ラベンダーの彼方
がくがくと力の入らない指で、刹那は操縦桿を傾ける。
操られたエクシアの手のひらは、無数の星と、キャノン砲の残骸が光る宇宙空間で、幾度も幾度も空を掻いた。
Eカーボンに覆われたエクシアの手のひらは、何も捕らえられない。
さっきまでそこに浮かんでいたGNアーマーのキャノン砲も、ロックオンも、到底エクシアが捕らえられない小さな塵になって、消え失せた。
───どこだ。ロックオン。
死体など無数に見てきた。
敵も、味方も、知らない大人も、よく知っていた友人も、みんな、急所を撃ち抜かれ、身体を潰され引き裂かれ、大きな肉塊や小さな肉片になって死んでいった。
だが、こんなにも、「跡形も残らない死」があっただろうか。
ロックオンによく似合っていた緑色のヘルメットもパイロットスーツも、ロックオンの茶色の髪も、白い肌も、碧の目も、飄々と笑みを吐き出すあの声も、数秒前に、爆散して消えた。
エクシアのセンサーは、この宙域の生体反応を捉えない。
この宙域にはもう、何もない。
誰もいない。
とうに握力を失い、操縦桿にまとわりついているだけの刹那の指は、本人の意識から遊離しても、まだ同じ動作を続けていた。
エクシアが、いっぱいに両腕を伸ばした。
***
ずっと向こうまで、紫色だった。
ライルの目に映るのは、晴天と、どこまでも続く花畑。
どこまでも、というのは多少おおげさかもしれない。
だが、幼いライルには、その花畑の紫色が、遠い空の真下へ、地平線へまでも続いているように思われた。
見覚えのある場所だ。
今までも何度か、休日に両親が連れてきてくれた。
一面の紫色の花は、ラベンダーというのだと、父が教えてくれた。
風に乗って漂ってくるその香りが好きだと、母は目を細めていた。
紫色の花の間を、ライルは駆ける。
駆け回れるのが、ただ嬉しかった。
背後遠くから、花を荒らさないよう注意する母の声が聞こえるが、花畑の広さが嬉しくて、とても振り向いていられない。
駆け回って、兄を捜した。
どこかで、いつものように花の間にしゃがみこんで、目をくるくる光らせながら、ニールは隠れているはずだった。
走って、走って。
振り向けば、両親の姿は人差し指ほどの大きさになっている。
それなのに、ニールは花畑のどこからも出てこなかった。
「兄さん!」
立ち止まって呼びかける。
呼びかける自分の声が、風邪でもひいたように異様に低いのを感じて、ライルはぞくりとした。
「兄さん!」
ぞくりとしながらそれでも呼ぶ。
どの茂みからニールがぴょこりと現れるか、見える限りの紫色の花のかたまりをきょろきょろと見渡しても、ニールは立ち上がってこない。
「兄さん!!」
とうとう不安に駆られて、声が大きくなる。
とたんに、背後から名前を呼ばれた。
振り向くと、父をずっと若くしたような、見覚えのある青年が数メートル後ろに立っていた。
「…兄さん…」
変だ。
おれは子供なのに。
おれが子供なら、兄さんも子供のはずだ。
だって、このラベンダー畑に連れてきてもらったのは、まだエイミーが生まれるずっと前の…
記憶を自分でたどり始めて、ライルはそのつじつまの合わなさに絶望する。
頭をぐしゃぐしゃと掻いて、ライルがもう一度顔を上げた時、ニールのそばに、信じられない人物が立っていた。
「アニュー…?」
忘れようのない、優しい紅い瞳。
足元のラベンダーにも似た、柔らかい紫がかった髪。
今度こそ彼女を捕らえようと、ライルが手を伸ばした時、そばのニールが口をきいた。
「じゃあ、行こうか」
アニューが優しくうなずく。
うなずいて、ニールの腕に肩を預けている。
ライルは絶句した。
何がどうなっているのかわからない。
いや。
身体の、頭の奥底ではよくわかっている。
この身体がちぎれそうな、この頭が脳ごと焼き切れそうな感情と一緒に、その納得はライルの魂のすみずみまでを食い尽くしている。
「待ってくれ!」
わかっているのに、なのに、呼ばずにはいられない。
アニューの肩に手をかけたまま、ニールが振り向いた。
「ライル。悪いな。おれはもう行くから」
