平和をもたらすもの -2-



研究室で、アルフォンスは、エドワードを徹底的に避けた。
その巧妙な回避に、腹が立つほどだった。
腹を立てる権利が自分にあるのかどうか定かではなかったにもかかわらず、エドワードは腹を立てた。
早くアルフォンスに詫びてしまいたいという焦りが、立腹を連れて来たのだろう。
早朝からどこで時間を潰していたのか、メンバーの集合時間ぎりぎりに研究室に現れたアルフォンスは、試作品の燃料費調達についてひとしきり嘆いた後、もっと効率的なエンジン稼動方法を追求したいと、自分で自分の首を絞める提案を持ち出した。
ロケットの心臓部分である、エンジン設計を担当するアルフォンスから、そんなことをもちかけられれば、周囲はそれに耳を貸さないわけにはいかない。
だが、実際にロケットを組み立ててみるにあたって、当面はこれでいこうと、ついこの間、現在の設計図に最終的なゴーサインを出したのもアルフォンスだ。
燃料費調達は、メンバーの誰にとっても頭の痛い問題であったので、エドワード以外の人間はアルフォンスの提案を言葉通りに受け取っているようだった。
だがエドワードは納得がいかない。
おい。
エンジンは、オレも、設計してたんだぞ。
それを、一言もなしに、全部自分で引っ被ろうってのか?
自分で自分の仕事を増やして、仕事抱え込んだまま、オレを置いてきぼりにする気かよ?
「…エド。エドは、それでいいのか?」
仏頂面寸前の顔を、悟られたらしい。
メンバーの一人が、エンジン改変について、エドワードの意志を確認してきた。
目の前の設計図に対してでなく、自分を見ないアルフォンスに腹を立てていたエドワードは、不敵に笑みながら、いつになく低い声で返答する。
「ああ。かまわないぜ」
設計図越しの威嚇は、ことのほか効いたようだ。
アルフォンスは良くない顔色をさらに青くし、それを糊塗するように、エドワードから目を逸らして、その場の皆に見せるための笑みを、ぎこちなく頬に浮かべた。

夕刻。
皆が帰り支度を始める中、エドワードは声を張り上げた。
「アルフォンス!!」
注目が、エドワードに集まる。
その注目を故意に無視しながら、エドワードはさらに声を張り上げた。
「帰るの待ってくれ!エンジンのことで、ちょっと訊きたい」
エドワードとアルフォンスの態度が微妙におかしいのに気づいていた数人のメンバーは、内心でそれぞれ胸を撫で下ろした。
彼らにとっては、「おかしいんじゃないか」と当人たちに進言するほどのおかしさではなかったため、あえて今日一日、見ないふりをしてきたのだった。
この二人の、ロケット設計についての意見の衝突は今に始まったことではない。その衝突が、ここで解決されるのなら万々歳なのだ。

嬉々として帰り支度をする皆の中で、ぽつんと一人。
アルフォンスは、観念して、言った。
「ええ。何ですか?」




まだ春も浅い。
このミュンヘンという都市に、日が落ちるのはそれほど早くない。
エドワードが、エンジン稼動効率化をその頭のてっぺんからつま先まで、舐めるような細かさで延々とアルフォンスに説明させているうちに、緩やかに傾いた日は、研究室の大きくない窓を真横から照らし始める。
メンバーの最後の一人が帰宅し、ドアが彼の後ろ手でぱたりと閉められたとたん。
「…だから。液体燃料にこだわりたいのはわかりますが」
「アルフォンス」
これまでとは全く違う声色で話をさえぎられ、アルフォンスは機械的に沈黙した。
回避してきた事態がとうとうやって来たのだ。
「こっち見ろ。アルフォンス」
大きな作業台の上に設計図を広げ、台のそばに並んで腰掛けているエドワードが、首をひねってこちらをのぞきこんでくる。
「オレはゆうべのことは怒ってない」
単刀直入な話の切り口に、アルフォンスは思わずエドワードの瞳を見返してしまう。
「おまえが今日、こっち向かねぇから怒ってんだ。オレ、寝ぼけて、おまえにそんなひでぇことしちまったのか?ゆうべのこと、オレあんまり覚えてねぇんだよ」
何度見ても綺麗だと思う、その金の瞳には、怒りではなく、優しげな翳りがにじんでいる。
アルフォンスは少なからず驚いた。

───エドワードさんは、僕がしたことを、覚えて、ない?

