光の音



最初は、守りたいだけだった。


トレミーの自室でデスクに着き、刹那は壁面のパネルを見つめる。
光学カメラのリアルタイムデータに直結しているパネルは、暗い宇宙空間に悠々と浮かぶ、資源衛星を映し出している。
トレミーはラグランジュ3にほど近い宙域に来ていた。
新しいガンダムの起動テストのためだ。
新しいガンダムの名前は、サバーニャ。
ライルのために作られた、ケルディムの後継機だ。
刹那が見つめるパネルの隅に、小さな光が現われる。
光は、何秒もしないうちに、緑色の翼のような、連結ビットをひらめかせるサバーニャの姿になった。
滑るように宇宙空間を飛んできたサバーニャは、見事に減速して、トレミーに着艦する。
そこまで確認して、刹那はパネルの映像を切った。
本当は、起動テストの万一に備えて、ダブルオーライザーで待機している予定だったが、スメラギから、自室待機に切り替えるよう言われていた。地上ミッションから帰ってきたばかりの刹那の疲労に配慮してくれたのだろう。
二人きりのマイスターは忙しい。
そばに浮かんでいたヘルメットを引き寄せ、刹那は立ち上がった。
サバーニャのシミュレーションデータを、ライルから受け取らねばならない。僚機の特性を把握していないと、フォーメーションすら組めない。
胸に浮かんだ、小さな小さなひっかかりを意識の底に押し込み、刹那は自室を出て、格納庫に向かう。
ライルにいきなり口付けられてから、ひと月あまりが経っていた。
たまたまデスクの引き出しの奥から出てきた、ニールの小さな遺品をライルに渡そうとした時にそうなってしまったのだが、ライルのその行動の理由を、刹那は深く考えていなかった。
ライルが刹那を本質的に疎んじる理由はいくらでもあるからだ。
ライルの行動の理由が、好意であるはずがない。
ただ、刹那の中で、刹那自身にふとひっかかりが生まれて、それが思考に貼りついて消えなかったのだ。

───最初は。

最初はただ、ライルを守りたいと思っていた。
かつて守秘義務を破ってまで、ニール・ディランディは刹那にライルの存在を教えてくれたのだ。
ニールの故郷でライルが幸せに暮らしているのを見た時、刹那はライルの人生に踏み込まないことを決心した。
二度と彼に接触しないつもりだった。
だが、ライルはカタロンの構成員になることを希望した。あの当時、彼が保安局に拘束される確率はあまりにも高すぎた。拘束を免れても、カタロンの旧型のモビルスーツに搭乗する彼が撃墜される未来は、ほぼ確定していた。
どうしても、ロックオンの弟を死なせたくなかった。
ライルをソレスタルビーイングに迎えたことは、規範的には正しいことではなかっただろう。
それでも、あの時点でライルのために刹那がやれたことは、それしかなかった。
ガンダムに乗ることでライルは新たな危険に見舞われるが、どう罵倒されても、彼をそばに置いておけば、直接守ってやれる。
そう思っていたはずなのに。
いくつもの思考のひっかかりが、刹那の胸をざらざらと刺す。
ソレスタルビーイングに来てくれたライルは、刹那の過去を責めなかった。
ライルはニールの幻影に潰されたりしなかった。
最愛の恋人を失くしても、ライルは刹那を撃たなかった。
カタロンが解体されて、彼らに情報提供する必要がなくなっても、ライルはソレスタルビーイングに残ると言ってくれた。
そして、ニールの遺品を譲ると言って───笑ってくれた。

───痛い。

ひっかかりが胸にあふれて、ただ痛い。
守ろうとして、実は、守られていただけなのではないか。
壁面のグリップにつかまり、無重力の通路を格納庫へ運ばれながら、意識の底に押し込みきれない、形もない胸の痛みを、刹那は耐え続けた。




