平和をもたらすもの -3-



眼球までもが、冷えて痛んだ。

作業場の隅で座ったまま毛布にくるまっていても、当然ながら完全に冷気を遮断することは出来なかった。
吐いた息が、闇の中でも、白く濃くけむっているのがわかって、エドワードは絶望に腹筋が緩みそうになるのを、息を詰めて阻止する。
諦めて、身体を支える気力を緩めたら、風邪をひくどころではすまないような気がした。
まだ深夜にもならない。
朝日を拝める時間ははるか彼方だ。
まばたきをする度に、冷えきった眼球にまぶたが縮み上がり、頭の奥まで痺れて痛い。
こんなところで、誰に向けてかよくわからない意地を張っているよりは、おとなしく誰もいない家に帰って、おとなしく寝支度をした方がずっといいと、何度もうるさいほどに本能はわめきたててくるが、孤独に加えて、自責やら後悔やら虚脱感やらで内心をひっくり返らせているエドワードには、もはや自分で自分に的確な指示を与えることもおぼつかなくなっていた。

───きっちり、片付けたはずなのに。

アルフォンスに対する礼も。
アルフォンスに対する申し訳なさも。
アルフォンスへの、執着も。
全部きっちり、彼の目の前で、観客がいたなら喝采されても良いくらいに見事に片付けたはずなのに。
少しも気持ちが晴れない。
いや、元々、晴れるとも思っていなかったが。
諦めという痛みを伴っても、もっと、すがすがしく突き抜けた気持ちでいられるはずだったのに。
「扉」を抜けてきて何らかのエネルギーを使い果たしたのか、不安を積み重ねた一年という年月の重みか、はたまたこの寒さのせいか。
自分で自分を鼓舞することが、なぜか出来ない。
『過ぎたことを悔やまないようにする』。
何が起こっても、ただ前へ前へと走ることで、エドワードはその難事業をクリアしてきた。
自分のために自分で築き上げてきたそのセオリーが、ここにきて、こんな大事な場面で通用しないとは、どういうことか。

───若いな。鋼の。

苦しいほどに懐かしい声が、胸の中からささやいてくる。

それは単にエドワードの記憶の欠片であり、想像の産物でしかなかったが、その記憶と想像は、この一年という長い間、エドワードの魂を崩壊させずに繋ぎとめた、もっとも強固な拠りどころのひとつだった。

───君は若いから、何もかも恥ずかしいと思うのだろうが。

そう。
二言目には若い若いと連呼して、遠まわしに、子供だ、と揶揄して。

───素直になることは、実はそんなに恥ずかしいことではないのだよ。

エドワードの中の彼の残像は、いつも鮮やかで、はかない。

───年を取れば取るほど、素直になれないことの方が恥ずかしいと、思うようになるものでね。

口の端で笑われながら、目前でこんなセリフを吐かれたら、迷うことなく突っかかってゆけるだろう。
似たような出来事は、無数にあった。
そのケンカともいえない小競り合いの数々を、怒りでなく、気の遠くなるような郷愁をもって思い出している自分が、限りなく女々しい生き物に思えてきて、エドワードは寒さに痺れる目をすがめた。
今さら素直になって、どうしろというのか。
胸の底の鮮やかな残像に、エドワードは反論を試みる。
残像は、窓を背にして司令室の椅子に座り、机上の書類の山脈を一束一束移動させる、いつものけだるい動作を見せてくれるだけだ。
日を背に受け、逆光で彼の黒髪の輪郭が真っ白に、かつ柔らかくくゆらされる、そのさままでを、エドワードは正確に思い出すことが出来る。
鮮やかな残像は、鮮やかなくせに、それ以上は口をつぐんでいる。
素直に、もういない親父のことを諦めて。
素直に、誰もいない家に帰れというのか。
素直に、寂しくてたまらないから側にいてくれと懇願して。
素直に、アルフォンスの腕に抱かれろというのか。
仮定してみた反論はひどく現実味を帯びていて、そのどれもが、エドワードが目を背けても背けてもそこに在り続ける、息苦しい可能性だった。
立てた膝頭に顔を埋めて、エドワードは必死に、残像に訴えかける。

───いくら素直になれと言われても。

でも。
オレは嫌だ。
ずるくアルフォンスに寄りかかるのが嫌だ。
寄りかかれば楽になるのはわかってる。
でも。
そうしたらオレは。
そうしたらオレはあんまり心地が良すぎて、どんどんダメな人間になって、あちらに帰るのも面倒になって、一番最後には、あんたのことも、アルのことも、忘れてしまうんじゃないかって。
それが、怖いんだ。

残像に向けて胸の内で叫んでみて、エドワードは膝頭に埋没させていた顔をがばりと上げた。
深く吸気する。
喉が凍りそうに痛むと同時に、ある事実に気づいて心臓が凍りつくかと思う。

───怖いのは。

アルフォンスに寄りかかるのが怖いのは。
彼を、ひどく好きだからではないのか?