「いやだ」
行くな。
アニューを返せ。
勝手にフラフラどこかに行くなんて、昔と同じじゃないか。
メールもよこさず、会いにも来ず、ただ金だけ黙って送りつけてきて。
最後には、こっちの都合も聞かずに骨董レベルの古臭い車まで送りつけてきて。
そんなのは許さない。
二度も許せるわけがない。
絶対に許さない。
「いやだ!」
叫ぶライルに背を向けて、ニールとアニューは歩き始める。
追いかけようとライルが踏み出したとたんに、背後から腕をつかまれた。
「!」
ライルを捕まえたのは刹那だった。
見慣れた青いパイロットスーツ姿の彼は、このラベンダー畑の風景にあまりにもそぐわない。
「おい!放せ!放せよ!」
恐ろしい力でライルの腕をつかんだまま、ライルを無視して、刹那はもう片手で前方へ銃を構える。
何をするんだ、とライルが問う間もなく、銃声が数発響く。
ずっと前方に歩き去ろうとしていた、ニールとアニューの姿が、どさりとラベンダーの花の中に沈んで消えた。
「刹那…!おまえはっ…!!」
刹那の手から銃をもぎ取り、ライルは刹那の胸倉をつかみ上げた。
さっきまで子供だったはずなのに、ライルの腕は楽々と、刹那の全身を引きずり寄せることができた。
刹那はライルに抵抗しない。
銃を奪われても、胸倉をつかみ上げられても、顔色一つ変えずに、されるがままだ。
何もかも、あの時と同じだった。
「許さねぇ!絶対に、絶対に許さねぇぞ!!!」
ライルが絶叫しても、刹那はただ静かな目で、こちらを見ているだけだ。
刹那の胸倉をつかんだまま、ライルは銃口を刹那の眉間に押しつける。
堅い頭蓋骨の感触が、銃口からライルの指に伝わってくる。
刹那の目がかすかに見開かれ、そして静かに閉じられた。
こんなになっても抵抗しないのだ。
抵抗せず、刹那は死ぬことを受け入れている。
「カッコつけてんじゃねぇよ!!この野郎!!!」
喉が裂けそうなほど叫んで、ライルはトリガーを引いた。
バシ、と骨が砕ける音がして。
なまぬるい水滴が、ライルの頬にはじけた。
自分の悲鳴で、目が覚めた。
ベッドに横向きでうずくまり、ライルは荒い息をつく。
吸っても吸っても、息が苦しくてたまらない。
このプトレマイオス艦の自室は、明かりを落としているとひどく狭く感じる。
狭く感じるこの空間の酸素が薄いような気がしてたまらない。
震える手で自分の頬をなぞると、びっしょりした感触に鳥肌が立った。
思わず指先を確認するが、そこには何の色も着いてはいない。濡れているのは汗のせいだ。
指先までが震えてきて、ライルは手を握りしめた。
握りしめた右手を、さらに左手で覆う。
それでも両手が震えてしかたない。
この手で、撃ってしまった。刹那を。
夢の中とはいえ、あまりにもリアルだったトリガーの感触を思い出して、右手の人差し指が火傷でもしたように疼く。
刹那を恨むのはもうやめた。
やめた、はずだった。
なのに。
疼く人差し指の、震えが止まらない。
アニューがいなくなって、それでも戦うと決めて。
解体されつつあるカタロンを抜け出して、ソレスタルビーイングと共に生きると決めて。そこから数ヶ月も経ったというのに、まだ自分の心の深層は、刹那を恨んでいるのか。
ライルはきつく目を閉じる。
あれは、どうしようもなかったことだ。
刹那も、自分も、あんな結末など望んではいなかった。
ライルがどう選んでもライル自身の破滅にしか繋がらなかった状況を、刹那が選び直してくれた、それだけのことだ。
「それだけのこと」を、まだこんなにも受け入れられない自分は、どうかしている。
アニューのことがあってから、トレミークルーたちはずいぶんとライルを気遣ってくれたが、ライルを腫れ物扱いする艦内の空気は、今ではとうに消え失せていた。数ヶ月も経っていればそれはあたりまえのことだったし、トレミーの活動は戦闘行為が主であるから、いちパイロットの心情をいつまでもクルーたちが神経質に抱え込む余裕などありはしなかった。
そして、腫れ物扱いされたくないライルにとっては、皆のその余裕のなさがありがたかった。