軌道エレベーターで極秘にガンダムを運ぶことが難しくなった今、ソレスタルビーイングでは、地上待機のモビルスーツと、宇宙で使用するモビルスーツを完全に分けている。
現在は、エクシアリペアⅢとデュナメスリペアが地上待機に充てられている。
一方で、宇宙で使用できるガンダムは、太陽炉の代わりに粒子貯蔵タンクを着けた、ダブルオーライザーしかない。そのダブルオーライザーすら、ついこの間稼働できるようになったばかりで、機体の安定性には不安が残る。
不安要素が多すぎるあまりに、メカニック側からは、ユニオン製のフラッグを入手してカスタマイズしようという案まで出ている。
太陽炉を搭載した、ガンダム本来の力を発揮できるサバーニャの完成は、現在のソレスタルビーイングにとっては本当に喜ばしいことだった。
「セツナ、セツナ!ヨバレテル、セツナ」
第二格納庫へのドアを開けると、青いハロがけたたましくキャットウォークを転がってきた。
持っていたヘルメットをうなじのホルダーに繋いで両手を空け、刹那はパタパタと跳ねるそれを胸元で受け止める。
「ロックオン、ヨンデル、ロックオン、ヨンデル」
ふと見ると、キャットウォークの彼方の、サバーニャのコクピットに座ったまま、ライルが右手を上げている。
「よ」
ライルの隣のイアンは、機器のチェックに忙しいのか、コンソールパネルから顔を上げない。
青ハロを連れて、コクピットのすぐそばまで漂い進み、刹那はキャットウォークに着地する。
「セツナキタ、セツナキタ」
コクピットを見上げる刹那の腕から青ハロはパタパタと飛び立ち、ライルに捕まえられた。
「だいぶケルディムとは変わっちまったけど、これがまたイイ感じでさ。今こっちのハロにもテストのデータを移してるから、終わったら青いのと一緒に持ってってくれ」
コンソールパネルの横には、ハロを据え付けるポッドが二個あり、そのうちの一つには見慣れたオレンジ色のハロが鎮座している。
そのハロに寄り添うように、青ハロが空きポッドへと着地する。
サバーニャには、AIロボットが二個必要なのだろうか。
刹那の珍しげな視線に気づいたのか、イアンがふと顔を上げた。
「ケルディムとはだいぶ概念の違うオペレーションシステムだからなぁ。ハロも一個じゃ足りん。どうだ?刹那もちょっと見て行け」
誇らしげに笑って、手元のパネルのスイッチをいくつか叩き終え、イアンはコクピットからふわりと飛び降りてくる。
「あとは粒子供給システムの稼働チェックだ。ホロモニターの確認もするからハッチを閉めといてくれ。ワシはブリッジに戻る」
「オーライ」
ライルに指示を出したイアンはさっさと刹那の横をすり抜け、格納庫の出口へと漂ってゆく。
刹那が取り残されたキャットウォークに、静寂が訪れた。
「見てくれねぇの?おれのサバーニャ」
コクピットから、ライルの声が降ってくる。
ハロへのデータ移送はまだ完了していない。
観念して、刹那はライルの座っているコクピットへと跳躍した。




キャットウォークから跳び上がってきた刹那が、手を伸ばしている。
ライルが座っているシートの背もたれあたりをつかめば、うまく着地できるだろう。
刹那がそこをつかむ前に、ライルは刹那の肘をつかんだ。
瞬間、刹那の腕全体に力がこもる。
警戒しているのだろう。
それはそうだ。
この間さんざんキスしてきた男とこんな狭い場所でふたりきりにされて、警戒しない方がどうかしている。
ただ、かわいそうなくらいに努力家な刹那は、どこまでも平静を装っていて、傍目にはまったくいつも通りだ。普段から表情に乏しいというのは、こんな時には本当にトクだ。
苦笑を顔に出さずに、ライルは刹那の肘を誘導して、刹那の身体をコクピットに降ろした。
ライルの座っているシートの隣りに降り立った刹那は、何も言わない。
「なんか久しぶりだな。何日地上にいたんだっけ?」
刹那に顔を向けずに、ポッドの上のハロを撫でながらライルは尋ねてやる。
「十日くらいだ」
会話は続かない。
だがライルはそれにすら慣れきっている。
刹那にしろティエリアにしろ、初対面の頃は、そこそこ気の利いた会話すらできないのかと軽く絶望したものだが。
ただ。
今現在、刹那はライルを警戒して、少し緊張している。
ミッションに向かう時の緊張感とはまったく違う、ライルが初めて感じる刹那の「緊張」は、ライルの中に、不思議な感情を呼び起こした。

