開錠者 -1-



オレは、あんたのところには行かない。
ハクロ将軍のところにも行かない。
オレはただ、アルと石を探す。

用事は、そんだけだ。




***

国家錬金術師の査定というものは、いつからこんなにものものしく、おおげさになったのだろう。
南方司令部の受付前で、エドワードはあきれていた。
やっとのことでセントラルの病院から退院して、護衛からも解放されて、傷もふさがって。
人体錬成の謎を尋ねようと、ダブリスの師匠のところに着いたとたんに今年の査定を思い出して。
最寄の司令部に飛んで来てみれば、受付でさんざ待たされ、そのあげくがこれだ。
目の前には、屈強な兵士の壁。
わらわらと司令部の奥から出てきて、その数三人。
「査定の有効期間が過ぎたら、どっかへ連行されちまうもんなのか?」
三人のうち、真ん中に立つ少尉の階級章を付けた男に、エドワードは精一杯横柄に問いかけた。
男は、エドワードをその頭二つ分上方からじろじろと眺め回した後、いかにもな愛想笑いを浮かべた。
「とんでもありません。私共は大総統の使いで参りました」
「大総統?」
「大総統は、ただいま南方の視察ということで、こちらの司令部にいらっしゃいます。この機会に是非、鋼の錬金術師殿と話したいとおっしゃられまして。お迎えに上がりました」
「…大総統のいる部屋、教えてくれたら後で行くよ。オレ、先に査定済ませないといけないんで」
「査定の件も、大総統はご存知です。来ていただければその場で済ませるとのことです」
「かー、そんなにテキトーに済むもんなのかよ」
「ではご案内します。こちらへ」
男は、無礼にもエドワードの意向を完全に無視して、エドワードにくるりと背を向け、先に立って歩き始めた。
「え…ちょっと!」
男の背中を呼び止めようとしたエドワードの両脇に、男の部下らしい残りの兵士二人がぐるりと回り込んだ。
軍人独特の訓練された動きだ。
エドワードの身体にこそ触れないものの、その両脇を固めて、どんな小さな動きも見逃さないような鋭い目つきで、歩くように促してくる。

───これじゃ、ほんとにまるっきり、連行じゃねーか。オレ……なんかやったか?

ついに、過去の秘密───すなわち人体錬成の件がばれてしまったのかとも思ったが、マスタングは約束を破る男ではない。彼の嫌味な律儀さを、エドワードはよく知っている。
マスタングの顔を脳裏からすぐに消し、エドワードは、思い当たるふしが多すぎて収拾のつかない自らの悪行の数々を、司令部の廊下を歩きながらしばし悶々と思い起こし続けた。



「やあ。元気そうだね。鋼の錬金術師君」
大総統、キング・ブラッドレイは、上機嫌だった。
革張りの一人掛けソファにきっちりと座り込み、沈み込むその背中を受け止める革は、よく手入れされ、白い光沢を後光のように放っている。
その斜め後方には、やはり壁のように───アームストロング少佐が控えている。
あ、とその存在に気づいたものの、目前の最高権力者を無視するわけにもいかず、視線を滑らせてしまったエドワードを、当の権力者は見逃さなかった。
「ああ、彼かね?このたびの視察の護衛を務めてもらっている。君たちは、面識があったんだったな。アームストロング少佐?」
「…はい」
短く返答するアームストロングの顔は、どこか青いような気もする。
いつもなら、会ったとたんに濃厚すぎる親愛の情を示してくれる国軍少佐が、大総統の手前とはいえ、エドワードに微笑みひとつよこさない。

───今日は少佐、身体の具合でも悪いのか?

