平和をもたらすもの -1-



悲鳴が聞こえた。

アルフォンスは毛布を蹴飛ばしてベッドを降り、隣室へと走った。
靴もはかずに踏む床は、深夜の冷気を吸って、凍りつくように冷たい。
「エドワードさん!どうしたんですか!?」
ドアを叩いても、返答はない。
胸が張り裂けそうな焦りに耐えられず、アルフォンスはドアを開けた。奇跡的に、鍵はかかっていなかった。
青い闇の中で、動くものはない。
エドワードはベッドに横たわったまま、身体を小さく屈め、両手で顔を覆っている。
顔を覆ったその指の間から、アルフォンスには馴染みのない国の言葉が漏れた。
何を、誰を、呼んでいるのだろう?
「エドワードさん」
まだ覚醒出来ずに、悪夢の中をさまよっているらしいエドワードを引き戻すために、アルフォンスは闇の中で手を伸ばした。


***


昨日、エドワードはシャツを置いていった。
初めてアルフォンスの家に泊まったその翌朝、あまりにもシャツがひどい有様だったので、アルフォンスが着替えを貸し、脱いだ自分のシャツを、エドワードは忘れていったのだ。
夕方、忘れたシャツを取りに来たエドワードを、アルフォンスはあらゆる手を使って引き止めた。
エドワードはなぜか、ひどく帰りたがっていたからだ。
早く家に帰りたい、ともちろん言葉に出されたわけではない。
だが、おずおずとアルフォンス宅を訪れたエドワードは、キッチンの椅子に座ってもひどく所在無さげで、落ち着きがなかった。
彼をこのキッチンの椅子に座らせるだけでも、一苦労だった。
エドワードは最初、玄関ドアを外から薄く開けて、「ごめん。オレのシャツ、どこ?」と言ったきり、動こうとしなかったのだ。
夕食時に、せっかくここまで来てくれたのだから、彼を黙って帰す手はない。
それに、昨日まで家に帰るのが嫌で、研究室に居座っていたエドワードのことだ。言葉通りにまっすぐ家に帰るとは、とても思えない。
また自分に黙って、研究室で夜明かしをされるのかと思うと、アルフォンスは我慢が出来なかった。
そんなに自分は昨日、この家でエドワードに不愉快な思いをさせてしまったのだろうか?
それとも、エドワードは、何か、本当に帰りたい理由が出来たのか。
それとも。
今朝の、「事故」を気にしているのだろうか。
最後の理由は、とてもとてもありがちで、キッチンに座ってくれたエドワードのために、夕食の段取りを考えたり図面の相談をもちかけたりやっと借りられた新書を引っ張り出して来たりしながら、アルフォンスはその分厚いとはいえない胸をひそかに痛めていた
「事故」の後も今日一日、エドワードの態度は普段と何も変わらなかった。
アルフォンスも最大限の努力をして、いつも通りにふるまった……つもりだ。
だが、大雑把なくせに妙に聡いエドワードには、アルフォンスの「努力」など、お見通しだったのかもしれない。
ちょっと唇をぶつけただけで、あそこまで赤面してうろたえるのは、普通ではない。
その証拠に、硬直するアルフォンスに対して、エドワードは顔色ひとつ変えずに微笑んでいたではないか。
あそこでは、顔色ひとつ変えないのが、まっとうな反応なのだ。
とうとう、エドワードに何もかもばれてしまったのかもしれない。
エドワードは、アルフォンスの気持ちに気づいて、男に好かれるなどまっぴらだ、と、アルフォンスから距離を取ろうとしているのかもしれない。
けれども。
アルフォンスには、エドワードに対して最も有効で、かつ最も残酷ともいえる、強力な武器があった。

───僕は、エドワードさんの弟に似ている。

だから、エドワードは、多少のことではアルフォンスから離れてはいかないはずだ。
細かいことはわからないが、エドワードの、「弟」に対する思いは、常軌を逸しているところがある。
ぺらぺらと面白おかしく、それはそれは幸せそうに、弟とのケンカを再現してくれたかと思ったら、その後はもう、エドワードは見るに耐えない表情で、アルフォンスから黙って顔をそむけていたりする。
目の前のアルフォンスに湿っぽい思いをさせまいとの、エドワードの努力は、いつも五割方は成功しなかった。
エドワードの気遣いを、額面通り受け入れるにはアルフォンスは敏感すぎ、アルフォンスを安心させるには、エドワードの技術と演技は足りなかった。
よほど悲惨な状況で離れ離れになったのか、あるいは、既にこの世にいない弟を認めるのが怖くて、確証もない希望をよろよろと繋いでいるのではないか、と、とても本人の前では口には出来ないような想像をしてしまうくらい、「弟」について話す時のエドワードは、不安げだった。
そんなにも彼の心を占めている弟に、アルフォンスは似ているのだ。
それは、強力な武器であると同時に、使い方を間違えれば、アルフォンス自身を、いっさいがっさい滅ぼしてしまう自爆装置でもある。
聡明なアルフォンスは、その諸刃の剣を、壮烈な勇気をもって、ひっそりと胸の奥底に格納した。
今考えなければならないのは、そんなことではない。
今アルフォンスが考えなければならないのは、エドワードに、今夜もどうにかしてこの家で寝てもらうことなのだった。