突然に湧いた思考は、エドワードを動揺させた。
しかし、動揺しても湧いたものは沈まない。
アルフォンスが「弟」ではありえないことは、わかっていた。
それは動かしようのない事実で。
エドワードにとってアルフォンスの存在は、いつも希望と絶望を───相反する二つの感情を───湧き立たせる、象徴だった。
彼を見るたびに、その姿の背後に弟の影が浮かび、弟の影は、希望と絶望をめまぐるしく混在させて、エドワードを常に揺すぶった。
揺すぶられることに慣れて、疲れて、その結果。
エドワードが見つめていたようで見つめていなかったアルフォンスの実体が、今やっと、のっそりとエドワードの前に姿を現したのだ。
その実体は、もちろん無感情な生き物ではなかった。
「今やっと」現れたように感じているのはエドワードだけで、アルフォンスの実体は、顔には出さないまま、今までずっと、その胸の内で嘆いたり怒ったりしてきたに違いないのだ。
もっと容赦なく言うならば。
エドワードは今まで、弟の影をアルフォンスに無理やり被せて、故意に、全てから目を背けてきただけなのだ。
本当は知っていた。
どれほどに、自分がアルフォンスをないがしろにしているか。
どれほどに、アルフォンスがそのことを嘆いているか。
知りすぎていながら、それゆえに、知らないふりをするしかなかった。
男の風上にも置けない。
女の腐ったような。
いやそう言っては世間の老若男女が気を悪くする。
人間どころか、動物よりもたちが悪い。
犬猫だって、悪さをすればそれを自覚した顔で飼い主にすがって媚びるのに。
こんな、暴虐極まる抜け殻のような、自分を。
なぜアルフォンスは黙って綺麗に見捨ててくれないのか。
エドワードは白い吐息の先の闇を見つめる。
この手で、傷つけた。
おまえが怖い、と。もう用はないと、その腕を振り払った。
今、怒っているか。
泣いているか。
せいせいしたと思いながらも、うしろめたく感じてくれているか。
この闇のずっとずっと向こうのあの家で、今この時、アルフォンスは間違いなく、エドワードよりもはるかに深く、痛々しく、何かを思っていることだろう。

オレがいま辛いのはオレのせいだ。
だけど。
あいつがいま辛いのは、あいつのせいじゃない。

牙をむく冷気は、皮膚を引き裂き、臓腑をえぐる。
寒さというものが、こんなに凶暴なものだとは知らなかった。
凍えるあまり、既に、義肢の指先をぴくりと動かす、そんな簡単な動作も不可能に近くなっている。

エドワードは、ゆっくりと義肢の手首を、生身の左手で握った。

───アルフォンスは弟じゃない。

悲鳴を上げたいほどの、その人工皮膚の冷たさは、そのまま自分の愚かさだ。
アルフォンスは弟ではない。
「弟のような存在」だと。そうあらねばならず、そうあって欲しいと思っていた。
だがアルフォンスはもう、弟ではない。
「弟のような存在」ですらない。
「弟」だと思っていれば。
「弟」がどんな理不尽なことを要求してきても、平気ではねつけられるはずだった。
「弟」がキスなぞ要求してきたら、兄貴は弟をぶん殴って説教してやればいいだけのことだった。

