遥かなるアイアン・ローズ



その小さな石は、ワルドと呼ばれていた。
ソランの周囲の少年たちは、戦場へ出る前に、こっそりとそのワルドで腕をこすり、腕に残る赤い擦り痕を安心したように眺めてから、持ち場についた。
ワルドは不思議な石だった。
幼児の手のひらにもすっぽり収まる大きさで、表面は黒とも銀色ともつかない色で光っていた。微小で平たい石片がいくつも集まったその形は、鋼鉄の花を思わせた。
ワルドを何かに擦りつけると、赤い粉が尾を引き、文字や記号が書けた。ワルドで書く赤いしるしは戦士を守るしるしだと言って、その石の持ち主である、ソランよりずっと年上の少年はいつも誇らしげだった。
その少年のいた町では、戦士や旅人を守るために、ワルドのそんなまじないが信じられていたようだった。
最初はあきれていた他の少年たちも、ワルドでしるしをつけられた仲間がほとんど死なずに帰ってくるのを見て、「出撃」前には持ち主の少年の周りに群がるようになった。
持ち主の少年が前線に出撃する時は、ワルドは、後方で待っている他の少年に預けられた。ワルドを戦場で失くさないためだ。
誰もがワルドを預かりたがったが、希少価値であるらしいワルドを預かることができるのは、後方部隊で一番年上の少年か、持ち主の少年が特に信頼している彼の幼馴染みだけだった。
部隊の中でほぼ最年少であるソランには、栄誉ある「預かり人」の役は回ってこない。
そんなソランの羨望のまなざしを知ってか知らずか、ワルドの持ち主の少年は、いつもソランの腕に念入りに赤いしるしを入れてくれた。
「ほら。これで『ソラン』って読むんだぞ」
字をよく知らないソランの腕に、ワルドでいくつも赤い文字を書いて、しるしが多すぎると他の少年から文句が出ることさえあった。
しばらくすると、他人の目を恐れて、ソランは赤い擦り痕を衣服で隠すようになった。
他の少年も、擦り痕を隠すようになった。
擦り痕を大人に見られて、まじないのいきさつが知られ、死ぬのが怖いのかと殴られる者が出たからだ。
戦って死ぬことは栄誉であると、頭ではわかっていても、心はなかなかついていかない。
死の恐怖と、死の栄誉。
少年たちはいつも、その二つの感情の間で揺れ動いていた。

そして。
赤い擦り痕をつけた者が帰還してくるのは、実はワルドの加護ではなかった。
戦況がまだそれほど厳しくないというだけのことだったのだ。
ソランも、他の少年たちも、まだそれを知らなかった。


***

───やってしまった。

ダブルオーの格納庫から戻り、自室のデスクの引き出しを開けて、刹那はゆっくりとうなだれた。
ライルに渡したはずのデータスティックが、引き出しの奥からふわりと浮かびあがってきたからだ。
引き出しの中をすみずみまで確認したが、「あれ」は影も形もない。
ライルはこのデータスティックと間違えて、「あれ」を持って行ったに違いない。
「あれ」も、ミッションプランの入ったこのデータスティックも、引き出しの中での固定が甘かったのだろう。
ダブルオーの再稼働に気を取られて、急いで引き出しの中へ片付けたのが良くなかったのか。
原因をいろいろ考えてみても、後の祭りだ。
そして、こんな事態になってしまったのは、やはり前から決まっていた運命のような気がした。
忙しく過ぎてゆく日々の中で、刹那が思い出したり忘れたりしていた「あれ」は、小さすぎるとはいえニールの遺品だ。だから、ライルがこのトレミーに来てくれた当日に、すぐさまライルに渡すべきものだったのだ。
いや。
「あれ」は、最初に、あの慰霊碑の前でライルに渡しておくのが一番正しかった。
ライルが刹那の誘いに応えようと応えまいと、あの時、刹那はライルにニールの死を伝えたのだから。
だが、刹那は「あれ」をライルに渡せなかった。
なぜかと自問することすら既にうしろめたい。
刹那は、引き出しから浮かび上がってきたデータスティックを握りしめる。