やっと薄く目を開け、丸めたままの人差し指にすがるように口づけて、ライルは息を整える。
アレルヤがトレミーを降り、ティエリアがヴェーダに内蔵されてしまった現在、ソレスタルビーイングで実働できるガンダムマイスターは、ライルと刹那、ただ二人だけだ。
戦略的にも、心情的にも、たった二人のパイロットが連携できなくては話にならない。
刹那は、表面上は以前と何の変わりもなかった。
ただ、クルーとの直接的な関わりが減っているらしいことは、スメラギや他の女性クルーを見ていればわかった。ブリーフィング中に一度だけ刹那の目が金色に変わってしまったことがあったが、それをクルーに何気なく指摘されてから、刹那は艦の自室からあまり出てこなくなった。イノベイターとしての能力をコントロールしきれない自分を恥じているのだろうか。
わからない。
アニューの一件以来、刹那がライルの感情に踏み込んでくることは完全になくなった。
ミッション中に状況を気遣われることはあるが、ミッションが終わると、刹那はライルに話しかけてこない。
無視されているのではない。それはわかる。
無視されているどころか、刹那はライルをよく見ている。
艦の廊下でふとすれ違う時も、ブリーフィング中も、ミッションを終えてモビルスーツから降り、キャットウォークをたどる道中ですら、あのなんともいえない無表情で、刹那はこちらを見つめてくる。
視線を感じ取って見返すと、かすかな腹痛を耐えているような顔でフイと刹那がうつむいてしまうので、そのたびにこちらまでいたたまれなくなるのがなんだか理不尽に感じられて、最近のライルは刹那の視線を感じてもなるべくそれに気づかないふりをしている。
刹那がもともと表情の乏しい男であるのは百も承知だ。それでも、ソレスタルビーイングに迎えられてまもなくの頃から、ライルは刹那の表情をかなり的確に読み取ることができた。
わずかに口の端が上がる笑顔、真剣な顔、バツの悪い顔、安心している顔。
「ストラトスさんは、(トレミーに来て間もないのに)セイエイさんのことよくわかるんですねスゴイです!」などと、ミレイナに無邪気に感心されたことすらあった。
ジュニアハイスクールのお嬢さんと、三十路間近の元カタロンエージェントの観察力を同じに考えてもらっては困る。ひそかに失笑しつつも、ミレイナ以外のクルーからも似たような感想をほのめかされ、当時はやや複雑な心境に陥ったものだった。
───なんで、みんなわかんねぇんだ。おれより何年も長く、刹那とつきあってきたくせに。
そうやって、ニブすぎるトレミークルーにいらだっていたはずなのに。
ここにきて、ライルにすら───ライルですら、刹那がわからなくなってしまった。
いや、わかりたくなくなった、と言う方が正しいかもしれない。
いつまでも、一歩引いている刹那を見るのがつらかった。
どうしても引かざるを得ない刹那の思いを想像するのが嫌だった。
イノベイターである刹那に、そんな整理のつかない感情を読み取られたくなかった。
そのまま、いらだちが募っていたからといって。
あんな夢を、これからも見続けるわけにはいかない。
───勘弁してくれ。
正直すぎる本音を胸の内で唱えて、ライルはベッドに横たわったまま、力の入りすぎていた肩をゆっくりとゆるめた。
突然、耳元で電子音が鳴り響く。
飛び起きて寝具の中をたぐると、寝る直前まで眺めていた携帯端末がやっと見つかった。
けたたましく鳴るそれの着信ボタンを指先で乱暴に叩く。
『刹那だ。朝早くにすまない』
落ち着きかけていた心臓が、たちまち凍った。
本当に幸運なことに、着信はサウンドオンリーだ。こちらの顔は刹那には見えない。
「ど、うした?」
短い問いかけさえ途切れるこの動揺を、寝起きのせいにしてしまいたい。
ライルは固唾を飲む。
『今からダブルオーの再稼働実験をすることになった』
いつから起床していたのか、刹那の声はよどみない。
太陽炉を失ったダブルオーに、粒子貯蔵タンクを取り付ける作業が行われていたのはライルも知っていた。
