけることなど、簡単なことなのだ。
頭に血を上らせて、そんなことにも思い至らなかった自分は、本当に、ほんとうに、「馬鹿」だ。
ただ自分が、何も振り返らずにまっすぐ歩いて行きたい、それだけの幼稚な理由で、銃弾に身をさらしてまでこの冷酷な男を、助けようとした。
自分がふがいなくて、情けなくて、愚かしくて、どうしようもないほど、悔しい。
すべてが終わり、ハクロの執務室から帰ってきたマスタングは、居並ぶ兵士たちの前で、軽く、だがそれなりの強さでエドワードの横面を張った。

───今すぐ、崩れた廊下を直して来たまえ。

それは、あんまりなのではないか。
そう噛みつきかけたエドワードの頬は、マスタングの平手によって再び鳴った。
撫でられてでもいるような、人をバカにしたような、痛みなどほとんどない平手打ちだった。
それでも、マスタングの、何ら平素と変わりない無表情で無機質な声が、頬に受けた衝撃を、かえって深くしたような気がする。
煮えたぎる思いで崩落した壁を元通りに錬成し、やっと終わったと思ったらそのまま首根をつかまれる勢いで、帰途の車に乗せられた。
軍用車の中は、沈黙に包まれている。
マスタングには、エドワードに対して、命令以外の言葉を口にする気配はない。
何を思ってエドワードがニューオプティン支部に来たか、何を思ってマスタング達を支部から逃がそうとしたか、その心情を酌(く)む様子が、全く感じられない。

───こいつがこういう男なのは、わかりきっていたはずなのに。

愚かしさと共に、もうひとつ。自分の中の巨大ないじましさに気づいて、エドワードはため息すらつくことができない。
こんなにマスタングが憎らしいと、理不尽だと思うのは、期待していたからなのだ。
どこかで、マスタングが、感謝してくれないか、と。
自分の未来のため、などと格好良く自分に対して銘打ってはみたものの、あれは真っ赤な嘘だった。
なぜこんなに、自分には学習能力がないのだろう。
この男が、感謝などするはずがないではないか。
この男は、エドワードのことを一人の人間として認めてくれたことはない。
マスタングにとってエドワードとは、単に欲望を処理する道具であり、弄べば反応する玩具であり、それゆえに、壊れては困ると、適度にその安全を保証し、生かさず殺さずゆっくりと楽しむためだけの存在であるはずだった。
少なくとも、エドワードはそう認識していた。
だが、その酷薄な行動の合間合間に、マスタングが理解し難い動作を起こすことがあったのも、また事実だった。
その不可解さは、今となってはヘドが出そうなあえかな期待を、いつもエドワードに抱かせたのだ。
マスタングは、本当は、自分を大切にしてくれているのではないか?と。
あえかな期待は、いつもエドワードを苦しめた。
期待が湧くそばから、エドワードはそれを自分で粉々に打ち砕いてきた。それが「期待」だったことさえも、今の今まで気づけずにいた。それを打ち砕かなければ、精神の均衡が保てなかったからだ。
哀れなマスタング、自分のことをおもんぱかってくれるマスタングなど、考えただけで不愉快だった。
肩にのしかかる徒労感を振り払うこともできず、エドワードは左手でへこんだ機械鎧の腕を探る。
そうしてまた、エドワードは新たな感情を打ち砕かねばならなかった。
あの時聞こえた叫び声は、幻聴だったのだろうか。

───鋼の!鋼のっ!!

駆け寄って来て、エドワードの身体を乱暴に探った腕は。
あのマスタングの必死さは、何だったのだろう。
ほんの数時間前の出来事だが、今となっては、あれは、何かの間違いとしか思えない。
間違いでなくてはならない。
絶対に、間違いでなければいけないのだ。
間違いを、間違いにするために、そして、煮えたぎり続ける怒りと疑問を解消するために、エドワードは、膝頭に視線を落としたまま、傍らに座る「元凶」に低く切り出した。
「大佐。どうしても、聞きたいことがある」
「なんだね?」
そう、小さく問い返しながら。
車窓から外を見つめていたマスタングは、視線をふい、と、エドワードのその膝頭あたりに振り落とし、また機械的に前を向いた。
隣のエドワードの顔すら、見るのが面倒といった様子だ。
視線すら合わせようとはしない、その表情の無い横顔に、さっきの平手の御礼とばかりに、エドワードは固い声を投げつける。
「ここじゃ話せねぇ。車、降りてから話させろ」
マスタングは眉根すら動かさない。
軍用車のエンジン音だけが、数秒車内を揺るがした後、低い声が、やっとエドワードの耳に届いた。
「では。駅に着いてからだ」