───『これ、覚えてるか?刹那』

新しいこのトレミーに戻った時、再会したイアンはすぐに刹那に「あれ」を渡してくれた。

───『入れ物がなくて、こうやってデータスティックの中身をくりぬいてな。あの時の急ごしらえのままですまんなぁ』

前のトレミーが墜ち、生きるか死ぬかという極限状態を乗り越えて、イアンは刹那の個人的すぎる要望を、四年越しでかなえてくれたのだ。

───『で、この素材だけどな。レーザー分析してみた。ポリカーボネイトだ』

「あれ」の素材が判明したことも嬉しかったが、それ以上に、イアンが待ってくれていたことが、刹那は嬉しかった。
ありがとう、と胸の詰まるほどの感謝を刹那が告げると、ソレスタルビーイング随一のメカニックは、なぜだか目を白黒させていた。
引き出しを閉め、刹那はパイロットスーツのままで自室を出る。
着替えている時間も、思い出をかみしめている時間もない。
本来のデータを閲覧できずに困惑しているであろうライルに、このデータスティックを早く届けてやらねばならない。


***

傷の痛みでソランは目を覚ました。
昼間の戦闘で、銃弾が左肘をかすり、肉が抉れてしまったそこは、包帯を巻いてもまだ薄く血が染み出してきた。
歩くのに支障はないが、銃がうまく構えられない。
だが日が落ちるまで、ソランは痛みをこらえ続けた。
部隊の移動についてこられない者、銃の撃てない者は置き去りにされる。それは死を意味していた。
爆撃で半壊した民家の床にひしめきあって、少年たちは眠っている。
居間であったらしいその部屋の天井は片隅が崩れ落ち、星空がのぞいている。
大人はもちろん、少年たちの数も、以前の半分ほどになっていた。
クルジスの街はどこも荒れ果てて、住民は逃げ去り、新たに「戦士」に志願してくる少年はいなくなった。
まだ望みはあると大人は繰り返すが、繰り返すほどに誰もが、クルジスの劣勢を感じていた。
幸いに今日は夜襲もなく、周囲は静まり返っている。
部屋の隅で眠っていたソランは壁に手をついて、ようやく半身を起こした。
今夜は傷の痛みに呻いている者はいない。
負傷者は、昼間にみんな息を引き取ってしまったからだ。
ぶるりと肩から悪寒を払い落とし、その振動でまた痛む肘を押さえて、ソランは「居間」を出た。
痛みに耐える吐息すら、誰にも聞かれたくなかった。
「居間」の隣の台所らしいスペースには天井がない。月光が、崩壊した部屋の壁を白く濡らすように射しこんでいる。
すぐ足元に、影がうずくまっているのが見えて、どきりとする。
うずくまっているのは、ワルドの持ち主の少年だった。
ソランに気づいて、少年は顔を上げた。
「腕、痛むのか?」
答えられずに、腕を押さえたままソランは立ちつくした。
痛いと騒げば、責められる。責められて、足手まといは置いていかれる。
「ごめんな。ワルドが効かなくて」
少年に謝られて、ソランはとまどった。
戦場から戻ってこない者が増えた今、ワルドのまじないを信じる者はごくわずかになっていた。
その「ごくわずか」の一人であるソランは、相変わらず赤いしるしを腕に必ずつけてから、戦闘に参加していた。
「ワルドは効いてる。俺はケガしただけだ。俺は生きて帰ってきた」
少年を見下ろしてソランは反論する。
少年は口を歪めて笑ってから、またうずくまり、顔を伏せた。
泣いているのだろうか。
青年の面差しすら備え始めたその少年の大きな肩が、時折震える。肩に落ちる白々とした月光の筋までが、一緒に動いた。
見たことのない彼のその頼りなさに、ソランの胸がざわついた。
どんな言葉をかければ、彼は自信を取り戻してくれるのだろう。
明日もワルドでしるしをつけてくれと、頼めばいいのだろうか。
無言のままのソランを、少年はもう一度見上げてきた。
「俺、あした最初に出ることになったから」
ざわついていたソランの胸が、冷たいもので満たされる。
朝から一番乗りで最前線に出されて、帰還する少年の数は、ごくわずかだ。
ソランを見つめる少年の頬は乾いている。泣いていたわけではなかったようだ。
少年は自分の上着の胸ポケットを探った。
「だから、おまえがこれを持っててくれ」
差し出されたワルドを見て、ソランは目を丸くした。