───僕を殴るなり、突き飛ばして逃げるなりすればいいんだ。

そう言ったアルフォンスは、本当に正しかった。
それが出来ないということは。
そうするのが怖いということは。

───オレは…

その時、小さな研究室全体を揺るがすような音を立てて、正面のドアが開いた。




そこが、ただの闇であればいいと思った。
アルフォンスは願う。
広くもない研究室の、小さな浅い闇の中から、危険を察知した獣のように、ふと金髪を揺らしながら湧いて出て、「アルフォンスか?」と問うたあの大きな目が。
「寝てたんだよ。見てわかんねーか?」と照れながら噛みついてきたあの綺麗な顔が。
再び、ここになければいいと思った。
叩きつける勢いで、ドアを開けて。
アルフォンスのその願いは、すぐに打ち砕かれた。
金の目をしているであろう小さな獣が、作業場の片隅から、闇に溶けきれずにこちらを見ている。
壁面の照明スイッチを、広げた手のひらで乱暴に叩き、差してきた雪まみれの傘を開けっ放しの戸口に投げ捨てて、アルフォンスは無言で獣に歩み寄った。
言葉など、出てこない。
頬を切るようだった雪の冷たさは瞬時に吹き飛び、大股に一歩ずつ、エドワードへと近づいていくにつれて、燃えて煮えたぎる怒りのようなものが順繰りにアルフォンスの肺を埋め尽くし、アルフォンスは言葉を発するどころか、息をするのも辛い。
小さな子供のようにうずくまるエドワードのつま先に、つま先を付き合わせられるほど側まで歩み寄り、やはり煮えたぎる吐息をひとつ、足元から見上げてくる、その頑固な子供の額に落としてやる。
子供ならぬ金の獣は、全く猛獣らしくなかった。
照明光をみずみずしく弾くはずの瞳はうっすらと赤く濁り、言葉もなく見上げてくるその顔には、驚きよりも、脅えに似た困惑の色が濃く刷かれていた。
脅えているように見えたのはその肌が、白さを通り越して青かったからかもしれない。
尋常でなく冷え切っているに違いないエドワードの身体に思いをはせて、アルフォンスも、肺をたぎらせながら震え上がる。
これ以上吐息が漏れないように、唇に力を込めてアルフォンスは屈みこみ、エドワードの片手首を掴み取り、その場で引きずり立たせた。
「………う」
息とも声ともつかない音がエドワードの喉から絞り出されたが、そんなものに構っている余裕はない。
エドワードの手首を握ったまま、きびすを返して、アルフォンスはドアを目指した。
エドワードが毛布から脱皮しそこね、ふらついて足をもつれさせているが、やはり構っていられない。
勢いに任せて。
足早に歩く。
一歩歩く度に、握ったエドワードの手首から、体温ではなく冷気が染みこんでくる。
アルフォンスですら、ここへ歩いてくる間に雪で身体を冷やされていたが、それを上回るエドワードの手の冷たさに、目頭までが、じんわり痛んでくる。
なにがどうなのかよくわからないが。
ただ、悔しくて。
ただ何もかも悔しくて。
吐き出せない熱が、アルフォンスの意志を無視して、その目を刺し、薄く熱く、その縁を濡らしていった。




風が無いのが、唯一の救いだった。
漆黒の空は、雪雲でわずかに柔らかくうねり、そこから落ちてくる銀色の切片も皆、風圧を受けずに柔らかく宙を舞い踊る。
それでも雪の帳(とばり)は密度が濃く、街灯の下を歩いていても、通りの向こうの建物が、もう見辛い。
優しく宙を舞う雪に挑みかかるように、無数の切片を、全身を使って押しのけながら、アルフォンスは歩いた。
一本しかない傘をエドワードに持たせ、そのエドワードの手首を握って、乱暴に引っぱりながら、歩いた。
エドワードは何も言わない。
文句も言い訳も何も聞きたくないと思っているのだから、都合が良いといえば良かった。
エドワードはアルフォンスに何も訊かず、何も怒らず、持たされた傘を片手に、ふらつきながら黙って腕を引かれている。
振り向いて、叱りつけたい衝動を耐えながら、アルフォンスはさらに歩く。
話は後だ。
悩むのも後だ。
脅えるのも、悲しむのも、不安になるのも、みんな後でいい。