その驚きの中から、どうしようもなく安堵が湧いてくるのを自覚して、ゆうべから数えて何十回目かわからない自己嫌悪に陥る。
ずうずうしく安堵するのは早い。
何度でも、自分はエドワードに謝らねばならない立場なのだ。
アルフォンスは息苦しいほどの感情を抑えて、真横に座す、金の瞳から放たれる視線に耐えた。
「オレが寝ぼけて、おまえになんかしたんだろ?おまえがそれでショック受けてんなら、謝る。ごめん」
エドワードが寝ぼけていようと覚醒していようと。
その彼に「乱暴」を働いた、アルフォンスの事実は変わらない。
「……いえ。謝らないと、いけないのは、僕です」
声がうまく出なかった。
さっきあんなにしゃべっていたのに。
口の中がからからだ。
ごまかそうと思えば、いくらでもごまかしてしまえる。
そしてその方が、きっと波風は立たない。
それでもアルフォンスは、事実を偽ることが出来なかった。
偽りたい、と薄汚く思う気持ちを、今ここで潰しておかなければ、これから後、エドワードに、もっと顔向け出来ないような気がした。
だが、エドワードに真実を告げることは、この穏やかな友人関係を終わらせることになる。
不埒に好かれている、と。
いつも触れたくて、抱きしめたくて。それ以上のことも望んでいるなどと、エドワードに知られれば、これまでの平穏は一切、崩れ去ってしまう。
偽っても、偽らなくても、彼に顔向け出来ないならば。
「……僕は」
やはり、告げるしかない。
「僕は、エドワードさんが、好きです。仲間、という意味じゃ、なく」
エドワードが呼吸を止めたのがわかった。
だがもうそちらを見ることが出来ない。
「だから……ゆ、うべ。キスしたんです。あなたに」
ごめんなさい、と続けて。
席を立って逃げることも出来ずに、アルフォンスは目前の設計図に苦しく視線を落とした。

───言ってしまった。

もう言葉は戻せない。
迷路のように、アルフォンスの後悔は果てしない。
なんて、軽率だったのだろう。
なぜエドワードが自宅に帰っていないことを、不謹慎に喜んでしまったのか。
なぜ考えもなしにエドワードを家に招き入れたのか。
研究室に仮寝するエドワードを見つけてしまった時点で、何もかもこうなる運命だったのだろうか。
いや違う。
ゆうべ、自分が、もっとしっかりしていれば。
もっと、耐えられたら。
こんなことにはならなかった。
やはりごまかしてしまえばよかった、と、アルフォンスの意識が本能に傾きかけたその時。
アルフォンスの視界の端で、結わえた長い髪が、ふいと身じろいだ。
「べ、つに。その。謝ることじゃねぇだろ…?」
さっきまで、にじり寄る迫力でこちらに向けられていた視線の圧力が消えた。
エドワードが、視点を定めかねている。
それが何を意味しているのか、わからない。

あやまる、ことじゃない?
それは、どういう意味?