***

『ロックオン、居るか?』
ドア前で刹那が声をかけると、ライルはすぐに自室から出てきた。
「なあコレ。さっきもらったけど、中身イッちまってるぞ?」
出てきたライルの右手には「あれ」が握られている。データスティック然とした「あれ」の中身を見ようとして、動作しないことにいらだっていたのだろう。
「すまなかった。俺が間違えた。ミッションプランが入っているのはこっちだ」
「はぁ?」
不審げに眉を寄せるライルに、刹那は「本物の」データスティックを差し出した。
差し出すと同時に、ずしりと身体が重くなるような息苦しさに襲われた。
別に、やましいことは何もない。
ただライルに事情を説明して、このデータスティックも、今ライルが握りしめている「あれ」も、一緒にまとめてライルに受け取ってもらえばいいだけのことだ。
なのに、たったそれだけのことを遂行しようとするだけで、どうしてこんなにも、腹の底から窒息しそうになるのか。
「サンキュ。じゃ、コレ返すけど完全に壊れてっからな?」
刹那の差し出したスティックを受け取り、ライルは「あれ」を差し出してくる。
差し出されたものを、受け取ってはいけない。
そんなあたりまえの事象に、ますます息が苦しくなる。
固唾を飲もうとして、刹那は失敗した。
飲み下せない喉元の何かが、熱く身体を侵食してくる。
それでもライルに事情を説明せねばならない。
「…それは、データスティックじゃない」
なんとか声は出た。
寄せた眉をひょいと解いて、へ?とライルは首をかしげている。
「そのスティックの中は空洞だ。空洞部分にポリカーボネイトの破片が入っている」
「なんだそりゃ。じゃあコレは、データじゃなくて単なるイレモノってことかよ?」
「ああ」
「ふーん。で、こんなポリなんとかの破片、何で持ってるわけ?」
さらに増す息苦しさに、刹那は気づく。
ライルにこんな質問など、されたくなかったのだと。
だが、だからこそ、どうしても言わねばならない。
「確定はできなかったが。それは、ニール・ディランディの遺品だ」
言うだけで、喉が焼けた。
「これが?兄さんの持ち物だったって?」
ライルの声音に、ほんの少しの驚きが混じる。

───前のトレミーは墜ちてしまって、ニールの所持品は回収できなかった。遺体も回収できなかった。

話すだけで焼けつく喉を、かきむしってしまいたい。
「ニールが居た宙域を捜索した後、エクシアの指先に、溶けたポリカーボネイトが付着していた。おそらく、ロックオンのヘルメットの…バイザーが、溶けて固まったものだろうと…イアンが言っていた」
なぜそんな大事なものを黙って持っていたのかと、ライルに責められるだろうか。
「確定はできない。コロニーからのデブリが偶然エクシアに付着しただけかもしれない」
なぜそんな不確実なものを持ち続けているのかと、笑われるだろうか。
笑ってくれたなら───そんな不確実なものはいらないと、ライルは言ってくれるだろうか。
喉を焼く自らの願望に気づいて、刹那の肩に力がこもる。
肩からだらりと下ろされた両腕の先のこぶしを握りしめて、刹那はその願望を、思考の彼方に葬る。
「だが、少しでもニールの遺品だという可能性があるのなら、それは、おまえが持っているべきものだと思う」
言うべきことを言えたのに、苦しさは去らない。
少しの沈黙の後で、ライルの声が降ってきた。
「ヤなこと訊くけどいいか?」
やっと罰が受けられる。
「ああ」
刹那はライルをまっすぐ見上げた。
肩から、少しだけ力が抜けた。
「兄さんの遺品かもしれないって思ってて、なんで今までおれに言わなかったんだ?」
スティックをひらひらとかざして、ライルは刹那に問いかけてくる。
当然の質問だろう。
「……すまない」
「謝ってほしいわけじゃねぇんだ。んっとに、今日は朝から謝ってばっかだなアンタ?ん?」
謝罪のその先は、無だ。
いや、無ということにしておかなくてはならない。
刹那はもう一度ライルから視線を逸らした。
低く逸らした視線の、無に近づいたその先で。
相変わらず息苦しい身体のどこかに巣食っていた、茫漠とした記憶が、閃いた。