春を謳う復活祭は遠くないが、聖母教会(フラウエン・キルへ)の塔を縁取る空は、まだ冬の夕暮れそのものだ。
どうかすると雪も降ることがあるこの季節、アルフォンスの「今晩は天気が悪くなりそうですよ」という苦し紛れの決めゼリフは、ようやくエドワードに、研究室での仮寝をあきらめさせることが出来たようだ。


アルフォンスの部屋で、遅くまでアルフォンスの本棚とごみ箱をあさり、嫌がるアルフォンスを振り切って、製図に大失敗したボツ設計図を拾い上げ、貴重なインクを消費して、机の端に取りついてその紙にちょろちょろといたずら書きをしていたエドワードは、何の脈絡もなく、ふと立ち上がって、言った。
「オレ。寝るわ。隣、借りるぜ」
アルフォンスの返事も待たず、戸口へ歩いたエドワードは、くるりとそこで振り向き、「おやすみ」と気のない挨拶を扉の隙間に挟んで、アルフォンスの眼前から消えた。
目を丸くしていたアルフォンスは、この場の状況をやっと理解して、次の瞬間、椅子に座ったまま、机の上にずるずるとつっぷした。

───よかった。

今日も、エドワードは、凍えずに眠ることが出来る。
アルフォンスの家にいることに多少の不安はあるだろうが、部屋の鍵を閉めていれば睡眠中は完全に一人になれる。
安心したそばから、明日以降のエドワードの寝床についてアルフォンスは考えたくなったが、今日一日の心身の疲労が、その思考を続行することをどうしても許してくれなかった。
着替えもそこそこにベッドにもぐりこんで、何時間たっただろうか。
深い眠りは完全にアルフォンスの時間感覚を奪っていたが、その悲鳴は、アルフォンスの真っ暗な意識の中にまで届いた。
誰かが、誰かを、呼んでいる。
声は甲高いが、子供のものではない。
そこでやっと、隣室が無人でないことを思い出し、アルフォンスはまぶたに力をこめて、深い眠りの淵から這い出ることが出来た。
もう一度、悲鳴が聞こえる。
アルフォンスは飛び起きた。
毛布を蹴飛ばしてベッドを降り、隣室へと走った。
「エドワードさん!どうしたんですか!?」
ドアを叩いても、返答はない。
反射的にドアノブに手をかけると、それはがくりと拍子抜けするほどに回転した。施錠されていなかったのだ。
ドアの中は、青い闇だった。
動くものはない。泥棒や強盗が侵入したわけではないらしい。
エドワードはベッドに横たわったまま、身体を小さく屈め、両手で顔を覆っている。
顔を覆ったその指の間から、アルフォンスの耳に馴染まない言葉が漏れてきた。

───ドイツ語じゃない。

アルフォンスの知らない言葉で、エドワードは、夢の中の誰かに呼びかけているようだった。
「エドワードさん」
自分が必死になっては、エドワードをさらに脅えさせるだけだ。
アルフォンスは精一杯穏やかに、だが確実にエドワードに聞こえるほどの明瞭な声で、呼びかける。
横向きにうずくまり、顔を覆ったままのエドワードの肩にそっと触れると、そこはびくりとけいれんした。続けて、薄いシャツごしに震えが伝わって来る。
「エドワードさん。大丈夫です、目を開けて」
その声が聞こえたのかどうか、エドワードは昨日の朝と同じ、唐突なすばやさでベッドに肘をつき、風圧をまといながら勢い良く上体を起こした。
そのまま硬直した首筋から、解いた長い髪が、音ともいえない音を立てて滑り落ちる。
左右で微妙に感触の違うエドワードの肩に手を添え、アルフォンスはエドワードの顔をのぞき込んだ。
追い詰められた獣のような瞳が、アルフォンスを凝視する。
その瞳も、瞳の縁も、濡れている。
濡れているさまを隠すように、エドワードはアルフォンスの両腕を捕まえ、頭から胸元にしがみついてきた。
ベッドに横座りするような不自然な姿勢で、アルフォンスはやっと、エドワードのその体重を支える。
また、アルフォンスの胸元で、聞き慣れない言葉が響く。
目は開けていても、エドワードはまだ覚醒しきっていないらしい。
やはり、弟と間違えているのだろうか。
「エドワードさん。僕です。アルフォンスです」
言った後で、そういえばエドワードの弟の名前も同じなのだったと気づき、アルフォンスは唇を噛んだ。
エドワードの震えがアルフォンスに伝染し、アルフォンスの身体も震え始める。