あんなキスなど、エドワードには日常茶飯事で。それが「事故」ならば、誰に口付けられようと平気だと、言いたいのか。
それとも。
受け入れるかどうかは別にして、そのように「想われて」いても、かまわないと言っているのか。
いたたまれない時間は、短い方がいい。
アルフォンスは冷えきる肺にどうにか息を取り込み、言葉を続けた。
「迷惑なら、言ってください。そうしたら、僕はエドワードさんの希望通り、エドワードさんから離れますから」
ぴくりとエドワードの顎が震えた。
「あ。研究を投げ出す、っていう意味じゃないですよ?そっちはもちろん今まで通りにやるつもりです」
嫌な緊張でアルフォンスの意識は凍えていたが、なんとか唇は動かせた。自分のその理性に、アルフォンスは小さく息をついて、硬直した沈黙の中、エドワードの返答を待った。
沈黙は、エドワードにも緊張を強いているようだ。
不思議にも、それが、どこかしら嬉しい。
即答して、一刀両断にするのでなく、エドワードは言葉を選ぼうとしてくれている。
その返答が好意的なものである確率は限りなく低いが、エドワードが、困惑しながらもなんとか自分に配慮しようとしてくれているのが、アルフォンスは嬉しかった。
作業台に、肘から先の腕をふわりと乗せて、エドワードは何か念じるように、両手の指を組み合わせる。
「め、迷惑とは、思わねぇけど」
義肢だそうな右手の指を、ゆっくりと左手の甲に着地させながら、落ち着かなげに、うつむく。
「おまえが、そういう意味で、オレに何か望むとしても。ワリイけど、それには応えられない」
それはやっぱり、迷惑ということではないのか?
エドワードの煮え切らなさは嬉しいが、中途半端は辛い。
アルフォンスは覚悟を決めて、確実に自分に痛みをもたらすだろう問いを、ようやっと投げかける。
「僕が…男だからですか?」
「いいや」
その間髪入れない返答は、アルフォンスを幸福な混乱に突き落とした。
にわかには信じられない。
望みは、ゼロではないのだ。
性的嗜好の時点で拒否されては手も足も出ないが、エドワードは暗に、恋愛の相手が男でも構わないとほのめかしている。
「オレは。大事な人間を、故郷に置いて来た。そいつがいる限り、オレは。…誰も、好……きに、なれない」
羞恥なのか、ためらいなのか。
エドワードの声はらしくもなく、消え入りそうだ。
アルフォンスの幸福な混乱は、すぐに絶望を呼んだ。
最も重大な問題をクリア出来ても、二番目に重大な問題は、すぐに降りかかってくる。
あれほど故郷へ帰りたがっていたエドワードの心の中に、弟以外の人間「も」住んでいると、どうして予想出来なかったのか。
エドワードに真意を吐露することは、アルフォンスにとって、今まであまりにも高い障壁であったため、それを超えられた後のことが考えられなかったとはいえ。
しかし。
混乱しながらも、アルフォンスは爽快感すら感じていた。
現在のこの状況では、エドワードを諦めなければならないことは確実だけれども。
これから先は、どうなるかわからないのだ。
誰の身にも、平等に未来は不確定だ。
そして、諦めずに待っていれば、あるいは何か行動を起こせば、エドワードが変わってくれる可能性はゼロではないのだ。
ついさっきまで、思考の袋小路に頭を突っ込んで、鬱々としていたのが嘘のようだった。
行き止まりではない。
その道が1メートル先で終わるのか、何千キロも続いているのかはわからないが。
道は、まだ先に続いている。




奇跡的に、言ってしまった。
不随意に震える吐息をアルフォンスに悟られまいと努力しながら、エドワードは、作業台の上で組んだ指に力を込めた。
これだけは、どうしてもアルフォンスには言いたくなかった。
こちらの世界の人間に興味がない、というまぎれもない真実は、真実であるがゆえに、決して口にしてはいけないとエドワードは自戒してきた。
動転が、簡単に戒めを破ってしまったのだ。
何もかもがいきなりで、思考がうまくまとまらない。
あの律儀なアルフォンスが、下心を持って自分を自宅に招くなどとは、考えたこともなかった。
たとえアルフォンスが自分に恋心を抱いていたとしても、彼は、持ち前の真面目さと、最後の最後の押しの弱さから、かえってそんな行動には踏み切らないだろうと、勝手にタカをくくっていたのだ。
エドワードの想像以上に、このアルフォンスは真面目な男だった。
その真面目さを甘く見ていた。
とにかく自分の謝罪を押し付けて、昨晩の事態を丸め込んでしまおうとしていた自らの無意識に、エドワードはようやく気づく。
ゆうべ。
途中から、目は覚めていた。
ぐらりと目が回って、枕に後頭部を強くぶつけて。
誰かに肩を押さえつけられているのがわかって、声を出そうとしたら、柔らかいもので唇を塞がれて。
ここはピナコばっちゃんの家でもなく、イーストシティの宿でもなく、マスタングの家でもなく。
ここがどこか、という、覚醒直前に湧く日常的な疑問を瞬く間に脳内で解決して、なぜか惰性にも似た気持ちで、されるがままに唇を犯されていた。
眠気に痛む頭の隅で、やっぱり、そうだったのだと思っていた。

やっぱり。
アルフォンスの気持ちを、上手く阻止出来なかった、と。

温かい、アルフォンスの舌の感触が、もどかしくて、苦しくて、懐かしかった。
舌を探るキスなど、もうずっと、していなかった。
驚愕は心地良さに縁取られ、取り込まれ、背徳感を伴ってじりじりとエドワードの味覚を浸していった。
今のこの事態は、あの心地良さを、なかったことにしようとした、報いなのかもしれない。