───『だから、おまえがこれを持っててくれ』。

刹那がまだソランであった頃に与えられた、ワルド。
鉄のように黒く、時に銀色に輝いていたあの美しい石を、ソランは信じ抜いたわけではなかった。
石ではなく、持ち主だった彼の名前がワルドだったかもしれない。彼の名前すらもう定かではない。
クルジスの戦場を駆け続けて、初めてガンダムに出会った時にはもう、もらったワルドを失くしてしまっていたような気がする。
なぜワルドを思い出したのかはわからない。
目前のライルの手の中のポリカーボネイトは、温かさの記憶であると同時に、刹那の痛みの痕でもある。温かさを上回るその痛みがつらくて、それでも温かさの名残を手放せなくて、捨てることもできないでいた。
最初からそれをライルに託せていたら、今頃はもっと楽だったのだろうか。
彼が、あのワルドをソランに託したように。
ワルドの祈りは人を守らない。
バイザーの破片は、単なる「破片」でしかない。
祈りを聞き届ける神はいないのだ。
そして、ロックオンも。
刹那のその確信は揺らがない。

───だが、俺は。

それでも彼が、ロックオンが、好きだった。

ふいに光が揺らめく感覚があり、刹那が顔を上げると、ライルは破片の詰まったスティックを空中に放り投げていた。
すぐに腕を引かれる。
背後でドアの閉まる気配がする。
満足に答えを返さなかったせいで、ライルを怒らせてしまったのだろうか。
わき上がる疑問と一緒に、低い叫びのようなライルの感情のかたまりが、刹那の全身にぶつかってきた。
暴風のようにぶつかってくるそれを、避けることなどできない。
肌にぶつかり、頬に染み、さっきから焼けていた喉にとどめを刺してくるその衝撃に、刹那の目の前が白くなる。
加えて物理的な痛みが顎に響き、それがライルの指の感触だと気づいた時にはもう、唇で口元を塞がれていた。
ライルの碧色の瞳が、目前に迫る。
脳に直接食い込んでくるこの恐怖とも、怒りとも、いらだちともつかない感情は、どこからどこまでがライルのものなのか。目を閉じてしまえばさらに混沌が増す気がして、目すら閉じられない。
離れて見ていた時はあんなに穏やかで人懐こそうだったライルの瞳は、今、刹那の瞳の数センチ先で、底知れない獰猛さをにじませて、濡れた碧色を押しつけてくる。
唇を舌で強引に開かれ、ライルの意志に逆らうことなく、刹那は口元をゆるめて彼の舌を受け入れた。
こんな形で罰されることも、あるのだ。
混沌の中で、よくあることだと刹那はわずかに納得する。
罰であるのに、ライルの舌は温かく、柔らかい。
ライルが苦しげに目を閉じ、さらに深く口内を探ってきた。
舌の裏を舐められて、慣れない感覚に身体の芯が冷たくなる。
反射的に刹那の身体が逃げの態勢を取ると、舌に歯を立てられた。
激痛に転じる直前の、ぎりぎりの力で舌を噛まれ、冷えたはずの刹那の身体の芯に、燃え上がるような緊張が走る。
何秒も過ぎないうちに、その緊張が快楽だと気づき、耐えられずに、刹那は自分を拘束してくるライルの二の腕をつかんだ。
そこを握りしめても、声は殺せなかった。
ライルに侵されるのはしかたがないが、快楽に手軽に侵される自分には、耐えられない。
「ぁ、う…」
食らいつかれ、唇を容赦なく濡らされる。
口元に広がる水の感触に、また身体の芯が冷えて、すぐに燃え上がる。
「……ぅ、…う!」
自身への抵抗も虚しく、刹那の喉は自分で耳を塞ぎたくなるような呻きを切れ切れに吐き続けた。
刹那の弱点をもう悟ったのか、ライルは舌の裏を執拗に舐め上げてくる。両肩からドアに押しつけられて、下半身から密着され、その羞恥についに刹那は目を閉じた。
ライルには知られたくない。
罰にさえこの身体が反応しかかっていることも、罰さえ安心している、こんな、さもしい気持ちも。
人と人との意識を繋ぐ、その役割を担うイノベイターである自分が、こんなにもライルと意識を繋ぎたくないと思っている。それが、滑稽すぎる。

