ホライズンブルーの休日
地平線が曇っている。
砂避けの黒いゴーグルを外して、刹那はその遠くの空を見つめた。
見渡す限りの砂の大地と、薄青の空の境目は茶色く曇っている。
春風が、砂を吹き上げているのだ。
その風の匂いを、刹那は覚えていた。
このアザディスタンでは───いや、十数年前までクルジス領だったこの土地では、春が来ると祭りが催される。賑やかな出店が立ち並び、大道芸人が人を集め、裾の長いドレスを着た女性が大勢、村の広場で踊る。
懐かしくは、なかった。
刹那にとって、自身の最古の記憶に近づくことは、恐怖と同義だからだ。
思い出そうとすると、身体のどこかに変調をきたす。その変調が恐怖から来ているのだと理解してからは、かろうじて体調のコントロールができるようになった。
だから今は、体幹のどこかがずしりと重くなるような気がするだけで、頭痛も、腹痛も、吐き気もない。
だが、生家のあった村に足を踏み入れる気にはなれない。
それでも、こうして生家の隣村あたりには来られるようになった。
隣りといっても、砂漠を挟んで数十キロの距離があるのだが。
砂の大地の彼方にぽつりぽつりと並ぶ建物を見つめて、刹那はゴーグルをかけ直した。
クルジスだったアザディスタンが、追われていたマリナが戻ったその国が、今どうなっているのか、一目見たかった。
借り物の小さなジープのエンジンをかけ直し、刹那は村落の建物に向かって走り始めた。かなり大きな村だ。祭りの音楽らしき歌声や、それを盛り上げる楽器の音が、少しずつ近づいてくる。この規模の人混みなら、自分のようなよそ者がまぎれても目立たないかもしれない。
同じように村の入り口を目指す車が、遠くに見える。
幌付きのその小型トラックは、村外れの小さな建物に猛スピードで近づき、急ブレーキをかけた。
水汲み場らしいそこで、10歳くらいの少女が一人、給水ポンプのレバーを上下させて、ポリタンクに水を注いでいる。
停止したトラックから降りてきた男は、野菜袋でも担ぐように、いきなりその少女の身体をつかみ上げた。
***
ほんの、15分前。
「ライラ。水を汲んできてくれる?」
母にそう言われて、水を汲みに来た。
早く祭りを見に行きたかったが、夜のごちそうを作るのに水が足りなくなったのなら、しかたがなかった。
それに、お祭り用のドレスを買ってきてくれるはずの祖父は、まだ帰ってこない。
祖父をじりじりと待ち続けるよりも、何か手伝いをして時間を潰す方がましだった。
なのに。
水を汲んでいたら、急に身体が浮き上がった。
何が起こったのかわからない。
つかまれた肩が刺されたように痛んだ。
大きな袋を担ぐように、誰かの肩の上に全身を持ち上げられて、頭がぐらぐらした。
勝手に空と地面が揺れ、身体がどこかへ運ばれてゆく。
声が出ない。
とにかく自由になりたくて足をバタバタさせると、聞いたこともないガラガラ声が飛んだ。
「じっとしてろ!殺されてぇのか!!」
何も悪いことはしていない。
井戸のポンプで水を汲んでいただけだ。
頭のてっぺんに、氷のように冷たいものが駆け上がってくる。
男の毛深い首筋から、湿った泥のような、嫌な臭いがする。
吐きそうだ。
鼻がツンとした瞬間に、別の声がした。
「その子をどうするつもりだ」
若い男の声だった。
振り向きたくても、身体を担がれているので前が見えない。
「邪魔するな!うちの娘をどうしようが俺の勝手だ!」
助けて、と叫びたい。
叫ばなければ大変なことになるのに、どうしても声が出ない。
代わりに、力いっぱい足をバタバタさせた。
「じっとしてろってんだ!!」
怒鳴られて、いっそう喉が塞がるような息苦しさに襲われる。
「父親が、汲んだ水も持って帰らないのか?」
全くひるまず、声が問いかけてくる。
短い沈黙の後で、固いものがぶつかるような音がした。
衝撃と一緒に、ライラは地面に転がり落ちた。
砂が口に入り、舌がしびれる。
やっぱり何がどうなっているのかわからない。