「真面目な」アルフォンスは、座ったまま、ぎっちりと自らの腿を両手で握り締めて、これまた予想外に、エドワードを見据えてくる。
「その人は、あなたに、誰も好きになるな、って言ってるんですか」
「いいや」
「…それなら」
かすかにかすかに気色ばんだ、アルフォンスの言葉を、エドワードはすばやく封じる。
「あいつには何も言われてねぇ。そんな話、するヒマもなかった。オレが単に、自分でそう決めてるだけだ」
ちく、と、アルフォンスの喉に、何かが刺さる。
口から取り出すことも出来ない、その不愉快なものの正体は、アルフォンスの中で、あっという間に明らかになってしまう。

妬みだ。

あいつ、という、その親しげな呼びかけが。
エドワードにそう呼ばれている人物が、妬ましい。
自分だって、どこかの場面でエドワードにそう呼ばれているはずなのだが、それとこれとでは、全く意味が違う。
「決めないでください、って、言ったら。怒ります?」
「決める、っていうのとは、違ったかもな。選ぶ余地もなんもねぇ。オレにはそうとしか思えない、それだけなんだよ」
アルフォンスは、両の親指を、さらに強く腿に食い込ませた。
「………わかりました」

───嘘だ。

指は腿に食い込み、作業台の下でその表面に影を作る。
その影に、アルフォンスは心の声を落とす。

嘘っぱちだ。
わかってなんかいないし、わかりたくもない。
わかれない。
わからない。
この人を、「故郷」になんか、帰したくない。
ずっと、ずっとここにいて欲しい。
エドワードさんがどうしても帰れないのなら、その故郷は、無いに等しいのに。
時間が経てば、どんなに強い気持ちだって、変質しないとは限らないのに。
自分で自分の決め事に閉じこもるのは、やめて欲しい。

エドワードを好きだと思う、その自分の心も変わるかもしれない、という普遍的事実の片面に、少年らしく気づけないでいるアルフォンスは、いらだった。
「あの。ぶしつけだとは、思うんですけど。エドワードさんが、故郷に帰れない理由を、訊いてもいいですか」