───耐えられないのは、いつも僕。

それでいいと、アルフォンスは思った。
この先どうなろうと、狭い自分の家の中でエドワードがいかに不便を訴えようと、自分の理性の糸が切れてエドワードに嫌われようと、エドワードの身体が支障なく生き生きと動いていてくれれば、それでいいのだ。
「おまえの家に無理やり連れ込まれた」と、ずっと先の後々まで、エドワードが糾弾してくれればいいと思った。
エドワードの矛先になれれば。
エドワードの言い訳になれれば。
それで、エドワードが凍えることなく、喉の渇きにも、空腹にも苦しむことなく健康でいられるなら、いいのだ。
ほのかに幸福で、平穏だった日々が、はるか彼方に過ぎ去ってしまったような気がする。
エドワードと肩を並べてロケットの設計図を覗き込んでいたあの平和な時間は、たった、三日前のことなのに。
あの平和を、平穏を、守りたいと思いながら、その平和に耐えられなくて、粉々に崩してしまった。
けれど、あれを平和だと思っていたのは、アルフォンスだけだったのだ。
エドワードの深い苦悩を、エドワードに夜ごと訪れる夢魔を、アルフォンスはかけらも打ち払うことが出来ない。
こんなに、そばにいても。
無力なのだ。

───この人に、平和をもたらしてくれるものは。

エドワードに心からの平和をもたらしてくれるものは、この世界の、いったいどこにあるのだろう。
どこにもない、というのが、やはり正解なのか。
それはアルフォンスにとって、わかりたくもない事実であった。
だがその、現在の自分の力では変えようもない正解に溺れて、諦めの良い溺死者のようにエドワードが沈んでゆくのを、黙って見ていることなど出来なかった。
「あちら」の大切な人を、想って、想い抜いて、それだけをエドワードが生きる希望にしていることを否定する権利は、アルフォンスにはない。
けれど。

───あなたは。

あなたはここで、生きている。
あなたの大切な人たちに手の届かない、大切な人たちに手を差し伸べてもらうことの出来ない、ここで。生きている。
だから。
僕そのものを、全部受け入れてくれとは言わないから。
僕をそのまま言い訳にしてくれていいから。
だから。
否定しないで欲しい。
ここで生きている僕が、ほんの少しだけでもあなたに力を貸したいと思っている、そのことを。

緩みそうになる指に、さらに力を込めて、アルフォンスはエドワードの手首を握り直した。
まっすぐ前方を見つめたまま、前髪に絡む雪を、空いた片手で手荒く拭う。
アルフォンスの唇の、糸のように細い隙間から、吐息は鋭い半透明の水蒸気となって、音もなく雪の帳の中へ拡散していった。




キッチンに入るなり、アルフォンスは寝室から持ち出して来た毛布を投げてよこし、エドワードをす巻きにして椅子に無理やり座らせた。
確か同じ動作を昨日の夕方もアルフォンスに勧められた気がするが、アルフォンスの態度は昨日の数十倍も乱暴だ。
家を出るまで火が入っていたらしいストーブに、再度点火しているアルフォンスの背中を見つめながら、エドワードはなおも沈黙していた。
後悔する気力すら、湧いて来ない。
ついさっき頭の中で苦しく思い描いていた人物が、急に目の前に現れて、ひどく立腹しながらも暖かい彼の部屋に連れ帰ってくれた、この事実だけでもエドワードにとっては十分驚愕に値するものであったが。
その驚愕の裏側には、濡れたシルクのように柔らかく不快な予測が張り付いていた。

