沈黙の名前 -1-
一度だけ、ニール・ディランディに抱きしめられたことがある。
あれは、アザディスタンの王宮に、マスード・ラフマディ師を送り届けた日の午後だった。
師を王宮に送り届け、王留美とニールが待つポイントに戻り、着地させたエクシアに光学迷彩をかけたところで、刹那は小さな警告音を耳にした。
コクピットモニターに生体反応がある。
ひやりとしてそれを拡大すると、それはこちらに向かって駆けてくるニールの姿になった。
王留美と一緒に、専用艇で待っているのではなかったか。
「刹那!」
集音センサーが、ニールの声をはっきりと捉える。
人里離れた峡谷とはいえ、人の声は意外に遠くまで届くものだ。
潜伏ミッション中に大声を出すなど、不注意にもほどがある。
エクシアのシステムをリポーズし、刹那はコクピットハッチを開けた。
「刹那!」
エクシアの足元を目指して駆けながら、ニールはまだ大声を出している。
彼をにらみ下ろして、コクピットから降下するタラップにつかまり、刹那は地上に降り立った。
先にエクシアの足元に到着していたニールは、わずかに背中を丸めて、刹那の目前で荒い息をついている。
ヘルメットを脱ぎ、刹那は今度こそニールを真正面からにらみつける。
「大声を出すな。どこにユニオンのモビルスーツがいるかわからな、」
言い終わる前に、乱暴に引き寄せられた。
刹那の手からヘルメットが落ち、丸いそれは足元で石にぶつかってカラカラと転がる。
硬くてどこか甲高いその音は、静かすぎる峡谷にしんと響き渡った。
刹那の片頬はニールの胸元に押しつけられ、身体は完全にニールの腕に捕らえられて、身動きが取れない。
ニールのアンダーウェアが直接、刹那の頬に触れている。ニールがだらしなくパイロットスーツの胸元を開けているからだ。
その胸元は早い鼓動で波打っている。
ニールの腕が、刹那の胸骨を背中から締め上げてくる。
苦しい、と言いたいのに声が出ない。
ニールは何も言わない。
震えるような、切れ切れの吐息が、刹那の髪にかかるだけだ。
切れ切れでも、その吐息は鋭い。
ニールは怒っているのかもしれない。
完全な非武装で、ユニオンが手ぐすね引いている王宮の真ん中に降り立つなど無謀の極みだと、出発前にもずいぶん非難された。
ユニオン勢に背中から撃たれるのなら、それでよかった。
全世界に、ソレスタルビーイングの、ガンダムの真意を知らしめられるなら、それでよかったのだ。
頬が痛い。
息苦しい。
ニールは何も言わない。
だが、ニールの胸元の、この匂いは嫌いではない。
わけのわからない沈黙の中で、刹那はそう思った。
***
刹那の中に保たれている、ニール・ディランディについての記憶は、膨大でありながら、どこか統一性のないものだった。
──誰もを包み込むような優しさ。
──周囲の人間を拒否し、孤立する、底知れない冷たさ。
──休暇を楽しみにする、子供のような笑顔。
──銃を手にしている時の、透きとおる虚無と集中力。
それまで刹那は、そんな両極端なものを備える人間に出会ったことがなかった。
ニールという人間の全貌を理解するには、当時の刹那は幼すぎたから、記憶の統一性が取れないのはしかたがないことだともいえる。
当時の刹那の幼さを目にして、誰もが眉をひそめる中、ニールだけは最初から、刹那をガンダムマイスターとして認めてくれた。そのことが、ニールと刹那の精神的距離を近づけた要因になったのは間違いない。
だが、それだけで、ニールという人間を、刹那は完全に信じたわけではなかった。
その次のニールの印象は「押しつけがましい」の一言に尽きた。
何度拒否されてもニールは刹那に声をかけ、刹那の肩を抱き、刹那の頭を優しく撫でた。
今にして思えば、ニールはソレスタルビーイングの上層部から「刹那・F・セイエイを監護せよ」とでも言い含められていたのだろう。
あまりにニールが身体に触れてくるので、要求されているのかと思い、彼との無意味な摩擦を避けるために、刹那は半裸でニールのベッドにもぐりこんだこともあったが、ニールは悲しげに刹那を叱っただけだった。
───『そういうことはなぁ。宇宙で一番好きな人間とだけするもんなんだよ』。
半裸の刹那に毛布を着せかけ、ベッド脇に刹那が脱ぎ捨てたシャツを拾いながら、ニールは独り言のようにつぶやいていた。
わけがわからなかった。
セクシャルな報酬を期待しない人間が存在するということが、その時の刹那にはどうしてもわからなかったのだ。
ただ、ニールに宇宙で一番好かれていないことは理解できた。
そして、ニールに宇宙で一番好かれていないそのことが、内臓のどこかにしっくりと重くのしかかるような気がしただけだった。
だから、アザディスタンでニールに初めて抱きしめられた時も、刹那はわけがわからなかったのだ。
わからなかったが、ニールの胸元はひどく温かかった。
内臓にのしかかっていた重い何かが、溶けそうなほどに。
***
「ネオIRA?」
スメラギの説明を訊き返すライルの声が、不穏に低くなる。
ブリーフィングルームの足元には、大西洋と、グレートブリテン島周囲の地図が照らし出されている。
「五年前に、アイルランドの武装組織だったリアルIRAが活動を停止したのは覚えてるわね。そのリアルIRAの方針に不満を持つグループが、組織内から離脱して、テロ活動を再開したらしいの」
「新しい、IRA…」
つぶやいた刹那に向かって、苦々しくスメラギはうなずいた。
「そう。その新しい(ネオ)IRAが、大規模な武器の密輸を計画していることがわかったわ。場所は、大西洋上よ」