───そんなに大切な人が居るのに、なぜ帰れないんですか。

非難を含んだ心の声を、プライドにかけて飲み込んで。
アルフォンスは、作業台の上で組まれたエドワードの指が、弱った昆虫のように鈍くうごめくのを、じっと見つめた。




なぜ故郷に帰れないのか。
この、弟に似た、素直な少年に。
どうやって、それを説明すればいいのだろう。
エドワードは途方にくれた。
嘘をつくのは簡単で、面倒だ。
けれど、自分が妄想狂と思われない範囲で、「あちら」のことを正確に説明しきれる自信もない。
自分の出自に対する質問を、アルフォンスが避けてくれているのはなんとなくわかっていた。その察しの良さに甘えてここまでやってきたが、アルフォンスを離したくないならば、彼と適度に親密でいたいならば、やはりこれは避けては通れない関門なのかもしれない。
「オレの故郷は、」
狭くなる自らの気道を、エドワードはごくりと唾を飲んで、広げた。
「オレの故郷は、今の、こちらの、科学的な…物理的な手段では、どうやっても帰れないところにある」
「扉」を抜けてきて、一年。
故郷についてのことを、「こちら」の誰かに話すのは、初めてだった。
はた、とこちらを見据えたアルフォンスの瞳が、窓からの光を吸って、きらりと白く光った。
「どういう…ことですか?」
光った瞳の空色が、疑問に揺れる。
「物理的に、って……あの。船でも、鉄道でも、飛行機でも…行けない、ってことですか?」
「ああ」
「軍事的な境界線の、向こうの国…なんですか」
「いいや。違う。オレの故郷は、こちらの地図の、どこにも載っていない。載っていた記録もない。こちらとは、物質のありかたも違うというか…全然違う科学技術が、発達してて………おまえがそれを嘘だと思うなら、そう思っててくれていい。けど」
アルフォンスの瞳に、虚実入り混じった疑問がぐるぐると湧いてくるのを見るのが嫌で、エドワードは組んだ自分の手に視線を戻した。
あの父が、限りなくエドワードの肌の色に近づけて作ってくれた、右手の人工皮膚が、ひどく白っぽく見える。
この右手は、こんな色でなく。
あの、深い鋼の輝きを溜めていてくれた方が、どれだけ落ち着くことか。
父の技術に感謝しながらも、エドワードは、オートメイルと呼ばれていた、鋼の義肢への愛着を断ち切れずにいた。自らの罪の象徴であったあれに執着するなど、オートメイルを着けたばかりの頃は想像もつかなかったことだが、優しい幼なじみが作ってくれたあの手足は、あちらで旅をしていた数年の間、エドワードの手足以上の手足になってくれたのだ。
「オレは、ここじゃないその世界から来て、そこへ帰りたいと思ってる。真剣、に」
忘れることなど、出来ない。
美しかった鋼の手足も、幼なじみも、「あいつ」も。
弟も。
みんな。
「オレが、この世界の、空間の構造をもっとよく調べれば…帰れるんじゃないか、と思ってる。地上から帰れないなら、宇宙にどこか、あちらへの入り口があるんじゃないか、って」
「……だから…ロケットの研究を?」
おずおずと、だが明晰にアルフォンスは問いかけてくる。
「ああ」
アルフォンスの問いを肯定しても、エドワードはまだ顔を上げることが出来なかった。
ちらりと、隣の膝の上で固まっている、アルフォンスの指を見やるのが精一杯だ。
「怒んねぇのか?」
「どうしてですか?」
「オレは、おまえや、研究室に来てるみんなとは全然違う目的で、ロケットを作ってる。純粋に、ロケットや、機械いじりが好きなわけじゃない」
「でも、エドワードさんは…楽しそうに見えましたよ。今まで」
「そりゃな。オレの目的を抜きにしても、み、んなで……わいわい何か作んのは、楽しかったよ」
「過去形にしないでください」
「あ。ワリイな。でもおまえだって過去形だったぞ。『見えました』なんて」
「…すみませんね」
皮肉っぽい応酬ではあったが、なぜか笑えた。
やっと顔を上げて、アルフォンスと小さく苦笑し合いながら、エドワードは言えなかった言葉を、腹の奥底深くに落とし込む。

みんなで、ロケットを作るのが楽しかったんじゃない。
アルフォンスと作るのが、楽しかったんだ。

だが今、それを言ってはならない。
そのぐらいの分別を保つ力は、エドワードの中に、まだ存在していた。




とんだ言い逃れも、あったものだ。

皮肉の応酬に苦笑しながらも。
アルフォンスは、エドワードの真剣さと、エドワードの話の突飛さのどちらに信頼の照準を合わせていいのかわからないでいた。
行き場の無いいらだちは、疑心暗鬼に変化しつつある。
自分の出自や、故郷に帰れない理由をどうしても話したくないがために、エドワードはそんな作り話をしているのかと思うと、アルフォンスは何重もの意味で悲しくなった。
真実を話すに足る人間だと思われていない悲しさと。
そんな作り話をさせて、結果的にエドワードを苦しめてしまった後悔と。
無理やりに出自を尋ねて彼を困らせてはいけないと、ほんの数日前にも自分を律したところだったのに。
その一方で、妙な符合も感じる。
エドワードの突拍子も無い故郷の話が本当だとすると、アルフォンスの知る限りのエドワードの行動に、全て納得がいくのだ。
尋常でない弟への執着や、無宗教を自認していること。
昨晩うなされていた彼が口にした、聞き慣れない言語。
難解な数学や化学式はこなすくせに、ごく基本的な物理学を理解しきれていないふしがあること。
非凡といってもいいひらめきで、ロケットの設計について研究室をリードしてくれるエドワードの理論は、完璧なように見えてどこか危なっかしかった。
その危なっかしさを常に指摘してきたアルフォンスは、誰よりも、エドワードから発せられる「違和感」に近いところにいた。
「だから。これからも怒んねぇで、研究につきあってくれると、ありがたいって、思ってる」
何かを諦めたような、透明感のない笑みを、エドワードは唇の端に浮かべる。
アルフォンスの信頼を得ることなど最初から諦めているような、自分の言っていることは誰にもわかってもらえないと寂しく自閉しているような、そんな笑顔だった。

───とても、信じられないけれど。

そんな、顔をされては。
どんなにそれが荒唐無稽であろうと、たとえそれが言い逃れのための大嘘であろうと、そんな顔を見せられては、このエドワードの話を否定することは出来ない。
アルフォンスは思った。
「もちろんです。つきあいますよ。どこまでも」
この心臓の痛みが、こうして笑み返してみた顔に、出ていなければいいのだが。

───エドワードさんは、僕から、僕らから逃れるために、ロケットを作ろうとしているんですか?