『預かっていたミッションプランをおまえに渡す時間がない。すまないが、後で俺の部屋からデータスティックを持って行ってくれ。デスクに置いておく』
まだまだ実働には程遠いとはいえ、刹那の半身ともいえるダブルオーが、数ヶ月ぶりに稼働するのだ。自室にこもっている場合ではないだろう。刹那の内心の高揚をふと想像して、凍りついていたライルの胸が、不思議に疼いた。
「鍵は?開けっ放しにしとくのかよ?」
艦内のそれぞれの自室は、無人の時は施錠しておく決まりになっている。
『暗証番号は0000だ。ドアはそれで開閉してくれ』
プライベート空間に踏み込まれることに何のこだわりもないらしい刹那の声は、本当によどみない。
「………了解」
たっぷり一呼吸置いてライルが返答すると、通信はすぐに切れた。
***
「刹那!こんな時こそ休まないと参っちまうぞ!」
エクシアのコクピット周りの調整を終え、イアンは小さく叫ぶ。
帰艦して、格納庫に横たわるエクシアの手のひら付近に立ったまま、刹那は振り向かない。
ヘルメット内の通信は完全オープンにしているはずだ。
刹那は時々しゃがみこんでは、エクシアの巨大な指先を撫でている。
ロックオンがもう戻らない今、ソレスタルビーイングはたった3機のモビルスーツで、国連軍に立ち向かわねばならない。
貴重なパイロット人員が無駄に疲労することは許されない。
「刹那!」
イアンの声色にわずかに怒りがにじんだ時、ようやく刹那の青いヘルメットがこちらを向いた。
無重力の中で、機体を蹴って勢いをつけ、刹那はイアンのそばへと漂ってくる。
ヘルメットの中の刹那の目が、充血して濁っている。
つい数時間前に、兄貴分の死を目の前で見てしまったのだ。
今まで見たこともなかった刹那の目の、その鈍い色合いに、イアンの胸が締めつけられる。
「イアン」
そばに降り立った刹那が、握りこぶしを突き出してきた。
「何だ?」
握りこぶしと刹那の顔を交互に見て、イアンはけげんな顔をした。
握られた刹那の指が、ほんのわずか広げられると、その隙間にキラリと光るものがある。
何か───金属の破片だろうか。
指の隙間からその破片が無重力空間に飛び散るのを防ぐように、刹那はもう片手で大切そうに自分の握りこぶしを覆った。
「イアン。後でこれが何の素材か調べてもらえないか?」
「は?こっちはいろいろそれどころじゃないんだが…」
「だから、この戦いが終わった後でいい。頼む」
どんなにエクシアの装備を強化しても、礼の言葉ひとつ寄こさなかった子供の低姿勢な要望に、イアンは面食らった。
「なんだそれは。装甲の破片か?」
小指の先よりも小さいかけらがひとつ、刹那の指の間からするりと抜け出す。
それは水滴のように白く光を反射して、宙に浮かんだ。
透き通ったかけらは、装甲の───Eカーボンの破片ではない。
かすかにあわてて、刹那はそれを手のひらで追いかけ、再度握り込むと、ぽつりとつぶやいた。
「…エクシアの指先に付着していた」
***
刹那とライルの自室は、そう離れているわけでもない。
同じように早朝からライルを叩き起こしてしまうのならば、ダブルオーの格納庫に行く前に、刹那がデータスティックをライルの自室まで持って来ればよかったのではないか。
それとも、あの朴念仁はらしくもなく、寝起きのライルに気を遣ったのだろうか。それとも───そんなにまでして、刹那はライルとの直接接触を避けたいのだろうか。
無駄としか言いようのない思考回路をなだめすかして、ライルは自室に戻り、刹那の自室から回収してきたデータスティックを端末に挿し込んだ。
だが、端末のディスプレイは、何のデータも映し出さない。
ライルは首をかしげた。
色々な面倒を乗り越えて回収してきたこのスティックの中身が、空っぽなんてことがあるだろうか。
機器の接触不良を疑い、もう一度スティックを端末に挿し直してみても、結果は同じだ。
「どうなってんだ?」
思わずいらだちを口に出した後で、ふと気づく。
データスティックの中で、何か、音がしたのだ。
スティックを端末から抜いて、握ったまま軽く振ると、あろうことか、キシキシと硬いものが中でぶつかり合うような音がする。