自分が「連行」されてきたという不安も一瞬忘れて、エドワードは内心で首をひねった。
ソファに座るように勧められ、二人分のお茶が絶妙なタイミングで運ばれてきて。
ここのソファは柔らか過ぎて尻の据わりが悪くてしょうがない。会話の先が読めない余りにエドワードの思考は余計な方向に飛んでいきそうになったが、ブラッドレイが始めたのは、単なる世間話だった。
ダブリスへ来た理由。
ダブリスの師匠の様子。
ブラッドレイの質問によどみなく答え、さらに促されて、給仕されたティーカップの華奢すぎる持ち手を、エドワードがつまんだ時。
ふ、とアームストロングが身じろぐ気配があった。
何気なく目を上げると、背後で数人の足音がする。
エドワードは思わず振り向いた。
ドアの前で、今まで室内にいた兵士数人が集まり、こちらに向かって敬礼している。
正確に言うならば、彼らは部屋を出て行くため、エドワードの向こうに座するブラッドレイに挨拶したのだ。
彼らを外へ押しやるようにドアが閉まると、広い貴賓室には、ブラッドレイとアームストロング、そしてエドワードの三人きりとなった。

───え。人払い?

ティーカップから指を離せないまま、エドワードは首を回して真正面のブラッドレイに向き直る。
「鋼の錬金術師君」
熱湯を浴びせられた氷が、力なく溶けるように、ブラッドレイの声色が変わった。
本題は、ここからだったのだ。
冷たい唾を飲んで、エドワードは答える。
「…はい?」
「突然で申し訳ないが、君に伝えておきたいことがあったのでね。それで、私が無理を言って君にここまで来てもらった」
「何ですか?伝えたいことって」
直立したままのアームストロングの顔が、苦悶に歪んだ。
ブラッドレイを注視する余り、エドワードはそれに気づくこともできない。
ブラッドレイは、エドワードを射るように見つめて、言った。
「先日、セントラルのヒューズ准将…いや、君にとっては中佐、といった方がいいのかな。その彼が、何者かによって殺害された」
かち、とティーカップがソーサーを鳴らす。
「その事件の容疑者として、イーストシティのマスタング大佐の名前が挙がっている」
かちかち、と連続的に鳴り出して、その音は止まなくなった。
エドワードが、ティーカップから、指を離せなくなったのだ。
薄く湯気を立てていた赤い水溶液が、カップの急峻な曲面を伝って幾筋かこぼれ、鳴り続けるソーサーに、ぬるりと溜まった。



ヒューズはマスタングに電話をかけようとして、電話ボックスのそばで殺されたのだと、ブラッドレイは言った。
電話は確かに東方司令部につながり、交換手もマスタングの部屋に電話をつないだところまでは証言しているが、その電話の相手が、本当にマスタング本人だったのか、判然としないというのだ。
その日、マスタングは表向きには休暇を取っており、電話がかかってきた時間が夜遅かったこともあって、その時間にマスタングが執務室に居たことを完全に証明できる者は誰もいないらしい。
加えて、一人住まいのマスタングがその日自宅にいたのかどうかということも、証明できる者がいないというのだ。
「電話には、出たんでしょう?大佐は」
「ああ。交換手が『本人らしき男』に電話をつないだと証言しているが、誰も、マスタング大佐が電話に出ている姿を『見て』はいないのだよ」
「こじつけだ。中佐は…大佐の、友達だった。昔っからの、友達だ、って、中佐が…」
「疑わしきはすべて疑う。悲しいことだがね」
ブラッドレイは、隻眼を細めた。
「若い君にはつらいだろうが、これは、我々の仕事の基本中の基本だよ」
「違う!!絶対に大佐は違う…いや、違い、ます」
「もちろん、マスタング大佐だけが疑わしいわけではない。我々は、ヒューズ准将の勤務状況や、交友関係を幅広く洗っているところだ。それで、君にも来てもらった」
「オレに…?」
「事件の数日前、マスタング大佐は極秘に、セントラルへ行っていたという情報がある。君は、その時大佐に会ったのではないのかね?」

極秘に、セントラルへ。

夕日の消えかかった病室で立ちつくしていた男の姿が、エドワードの体内でフラッシュバックする。
「その時、彼の様子に何か、変わったところはなかったかね?」

───変わったところだって?

ふさがったはずの脇腹の傷跡がひどくうずき、それはエドワードの下腹部全体ををキリキリと締めつけた。
あの時のマスタングは、いつもと変わったところばかりで、エドワードを呆然とさせたのだ。
けれど、それは、ヒューズには関係ない。
断じて関係ない。
関係ないという、これは直感だ。

───まさか、今ここで、オレがまずいことを言えば、大佐はもっと疑われてしまうのか?