───こんな形で、抱きしめたくなんかなかったけど。

けれど今、エドワードは、間違いなくこの腕の中にある。
エドワードの湿った体温が、アルフォンスの何もかもを痺れさせてゆく。
エドワードの手が、ふと緩んだ。
アルフォンスの二の腕を掴んでいたその左手が、アルフォンスの肩を通過し、確かめるように喉に触れ、頬に届いた。
頬までが、痺れる。
アルフォンスがその感覚に耐えかねて目を閉じた直後。
今度は、唇が、痺れた。
あまりにも柔らかく熱いその衝撃に目を開けると。
目の前一杯に、エドワードのうつろな瞳があった。
その唇が、今しがた痺れたそこに触れ、離れたのだとアルフォンスが認識したのと同時に、また、耳慣れない言葉がアルフォンスの鼓膜を揺らした。

違う。
胸の中で、アルフォンスは叫んだ。
僕は、違う。
あなたが呼んでるのは、誰?

目前の唇に、別の名前をもう呼ばせたくなくて。
アルフォンスは、エドワードを肩からベッドに引き倒して、その唇を、自分のそれで塞いだ。
大きく体勢を変えられ、吐息をふさがれ、エドワードがうめく。
その声すらも、全て、欲しい。
涙を飲み込んだのか、エドワードの唇はかすかに塩辛い。
塩辛い唇の奥の、舌を追おうとした時、エドワードが大きく吸気した。
「…ア、アルフォン…ス!?」
エドワードの義手がぎちりと鳴き、アルフォンスの脇腹を押し戻そうともがく。
彼が吸気した後の、吐息のあまりの熱さに、アルフォンスは飛び退いた。
「…アルフォンスか…?」
最悪のタイミングで覚醒したエドワードは、乱れた髪を数本口元に含んだまま、脅えたような目で、自分を組み敷く人物を見上げる。
今すぐ、エドワードの肩から手をどけて、今すぐこの部屋を出て行かなければならないのに、アルフォンスは四つん這いに彼を見下ろしながら、凍りついていた。
なんて、こと。
今までの努力は。
エドワードに悟られまいと、彼におかしな負担をかけまいと、してきた、この。
ただ自分を見て、大切な弟を思い出して、それで少しでも彼の心が温まってくれるなら、いつまでも温めていてくれるなら、こんな不埒な想いは、半永久的に封印してもいいとさえ思っていた、今までの努力は。
みんな、水の泡だ。
死んでしまえ、アルフォンス・ハイデリヒ。
信頼していた人間に手のひらを返された、エドワードの驚愕と恐怖を思いやるより先に、自己保身と、エドワードへの言い訳ばかりを考えている自分に気づき、アルフォンスはうなだれた。
もろもろの緊張で、関節の固まってしまった身体をどうにか動かし、エドワードの身体から手を離し、ベッドを降りる。
ベッド脇に立って、アルフォンスが謝罪の言葉を口に出そうとした時だった。
「…ごめん、な」
闇の中でも、濡れているとわかるエドワードの唇が、信じられない言葉を紡いだ。
「オレ、何か、言ってた?」
ベッドの上で身体を起こしたエドワードは、泣き出しそうにも見える顔で、かろうじて、笑んだ。

───やめて。笑うのは。

罵られないことが、身体を引き裂かれそうに辛くて、アルフォンスはエドワードから目を逸らした。
「いえ。……いえ、その、声は聞こえたんですが。内容は聞き取れませんでした。それより。僕こそ…ごめんなさい」
エドワードの反応を見るのがあまりにも怖くて、アルフォンスは謝罪するが早いか、ベッドの上に視線を戻さないまま、ドアへと身を翻す。
「アルフォンス?」
「鍵は掛けてください。また何かあったら呼んでください。すぐ来ます」

微妙に矛盾する「お願い」をドアの前で言い捨てて、アルフォンスは、金目の優しい猛獣が棲む、青い闇から逃げ出した。
裸足で踏む床は、泣きわめきたいほどに、やはり冷たかった。




どこまでが夢で、どこからが現実だったのか。
翌朝、キッチンのテーブルに置かれた鍵と、アルフォンスの残して行った走り書きのメモを見ながら、エドワードは考えこんでいた。
エドワードが浅い眠りから覚めた時、もう部屋の外に人の気配はしていなかった。部屋の主たるアルフォンスは、小さなメモを、この家の玄関の鍵でテーブルの上に留め付け、姿を消してしまっていた。