───これは。
長い長いため息と共にライルは部屋の天井を仰いだ。
どこかにぶつけたのか元からの不良品なのか知らないが、これはスティックの中身が基盤もろとも昇天してしまっている音だ。
「真面目」にクソがつくあの刹那がやらかすとは珍しい。
とりあえずこの事実を刹那に伝えるのが先か、ミッションプランの再ダウンロードをスメラギに依頼するのが先か。
「ったく…」
腹立ちまぎれにスティックをピンと空中へはじいてやると、細長いそれはクルクルと回転して天井を目指した。
『ロックオン』
またも突然、室内に電子音が響く。
今度は携帯端末ではなく、ドア横のパネルからの音声だ。
『ロックオン、居るか?』
タイミングの良すぎる、刹那本人の訪問らしい。
ダブルオーの稼働実験はもう終わったのだろうか。
「…ああ。今開ける」
宙を飛んでいたスティックをわしづかみに捕まえて、ライルはドアへと向かった。
ドアを開けると同時に、刹那にスティックを突き出す。
「なあコレ。さっきもらったけど、中身イッちまってるぞ?スメラギさんにもう一回…」
「すまなかった。俺が間違えた。ミッションプランが入っているのはこっちだ」
「はぁ?」
着替える間も惜しんで来たのか、刹那はパイロットスーツのままだ。そのグローブを着けたままの指がもう一本、そっくりなデータスティックを握りしめている。
それをおずおずとライルに差し出す刹那の表情が、どうもおかしい。
だいたい、「おずおずと」何かを他人に差し出す刹那、という状況がすでにありえない。
なんか悪いもんでも食ったのかと突っ込みたいが、この男はいつもろくな返事をしないことをライルは知っている。
なんとも落ち着かないモヤモヤをこらえて、ライルは刹那からスティックを受け取った。
「サンキュ。じゃ、コレ返すけど完全に壊れてっからな?」
念を押して最初のスティックを刹那にもう一度突き出すと。
刹那の顔が、奇妙に歪んだ。
いつもの「ちょっと腹痛こらえてるような」あの顔ではない。
腹が立つほど涼しげな、あの落ち着きはどこかに吹き飛び、芯からの苦しさのようなものを体内に押し込めようとして、刹那は完全に失敗している。
失敗したその表情で、刹那はやはり苦しげに視線を落とした。
「…それは、データスティックじゃない」
「へ?」
突然何を言い出すのか。
どこからどう見てもライルの握ったこれは、地球圏で一般的に流通しているスティック型の記録媒体にしか見えないのだが。
「そのスティックの中は空洞だ。空洞部分にポリカーボネイトの破片が入っている」
「なんだそりゃ。じゃあコレは、データじゃなくて単なるイレモノってことかよ?」
「ああ」
「ふーん。で、こんなポリなんとかの破片、何で持ってるわけ?」
「確定はできなかったが。それは、ニール・ディランディの遺品だ」
「これが?兄さんの持ち物だったって?」
利き手に握っている物体にいきなり些細ではない意味を与えられて、ライルは「イレモノ」なスティックを思わず眺め回した。
「前のトレミーは墜ちてしまって、ニールの所持品は回収できなかった。遺体も……回収できなかった」
刹那は視線を上げない。
「ニールが居た宙域を捜索した後、エクシアの指先に、溶けたポリカーボネイトが付着していた」
淡々とした声が、少しずつ吐息を含んでゆく。
「おそらく、ロックオンのヘルメットの…バイザーが、溶けて固まったものだろうと…イアンが言っていた」
ライルの聞いたことのない、切れ切れの刹那の声が、静かにライルの耳を打つ。
二代目のロックオン・ストラトスが目の前にいるのに、刹那は記憶の中のニールをロックオンと呼んだ。話すうちに余裕をなくしたのか、記憶が苦しいのか、ニールへの思いが大きすぎるのか。
その全部かもなと思いながら、ライルは刹那を見降ろし続ける。
わずかにまた、刹那が視線を下へと落とす。
その小さな角度の変化が、刹那の赤褐色の瞳をさらに赤くした。
「確定はできない。コロニーからのデブリが偶然エクシアに付着しただけかもしれない」
ニールの最期は、壮絶だったのだろう。
