胸の音
「…ハロを。しばらく、借りる」
そうつぶやいて、ライルの返事も聞かずに、刹那はポッドの上のハロをふたつ、もぎ取るように腕に抱えて、サバーニャのコクピットからキャットウォークへと飛び降りていった。
無重力の中をふわりと着地し、彼の靴底の磁石は確実にキャットウォークに密着したはずなのに、刹那はわずかに体勢を崩してよろめき、抱えていたハロたちをふわりと取り落とす。
「セツナ、ダイジョウブカ、セツナ、ダイジョウブカ」
「セツナ、キヲツケテ、セツナ、キヲツケテ」
羽とも耳ともつかない可動部分をパタパタと羽ばたかせて、二つのハロが刹那にまとわりついた。
ついてきてくれ、と、そのロボットたちに律義につぶやき、キャットウォークの手すりをつかみ直した刹那は、まさに猫のようにすばやく跳躍して、まとわりつくハロたちと一緒に、格納庫のドアの向こうへと消えていった。
ハロのいなくなった格納庫は、本当に静かだ。
まだ痛む右肘を抱え、ライルはコクピットシートに座ったまま、あっけにとられた。
───あの刹那が。
どれだけ罵声を浴びせても、殴りつけても、銃口を向けてさえも逃げなかった、あの刹那が。
近接戦闘専門のダブルオーに乗って、どんな敵にも背中を見せず、その懐深くに飛び込んで相手を鮮やかに切り刻むあの刹那・F・セイエイが。
逃げた。
本当に珍しいものを見てしまった驚きと虚脱感で、ライルは肘を抱えたまま、目前のコンソールパネルにゆっくりと突っ伏した。
システムは既にリポーズしているので誤作動の心配はない。
ごつん、と、硬いパネルの感触が額に伝わる。
───だからさ。
そんなにおれとキスすんのがイヤなら、最初からちゃんと抵抗しろっての。
ため息をついてみても、まったくすっきりしない。
抵抗できない理由がある相手をいたぶる、途方もない獣じみた快感を味わっている自覚はある。
セクシャルな接触を強要された刹那が無抵抗であればあるほど、ライルの中の獣は膨らみ続ける。
かといって、刹那がまっとうに抵抗すれば、きっとまた別の引き出しから、耐えきれない怒りがこぼれてくるのだろう。
どちらに転んでも行き止まりな感情が、ぐるぐると腹の中でとぐろを巻き、薄い酩酊のような気持ち悪さを呼び覚ます。
───あー。なんか飲みてぇ。
一滴の酒も飲んでいないのにこんな気持ち悪さを味わうくらいなら、浴びるほど飲んで潰れてしまった方がよっぽどマシだ。
次回の補給では、スメラギ氏も目をむくほどにいっぱいいっぱいの酒をリクエストしてやろうと決心して、コンソールパネルに額をつけたまま、ライルは鼻息を荒くする。
ふと、足元に何かが触れた。
突っ伏したまま視線だけを動かすと、コクピットシートの足元に、青ハロならぬ青いヘルメットが浮かんでいる。
───あいつ…
逃げるついでに忘れモンまでしていきやがった。
いよいよ明日は月面に青い雪が降るのかもしれない。
あきれながら、ライルはようやく痺れの治まりかけた右腕を、足元へと伸ばした。
「刹那。おれだ。開けてくれ」
ドア横のパネルに呼ばわってみても、刹那の部屋のドアはびくともしない。
サバーニャのテストデータをチェックするために、刹那はハロを連れてこの自室へ戻ったはずだ。
クソ真面目なあの男が、目前の仕事を放り出して外出することは考えられない。
サバーニャでの、さっきのあれこれから二十分くらいしか経っていないのだ。
「刹那。聞こえてんだろ?」
おまえが忘れたヘルメットを持ってきたと言えば、刹那はスムーズにドアを開けるのだろうが、さっきの行き止まった感情の残りかすが、ライルの言動の邪魔をする。
ヘルメットのためでなく、おれの、「ロックオンのため」に、刹那にドアを開けさせたい。
その意地を通したい。
ドア横のパネルから返答はない。
刹那がそのつもりなら、こちらも最終手段に出るしかない。
開錠の暗証番号はとっくに知っているのだ。
暗証の意味すらほとんどない、「0000」。
ライルの人差し指が、パネルキーの「0」に触れようとしたその瞬間、がたん、とドアの向こうで大きな音がした。
『……、て、待て、ハロ!』
『…ックオン、ロックオン、キタ、』
パネルの極小スピーカーから、がたがたと争っているような物音が漏れたかと思うと、あっさりとドアが開く。
「イラッシャイ、イラッシャイ」
