開錠者 -2-



南方司令部を出て、駅へと向かいながら、エドワードは考える。
ゆるゆると浮遊し続ける苦痛の中、既にオーバーヒートした意識は焦げつき、まともに機能してくれそうもなかったが、考えないわけにはいかなかった。
軍用車での送迎を断ったので、徒歩である。
昼時の太陽は、まぶたが重くなりそうなほどに、強く照る。
だが、考え込んでいるエドワードは、二本の足を動かすことだけで精一杯で、こめかみを伝う汗を拭う余裕もなかった。

───これから、何をしようってんだ。オレは。

死者を冒涜する軍部の人々への怒りは、まだ治まらない。
何よりも、ヒューズの死を納得することができない。
ヒューズに───ヒューズの家族に、何と言って詫びればいいのか、見当もつかない。
そしてこのことを、何と言ってアルフォンスとウィンリィに伝えればいいのか。
わからないことばかりだ。
エドワード自身に今できることは、あまりにも少なかった。
ただ、死者を冒涜しようとしている人間に、怒りをぶつけたい気持ちでいっぱいだった。

───許さねぇ。ハクロ将軍。

そこまでして、マスタングを蹴落としたいのか。
人の死も、ハクロにとっては権力争いに利用する、小さな要素のひとつに過ぎないらしい。
怒り狂う一方で、エドワードの脳の中の冷めた一点に、ぼんやりと、ハクロに陥れられつつある男の顔が浮かぶ。

───あいつは。今、どうしてる?

マスタングは、ヒューズの死に、ショックを受けただろうか。
あの男がどれだけ歪んでいようと、こんな出来事に無傷でいられるわけがない。
そう確信してしまう自分がどこか気に入らないが。
エドワードは唇を噛んだ。

───あいつを心配してる、わけじゃない。

あの歪みきったマスタングが、友人の死をどう思うかなどと、考えたこともなかったから。
だから、気になるだけなのだ。
友人を悼んで泣くマスタングなど、想像がつかない。
そんなことがあってもおかしくないと、エドワードの中の常識がささやく一方で、どうしても、映像として、実感として、エドワードはその姿を想像することができなかった。
あの男は、目の中にも、身体の中にも、闇を住まわせている。
その闇は、ある時は家主に勤勉に操縦され、ある時は家主の意思を裏切って、エドワードを苛んできた。
闇を操縦している時、男はこれ以上ないほど満足げに笑み、闇が男を裏切って暴走した時は、男は呆然と、あるいは不安げに、エドワードを見つめていたものだった。
あの、冷たく、腐臭さえしてきそうな闇を飼うあの男が、涙する。
そんなことが、本当にあるのだろうか。
とうとう耐え切れずに、こめかみの汗を腕で振り払ったところで。
「エドワード・エルリックさん!!」
聞き覚えのない女性の大声に、エドワードは振り返った。
「え…?」
振り向いた先に立っていた、軍部の事務員の制服を着た女性は、エドワードを呼び止めることに成功し、安堵しながら荒い息を吐いている。
エドワードを追いかけて、ここまで疾走してきたらしい。
「何か…?」
「エ…エルリック…さん。査定の書類、お忘れ、ですよ」
苦しい息の下、女性は封筒に入った大判の書類を、大事そうに差し出した。
「あ!!ゴメン、オレ…受け取るの忘れて…!!」
「い、いえ。間に合って、よかったです」
「ゴメ…じゃなくて、すみません。ありがとう」
「どう、いたしまして。それからあの、先程、司令部に弟さんから電話がありまして」
「アルから?」
息を整えながら、女性は胸をなで下ろして、言った。
「はい。その、アルフォンス様が、伝えたいことがあるので、ダブリスまで連絡くださいとのことでした」

───先生んちで、なんかあったのか?