アルフォンスの悲痛な質問は、アルフォンスの胸中に響くのみで、当然ながらエドワードには届かない。
漂っていた緊張が緩んだのに安心したのか、エドワードは固く組んだ指を解いて、椅子代わりの木箱に腰掛けたまま、左手でズボンのポケットを探る。
そして、掴み出した小さな鍵を、同じく隣に腰掛けたままのアルフォンスの胸元に差し出した。
「これ。返す」
「……あ…」
「昨日とおととい、ありがとうな。泊めてくれて」
「………」
「おまえにこれ以上迷惑、かけねぇようにするよ。これからは」
おまえの家にはもう行かないよ、と。
実質的な拒絶を浴びせられて、アルフォンスは差し出された鍵に手を伸ばせずにいた。
自業自得、と言ってしまえばそれまでだったかもしれないが。アルフォンスは自分自身にも、エドワードにも、最後の抵抗を試みる。
「別に…迷惑なんかじゃないです。そんなこと言って、どうせ、エドワードさんは自分の家には帰らないんでしょう」
「帰るよ」
「信用できません」
「おまえなぁ…」
焦れたような手つきで、エドワードはかちり、と、鍵をアルフォンスの真正面の、作業台の上に置いた。
困惑なのかいらだちなのか、よくわからない長いため息がその鼻から吐きだされる。
「じゃあオレも言うけど。おまえは、おんなじ家の中で、片思いの相手とずーっと一緒に顔突き合わせて、話したりメシ食ったりしてて平気なのかよ?」
「…それは」
「オレはあんまりそっち方面に気ィ遣ってやれねぇし」
「…そっち方面って何ですか」
「オレに言わせんのかよそれを」
「言ってくれないとわかりません」
「だから……ああもう、くそ!」
いらだちをまぶたで押し潰すように目をつぶり、エドワードは木箱から立ち上がる。
そして、慌てたように見上げてくるアルフォンスの両脇を、不意打ちともいえるすばやさで抱え上げた。
「わっ!」
何するんですか、と言う隙も与えられず、強制的に立ち上がらせられたアルフォンスは、よろめいてエドワードに倒れかかった。
何もかも計算済みだという動きで、エドワードは自らの肩に回されたアルフォンスの両腕の、肘あたりをがっちりと捕まえる。
どん、と、こぶしで殴られたかのように、アルフォンスの胸が強い鼓動を発して痛んだ。
自分から進んでアルフォンスの腕の中に捕らわれてみせたエドワードは、担いだアルフォンスの腕から両手を離さないまま、不機嫌に、彼が赤面していくのを見守る。
「だから。オレと接近してて平気でいられないなら、おまえが辛いばっかりだろ。意地張んのはやめろ」
「……あなたは。平気なんでしょう?」
「そりゃオレは」
真っ赤になりながらも折れないアルフォンスに、エドワードはひるんだ。
まっすぐアルフォンスを見上げていた顔を、逸らそうとした時。肩に担いでいた腕が、逆襲を仕掛けてきた。
「う…!」
予想していなかった力で抱き寄せられ、アルフォンスの胸板に鼻をぶつけたエドワードは、痛みに息を詰まらせた。
「それなら。意地を張ってるのは、あなたの方でしょう?」
アルフォンスの肋骨に、その心臓の鼓動が反響している。
どくどくと早い振動は、エドワードの耳に、至近距離からねじ込まれて来る。
「あなたが平気なら。僕は構わないんです。あなたがこんな寒い部屋で寝起きしてるのを放っておく方が、僕には耐えられない。あなたが僕に応えられないことはわかってます。だからあなたは僕にそんなことで気を遣う必要はないんです。それに……あなたはかよわい女の子じゃない」
背中に回された手が、こぶしを握りしめるのを感じて、エドワードは身体をこわばらせた。
そのこわばりに気づいたのか、アルフォンスは腕の拘束を解いて、エドワードの両肩に手を置き、そっとエドワードを胸元から引き剥がした。
腕をいっぱいに伸ばして届く距離まで、緩やかに後ずさりさせられ、エドワードは言葉もない。
「もし僕が、変な気を起こしたら…僕を殴るなり、突き飛ばして逃げるなりすればいいんだ。あなたは非力じゃない。そう出来る力を持ってる。何を心配することがあるんですか?」
怒りに、嘆きに、プライド。
その全てをごちゃごちゃに煮詰めて、優しさの皿にぶちまけて。
頬を悲愴に紅潮させる目前のアルフォンスは、どこもかしこも温か過ぎて、憎しみすら湧いてくる。
安価な憎しみが全く見当違いのものであるとわかっていても、エドワードはその感情の噴出を止められなかった。
絶句したエドワードの肩から、アルフォンスの手のひらが離れ、鈍い鈍い動きで、あるべき場所へ戻っていく。
それを、悲しいなどと、思ってはならない。
絶対に。
「僕が怖いんですか?」
身体の接点は簡単に消滅し、温か過ぎる声と、温か過ぎる空色の瞳だけが、真正面からエドワードを刺す。
「ああ。怖い」
その答えは、エドワードにとって方便であり、この場からの、非常に確実な逃亡手段であり。
そしてまぎれもない、真実だった。
アルフォンスの温かい挑発になど、乗らない。
乗ってなどやらない。
乗れば終わりだ。
乗ったが最後、自分はアルフォンスに甘えつくし、食いつくし、取り返しもつかないほどに彼を深く傷つけるだろう。
エドワードは胸中で身構える。
ごく単純な孤独と寒さに、あっさり一度負けてしまった自分の弱さを、これ以上アルフォンスに押し付けてはならない。
アルフォンスに、屈託の無い笑顔を二度と向けてもらえなくなったとしても、ロケットに関わっている限り、彼はエドワードの側にいる。
アルフォンスを「失くす」わけではないのだ。
身近な人物を喪失する辛さを嫌というほど知っているエドワードは、懸命に、自らの弱さに向けてそれを説いた。