全身全霊で憎んでいる男のことを弁護してやる必要はない。
あの男が、軍人としての地位を剥奪されることは、エドワードのかなわぬ望みのひとつだった。
あの男を貶(おとし)める、千載一遇の機会だというのに、エドワードの心の奥底からは、何の力も湧いてこない。
今ここで、マスタングを貶めるということは、そのマスタングを信じていたヒューズをも貶めることになる。
そして。
「死ぬな」と言ったのだ。マスタングは、自分に。
エドワードは視線をテーブルに落とし、固くしかめた眉間を震わせた。
職務とはいえ、マスタングはエドワードとアルフォンスをスカーから救ってくれた。
そして、迷惑千万にもエドワードを抱きしめ、ヒューズ経由で、死ぬな、と言った。
それだけのことが、どうしてこんなに自分を無力にするのだろう。
キリキリと痛むばかりで力の入らない下腹部を、エドワードはそっと手のひらで押さえた。
「鋼の、錬金術師君?」
返答しないエドワードをいぶかしんで、ブラッドレイの目つきが厳しいものになっている。
エドワードは視線を上げた。
まっすぐブラッドレイを見つめて、冷えてしまった唇を開く。
「…何も。大佐に変わったところは、ありませんでした」
ブラッドレイが、またぴくりと目を細めた。
返答する前の沈黙が長すぎて、それが不審に思われたのかと、エドワードはあわてて言い添える。
「本当です。本当に大佐は、あの時いつも通りで」
「ああ、ああ、わかっている。あわてなくていいのだよ」
細められた隻眼がそっと笑みをまとうのを見て、エドワードは肩で嘆息した。
「…閣下」
今まで、彫像のように黙り込んでいたアームストロングが、どうしたことか口を開いた。
わずかにその巨体をかがめて、ブラッドレイに遠くから耳打ちするような姿勢になる。
「閣下。さしでがましいようですが、エドワード・エルリックにおいては、衝撃が大きすぎるお話でした。とりあえず今は、ここまでにされた方がよろしいのでは」
ブラッドレイは横目でアームストロングの声を追い、ひと呼吸後に、小さくうなずいた。
「そうだな。鋼の錬金術師君。つらい話を聞かせてすまなかった。だが、君に知らせないわけにはいかなかったのでね」
「いえ。オレは…」
「事件の捜査は、内々に行っている。ひいては君にも、この捜査については沈黙を守ってもらいたい。たとえ君の上司のマスタング大佐に詰問されたとしても、だ」
「…………」
「マスタング大佐はもう我々の監視下にある。君が大佐に接触して情報が漏れれば、君のことも、我々は容疑者として扱わねばならなくなる。いいかね?」

───大佐に助け舟を出す者には、すべて、監視がつく、ってか?

臓腑にねじり込まれる痛みに耐えながら、エドワードはどうにか声を絞り出した。
「…………はい」
その苦しげな返答を耳に留めて、ブラッドレイは優しく笑んだ。
「時間をとらせて本当にすまなかった。査定の書類は今頃、技術研究局から受付に届いているはずだ。忘れないように受け取ってくれたまえ」



どうやって、貴賓室を出てきたのか覚えていない。
エドワードは、南方司令部の廊下の、喫煙所らしき一隅で座り込んでいた。
初めて来た場所だったが、来た通路を戻ればいいのだ。司令部を出ることはエドワードにとっては造作もないことだった。
しかし。
あまりにも受けた衝撃は大きかった。
考える、ということができないのだ。
ヒューズの顔が、後から後から浮かんできて、思考も意識も奔流のごときそれに押し流されて、何も考えることができない。
自分が今、司令部内のどこを歩いて来たのか、ということさえも。考えられない。

───中佐。

いつまでも終わらなかった、「エリシアちゃん」の話。
おまえもロイも長生きすんぜ、と笑った顔。
病院に見舞いに来てくれた、陽気な笑い声。
第五研究所での出来事を聞いてくれた、真剣な目。