不安がエドワードの胸をかすめる。
もう一度女性に礼を言って、エドワードは駅に向かって走り出した。



『うん。そうなんだ。ヘンなんだよ』
受話器の向こうから、アルフォンスが不安げな声でささやいてくる。
駅に駆け込むなり飛び込んだ電話ボックスの中で、エドワードはさらに強く、受話器に耳を押し付けた。
『ばっちゃんに、ここの電話番号聞いたってハクロ将軍は言ってたけど、わざわざ、お茶を飲むためだけにニューオプティンまで来いなんて、どうかしてるよ』
ダブリスの師匠宅に、ハクロから電話があったというのだ。
時間に余裕ができれば、茶でも飲みに来ないかと。
現在のエドワードの居所を突き止めるだけでも相当な手間であっただろうに、それだけ手間をかけた伝言の内容が、「一緒に茶でも飲もう」。
いったいこれは何の暗号かと、疑ってかからない方が不思議だ。
『兄さん』
アルフォンスの声がまた、湿ったように低くなる。
『兄さんはもう、決めたんだよね。将軍のところには行かない、転属なんか希望しない、って。この間、そう言ってたよね。だったら』
「アル」
ふと、ひらめいて。
エドワードはすばやくアルフォンスの言葉をさえぎった。
「アル。オレ、セントラルの病院退院して、そのあと大佐に電話かけたよな。あれ、いつだったか覚えてるか」
『なんだよ急に!ちゃんと僕の話聞いてんの!?』
「いいから!!電話したあれ、先月の何日だったか覚えてるか?」
『もう~~。……えーと。えーと、退院した次の日じゃなかった?』
「十五日か?」
『忘れちゃったよ、もう!退院した次の日、ってしか覚えてないよ僕も』
「わかった。サンキュ」
『それが、何かさっきの話と関係あるの?』
「オレにもわかんねぇけど。じゃあ、査定終わったし、オレ、今から将軍とこまで行ってくっから。そっちに帰るの、予定より四、五日遅れるって、先生に言っといて」
『え?どうして?電話で断ればいいんじゃ…』
「オレは今、すっごくテイチョーに、将軍にオコトワリかましたい気分なんだよ。電話じゃ将軍に失礼だ。ニューオプティンまで行って来る。じゃあ」
『待ってよ兄さ』
がん、と。
受話器をフックごと叩き落とす勢いで、エドワードは電話を切った。
衝撃で、ゆらゆらと垂れながら震える電話コードを見つめながら、猛獣がうなるように一度、深呼吸する。