───エドワードエルリック、おまえは。

おまえはどこまで都合良くアルフォンスを扱えば気が済むんだ。
笑顔が欲しい、でもこれ以上近づいてきて欲しくないなんて、こうなってしまった以上、そんな都合の良い希望が、かなうわけがないだろう?
失くさないでいられるだけで、充分だろう?
優しくしてもらいたいだの、笑顔が見たいだの、そんな贅沢で傲慢な要求は、アルフォンスの存在を失くすことに比べたら、ささいなことだ。
「…オレは怖いよ。おまえが。だからおまえの家には行かない」
確実に成功するはずだった挑発を覆されて、唇を驚愕に緩めたまま、まばたきも出来ないでいるアルフォンスに、エドワードはとどめを刺した。
悲しみなのか、怒りなのか、その両方なのか、空にも水の色にも似たアルフォンスの虹彩は、じっとりと赤く、充血に縁取られてゆく。
紅潮していた彼の頬は青く冷め、身体の熱が全て目に注がれてしまったかのようだ。
もう、見たくない。
泥水にも似て重い空気を、渾身の力で掻き分けて、エドワードはアルフォンスに背を向けた。
沈黙が槍になって、何本も何本も背中に刺さる気がする。
その鋭い痛みを、息を飲んでこらえて、壁の釘に掛けていたコートを取る。
「じゃあ。また明日」
エドワードは振り向けなかった。
不愉快に湿ってしまった手で、ドアを開ける。
安普請のはずのドアノブが、舌打ちしたいほどに重くてたまらなかった。




夕食も喉を通らなかった。
くだんのエンジンの設計図を、書き直しても書き直しても、引いた鉛筆のラインが歪んでいるような気がする。
粗悪な消しゴムで紙が汚れてくるのにいらだって、アルフォンスは設計図を机から引き剥がして背後に放り捨てた。
大きな鳥が羽ばたくような音を立てて、それが床に着地するのを聞きながら、昨日したのと同じように、椅子に座ったまま、冷たい机上にずるずると顔を伏せる。
窓の外はもう真っ暗だろう。