母の墓前に初めて立った、あの時と同じ性質の苦痛が、エドワードの中で目を覚ます。
忘れようと、乗り越えようと、努力してきて、ぐずぐずと身体の芯で腐りかけていた、懐かしい苦痛だ。
粘度の高い水中に居るような、耳にみっちり油でも注ぎこまれたかのような、ふわふわとした浮遊感が、エドワードを覆い尽くす。
浮遊する、苦痛だった。

───違う。あいつが、中佐を殺すわけがない。

苦しく浮遊しながら、エドワードの直感は、同じセリフを繰り返す。
ヒューズ中佐は…オレにかかわったから、殺されたんだ。
賢者の石に、かかわったから。
オレのせいだ。
タバコの焦げ跡の残る椅子の上で、膝に肘をつき、顔を覆って身体を丸めていると。
「エドワード・エルリック。大丈夫かね?」
沈痛な声が、エドワードの上に降ってきた。
巨体の影が、エドワードの膝頭に落ちる。顔を上げなくても、声の主が誰なのかは歴然としている。
「……少佐」
顔を上げるのもつらく、エドワードはゆっくりとアームストロングに合わせた視線をすぐに床へ逸らせた。
「誰が、言い出したんだ。あんなこと」
苦悶の中、痛ましく沈黙する国軍少佐に、エドワードは独り言を投げつける。
「誰が言い出したんだ。大佐が怪しい、なんて。ヒューズ中佐は、大佐を信じてた。どこまで…どこまでヒューズ中佐をバカにしてるんだ。軍のやつらは…!!」
「落ち着きたまえ」
「これが、落ち着いていられるか!!」
「エドワード・エルリック!」
息の混じったささやき声で、アームストロングは鋭くエドワードを制した。
ちょうどアームストロングの背後を通りかかった兵士に、驚いたように振り返られ、エドワードはここが密室でないことをようやく思い出す。
「…ごめん…」
「いや。こちらこそ、このように大事なことを、おぬしにきちんと連絡せず、すまなかった」
「連絡なんて。しかたないよ、オレとアルはいっつもそこらをフラフラしてる、根無し草なんだからさ」
諦めの色濃い笑みを浮かべ、エドワードの唇が小さく緩む。
その笑みを見るなり、アームストロングは不自然なまでに身をかがめ、エドワードの顔をぐいとのぞき込んだ。
「顔色が悪いな」
「は?」
「気分がすぐれないなら、駅まで誰かに送らせるが。大丈夫かね?」
突然、目の前十センチに迫ってきた巨岩のような顔に気圧されて、エドワードは椅子の上でのけぞるようにあとずさる。
「…あ、ありがと、少佐。でももう護衛はまっぴらゴメンっつーか…全然大丈夫なんで、オレ」
「そうか。安心したぞ」
「だ、だからさ。カオ離してくんねーかな」
さらに数センチ後方へのけぞったエドワードの耳に、アームストロングは、小さくささやきを落とした。
「エドワード・エルリック。言いづらいことだが」
突如、色彩の変わったその声色にただならぬものを感じ取り、エドワードはふと身じろぐのを止めた。
「言いづらいことだが、マスタング大佐が人を束ねる器であることを、理解していない輩も軍には多くいる。特に、東部…ニューオプティンあたりではその傾向が顕著なようでな」
ここは、密室ではない。
何を聞こうと、表情(かお)に出してはならない。
エドワードは、硬直しかける自らの表情筋を、内心で怒鳴りつけた。
「申し訳ないが、今、我輩はおぬしにそれしか言えない。では。引き続き、任務なので。我輩はこれで」
「ありがと少佐…ぁうお、いてぇ!!」
不自然なまでに大盤振る舞いの笑顔で、アームストロングはエドワードの背中をどやしつけた。
むせるエドワードを椅子の上に残し、笑顔を装った国軍少佐は、軍人らしくくるりとかかとを軸にして身体を方向転換させ、悠々たる足取りで廊下の彼方へと歩み去る。
その大きな背中を見つめながら、エドワードは怒りの余韻で熱くなった吐息をごくりと飲み込んだ。

───東部。ニューオプティン。

まさか。まさか。
セントラルの病院でブロッシュが手にしていた、菓子折りの包み紙の色を、エドワードはまざまざと思い起こす。

───の、野郎!!