───みんな、俺の前ではこんな気持ちなのかもしれない。

トレミークルーを信頼していないわけではない。
だが、自分の気持ちを断りもなく知られるなんて、誰だって不愉快だろう。
だから刹那はライルから離れたかった。
クルーの中で誰よりも一番、刹那に気持ちを知られたくないのは、ライルだろうと思ったからだ。
なのにライルは、ソレスタルビーイングから、刹那から、離れない。
アレルヤのようにトレミーから降りてしまっても、まったく不思議ではなかったのに。
ライルのその強さがまぶしくて、まぶしすぎて、どうしていいかわからない。
ドアに押しつけられたまま耳を噛まれて、刹那はぎゅっと肩をすくめる。
これ以上密着して、どんなに辱められてしまうのだろう。
目を閉じたまま覚悟を探っていると、刹那の両肩を捕らえていたライルの手が、ふとゆるんだ。
「……おっと」
おそるおそる目を開けると、ライルは空中に投げ捨てたはずのスティックをもう一度握りしめていた。
スティックが壁か天井にぶつかって、近くまで跳ね返ってきたのだろう。
スティックを見つめ、どこか不満そうにライルは目を細めている。
ライルの意識が、ちりちりと焼けるような不快さで満ちている。
不快に、思われている。
不快は膨張して、怒りに転じようとしている。
羞恥のその次の罰を受けるために、刹那は身構えた。
だが、ライルの怒りはそれ以上膨らまなかった。
「兄さんの遺品なら、おれはもう持ってる」
怒っているのに、どうしてライルはこんなに優しい声が出せるのか。
「デュナメスリペアがあるし、車も。おまえも一度だけ見ただろ。おれの車」
いきなり手を取られ、手の中にスティックを押しつけられる。
声も出せずに、刹那は自分の手がスティックごとライルに握りこまれるのを見つめた。

───いろいろバカでかいモンもらっちまったからな。だからおれはもう兄さんの持ち物はいらねぇ。これはおまえが持ってろよ。

やはり、楽にはさせてもらえないらしい。
力の入らない刹那の手を、ライルはあきらめもせずに握りこんでくる。
罰かもしれないというのに、それなのに、きつくからんでいた紐が解けるような安堵が、ライルの手のひらから流れこんでくる。
刹那はようやくスティックを握った。
ライルはふ、と笑って、刹那の身体を解放した。
自由になったはずなのに、ライルの笑顔が信じられなくて、刹那は動けない。
気がつくと、部屋の外に軽く突き飛ばされていた。
「じゃあな」
いつ開いたのかわからなかったドアがもう一度閉まり、刹那は廊下に一人、取り残された。




やっと自室に戻り、気が抜けたようにベッドに腰掛けて、刹那は手の中のスティックを見つめる。
ライルのかすかな笑顔の意味が、いつまでもわからない。
落ち着かない気持ちを持てあまして、刹那はスティックの先端をひねり、そこをこじ開けた。
こじ開けた開口部を下にして軽く振ると、刹那の手のひらの上に、あの破片がひとつ、転がり出て跳ねた。
空中へ漂おうとするそれを、指先で捕獲する。
久しぶりに見る透き通った破片は、エクシアの指先から剥がした時の名残で、花弁のように縁が盛り上がり、白く複雑に光線を反射している。
聞き届けられなかった祈りの象徴が、ここに、そばに、あるだけで胸が痛む。
それでも、身体の底に温かい何かが生まれて、胸の痛みと混じり合う。
温かい何かは、今日に限ってなぜか増幅して、洪水のような取り返しのつかなさで、刹那の胸をいっぱいにする。
一緒に、ライルの温かすぎた舌の感触も思い起こされて、こめかみまでがカッと熱くなった。


困惑して、刹那は花のようなその破片を、そっと手の中に握りこんだ。