彼のヘルメットが四散するほどに。
彼の髪の毛一本も残らないと、確信できてしまうほどに。
アニューがライルの目の前から消えた、あの時のように。
「だが、少しでもニールの遺品だという可能性があるのなら、それは、おまえが持っているべきものだと思う」
刹那は突っ立ったまま、スティックを受け取ろうとしない。
ライルは「本物の」データスティックをズボンのポケットに押し込み、もう一度、右手に残ったスティックを眺め回した。
照明に透かしてよく見ると、半透明に白いスティックは、中央部分が少し紫がかっている。
ポリなんとかの破片が紫色なのだろう。
そういえば自分のヘルメットのバイザーもこんな色だったと、ライルは単純に納得する。
「ヤなこと訊くけどいいか?」
「……ああ」
ヤなこと、と言っているのに、刹那は迷いもなくこちらをまっすぐ見上げてくる。
───おまえの、そういうとこさぁ。
大ダメージ食らうってわかってても一直線で逃げない、おまえのそういうとこが、おれは。
胸に渦巻く薄暗い痛みを耐えて、ライルは底意地悪く、スティックを刹那の鼻先にかざした。
「兄さんの遺品かもしれないって思ってて、なんで今までおれに言わなかったんだ?」
「……すまない」
「謝ってほしいわけじゃねぇんだ。んっとに、今日は朝から謝ってばっかだなアンタ?ん?」
「………………」
とうとう刹那がもう一度、視線を落とす。
刹那の瞳が、また赤くなり、褐色になり、揺れる。
ライルの胸の薄暗い痛みが、さらにどす黒く濁る。
これは明らかにやりすぎだ。
とてもわかりやすいことをわかっていて、わからないふりをして刹那を痛めつけても、何の気晴らしにもなりはしない。
ライルはスティックを空中に放り捨てた。
あ、と刹那がそれを目で追う。
身体の中のどす黒い痛みを振り切るように、ライルは刹那の腕をつかんだ。
部屋の中へ刹那を引きずりこみ、ドアを閉める。
ふいを突かれてこちらに倒れかかってきた刹那の目が、金色に輝いた。
驚いて能力のコントロールを失ったのか。
また殴られると本能的に身構えているのか。
───勝手に、読めよ。
おれの心でも意識でもなんでも、勝手に読めばいい。
無重力の中をふわりと倒れかかってきた刹那の顎を指で捕らえて、上向いたその唇を、ライルは唇で塞いだ。
ゼロ距離で輝く金色の虹彩をにらみつけて、刹那の舌を舌で探る。
───読めるもんなら読んでみろよ。
おれの心なんて、おれにだってわからない。
おれにわからないものがおまえにわかるっていうんなら。
イノベイターのおまえにならわかるっていうんなら。
無理やり割り開いた唇は、ほんの瞬間だけこわばり、すぐにライルの侵入を受け入れる。
キラキラと不安げに揺らめく虹彩がどんなに人間離れしていても、舌の柔らかさは、誰も同じだ。
刹那の目がすがめられる。
その苦痛の表情を見るのが嫌で、ライルはとっさに目を閉じた。
視覚を塞ぐと触覚に意識が集中するせいか、口の中の熱が増す。
舌の裏に舌を挿し込んでやると、刹那の肩がびくりと震えた。
逃げかかる刹那の舌を、ライルは甘く噛んで捕らえる。
とどめを刺すように舌を吸い上げてやると、くぐもった呻きがもれた。
その低い響きに、ライルの背筋までが震える。
もっと呻かせたくて食らいつくと、刹那の顎が小さくけいれんした。
「…、ぅ…」
唾液の水音と一緒にもれたかすかな声に、我慢できなくなる。
目を開けて、ライルは刹那の両肩をつかんでドアに押しつけ、もう一度唇をむさぼり直す。
迷わず今度も舌の裏を狙って舐め上げると、刹那が腰をよじった。
「……ぅ、…う!」
逃がさない。
刹那の足の間にライルは足を割り込ませ、下肢の動きすら封じる。
ドアと自らの体幹を使って、ライルは腕の中に刹那を閉じ込めた。
いっさいがっさいあきらめたのか、今度は刹那が目を閉じる。
明らかに快楽など待っていない、眉根を寄せたその顔に、ライルの胸の中で濁っていた痛みが、鮮やかにぶり返す。
顔を傾けて刹那の耳を噛むと、こめかみに硬いものが触れた。
ライルの目元で紫色の光がはじける。