ドア横のパネルに人差し指をかざしたままのライルの目前で、青ハロが跳ねる。
跳ねる青ハロの向こうでは、パイロットスーツのままで床に片膝と片手をついた刹那が、恨めしげにこちらを見上げていた。
刹那の片手にはデータ閲覧用の端末が握られている。
さしずめ端末を持ったまま青ハロを追いかけようとして、端末と繋がっているオレンジハロにプカプカと視界を阻まれ、滑って転んだというところか。
刹那自身にドアを開けさせることはできなかったが、ドアを開けに行くAIロボットに無駄な抵抗をしたらしい刹那をまのあたりにして、ライルの腹筋は我慢の限界をあっさり超えた。
ぷっ、と噴き出して、それ以上の吐息もこらえられずに、口を押さえてライルはうつむく。
「ロックオン、ワラウナ、ロックオン、ワラウナ」
青ハロにたしなめられながら肩を震わせていると、刹那が立ち上がる気配がした。
何とか腹筋を鎮めて、ライルも顔を上げる。
端末に繋がれたまま、黙りこくって宙に浮かぶオレンジハロを、立ち上がった刹那が背後にすいと片付けている。
障害物?をどかせてライルに向き直った刹那は、引き結んだ唇に薄く力を込めていた。
なんとも表現しがたい、怒りのような、照れのような、あきらめのようなものを顔に浮かべて。
こいつが無表情すぎて何考えてるかわからないなんて言ってるトレミーのメンバーひとりひとりに、この顔を見せてやりたい。
その表情豊かな刹那の唇が、やっと言葉を吐く。
「何か用があるんじゃないのか」
憤慨とも照れ隠しともとれる質問の内容は、ごくまっとうだ。
まっとうな質問を言い放ってすぐに、刹那は小さく目をすがめて黙り込んだ。
ライルの腕に抱えられた、青いヘルメットに気がついたらしい。
「忘れモンだぜ」
ずい、とそれを片手で握り直して刹那の鼻先へ突き出してやる。
刹那がますます固く、唇を引き結ぶ。
ライルは腕を伸ばしたまま、刹那のヘルメットを手放さない。
刹那が手を伸ばして受け取らなければ、ヘルメットは刹那のもとに戻らない。
引き結んだ唇を苦しげにゆるめて、刹那は何か言おうとしたが、すぐにやめた。
言葉にならなかった吐息が、音も立てずに拡散して消える。
拡散するその時間は、数秒にも満たなかったと思う。
数秒に満たない沈黙を破り、刹那はもう一度口を開いた。
「…ありがとう」
───なるほど。
「すまない」と、「ありがとう」の間で迷って、刹那はやっと後者を選んだらしい。
なんて、わかりやすい。
わかりやすすぎて、今度はおれが泣きそうだ。
ふわりとライルはヘルメットから手を離し、刹那は両手でヘルメットを受け取った。
どこかうやうやしくも見えるそのしぐさにやはり泣きそうだ。
素直で、真面目で、律義で、誠実で。
なのにこの男には、絶望的に足りないものがある。
絶望的に足りないそれを、絞り上げて、引きずり出して、わしづかみにして、舐め回したい。
ヘルメットから離した右手を、ライルはさらに伸ばした。
ヘルメットを抱えたまま、刹那がこつりと一歩、後ずさる。
後ずさるダブルオーのパイロット。
また珍しすぎるものを見てしまった。
今度こそ泣きそうになりながら、ライルはにやりと口の端を持ち上げた。
「…警戒してる?」
刹那へと伸ばした手を、あっさり下ろす。
下ろさなければ、おそらく返事はもらえない。
素直で真面目で律義で誠実なダブルオーのパイロットは、息を飲んで、顎を数ミリ震わせた。
「……………ああ。している」
「あ、そ」
とっさに相槌をうち、ライルは身を翻して部屋を出る。
「マタナ、ロックオン、マタナ、ロックオン」
見送ってくれる青ハロを振り返る余裕さえない。
口から心臓が出そうだ。
───警戒している、と。
ロックオンストラトスを、ライルディランディを、個人として、性的な意味で、意識している、と。
あの刹那がはっきり表明したのだ。
懲りずにバカな話を振ったのは自分なのに、刹那から思い通りの返答を無理やり引きずり出しただけなのに、返答の真偽を吟味もしないうちから、ライルの心臓は暴走を続ける。
本当に、刹那が無表情すぎて何考えてるかわからないなんて言ってるトレミーのメンバーひとりひとりに、さっきの刹那のあの顔を見せてやりたい。
左手に持っていた緑色のヘルメットを取り落とし、空中を浮遊しようとするそれをなんとか捕獲して、トレミーの廊下を、ライルはふらふらと駆けた。