───なんだろ。これ。

この間、刹那の唇に触れた時のイライラ感とは違う。
イライラするというよりは、吐き出さずに耐えてるモノが下半身に集まって、コントロール不能で熱くなるような───
自分で自分にあきれかけた時、隣りの刹那がふと身じろいだ。
背後を振り向き、視線を落として、何か考え込んでいる。
「どうした?」
「いや」
「なんか言いたいことがあるなら言えよ。おれはイノベイターじゃねえから言ってもらわなきゃわかんねぇ」
やましい感情を抱えていると、ついつい言葉が荒くなる。
「別に…わざわざ言うほどのことでもない」
刹那は視線を落としたまま、こちらを見ようともしない。
目ぐらい合わせてほしい。

───どーせおれはロクなこと考えてねぇけど、それにしたって。

「だぁーもう、おれが気になるんだよ言えって」
刹那に不用意に触れるわけにもいかず、シートに座ったまま、ライルはパシ、と自分の腿を叩いた。
刹那が困惑したように、細く息を吐く。
その吐息に今度こそいらだちながら、ライルは刹那の顔をにらみ上げた。
ひと呼吸のあとで、唐突な答えが降ってくる。
「……サバーニャは、静かすぎなくていいと。思った」

───は?

「このコクピットにいると、太陽炉の駆動音が聞こえる。エクシアもこんな音がしていた。だから、なんとなく…落ち着くような、気がした」
「え?そんな音、鳴ってるか?」
「おまえはいつも聞き慣れているから意識していないんだろう」
「そんなに粒子貯蔵タンクって静かなもんなの?」
「ああ」
「じゃあハッチ閉めるから、もうちょっとここでその音聞いてけよ」
「……」
「ハッチ閉めた方がよく聞こえるだろ?太陽炉の音」
「…だがサバーニャの調整の邪魔に」
「おれがいいって言ってんだからいいだろ。ほら、もうちょっと頭下げろ。ぶつかるぞ」
手元のスイッチを押し、ライルはサバーニャのコクピットハッチを閉めにかかる。
前屈みに頭を下げ、なんともわかりにくく戸惑った刹那の顔が、コクピットの闇に溶け落ちる。
密閉されたコクピットは、一秒経たずにホロモニターの光で満ちあふれた。
光の中で、ライルは黙って耳を澄ます。
集中するために、目まで閉じる。
言われてみれば、確かにここは無音の空間ではない。
低くも高くもない、透き通るような、何キロも先から聞こえてくる、かぼそいサイレンのような。
そんな細い音が、切れ目なくコクピットに響いている。

───らしすぎるっつーか、なんつーか…

ガンダムという兵器の象徴であるこの音も、刹那にかかれば安心感にすらなりうるとは。
たまに休暇で地上に降りても、何をどうやって休んでいるのかまったく想像もつかない刹那らしいといえば、らしい。
ライルは目を開けた。
隣りの刹那が動く気配はない。
改めて太陽炉の音に耳を傾けているのか、密室の緊張感にさいなまれているのか。
それはそれは複雑であろう刹那の気持ちを推し量るのが面倒になり、ライルは左手でパチパチとスイッチをいじって、残りの小さなホロモニターを全て表示した。
狭い空間に浮かぶ、何枚ものモニターたちを視線で確認しながら、話題を変える。
「おまえの新しいガンダムは、どうなってんの?」
ファクトリーでは、ダブルオーの後継機も製造中なのだと、ずいぶん前にイアンに聞いた。
「新しい太陽炉の建造に時間がかかっている…とは聞いている」
「なーんかまた隠し玉仕込んでんじゃないの」
「ロールアウト前に何度か機能テストする予定だ」
「仕込みまくってんな」
「機能テストは、俺が希望した」
「へぇ?」
「俺の…イノベイターの能力とリンクできる機能を開発してもらっている」
「おっそろしい隠し玉だなぁ。敵のどんな戦法も何から何まで読んじまう、ってか」
「そうじゃない」
「ん?」
「戦う前に、相手と意識を共有しやすくすれば…戦闘そのものを無くせるかもしれない。そのための、意識領域を拡大できる機能を…追加してもらう予定だ」
「できんのかねそんなこと」
「今度の太陽炉は、二つとも最初からツインドライブ用に作られている。同調率は過去のダブルオーよりも格段に上がるから、GN粒子の散布能力も飛躍的に大きくなるだろうと、イアンは言っていた」
「はぁー…」
饒舌だこと。
世間話スキルはほぼゼロに近いくせに、ガンダムのこととなると、刹那の舌は限りなく滑らかだ。
その舌の裏側が、(おそらく)彼のささやかな性感帯だったことを思い出して、ライルは確認中のホロモニターから目を逸らした。
ふと決意して、刹那のうなじに手を伸ばす。
刹那の顎がぴくりと震えた。
ライルから顔を背けようとして、すんでのところでこらえて、刹那はライルを凝視している。
「これ、邪魔」
刹那のうなじに止めつけられているヘルメットのホルダーを、ライルはぱち、と開放する。
刹那から離れた刹那のヘルメットが、コクピットの最後部にぶつかって、コンと音を立てた。
そのまま、ライルはその手を刹那の後頭部に滑らせる。
「警戒してる?」
黒いクセっ毛をわしづかみにして、刹那の頭を数センチ引き寄せる。
「…何をだ」
「おれのこと」
「…別に」
意外に往生際が悪い。
すっとぼけられれば、また良からぬ感情が膨れてしまう。
「つまんねぇの」
「していて欲しいのか」
答えずに、さらに頭を引き寄せる。
暗褐色に沈んだ刹那の瞳の中に、いくつものホロモニターの光が反射して、それはすぐに苦しげに歪む。