黒いサングラスのようなものをかけた男が、ライラの上半身を引きずり起こした。
「向こうの車の影に隠れろ。走れ!」
言うなり彼は、その場に倒れてうめいている男の胸ぐらをつかみ上げて、その横面を膝蹴りした。
電池の切れたおもちゃのように、顔を蹴られた男の反応はなくなり、ぱたりと地面に横たわる。
サングラスの男が振り向いた。
彼の黒髪に、砂ぼこりが一筋、風にあおられて吹きかかる。
「大丈夫か?」
走れと言われたのに、なぜか立ち上がることさえできない。
「家まで送る。道を教えてくれ」
男は顔色ひとつ変えずにライラを抱き上げて、止まっている小さな車に向かって走り出した。
男の車を降りて、手を引かれながら家の玄関にたどり着く。
母の顔を見たとたんに、ライラの目からボロボロと涙がこぼれた。
驚く母の前でもまだ声が出せない。
ライラを母に引き渡し、男は低い声でさっきの出来事を母に説明した。
「警察に連絡して、村中で警戒した方がいい」
「本当なの?ライラ?」
ライラの肩を抱いたまま訊いてくる母の声も低い。
今まで聞いたことのない声音だった。
ライラがうなずいても、母の質問は続いた。
「どこか痛いところはある?」
「……肩が、痛い」
やっと声が出た。
「肩?どうしたの?」
「知らないおじさんに捕まえられたから」
「叩かれたの?」
「ううん。引っ張られただけ」
「他に痛いところは?」
「…ない」
「ほんとうね?」
「うん」
「あとでどこかが痛くなった時も、必ず言うのよ?」
「うん」
ライラが頬を拭い直すと、母はライラをもう一度抱きしめた。
そのままの姿勢で、母はそばの男に礼を言った。
「お礼をさせてください。…旅行の途中なのですか?」
「ああ」
「ちょうど祭りなので、ぜひ。おもてなしさせてください」
母が扉を開けて男を促しても、男はその場を動かない。
「…当然のことをしただけだ。俺はこれで」
肩にはおった、草色のマントのようなものを小さく揺らして、男は立ち去ろうとした。
その時、家の前に、見覚えのある車が急停車した。
隣のハジおじさんの車だ。
運転席の窓がすぐ開いて、ハジおじさんが大きな身体を肩から乗り出してきた。
「おう、ライラ!今日はもう1人で外に出るなよ!」
「何かあったんですか?」
ライラの手を握ったまま、母が訊く。
「さっき、村の外れで誘拐犯が捕まったんだとよ!仲間が近くにいるかもしれねえ!気をつけな!」
ハジおじさんの話によると。
村外れの家に、少女が1人、駆け込んできたのだそうだ。
少女は別の村でさらわれてトラックに詰め込まれ、この村の近くまで運ばれてきたと言った。が、急にトラックが止まり、犯人の運転手が他の少女を襲っていたので、その隙に逃げ出してきたらしい。
村人と、駐在所の警官が村外れに出てみると、犯人らしき男が倒れていたので、彼を連行して今、事情を訊いているということだった。
他にも連絡先があるのだろうハジおじさんは、忙しくしゃべって、忙しく走り去っていった。
玄関から少し離れたところで話を聞いていた草色のマントの男も、自分の車の運転席にもう乗り込もうとしていたが、母がそこへ駆け寄った。
「ほんの、短い時間で結構です。お礼をさせてください。お客様をもてなすのが、この祭りのしきたりですから」
家の扉の前にいたライラには、男がどう返事をしたのか聞こえなかった。
だが、彼は母と一緒にこちらに戻ってきてくれたので、ほっとした。
ライラがサングラスだと思っていたそれは、黒い砂避けのゴーグルだった。ダイニングの長テーブルの、奥から2番目の席に座り、男はゴーグルを取った。
テーブルの上には、祭り用に母が作ってくれた焼き菓子や、作りかけの夕食の材料が、皿やボウルに詰め込まれていっぱいに並べられている。
「これ、どうぞ」
母に指示された飲み物を、ライラは彼のそばに置く。すると、古いペンダントのように赤茶けた目が、こちらを見つめてきた。
「……ありがとう」