───夕方、あの人はああやって、僕の手前帰ってみせたけど。

エドワードはまた、研究室に舞い戻っていることだろう。
自分がこの家で、元通りぬくぬくとベッドで眠っている間も、エドワードはあの冷たい部屋で凍えているのだ。

───怖い、だなんて。

エドワードの静かな口調をまた思い出して、アルフォンスは机上に上半身を投げ出したまま、頭を抱えた。
売り言葉に買い言葉、という雰囲気ではなかった。
エドワードは、あの場から逃れるためだけに、あんな言葉を口にしたのではない。
確信出来てしまうのが、悲しかった。
おそらく。
ずっと前から、エドワードはアルフォンスの気持ちに気づいていたのだ。
弟のいない寂しさから、あからさまにアルフォンスを遠ざけることも出来ず、かといって、必要以上に接近することも出来ず。
ずっと、エドワードは困っていたのだろう。
彼を困らせていることにも気づけなかった自分の鈍感さに、アルフォンスは歯噛みした。
困っている素振りを見せることなく、自分に接してくれていたエドワードの気遣いが、いとおしくて、腹立たしかった。
何でもすぐに顔に出る、まっすぐでわかりやすい人だと思っていた。
それは完全に、間違いだったのだ。
毎日見つめているだけで、エドワードの考えをほとんど理解したように思い込んでいた自らの傲慢さを突きつけられて、アルフォンスはその場でのた打ち回りたいほどだった。
しくしくと痛む胸の底から、次から次へと湧いてくるものが、アルフォンスの喉を塞ぎ、腕から筋力を奪い、額を不快に熱くする。
熱さは目に沁みるが、涙になりそこなっている。

あの人の寂しさを、埋めてあげたい。
あの人が抱えきれないでいる何かを、分けてもらいたい。
頼ってきて欲しい。
笑っていて欲しい。

しかしアルフォンスのその望みは、今やエドワードにとっては強要でしかない。
エドワードが望んでいるのは、「アルフォンスが何もしないこと」なのだ。
エドワードが望むなら、なんだって出来ると思っていた。二度とプライベートで話しかけるなと言われればそうするつもりだったし、親密な関係は持てないが部屋に住まわせろと言われればそうするつもりだった。

何も命令されないことが、ひたすら辛い。

───僕が、この姿かたちでなかったら。

自分がエドワードの弟に似ていなければ、エドワードはここまで自分に関心を持ってはくれなかっただろう。
それは重々わかっていて、わかりすぎていて、わかりすぎる痛みが膨張しすぎて麻痺さえしていた。
最初は、なんて幸運なんだろう、と思った。
常に故郷に帰りたがっているエドワードは、周囲を見ていない。
見ていても、いつもその視線は対象を通り越している。
だが、アルフォンスの姿かたちを通り越すことはないのだ。
エドワードの気を惹くために、血のにじむような努力をしなくとも、彼は自分をいつも見つめてくれていた。
こんな幸運はないと思っていた。
賢明なエドワードのことだから、いつか姿かたちだけでなく、アルフォンス自身をも見てくれるようになるだろうと、のんきにあつかましく、期待していた。
なぜもっと、謙虚になれなかったのだろう。
額を冷たい机で冷やしながら、アルフォンスは目を閉じる。
何も、わかっていなかった。
時間があれほどたくさんあったにもかかわらず。
エドワードを支配している寂しさや苦悩が、どれほど深いか、自分はちっともわかろうとしてこなかったのだ。
だから何も見えなかった。
エドワードが困っていることも、わからないでいた。
自分のこの姿かたちは、もはや自分にとってもエドワードにとっても、ハンデでしかない。
これだけは深く考えまいと、アルフォンスが意識の隅に封じ込めてきた思いが、ぎしぎしと拘束を解いて這い回り始める。

僕がエドワードさんの弟に似ていなかったら。
こんな思いをしなくて済んだのに。

神を恨む自分は、本当に汚い。
アルフォンスは、その汚点が、麻痺しきった痛みを鮮烈に呼び戻すのを、じっと自覚していた。
ふと、足先が本当に痺れて痛いことに気づいた。
半身を机から起こし、机の下で足と足を擦り合わせる。
床から立ち上ってくる冷気が、いつになく強烈だ。
嫌な予感がする。
音を立てそうな膝関節をゆっくり動かして、アルフォンスは椅子から立ち上がり、窓際へと歩いた。
閉めていたカーテンをつまみ開けても、窓ガラスは真っ白に曇り、外は見えない。
さらに絶望的な気分で窓ガラスを拭うと。
昨日、苦し紛れにエドワードについた嘘が、真実になっていた。

雪が降っていたのだ。