───顔をおれから逸らすな。

こみ上げてくるものに耐えられず、ライルは刹那の唇に食らいつく。
立ったまま前屈みに体勢を崩した刹那の手が、どうしようもなくライルの肩を握りこんだ。
しがみつかれているのではない。離れようと抵抗されているのだ。
先手必勝で唇に噛みつき、痛みに震えたそこに、すかさず舌をねじ込む。
「……っ、……!」
ライルの舌に犯されながら、刹那が何か言っている。
構わず舌で舌を捕まえても、強情に呻いている。
根負けして、ライルはキスを中断した。
中断したと言っても、舌を刹那の口の中から引き抜いただけだ。
右手で捕まえた刹那の後頭部は離さない。
ライルの唇の上で、刹那の唇が途切れ途切れに動いた。
「ブリッジ、から…みえ、る…っ」
何を言ってるのかと思えば。
ライルは吐息だけで笑った。
「今は通信繋いでねぇよ」
「向こうから、繋がれ…たら、」
「心配性だな。イノベイターさんよ」
誰からも見られる可能性がなければ、キスし放題なんだろうか。
ツッコミたいのをこらえて、ライルは刹那の顔を両手のひらで挟んだ。
「嫌ならもっと真剣に払いのけろよ」
数センチの距離で暗褐色の瞳をにらみつけると、その瞳の縁の黒いまつげが、ひくりと震えた。

───ああ。

心でライルは嘆く。
これはとてもとても良くないパターンだ。
自分でわかっているのに、止まらない。
「なんで抵抗しねぇわけ?」
片手で刹那の頬を固定したまま、ライルは刹那のパイロットスーツの喉元のファスナーを開けた。
刹那が全身をこわばらせたのがわかったが、無視してファスナーの奥へと手を滑らせる。
刹那の鎖骨を撫で、頸動脈あたりに唇を近づける。
ライルの肩を握る刹那の手に力がこもった。
だが、刹那は本気で逃げようとしない。
「かわいそうなライルくんのすることだから、吐きそうに嫌でも何でも許してやんなきゃ、って思ってんの?やっぱり?」
「………違、う、…っ」
喉の皮膚を吸われても、刹那はただ息を飲んで耐えている。
「何が違うんだよ。好きでもない男にいじくり回されて、抵抗しねぇってのはそういうことだろ」
アンダーウェアごしに乳首を潰してやると、刹那の顎関節がぎしりと動いた。
「……く…っ……」
歯を食いしばっているのだろう。
これは、本当に良くない。
この刹那への興奮は、理由をはっきりさせてはいけないものだ。
なのに、もやもやするからといって、それを刹那にぶつけてしまったら、ブチ壊すべきものも、ブチ壊してはいけないものも、全部いっしょくたになってしまって、
「それともなに?おまえはおれのこと好きなの?」

───全部、壊れる。

「ライル!」
低く鋭い声が、突然ライルの耳元で炸裂する。
同時に、ライルの肘に激痛が走った。
「うぁ…!」
悲鳴を上げ、ライルは刹那から手を離した。
刹那の胸元深くにまで突っ込んでいた腕がびりびりとしびれ、ライルはコクピットに座ったまま、そのよからぬ腕をかばって屈みこんだ。
「すまない、急所は外したつもりだった。大丈夫か」
刹那がのぞきこんでくる気配がするが、顔が上げられない。
狙撃手の肘関節に指をねじ込むなんて、とんだドS野郎だ。
悶えるライルのすぐそばで、ピッ、と新しい電子音が鳴る。
『ホロモニター、調子はどうだ?…って何をやっとるんだ、おまえたちは』
通信を繋いできたイアンは、屈みこんで動かないライルを見てあきれているらしい。