───ああ。押しかけてやろうじゃねぇか。ニューオプティンに。



朝から、騒々しいことだ。
勤務開始時間早々に、執務室に連行されてきた少年を見ながら、マスタングは、やはり味のしないコーヒーを一口すすった。
本日の勤務開始時間と同時に、東方司令部にいきなり現れた鋼の錬金術師が、電話交換室の前で騒いでいると知らせを受けて。
毛を逆立てたネコのような風情でホークアイに連れられて来たエドワードは、何か思いつめたような表情をしている。
「オレ、急いでんだ。頼むから、早くここから出してくれ」
「あんな乱暴狼藉を働く者を、簡単に解放することはできない」
もう一口、すすっても、やはりコーヒーは無味無臭だ。
マスタングはデスクに着いたまま、その向こう岸から身を乗り出してくる少年をじり、とにらみつけた。
「乱暴なんかしてねぇよ!!ただ…通信記録を見せて欲しいって、頼んでただけだ」
「交換手の胸倉をつかんで、か?」
「胸倉なんかつかんでない!ちょっと…腕ひっぱっただけだって!」
「君は…まだ若いとはいえ、男性で、国家資格を持った軍属だ。そういう、腕力と権力を持った人間に腕をつかまれるようなことをされて、ごく普通の女性交換手が恐怖も何も感じないでいられると思っているのか?」
エドワードはぐっ、と詰まった。
「それは……悪かったと、思ってる…けど…」
どこか、疲れたような影もにじませるが、半月ぶりに見る金の瞳は、生き生きと熱っぽく、美しい。
何かを美しいと思う感情が残っていたことが、そして、その対象がやはりエドワードであったことが、マスタングには腹立たしかった。
エドワードの存在などもう関係なく、生きていかねばならないのだ。自分は。
ヒューズは死んだ。
もう誰にも、生きて行くための術を、乞うことはできない。
ひとときでも、心に寄り添ってくれる者が誰一人いなくとも、日々はいつも通り残酷に訪れ、営々と過ぎ去って行く。
こんな、何かが身体から抜け落ちたような感覚を抱えたままでも、人間は無事に日々を過ごせるのだと、つい先日安堵したばかりだったのに。
その、やっと勝ち得た安堵を、どうしてこう乱すのか。
この少年は。
「で?なぜ、そんなにしてまで通信記録が見たかったのかね?」
狼藉の理由を問いただすと、とたんにエドワードは黙り込んだ。
困惑も、逡巡も、ない。
あたかも、この司令部の建物に踏み込んでくるずっと前から、それを言わないと決心していたかのように。
「言わないつもりか?私を誰だと思っている?」
エドワードの唇は柔らかく歪むが、それが開かれる様子はいっこうにない。
「一度、軍属として営倉の寒さを味わってみるかね?鋼の」
少年は、目の前のデスクに這わせていた視線を、ぐいとマスタングに戻した。



早く。
早くニューオプティンに行って、けりをつけてしまいたい。
エドワードは直立したまま、両のこぶしを握りしめた。
身体の中から湧き上がってくる猛烈ないらだちに言葉を封じられ、声を出すことができない。

───オレは、なんのために、こんなことをしてる?

自問することすら、ばかばかしいまでに、苦しい。
ヒューズが死んだのが、エドワードたちがセントラルを出て二日目のこと。
エドワードがマスタングに電話したのも、セントラルを出て二日目の夜だった。
あの時確かに、エドワードはマスタングと回線を通じて言葉を交わした。
ならば、証明できるのだ。
事件のあの日───先月の十五日に、マスタングは確かに東方司令部に居た、と。
だから、司令部の交換手に、それを確認しに来ただけなのに。
なぜそれを、よりにもよってこいつに邪魔されなくちゃならない?
こんな面倒を、なぜ自分からしょいこんでいるのだろう。
ほうっておけば、捜査は進み、マスタングは濡れ衣を着せられ、ヒューズと軍の名誉が傷つく。それだけのことだ。
マスタングが軍の表舞台から姿を消せば、それはエドワードにとっては喜ばしいことであり。それに、労苦を費やしてヒューズの名誉を回復したとて、彼が生き返るわけでもない。
なせ、そんな、ひとかけらの得にも、償いにもならないことを、オレはやろうとしている?
マスタングの冷ややかな視線に上半身をくまなくえぐられて、頭痛でもしてきそうだ。
冷ややかな視線に苛まれても、「それ」は、エドワードの意識の中から動こうとしなかった。
「それ」は、堅固に、重く重く、エドワードにささやき続けている。

