限りなく夜に近いパーシアン・レッド
待っていられなかった。
ロックオンからの通信を切り、彼女は小型艇のハッチを開けるスイッチを乱暴に叩いた。
操縦席から立ち上がり、そばに浮かんでいた愛用のファイルケースを握りしめ、開けたハッチから飛び出して、この停泊ポートのセキュリティゲートを目指して通路を走る。
───『こっちのミッションは終了したぜ。刹那ももうすぐそっちへ着くから安心してくれ』。
ついさっきの通信の、ロックオンの声が頭の中で響く。
奪われた太陽炉は無事に破壊された。
サバーニャはどうやって刹那を救助したのか、どうやって刹那はこの低軌道ステーションに帰ってきたのか。
ロックオンの説明は簡潔すぎて、詳しいことはわからない。
だが刹那は生きている。
それさえわかれば、今は他のことはどうでもよかった。
あの時、刹那は先に地上に戻れと言っていたが、刹那の赤いマフラーも、刹那の持っていた携帯端末も、まだこの手の中にある。
指示を無視された刹那は渋い顔をするかもしれない。
しかし、どうしても彼に直接礼を言って、彼の所持品を彼に返したかった。
セキュリティゲートの監視員に不審な顔をされながらゲートを飛び出し、広大な通路を彼女は走る。
走るといっても、ステーション内は微重力のため、足音は響かない。
時々床を蹴って、床の数センチ上を滑るように前方へ漂っているだけだ。
そのもどかしさに胸が苦しくなる。
ぐっと息を飲んで顔を上げた時、前方に人影が現れた。
広大な、貨物用の白い通路の果てに、くっきり黒い髪と、見覚えのあるネイビーのジャケットが浮かんでいる。
刹那だった。
力いっぱい床を蹴り、彼女は刹那に駆け寄る。
彼の数メートル手前で側壁に手をかけ、空中を滑るスピードを一気に殺して、床に着地する。
慣性の法則に逆らうのはつらい。
よろけながら膝を曲げ、腰を落とし、もう一度勢いよく顔を上げると、刹那はもうそばに立っていた。
「大丈夫か」
それはこっちのセリフである。
どこまで彼は、自分のことをかまわない人間なのか。
こちらに手を差し伸べようとしてくる刹那の体勢を無視して、彼女は髪をサイドにかき上げ、果敢に立ち上がる。
また彼に助け起こされている場合ではない。
彼のジャケットの袖から、白い包帯を巻いた手首がちらりと見えた。両腕ともだ。
「ケガを…!」
してるじゃないですか、と続けられずに、じわりと熱くなった喉の奥が痛んだ。
もっともっと他に言わなければならないことが山ほどあるのに、無能なこの声帯はちっともいうことをきいてくれない。
「手錠で少し擦れただけだ。問題ない」
今までの人生でどれだけケガばかりしてきたのか、いくらマイスターが苦痛に対して耐性があるとしても、両手首を包帯でぐるぐる巻きにされて問題がないなんてあるわけないだろう、本当に問題がなければ絆創膏一枚や保護クリームのひと塗りで終わるはずなのに、他人に心配されることを徹底的に拒否するようなこの平板な態度はいったい何なのだろうか。
脳内に浮かんだ言葉は、彼女の喉に雪崩れて詰まる。
詰まった言葉は熱を持ち、溶けてもう手がつけられない。
無能な声帯は本当にいうことをきいてくれない。
「…でも、」
言わなければならない。
「痛かった、ですよね。ごめんなさい」
もう少しましな受け答えはなかったのか。
気の利いた言葉は、宇宙の彼方に蒸発した。
蒸発した言葉は、その余熱で彼女の脳を焼き、目元の水膜の温度を上げる。
ゆがみかけた水膜の向こうで、刹那が気まずそうにまばたきする。
初めて正面からのぞきこんでしまった彼の瞳は、赤とも茶色ともつかない不思議な色をしている。
赤のピークを過ぎた、夕暮れのようだった。
色彩の、一番きれいなところを通り過ぎて、夜の闇が増してくるのを待つしかない、夕暮れの名残。
その色の、不思議な寂しさに耐えられない。
「…ごめんなさい」
刹那の姿がゆがみ、耐えきれない水膜が、ほろりと崩れて水になり、頬を伝うのを感じる。
彼女はあわてて頬をこすった。
いきなり低い声が降る。
「こういう時は、謝ってはいけないと聞いた」
「えっ?」
「ロックオンがそう言っていた。謝罪より、感謝の言葉の方がいいと」
ソフトに軽薄に、だがどこか油断のならない美しさで微笑んでいたサバーニャのパイロットを思い出し、彼女の涙はふと引っ込む。
───ロックオン・ストラトスが?
───刹那・F・セイエイに?
たった二人のマイスターだ。
ミッション中でも、それ以外でも、彼らがコミュニケーションを取らないわけがない。
それでも、あまりにタイプの違う彼らの、その会話というものが、とっさに想像できない。
今度は彼女が気まずくまばたきする。
会話が想像できなくても、それでも、赤く寂しい目をしたこのマイスターは、人質を志願したあの時とまったく同じに、精いっぱいの気遣いをこちらに向けてくれている。
「……ありがとうございました!」
声を上げて、彼女は腕に抱え込んでいたマフラーと、携帯端末を刹那に差し出した。
「これ、お返しします」
「ありがとう」
「サングラスも探してもらったんですが…なぜか出てこなくて。見つかり次第、地上のオフィスに送ってもらえるように、警備の方にお願いしました。すみません…ってまた謝ってますね、すみません!」
マフラーを首に巻く手をふと止めて、刹那が吐息を漏らす。
その、わずかな笑顔に。
さっきまでとはまったく違う種類の熱さに襲われる。
また熱を持ち始めた頬を、彼女はもう一度指でこする。
こつんこつんと青いネイルがメガネのつるに触れてしまうが、爪先の傷にはもうかまっていられない。
マフラーの端を肩の上にひょいと跳ね上げ、刹那はもう元の顔に戻っている。
「リニアトレインのゲートまで送ろう」
言うなり歩き出す。
「あ、りがとうございます」
断ることもできずに、彼女は刹那の背中を追った。
赤いマフラーが、微重力の中で手招きするように、ふわりと揺らめいた。
グリニッジ時間もたぶん、もう夜だ。