───ああ。そういうことね…

イノベイター様は、外部からの通信さえ予測できるってか。
無言で悶えながらライルは納得する。
予測できるんなら、もうちょっと落ち着いてキスしてろっての。
感心しつつも、神経を震わす痛みはなかなか去ってくれない。
「…いや、ちょっと……はしゃぎ、すぎて、肘ぶつけちまって…」
切れ切れにライルはイアンに弁明する。
嘘は半分しかついていない。
「データイソウカンリョウ、データイソウカンリョウ」
計ったようなタイミングでハロが声を上げる。
『移送終わったか?なら刹那、頼むぞ』
「了解した」
声は限りなく落ち着いているのに、我に返ってパイロットスーツのファスナーを喉元まで上げる刹那の動作は、ライルだけが理解できる「緊張」に満ちていた。




意識のどこかで恐れていたことがとうとう起きて、頭がついていかない。
自室に戻り、閉めたドアにもたれたまま、刹那はずるずるとしゃがみこむ。
「セツナ、ドウシタ、セツナ、ドウシタ」
「セツナ、ダイジョウブカ、セツナ、ダイジョウブカ」
サバーニャのコクピットから持って帰ってきたハロたちがパタパタと周囲を跳ねている気配がするが、顔を上げるのもおっくうだ。
つい数十分前に、この部屋を出た時に感じていた、小さな思考のひっかかりは、あの短い時間で、何か鋭い刃物のようなものに成長して、刹那を内側から残酷に掻きむしってくる。
誰が何と言おうと、ライルがどう言おうと、考えてはいけないことがある。

───『おまえはおれのこと好きなの?』

応えてはいけないことがある。
この世の大多数の人間がその感情に支配されて、その感情を求めずにはいられないことは知っている。
だが、その感情を持つ資格が、自分には無いのだ。
刹那はパイロットスーツの喉元を押さえた。
まだそこに、ライルの唇の感触が残っている。
大切な、本当に大切な、ニール・ディランディの弟を、守りたいだけだったのだ。最初は。
傲慢だった。
刹那に守られずとも、ライルは自分自身を見失わずに生きていける人間だ。
ニールの遺志を守りたいつもりで、ライルの存在を守りたいつもりで、

───俺は、本当は。

考えてはいけないと思うほど、ライルに触れられた喉は熱くほてり、鎖骨まで燃え尽きそうだ。
ニール・ディランディが生きていたら、罵倒されることは間違いない。
ただでさえ、彼の幸福を奪ってしまったというのに。
そのうえに、まだこんな罪を重ねるつもりなのか。
「…ロックオン…」
子供のように頭を抱えたまま、刹那はうめく。
呼んでも彼は、裁きを下してはくれない。
それに、その呼び名はもう、ニールのものでありながら、ニールのものではなくなった。
その呼び名をライルに継がせたのも、刹那自身だ。
逃げ場のない感情の片隅に、太陽炉の音が忍びこんでくる。
懐かしい、エクシア。
子供だったあの頃は、あのコクピットに座ってさえいれば、半永久的に光を生み出すあの音に抱かれていれば、もう何も悩む必要はないと思っていた。
「ロックオン…」
こんな時ですら、記憶の中のロックオンは笑っている。
彼の笑顔しか思い出せないことが、こんなにも苦しいとは。
「セツナ、ロックオン、ヨブ?」
はっと顔を上げると、青いハロが目の前でカタカタと首をかしげている。
いや、球体のロボットに首も何もないのだが。
「呼ばなくていい…頼む…」

───呼ばないでくれ。誰も。

笑いたいのか嘆きたいのかわからなくなりながら、刹那は思いやりあふれる目前のロボットに懇願した。




***

───そういや。サバーニャってやっぱり天使の名前なわけ?

───みたいだなぁ。ワシもよくは知らん。ヴェーダが選んだ名前だ。地獄の仕置き人だとかなんとか…

───ハッ。天使っていうの?それ?



地獄を治める天使は、まだ裁きを下しに来ない。