───誰のためでもない。

誰のためでもない、オレは、オレのために、こうしているだけだ。
エドワードは、身体中にまつわりつくいらだちを、内心で咆えながら振り払った。
今ここで、マスタング大佐をほうっておいたら。
何年経っても、何十年経っても、オレは、オレのせいで真実が捻じ曲がったことを、忘れられないだろう。
アルフォンスと一緒に元の身体を取り戻して、年を取って。どんなに幸福な老人になったとしても、オレはきっと、オレが発言しなかったせいで、罪を着せられて失脚した軍人の名前を、覚えているだろう。
亡霊のように、その名前はオレにとり憑いて、離れないだろう。
だから。
オレは、オレのために忘れたいだけだ。
ロイ・マスタングという名前を、永久に。
この男が、オレに植え付けた憎悪と共に、どこか、オレの知覚も及ばないほど遠くに消え去って欲しい、それだけのことだ。
だから。
「………ヒューズ中佐のためだ」
押し殺した声音で、エドワードはマスタングの瞳の闇に挑むように、言葉を発した。
「准将、だ。鋼の」
短く言い直しを要求するマスタングの声音は、いつもと同じに無機質だ。
マスタングも、ヒューズの死を、知っている。
それは至極当然のことであるのに、エドワードの心臓に、ずきりとまた、新しい痛みが広がる。
これは悪い夢なんじゃないかという気持ちをどこかで捨てられずにいたが。
マスタングが、ヒューズの死を認めているのだ。
本当に、ヒューズは、もういないのだ。
「何が『二階級特進』だ。オレにとって…中佐はいつまでも中佐だ」
「それは…ヒューズもあちらでニガ笑っていることだろうな」
友人のことを述べているにしては、あまりにも酷薄な笑みを浮かべるマスタングに、エドワードの感情の一部分が、かっと熱くなる。
その熱を、どうにかやり過ごして。
「ヒューズ中佐のためだ。中佐を悪く言うやつらを、黙らせる。だから、通信記録が見たかった」
言葉を発するたびに、エドワードの臓腑の奥底に押し込めた熱が、暴れ出しそうになる。
「なぜ、君が通信記録を見ればその『やつら』が黙るんだ?私には、君が何を言っているのかさっぱりわからない」
「…………」
「それに、ヒューズの事件についての捜査は、軍内でまだ続けられている。君がそこに手を出す権利も義務も、一切ないはずだが?」
義務は、ある。
エドワードは、奥歯にからむ熱い唾液を飲み込んだ。

中佐はオレのせいで死んだ。
本当なら、オレが何もかもなげうつ覚悟で、犯人を見つけ出さなくちゃいけないんだ。
でも、今のオレにできるのは…これだけだ。
中佐の名誉を守るためにも。
真犯人が逃げおおせるのを防ぐためにも。
ここで、あんたに、罠に落ちてもらっちゃ困るんだ。

胸の内の声を、すらすらとマスタングに向かって叫んでしまえたら、どんなに楽になれるだろう。

あんたは、疑われてる。
あんたは、大総統に監視されてる。
だから、気をつけて行動しろ。

エドワードは、最後の理性で、喉元いっぱいにつかえてくる言葉をせき止めた。
ここでマスタングに事実を伝えて、自らも容疑者とみなされ、当局の監視がつくのが恐かったわけではない。
監視なら、いつもついている。まわりくどくマスタングを失脚させようとしている、ハクロの監視が。
エドワードが恐れたのはそれではなく。
マスタングに、「おまえを助けてやる」と直接伝えることが、恐ろしかったのだった。
弄ばれ、憎悪する関係にあるマスタングを、助ける。
自分のこの、とっぴ過ぎる行動を、マスタングの目前に提示して、その次に何が起こるのか、想像するのが恐かった。
どう考えても、マスタングが素直に自分に感謝するなどとは思えないし、そもそも感謝など端(はな)からされたくもない。
余計なお世話だ、と一蹴されるのが一番妥当なところだろうが。
だが。
エドワードの意識の端も端、それこそ無意識との境界線にこぼれ落ちていきそうなわずかな余白部分のそこに、感謝するのでも、一蹴するのでもないマスタングの姿が浮かぶ。
弱々しいような、頑固なような、イメージの定まらないその姿は、エドワードにとって、理屈のない恐怖を内包していた。
エドワードは焦り続ける。