きれいな目だった。
なのに、その透き通り具合がどこか、怖い。
「あの、これお酒なんですけど、」
口に合わなかったら飲み干さなくて大丈夫です、と母に言われたように言いかけると、今までどこで遊んでいたのか、ライラの弟がダイニングに駆け込んできた。
「お客ってこのお兄ちゃん?いいの?お酒だよ、飲める?」
「ナジム、静かにして!」
小さな弟が握っている、祝い用の爆竹の燃え殻から、かすかに焦げ臭い匂いが立ちのぼる。テーブル周りを走り回る弟をたしなめつつも、ライラも弟と同じ疑問を持っていた。
男はとても若く見えたのだ。
ゴーグルをかけていた時と、印象が全然違う。
ついこの間、大学に行くために村を出ていった従兄と変わらないくらいに見えた。
「お兄ちゃん、何さい?」
遠慮のない弟が、突然の来客に興奮して、男の隣の椅子にぽんと飛び乗る。
「22だ」
お酒の入ったカップを握ったまま、男が答える。
母やライラに答えるのと全く同じ声音だった。
まっすぐ弟を見つめるその目も、それまでと同じように笑っていない。
だが、笑いながら子供の機嫌を取る他の大人よりも、なぜか感じが良いと、ライラは思った。
「名前は?」
「セツナだ」
「変わった名前だね!」
「そうかもしれない」
「どこから来たの?お祭り見に来たの?」
アザディスタンの首都から来たと、「セツナ」は言った。
時おりカップに口をつけながら、セツナは祭りの楽しさを脈絡なく話し続ける弟の顔をじっと見つめている。
「ナジム、自分だけ食べないでこの人にも渡して!」
皿に盛られた揚げ菓子を抜け目なくつまんだ弟にいらだち、ライラの声も少し大きくなる。
弟から菓子を手渡されたセツナは、それを指先で持ったまま、ライラに向き直った。
「……一緒に食べてくれないか」
突然の申し出に、ぽかんとしてしまう。
「座ってくれ。食べていない人間がいると落ち着かない」
やっとセツナの言っていることの意味がわかり、ずっと緊張していたライラの身体の芯が、ふわりとゆるんだ。
今まで家に来たどんなお客にも、一緒に食べようと言われたことはない。
とても不思議な感覚だった。
ふわりとゆるんだ気持ちのまま、ライラはやっと弟の隣に座り、弟から「はい」と渡された菓子をつまみ、一口それを頬張った。
菓子にまぶされた砂糖が、ひときわ甘く口の中で溶ける。
「お兄ちゃんも早く食べなよ!」
弟が、なかなか食べないセツナをせかす。
ライラも思わずセツナを見つめた。
やっと彼が一口、菓子をかじる。
セツナの赤茶けた目が、ほっとしたようにほんの少しだけ細められた。
ついさっき、誘拐犯の顔を鮮やかに蹴り上げた人間の目とは思えない。
そんな、優しい目だった。
母が、急いで仕上げた肉料理をセツナの前に置いた時、玄関の扉が開く音がした。
「おじいちゃんだ!」
セツナの隣に座っていた弟が、椅子から飛び降りて玄関へと走る。
楽しみにしていたドレスのことを思い出し、ライラもそっと立ち上がって、ダイニングの入り口で祖父を出迎えた。
「ほら。買ってきたぞライラ」
ドレスが入っているらしい、空色の紙バッグを渡されて、ライラの心が跳ねる。
「ありがとう!」
「ハジがなんだか、物騒なことを言ってたがみんな大丈夫だったか?」
弟にまとわりつかれながら、祖父がライラに尋ねる。
ハジおじさんの話が、もう祖父にも伝わっているらしい。
どう答えていいかわからなくてライラは母を振り返る。
「あの、それが…」
ライラの後ろに立っていた母が答えようとした時、祖父の声音が変わった。
「……誰だ?」
その場が全て凍りつくような、冷えた声だった。
ハッとして、ライラはセツナを見る。
ダイニングの奥で、いつのまにかセツナは椅子から立ち上がっていた。
そのまま、彼は祖父に向かって小さく頭を下げた。
母が、祖父に早口で事情を説明する。
それを半分も聞かないうちに、祖父は母を押し退け、つかつかとセツナに歩み寄った。