───どこかで、オレは思ってた。

アルフォンスが迎えに来てくれるだろう、と。
口には出さない限り、この世の誰にも知られることのないその「あらかじめの予測」の存在を、胸の中で無視するのは簡単だったが、誰に伝わらなくとも、もうこれ以上、そうやってアルフォンスを貶めてはならないと、エドワードは思った。
貶められ、嫌われねばならないのは、エドワードの方なのだ。
口と態度と表情に出さなければ、人は、他人に心の中を窺い知られることはない。
同情されたくないのなら、それが邪魔だと思ったのなら、心を全て、閉じていればよかったのだ。
何も語らず、何も匂わせず、いつも笑顔でいれば。
心を閉じていることさえ、周りに悟らせぬようにしていれば。
こんなに、アルフォンスを苦しめずに済んだ。
エドワードの演技が未熟なばかりに、こんなところへ彼を追い込んでしまったのだ。
こんな結末など望んでいなかった、と自分で未練がましく叫ぶ前に。
どうしても、それは、演じ切らねばならないものだったのだ。
心を完全に閉じるその演技がどれほど困難だろうと、やらなければならなかった。
出来なかった、という、安易で平凡な言い訳は、この場合通用しない。
かん、と火掻き棒でストーブのふたを締め、アルフォンスがエドワードを振り返った。
こつりと床を鳴らして一歩、踏み出して来るアルフォンスの靴は、雪でぐっしょり濡れている
座っているそばに立たれて見下ろされても、エドワードはもう彼の顔を見上げることすら出来ない。
「…ここに住めとは言いません」
あふれる何かを押し殺したような、アルフォンスの声が降ってきた。
「でも。せめて、暖かくなるまでは、夜は、この家で寝てください」
低いその声は、今にも震え出しそうだ。
「これから。僕はあなたを見張りますから」
けれど、脅迫するには、何かが足りない。
「研究室の用事が終わったら、毎日ちゃんとここへ帰ってきてください」
いっぱいに張り詰めた声は、冷徹で。
「ミュンヘン中逃げたって、追いかけますよ。いいですか?」
声は冷徹で。
そして、たまらなく優しく、うつむいたままのエドワードの耳を打った。
そっと吸気すると、ストーブの熱流が喉を浸した。
「……アルフォンス」
うつむいたまま、床に向けて発する声は、乾ききっている。
「明日の晩飯はシチューにしてくれ」
この家の入り口を、自力で見つけることが出来なかったから。
アルフォンスへ通ずるドアを、自分で叩くことが出来なかったから。
最初から居たような、ふりをするしかなかった。
この家に初めて来た時と同じように、エドワードは横柄な口をきいた。
あの時と同じようにアルフォンスが笑って答えてくれるとはとても思えなかったが、本当に、今のエドワードに残された選択肢は、それしかなかったのだ。
横柄な口をきいて、アルフォンスに嫌悪を向けられても、それはそれでしかたない、と、エドワードは諦めを噛み締める。
嫌われた方が、ずっとましなのだ。
アルフォンスに、これ以上気遣われるよりは。

───そんなに、素直になることが恥ずかしいかね?

消えかけていた残像が、またもや笑みながら、懲りずに問うてくる。
身体の芯にはまだ届かないストーブの熱流を、頬でじんわりと受け止めながら、エドワードは靴を脱ぎ捨て、椅子に片足を持ち上げて、それを抱え込んだ。
抱えた膝に、顎を乗せる。
試しに握ってみた生身の足の指は、凍えていてまだ感覚がない。
死刑台の階段を上る囚人の心持ちで、エドワードはアルフォンスをゆっくり見上げた。
返答がないのが恐ろしくて、見上げないわけにはいかなかった。
嫌われるなら、今だ。
期待は、エドワードの目の中で、心地よく砕け散った。
見上げた先に立っていた、青い目の死刑執行人は。
泣き出しそうに、悔しそうに。
笑ったのだ。

「……わかりました」

濡れた服を着替えるために部屋を出て行った、アルフォンスの足音が、ドアの向こうに小さくなるのを聞きながら、エドワードは、これまたしばらくぬくもりそうにもない義手の肘を、そっと左手で抱えた。
木製の窓枠が、きしりと音を立てる。
部屋の温度が、さらに上がってきたらしい。

───大佐。

オレはまたひとつ、あんたから遠くなった。
司令室の残像は、春の雪の彼方だ。
霜に覆われたように凍え続ける、エドワードの刹那の絶望に、ぱちりと、石炭がはぜる音が忍び込む。
まぶたに、目前のストーブからの急激な熱が沁み、そのむずがゆさと重さに、目を開けていられない。
エドワードは、重いまぶたを叱咤した。
叱咤しながら、もうひとつの愛しい残像に、呼びかける。

───アル。

オレはまたひとつ、おまえから遠くなった。
このひとつ分を取り戻すのには、少し時間がかかりそうだ。
ごめんな。
言い訳ばっかりで、どうしようもないけど。
少し、眠くて。
どうしても、今、おまえにかける言葉を思いつけない。
10歳のまま年をとらない弟の残像は、エドワードの中で苦笑している。
その瞳が青く見えたのは、きっと睡魔のせいだろう。

アル。
怒るな。
笑う、な。
眠いだけなんだ。
オレは、諦めてない。
オレは。
まだ。
戦える。
ここで。

「アル」

冷えた喉を震わせたそのささやきは、睡魔に手を引かれて、エドワードの意識の端から滑り落ちていった。
また窓枠がきしむ。
エドワードの聴覚は、かすかなその音を、もう捉えられなかった。








オレはまだ戦える。
ここで、生きてるから。

アルフォンスと、生きてるから。