───とにかく。

不愉快をこうむっても、今はとにかく、通信の記録を確認するのが先なのではないか?
自分の感情の都合ばかり、考えている場合ではないのではないか?
「……オレは」
「もういい」
エドワードが緊張を振り切ったのと、マスタングの諦観こもった制止が発せられたのは、ほとんど同時だった。
「もういい。早くさっきの交換手に謝罪してきたまえ。ホークアイ中尉、すまないが。鋼のをもう一度交換室に連れて行ってやってくれ」
マスタングはソーサーに戻したコーヒーカップを、ソーサーごと机上で滑らせ、書類を置くスペースを確保した。
虚をつかれたエドワードに視線を戻すことなく、言葉を継ぐ。
「通信記録でも何でも、好きに見るがいい。そのかわり」
ばさ、とデスクいっぱいに今日最初の作業を施す書類たちを広げて。
「私の仕事をこれ以上増やすようなことはするな」
最後の一瞥すらもエドワードによこさず、マスタングは、右手にペンを執った。



鋼のは、何か知っている。
インクの滑りの悪いペン先にかまわず、マスタングは今日最初の書類に署名した。
先程ホークアイと共に部屋を出て行ったエドワードの声が、まだ鼓膜を揺るがしているような気がする。

───中佐を悪く言うやつらを、黙らせる。だから。

鋼のは、何を知っている?
セントラルの動向ではなく。
鋼のは、なぜこの、東方司令部の通信記録にこだわったのだ?
ヒューズの電話の内容を、交換手に確認するためか?
それとも、あの日の…

マスタングの中で、小さな記憶のかけらが、はた、と音を立てて崩れ落ちた。
そのかけらは、喉に刺さる魚の骨のようにマスタングの意識の隅をちくちくと刺したが、すぐにマスタング自身によって闇の彼方に滑り落とされた。
ヒューズの事件に関することなら。
本当は、それこそ、胸倉をつかんででも聞き出したかった。
黙って彼を行かせたのが、ひどい失策であることなど、わかりすぎるほどにわかっている。
それに、ヒューズの事件を追うこととは、すなわち、次の殺害の標的になるということだ。
そんなわかりきった危険の中へ、エドワードをみすみす放した。
エドワードはおそらく、ヒューズが死んだのは自分のせいだと思い詰めている。頭に血が上って、犯人探しに奔走したくなる気持ちもわからないでもない。
マスタングとて、犯人を見つけられたら今すぐこの手で焼殺してやりたいと思っているのだ。
だが、冷静にならねば、何事も成せない。
何事も成せないことを、はっきり先程のエドワードに伝えてやるのが、自分の役目だったはずだ。
だが、マスタングはエドワードと、どうしても関わりたくなかったのだった。
終わらせねばならないのだ。何もかも。
マスタングはエドワードを「契約」から解放し、エドワードもそれに応えた。もうマスタングの許には戻らないと、あの時はっきりエドワードは言ったのだ。
それなのに、こんなに強く終わりを念じなければならないほどに、自分は、エドワードを必要としている。
自らの脆さに、マスタングは呆然とする。
ヒューズを悪く言う『やつら』。
それはおそらく、今、マスタングを監視している人間に近しい者だろう。
その『やつら』が何者か、マスタングが知ってしまうということは、何か───エドワードにとって、非常に都合の悪いことであったのだ。
誰かが、エドワードに情報を与え、それがマスタングに漏れぬよう、口止めした。
しかし、エドワードは、それを言おうとした。
けれども、それを聞いたら。

───それを聞いたら、また私は鋼のと関わらねばならなくなる。

マスタングは唇を噛んだ。
前歯の先で、コーヒーにも湿り切らずささくれた皮膚がきしむ。
ヒューズの情報と、そんな瑣末(さまつ)な意地を天秤にかけて、意地の方をすくい取ってしまうなどとは。
どこまで、自分の精神は呆けてしまっているのだろう。
嘆いても、何も元には戻らない。