その勢いに弟が驚き、祖父から離れて、母の腕にすがる。
祖父は、セツナを真正面からじっと見つめている。祖父の表情は見えないが、その背中と肩が、ぶるぶると震えている。
「おまえ。その顔……クルジス人だろう?」
さっき跳ねたライラの心が、すみからすみまで冷えきるような低い声で、祖父がセツナに問う。
「そうだ」
セツナが答えたとたんに、祖父はセツナにつかみかかった。
「出ていけ!!よくもノコノコと入り込みおって!!」
大柄な祖父に胸ぐらをつかまれ、セツナの身体が、そばの椅子と一緒に床に引き倒される。
あれほど敏捷な動きでライラを助けたはずの彼は、祖父の腕を避けることも、振り払うこともしなかった。
テーブルが揺れ、カップが転がって床に落ち、悲鳴のような音を立てて割れた。
母の腕にすがったまま、弟が声を上げて泣き出す。
「お父さんやめて!」
母が制止しても、祖父は倒れたセツナの背中を蹴りつけた。
蹴りつけながら、まだ懐にしまっていた旅行用の拳銃を構える。
「こいつがクルジスの兵隊じゃなかった証拠がどこにある?クルジス人のガキがどんなに悪どいか、おまえは知らんからそんなことが言えるんだ」
「それでも、この人はライラを」
「うるさい!どうせこいつも誘拐犯の仲間だ!警察を呼べ!」
「いいえ。この人は違うわ!」
祖父と母が言い争う間に、セツナはゴーグルを拾ってゆっくりと立ち上がり、立ち尽くしているライラの方を見ることもなく、ダイニングを出ていった。
祖父が拳銃を構えたまま、玄関へと彼を追い立てる。
ライラもふらふらと祖父を──いや、セツナを──追った。
「わしの息子を返せ!……返せないなら、死ね!!」
家を出て、通りへと遠ざかるセツナの背中へ、祖父の罵声が飛ぶ。
拳銃を握りしめたまま、ずるずると祖父は戸口にへたり込んだ。
ダイニングで泣き続ける弟を、母がなだめている。
セツナが、通りに止めた自分の車に乗り込み、エンジンをかけた。
ライラは玄関から飛び出した。
「行くんじゃない!ライラ!」
祖父が怒鳴っているが、かまわなかった。
「待って!」
セツナの車を追いかける。
駆け寄ったライラの指が、そのテールランプに触れた時、車は発進した。
砂で白く汚れたテールランプは、ライラの指の跡をつけたまま、あっという間に遠ざかる。
「セツナ!待って!!」
叫んでも、車は止まらない。
本当に、セツナにはこの声が届いていないのか。
そんなはずはない。
───もう。
謝ることも。
お礼を言うことも。
許されないのだろうか。
砂ぼこりを飲み込んで、ライラの感情が、喉からひりひりと濁る。
セツナの車は、すぐに角を曲がった。
ライラが走って角を曲がった時、車はもうずいぶん遠ざかっていた。
夕暮れが、真っ赤だった。
大通りの家々には、賑やかに明かりが飾り付けられ、何事もなかったように、たくさんの人が笑い合っている。
遠くの広場から、祭りの楽器の音と、陽気な歌声が流れてくる。
立ち止まったライラの目から、ついさっきこぼしたのとは全く違う種類の涙が、一筋こぼれた。
***
「どうした?時差ボケか?」
デュナメスリペアのコクピットから、ライルがひょいと顔を出した。
刹那は、格納庫のキャットウォークからライルを見上げる。
アザディスタンから、アフリカタワーに近い、このソレスタルビーイングの秘密拠点まで帰ってくるには、確かに時間がかかるが、時差ボケが発生するほどの距離ではない。
「休暇から帰って早々にシミュレーションか?もう寝た方がいいんじゃねぇの。スメラギ氏のミッションスケジュールはまあまあ無慈悲だぜ?」
言いながら、ライルもキャットウォークに降り立ち、けだるげに首筋を掻きながら歩いてくる。
「いや。エクシアのコクピットパネルをチェックしたいだけだ」
デュナメスリペアの向こうには、整備を終えた刹那の愛機が静かに立っている。
1週間ぶりに見るエクシアリペアは何も変わっていない。