飲み込んだ熱い吐息は、身体中に沁みわたった。


***


──では、ヒューズ准将からの電話を受けた時、お一人だったのですね?
──ああ。
──その日、他に電話はありましたか?
──いいや。
──ヒューズ准将からしか、電話がなかったということですか?
──ああ。そうだ。


***


電話に、雑音が混じる。
受話器をフックに戻したマスタングは、見えづらい遠くの風景を見るように、切れ長の目を細らせた。
この半月近く、ここ執務室の電話にも、自宅の電話にも、会話の際に同じような雑音が混じり続けている。
ヒューズの事件以来、軍が通信システムの監視を強化したのかとも思ったが、上からそんな通達は来ていないし、何より、司令部の他の部屋の電話で話す時は、こんな音はしない。
いち早く異変に気づいたホークアイが、上に報告しようと提案してきたのを押しとどめたのは、ほんの数日前のことだ。
ホークアイは、ヒューズを殺した一味が、今度はマスタングを狙っているのではないかと不安がっている。
気の毒なほどに、彼女はマスタングの側を離れようとせず、日増しにその視線は張り詰めたものになってきた。

───「大丈夫だ。目立った動きをしなければ、まだ何も起こらない」。

余りの緊張ぶりに、マスタングの方がホークアイをなだめざるを得なかった。
ヒューズの事件についての情報は、あまりにも少ない。
わかっているのは、
犯人が軍支給の銃を持っていたこと。
犯行を助けた、複数の人物がいること。
軍の上層部と、賢者の石が関わっていること。
たった、これだけだ。
不名誉な身内殺しの事件として、軍部は徹底的に緘口令をしき、軍内でも事件のことを口にするのがはばかられるような雰囲気になっている。
情報も、切り札もないこの状況で、犯人たちがわざわざ自分から「マスタング大佐」目指して盗聴器を仕掛けてくれたのなら、それを利用しない手はない。

───自分から、相手の餌になるおつもりですか?

その通りだ、と答えた時の、ホークアイの険しい表情を、マスタングは思い出す。
心底、心配してくれているらしい。
もう少し以前なら、嬉しい、という感情もあったかもしれないが。
心が、動かない。
既決ボックスに放り込みかけた書類に、ろくに目を通していなかったことに気づき、マスタングはペンを置いて再度そちらに手を伸ばした。
ヒューズの葬儀以来、マスタングは密かに悩んでいた。
どうも、視覚聴覚以外の感覚が、鈍くなっているようなのだ。
目ははっきり見えているし、他人の会話を聞き逃すようなこともない。
だが、口の中が妙に湿っぽいと思ったら、コーヒーか何かで火傷したらしい舌が膿んでいたり、コートも持たずに晩秋の川辺を巡回して、寒くないのかと周りにあきれられた後に風邪をひいたりと、痛覚と温度感覚に問題が生じているらしい。
味覚も、心なしか鈍いような気もする。火傷するほどのコーヒーなど、いつ飲んだのか覚えていない。
痛覚と温度感覚が鈍いと、頭の中もどうかしてしまうらしい。
嬉しいなどという感情は、きれいさっぱり、どこかへ行ってしまった。

───盗聴か…

わかりやすすぎるこの罠をしかけたのは誰か。
こんな初歩的な方法では、相手もこちら側に盗聴がばれていることなど、承知の上なのではないか。
電話が、嫌いになりそうだ。
いや、前から特に好きだったわけでもないが。
長電話が大好きだった友人を思い出し、喉の奥が冷えるようなその記憶を、マスタングは口の端でいびつに笑みながら、ねじ伏せた。
やはりスムーズに頭の中に入ってこない書類の内容をまた読み返そうとして、ふとひとつの予想に至る。
 
 ───電話を受けた時、お一人だったのですね?

ヒューズの事件の事情聴取を担当していた憲兵の、あの顔と。
この電話の雑音に、何か関係性はないか?

知らずに舌を火傷するほど味覚が呆けていても、自らを監視する相手を嗅ぎ取る本能は、まだ、マスタングの中にわずかながら残っていた。