「では、ハクロ少将とお約束はなさっていないのですね?」
翌朝、ニューオプティン支部にて。
門前でも、受付でも同じ質問を繰り返され、エドワードは、自分の感情の温度が上がるのを、じりじりと自覚せざるを得なかった。
どうしてもハクロに会わねば気がすまないのは事実だが、前もってハクロに電話などする気になれなかった。
面倒に面倒を重ねた、最後の詰めだ。
「イーストシティに出張中です」なんて間抜けなことはあってくれるなよと、ハクロの在宅ならぬ在支部を願いながら、エドワードは立ったまま、受付前の床をつま先でこつりと鳴らす。

───胸倉をふんづかまえて、怒鳴りつけてやりたい。

すましたハクロの顔を思い浮かべる度に、咆え狂う衝動をエドワードは自分の中でなだめ続けていた。
しかし、幸か不幸か、エドワードは今のところハクロに敵意を持たれてはいない。こちらを敵視していない人間をいきなり怒鳴りつけるのは、どう考えても得策ではない。

───だけど。だけど。

やっていいことと、悪いことがある。
あの卑怯で残酷で、冷淡なマスタングが、ヒューズに相対する時だけは、子供のような目をして、子供のような愚痴を口にした。
そしてヒューズは、エドワードの知らないマスタングを知っていた。友人であるという事情を懇切丁寧に説明されたわけではもちろんないが、見ていればわかったのだ。

───しょうがねぇな。ロイの野郎。

エドワードとの雑談の中で、困ったように笑いながら頭を掻くヒューズの姿は。
あの言い知れぬ不思議な光景は、エドワードの心の片隅に焼きついて、離れずにいる。
いつのまにかこんなにも、ヒューズとマスタングが築いていた関係を、羨望にも似た気持ちで、汚されたくないと願っている自分がいる。
そんな自分までもがひどく不思議で、その不思議さは何かいたたまれないものを含んでいる、とエドワードの思考がその場に着地しかかった時。
「エルリック様。ハクロ少将が、お会いになられるそうです」
ことりと、内線電話の受話器を置いた、受付嬢の声がした。