地上でのミッションが続いていた先週、奇跡的にスケジュールが空き、何年ぶりかに長めの休暇をもらった。
ほとんどの人間にとって、休暇というものが終わるのは、寂しいことなのだろう。
だが、今の刹那の胸の中に、寂しさはない。
それどころか、エクシアの姿を見てほっとする、この感情より落ち着く出来事は、休暇中にも発生しなかった。
「ほんと、やめとけ。顔がなんか疲れてんぞ」
何の遠慮もなく、ライルが刹那の顎先に指をかけてくる。
クイと顎を持ち上げられて、碧色の目が、やはりけだるげにこちらをのぞき込んできた。
1週間ぶりに見るライルも、エクシアと同じように、何も変わっていない。
一人でこなすミッションは、彼にとって忙しかったことだろう。
疲れているのはおまえだろうと言いたかったが、刹那はそれをこらえた。
こらえなければいけないような気がしたからだ。
「なんかあったのか?ん~?」
ふざけ半分で碧色の目がにんまりと笑み、さらにこちらをのぞき込んでくる。
この感覚は何なのだろう。
刹那はその碧色を射るように見返す。
じっと見返していないと、自分がなくなってしまうような。
この地球の大気ごと、視界も薄くなりそうな何かの熱に包まれて、自分の身体も意識もふわふわと、温かく蒸発してしまうような、この感覚。
ライルがふざける口調になるのは、何か深刻なものを彼が感じ取ったからだ。
深刻さを周りに悟らせないために、自分と相手を守るために、いつも彼は軽口を鎧にしている。
───ニールも、同じだった。
「なに笑ってんだよ」
言葉をこらえるあまりに、口の端が上がってしまったらしい。
「いや。ありがとう」
「なんだよ急に。気持ちわりーな」
「礼を言いたくなっただけだが」
「だからなんでだよ」
「言葉通りの意味だ」
「だから!そーいうことを言ってんじゃなくて!おいヒトの心読んでニヤニヤしてんじゃねぇぞ!」
「別に読んでいない」
「ウソつけ!」
「本当だ」
ライルの指が、刹那の頬をつまんで引っ張り、すぐ離す。
頬の痛みに少しだけ刹那は目をすがめたが、その痛みさえもどこか温かい。
「来い。今日はおまえも店じまいしろ。つきあえ」
刹那から顔を背け、しかし刹那の腕はしっかりつかんで、格納庫の出口へとライルが歩き出す。
やはり抵抗してはいけないような気がして、刹那も腕を引かれながら歩き出した。
本当にライルは、イノベイターではないのか。
装ったつもりの平静を見透かされてしまった悔しさは、刹那の中で、不思議に膨らまない。
これがニール相手だったなら、何年も前の自分だったなら、悔しさを隠すために、もっと沈黙を貫いたことだろう。
ライルの心など読むつもりもない。
だが、彼の緑色のグローブから、刹那の肘をからめ取るように、柔らかい感触が巻きついてくる。
不可視のそれは、パイロットスーツ独特の柔らかさなのか、それ以上に柔らかい、彼の思念のひとひらなのか。
───二度とあの村へは行くまい。
ジープのサイドミラーに写った、あの少女の顔が、刹那の脳裏をよぎる。
追いかけてきてくれた、それだけで。
もう十分だった。
嬉しいと思うことすら、自分には罪なのだから。
彼女を忘れる努力すら罪だ。
彼女の名前はライルによく似ていた。
決して忘れるなと、偽神が命じているかのように。
───自分の帰るところは、ここなのだ。
刹那はライルの背中を見つめる。
ライルにとって、このソレスタルビーイングが、選びようのなかった終着点なのだとしても。
彼の存在するこの場所へ、ただ、帰る。
いつか、ミッションの途中で命が尽きて、自分の肉体が消え失せたとしても、心は、いくつもの柔らかい思念が降り積もるこの場所を目指して、翔けようとするだろう。
春の暖気が叫ぶ、風のような熱が、ライルの手のひらから、刹那の肘関節に染みとおる。
ライルがキーパネルに触れ、格納庫のドアが開いた。
深夜の通路は照明レベルが落とされ、格納庫よりさらに薄暗い。
腕を引かれたまま、刹那はその見慣れた薄闇へと歩き出した。