宙に投げたスティックが、壁にぶつかって跳ね返ってきたらしい。
「……おっと」
顔を上げて、ライルはそれを握り取る。
ドアに押しつけられたままの刹那が、おそるおそる薄目を開けた。
何が起こっているのかわからない、と言いたげなその金色は、宇宙に消えてしまったアニューのそれと瓜二つだ。
───痛ぇ。
自分の唇を自分で噛み潰して、ライルは苦痛を耐える。
喉から腹から締め上げられるような、身体の奥底からの、この目に見えない痛みは、本当にいったい何なのか。
イノベイターにそれが理解できるのならば、教えて欲しい。
なにもかも混沌とした、刹那へのあらゆる興奮を唇の内側でやっとせき止めて、ライルは息を飲み下す。
飲み下せたのが、奇跡のようだと思う。
「兄さんの遺品なら、おれはもう持ってる」
乱暴に刹那の手を取り、ライルは今捕まえたスティックを刹那の手のひらに押しつけた。
「デュナメスリペアがあるし、車も。おまえも一度だけ見ただろ。おれの車」
力なく開かれたままの刹那の指にスティックを握らせ、ライルはさらにその上から、刹那の手を握り込む。
「いろいろバカでかいモンもらっちまったからな。だからおれはもう兄さんの持ち物はいらねぇ。これはおまえが持ってろよ」
───欲しかったんだろ?
どうしても、持っていたかったんだろ。
心底の願いすら口に出せないおまえのそういうとこが、おれは、ほんとに、まったく。
何秒か過ぎて、刹那の指がやっとスティックを握ったのを感じ取って、ライルは刹那の手を解放した。
クソくらえな脳量子波が、どういうふうに刹那の脳内で作用するのかはわからない。
ただ、ドアに貼りつけられて、呆然とスティックを握っている刹那の顔は、さっきよりも数歳幼いような気がする。
すぐにそばのパネルを叩き、ドアを開けてやる。
背中を圧迫していたものが急になくなり、よろめく刹那の胸元を、ライルはぽんと突き飛ばした。
「じゃあな」
呆然としたまま、ふわりと廊下へ押し出された刹那の応答も待たず、ライルはドアを閉めた。
「はぁ~…………」
吐けるだけの息をとにかく吐いて、ライルはベッドに倒れ込む。
またも寝具の間に突っ込んであった、データ閲覧用の端末が、薄い布越しにゴリゴリとライルの頬に触れる。
その硬い感触とは対照的な、柔らかかった刹那の舌を思い出して、逃げられない胸の痛みに、無様に何度も寝返りを打つ。
───おれは。
刹那をアニューの身代わりにしたいのか、
アニューを刹那の身代わりにしたいのか、
刹那のせいでアニューを思ってるのか、
アニューのせいで刹那を思ってるのか、
刹那を遠ざけたいのか、
刹那を捕まえたいのか、
刹那が憎いのか、
刹那が好きなのか。
そこまで思考をのたうち回らせて、ライルはあっさりと力尽きた。
寝転んだままのろのろとズボンのポケットを探り、「本物の」データスティックを取り出したものの、データ閲覧作業を続行する気力はもうとっくに失せている。
そういえば。
溶けたバイザーの、ポリなんとかがどういう形状の物質なのか、刹那に見せてもらうのを忘れた。
ヘルメットのバイザーの透明度は高い。それが溶けて固まって、スティックの中であそこまで光を透過して紫色に見えるのだから、ガラスのように美的なのかもしれない。
アレを持ち続けている限り、刹那は今日のライルを忘れないだろう。
───それで、おれは。
ニールの遺品と言うには不確実すぎてささやかすぎる、アレを持ち続ける刹那を思い出すたびに、おれはこうやってのたうち回り続けるんだろう。
とうとう耐えきれず、ライルは思考をシャットダウンする。
ソレスタルビーイングの人員不足は深刻なのだ。
効率よく休み、効率よく作業を続行せねばならない。
十分間休憩したら、もとの作業に戻ろう。
データスティックを握りしめたまま、ライルはゆっくりと目を閉じた。
アレを持ち続けている限り、刹那はライルを忘れない。
またいつか、難癖でもいちゃもんでもつけて、刹那の部屋に押しかけて、あのスティックの中身を見せてもらえばいいのだ。
あの、胸苦しい記憶の彼方の、花畑にも似た色を。