どうして、こんなに座り心地が悪いのだろう。
どこの司令部のソファも。
その心地悪さに、精神的な要素が影響していることは間違いのない事実だが、それも含めて、このニューオプティン支部のソファの具合は最悪だと、エドワードは思った。
「やはり、冷たすぎたかね?この寒空にアイスティーは。でも、君はお茶なら冷たい方が好みだと聞いたので、冷たくても香り良い種類の葉を選んだんだが」
ハクロの執務室の片隅にしつらえられた、濃いワイン色のソファに座り、エドワードは静止していた。
その姿は、野性の猛獣が、目前に投げられた餌にすぐに手を出さず、餌を投げた人間に警戒と嫌悪をあらわにしているかのようだった。
「ダブリスまで、電話をくれたと聞きました。オレに何の用事ですか?」
その中にストローが差し込まれた大ぶりのグラスは、なみなみと紅く香る水をたたえて、エドワードの目前にそそり立つ。
鋼の腕を上げて、グラスをなぎ払いたい衝動を耐えるのが、エドワードのここでの最初の試練となった。
応接セットから少し離れた執務机からハクロは立ち上がり、今の今まで使っていた机上のインク瓶のふたをゆっくりと閉める。
「それをわかった上で、君は来てくれたと思ったんだが」
ことん、とインク瓶を机上に置き去りにして、ハクロは苦笑いながらエドワードの向かいにまで歩いてきた。
どさりとそこに腰掛け、残念でたまらない、とため息をつく。
「私の君への用件は、いつも同じだ。私の許に来て、君に錬金術の研究を続けてもらいたい。それだけだよ」
「お断りします」
唇以外を動かさぬまま、エドワードは即答した。
不穏な熱を抱きながら、かちりと固まって揺れないその瞳を、ハクロは驚いたようにのぞき込む。
「…どうか、したのかね?何か、私は君の気に障ることでもしてしまったんだろうか?」
イタズラをした幼児にその理由を問うように、優しくひそめられるその眉までが、おぞましい。
エドワードの中の獣が、口を開けた。
「オレはもう、将軍のところに転属する気は、金輪際ありません。あん…あなたが、どんなにオレの機嫌を取ったって、オレの気持ちは二度と変わりません」
「そう決めた理由を、聞かせてもらえないだろうか」
「……………………」
「謝罪するチャンスも、もう私にはないということかね?エドワード君。私は」
「…とぼけるな」
エドワードは低く咆えた。
「あんたは、オレとマスタング大佐をずっと監視してた。あんたには、オレがここに何をしに来たかわかってるはずだ。まどろっこしい芝居はやめろ」
すう、とハクロはひそめた眉を解いた。
優しげだった憂い顔が、信じられぬ早さで生臭い笑みを生成する。
「…君は、マスタング大佐にもいつもそんな口をきいているのかね?」
「黙れ!!」
エドワードが両手でテーブルの縁をつかんだ衝撃で、グラスの中のストローが、ついと角度を変えた。
「大佐は、ヒューズ中佐を殺してなんかいない!!あんたが大総統にでっち上げたことを、今すぐ撤回しろ!!」
「私が何を、でっち上げたと?」
「あんたは、あの事件の犯人をでっち上げようとしてる。大佐を犯人に仕立てて、やっかい払いをしたいんだ。事件の日に、マスタング大佐は東方司令部にいなかった、なんて言い出したのはあんただろう」
ハクロの笑みは崩れない。
エドワードは、怒りに震える喉を鳴らして、大きく吸気した。
「オレは、事件のあの日、司令部に電話して、大佐と話した」
吸いすぎて苦しい息を上手く吐き出せず、エドワードの言葉は途切れ途切れだ。
「確かにあの日だったんだ。交換手がちゃんと大佐に電話を繋いでくれた。だけど、通信記録が残ってなかったんだ。あんたが消した」
「……………」
「交換手は、あんたに言われて、オレと大佐の通信記録を消した、って」
ハクロの笑みが消えた。
「証人が居るんだ。オレがひとこと言えば、失脚すんのはあんただぜ」
空気に言葉をねじ込むように、エドワードの声は低い。
だが。
無表情になったハクロに、すぐさま笑みが戻った。
「エドワード君」
ぬるく腐臭を漏らすその笑みに、エドワードは瞬時、ひるんだ。
「エドワード君。私は本当に、残念でたまらない。誰に何を吹き込まれて、そういう結論に至ったのかは知らないが。君のその推理力は、ただの軍属にしておくには本当に惜しい。今すぐ私の右腕になってもらいたいくらいだよ」
「あんた、ごまかしてるヒマはあんまりないぜ」
「ごまかしてなぞいないがね。……仮に、君のその結論が真実だったとして。君は、大切なことを忘れているよ?」
今度は、エドワードが無表情になる番だった。
「…たいせつなこと…?」
「君が事件の日に、電話で話した相手が、本当にマスタング大佐だったと、君はどうやって証明するのかね?」
「は?」
「人の声色なぞ、どのようにも真似できる。ましてや回線を通じての会話だ。なんとでも身代わりに喋らせられる」
「オレたちは、オレたちしか知りえない話をしたんだ。あれは間違いなく大佐だった」
「しかし、その会話の記録があるわけでもない。君は、ここに来る前に東方司令部に寄って、マスタング大佐と『あの日』の会話の内容を打ち合わせて来た、とも解釈できるが?」
「好きなだけ大佐に聞いてみればいいだろ。カマでもなんでもかけてみろ」
「…その大佐だがね」
ハクロはさらに笑みながら、ゆっくりとテーブルの上で両手の指を組んだ。
「事情聴取に際して、マスタング大佐はこう言っていた。『事件の日に、自分宛ての電話は、ヒューズ准将からの一本だけだった』と」