───先に行きます。鍵は、研究室まで持って来てください。

まだ朝の七時半だ。
昨日の遅刻の分は昨日にケリをつけたはずだ。
急ぎの作業があるわけでもない。
アルフォンスはやはり、エドワードと顔を合わせたくないのだろう。
昨晩アルフォンスがエドワードの部屋から出て行って数時間、エドワードは眠れずにいた。
そのまま朝まで起きていればよかったのだ。そうしたら、黙って出て行こうとするアルフォンスを引き止めることも出来たのに。
明け方うとうとしてしまった自分を少し責めながら、エドワードはメモの上の鍵を手に取った。コートのポケットに入れると落とすかもしれない。他人の家の鍵だ。注意深く、それをズボンの左ポケットに収める。
眠れないでいた間、途切れ途切れに考えていた。
アルフォンスはなぜ、あの時、自分に謝ったのかと。
夢だと思っていた。
錬成に失敗して、弟の身体が粉々になり霧散する、いつもの夢だった。
どんなに手を伸ばしても、掻き抱いても、欠片も掴めないまま、エドワードの目前で、「アルフォンス」の身体は四肢から砕け始め、体幹を融かし、苦悶の表情を浮かべたまま、一言もなく顔面までを打ち砕かれてゆくのだ。
エドワードの脳髄をも砕くようなその恐怖ですら、エドワードにとっては、もはや習慣になりつつあった。
恐怖が身体に叩き込まれた結果なのか、こちらへ来て何十回見たか知れないその夢を、エドワードは意識的に途中で覚ますことが出来るようになっていた。
だが、体調の悪い時などは、そのコントロールが出来ずに、見たくもない夢の続きを見ることになる。
夢の中で、「アルフォンス」を失って、絶叫するエドワードの前に現れる人物は、その時々によって違う。
もっとも高い頻度で現れるのが、父であるホーエンハイム。これは、うなされるエドワードを幾度となく起こしに来てくれた頻度に比例する。
そして、その次に現れるのが、彼だ。
誰にもすがるまいと夢の中でもがいてみても、彼は圧倒的な力でエドワードを抱きしめ、あの独特の感触の、発火布を着けたままの手で髪に触れてくる。
昨晩は、彼の身体までが粉々に砕け散る、最低最悪の夢見だった。
砕けてゆく青い軍服を掴んだ感触は、ひどくリアルだった。
このまま掴んでいれば粉砕を阻止出来るかもしれない、とますます強くしがみつけば、その腕は力強くエドワードを引き寄せてくれた。
触れることが嬉しくて、肩や首筋の感触を確かめて、唇にもやっと触れて。
それが、息も出来ないような口付けの連続になって。
本当に窒息しそうで大きく息を吸ったら、目の前に、悲壮な顔のアルフォンスが居たのだ。
口付けてくれていたのは、こちらのアルフォンスだった。
アルフォンスは多分、自分がうなされるのを聞いて、部屋まで来てくれたのだろう。

───オレ。あいつに、無理強いしちまったんだろうか。

とにかく、夢にうなされている間のことは責任が持てない。
いや、持たなければならないのだが。
自分は、目を開けて寝ぼけたまま、アルフォンスをベッドに引きずり込んで彼に口付けを強要したのかもしれないと思うと、エドワードはあまりの羞恥に、自分自身を粉砕したくなってくるのだった。

他人の理由を考えてる場合じゃねぇ。
オレがホントは何をやらかしたか、ちゃんと聞いて、謝らねぇと。

一瞬だけ、「このままアルフォンスと疎遠になれば、もっと楽になれるかもしれない」という思考がエドワードの中をよぎったが、エドワードはすぐにその消極的な解決法を放棄した。
アルフォンスが自分に、えもいわれぬ感情を抱いてくれているのは、一昨日、知った。
だが、その感情が怖いからといって、アルフォンスの存在全てを遠ざけてしまう勇気は、今のエドワードにはない。
ただ、このままでいたかった。
「その感情」が、これから大きく育つとは限らない。
今回のことで、アルフォンスは自分から一歩退いてくれるかもしれない。
兄弟のようにふるまって欲しい、などというバカ丸出しの贅沢を言うつもりはない。
ただ、目の届く範囲で、アルフォンスに笑っていて欲しい。
たったそれだけのことだ。
それは、そんなに難しいことだろうか。
エドワードは、賭けてみたかった。
自分たちの関係を、試しもしないで断ち切ってしまうのは、耐えられなかった。
幸い、アルフォンスは鍵を残していってくれた。
研究室でこれを返す時に、詫びればいいのだ。
アルフォンスが逃げるなら、捕まえればいい。
エドワードは窓を閉め、その施錠を確認して、玄関ドアへと向かった。
チャンスはまだ、ふんだんにある。



夢魔に侵され、知らぬうちに精神を疲労させていたその時のエドワードは、気づけずにいた。
その賭けの、莫大な危険性に。