刹那とライル、そしてスメラギの三人しかいないトレミーのブリーフィングルームは、がらんとしている。
「海の上で?密輸?」
ぼやくライルを尻目に、スメラギは足元で光る地図を見つめる。
「公海上で船から船へと物資を積み替えれば、各国の監視の目は届かないわ」
「低軌道リングからは丸見えだろ」
「光学カメラが画像を捉えにくい夜中に作業すれば、他の船にまぎれてかなりごまかせるかもね」
「コンチクショーめ…」
「他の無関係な船を巻き込まないためにも、このミッションはガンダムの近距離狙撃による介入が最も有効なの。よろしくお願いします」
「近距離ったって…陸から狙うのも数十キロ単位になるんじゃ」
「デュナメスリペアとあなたなら十分可能よ。状況によっては、洋上での、エクシアリペアⅢからの狙撃も許可します」
「………」
「どうした刹那」
「夜間の狙撃は…エクシアリペアだと精度が下がる可能性が高い」
「ヘタクソかよ。おまえまだそんなこと言って、」
「洋上でガンダムが視認されることは避けたいの。だから、エクシアからの狙撃は本当に最終手段よ。基本的に、刹那は可能な限りの上空から、目標の捕捉に専念して。ロックオンのサポート、お願いね」
「えっ…おれってサポートされる側なの?」
「最初からガンダムによる狙撃って言ってるわよ?」
きょとんとスメラギにたたみ込まれ、さらに刹那のかすかに同情めいた視線を感じ取って、ライルは立ったまま、やれやれとブリーフィングルームの天井を仰いだ。
『刹那・F・セイエイより定時連絡。エクシアはデュナメスリペアと共に現在、サハラ砂漠上空33R付近を航行中。2400(ニーヨンマルマル)にアイルランド島に到着予定』
ボイスモードの通信を暗号に変換し、それをプトレマイオスに送信すると、刹那はコクピット内の照明を限界まで落とした。
タンクから供給される粒子を節約するためだ。
前後左右のホロスクリーンが、さっと闇に染まる。
時刻は夜だ。
夜の成層圏は、どこまでも黒く、青い。
そして、つかみ取れそうな無数の星が、瞬きもせず、硬質な輝きを放っている。
エクシアリペアのメインカメラが映し出す、ホロスクリーンの広大な夜空の中で、刹那の手元のコンソールパネルだけが、ふつふつと光りながら浮かび上がってくる。
身体一つでパネルを抱いて、果てしない薄闇を漂っているようだ。
薄闇は、巨大な壁のようであり、また、進んでも進んでも終わりのない、無限大のトンネルのようでもあった。
この感覚を味わいたくて、まだエクシアに太陽炉が付いていた頃も、刹那はよくコクピットの照明を落としていた。そして、そんな時に限ってニールに有視界通信を繋がれ、コクピットの暗さにあきれられたりしたものだった。
───『おぉい刹那ぁ。真っ暗闇で何やってんだ?』
夜間にコクピットの照明を落とす理由を、その時の刹那はニールに明言しなかった。ただ薄闇が好きなのだと率直な理由を言っていたら、ニールはどのような反応をしただろうか。
今となってはもうわからない。
並走しているデュナメスリペアからは通信がない。
アイルランド島に着くまで、まだ二時間ある。要領の良いライルは、とっくに操縦をハロに任せて、体力を温存していることだろう。
自分の故郷で武力介入を行うことを、ライルはどう思っているのか。
肉親の仇である刹那をさえ、表向きには恨まなかったライルではあるが。
今回の介入対象は大規模な無差別テロを計画している。それを阻止することを、ライルはためらったりはしないだろう。
───『テロが憎くて悪いか』。
待機場所だったあの孤島の、ぬるい潮風の吹く浜辺で、うめくようにティエリアを問い詰めていたニールの声が、刹那の意識の遥か彼方で反響する。
守秘義務に覆い隠されていたニールのそれまでの人生を、あの時、刹那は少しだけ察した。その場にいたアレルヤもイアンも、同感だったことだろう。
あのニールの悲しみを、ライルも味わった。受け止め方に違いはあれど、わずかに十四歳だったライルが、何も衝撃を受けなかったはずがない。
今回のミッションを言い渡されても、ライルにことさら変化は見られなかった。
ライルの動揺を気遣って、スメラギはライルと刹那だけをブリーフィングに呼んだのかもしれない。
しかし、まったくと言っていいほどライルはいつも通りだった。
ただ、精神的に剛柔を兼ね備えたライルの感情は、イノベイターである刹那にも不可解なことが多い。
そして、ライルの感情に触ることを意図的に避けている刹那は、その状態を堅持するしかない。
どれほどわかりにくくても、どれほど明確でも、ライルの感情が深刻であればあるほど、「刹那・F・セイエイ」は、決してそれに触ってはならないのだ。
彼が心で喜びに震えていても。
彼が心で泣き叫んでいても。
───彼の心に、触ってはならない。
昏い決心を喉に落とし込むたびに、刹那の身体に新しい苦痛が刺さる。
無数に刺さってくる、その苦痛の意味は、とっくに理解できている。
こんなに決心しなければならないということは。
それは、逆説なのだ。
ただひたすらに。
触れたいのだ。
ライル・ディランディに。
───『真っ暗すぎるぞ刹那。おまえの顔がよく見えねぇ』。
記憶の中のニールは、真面目に声のトーンを落として、コクピットの刹那をたしなめてくる。
ライルへの過度な感情を自覚してからというもの、刹那の中に保たれているニールは、頻繁に刹那に語りかけてくるのだ。
ニールに罰されたい、罰されて当然だと思う、そんな願望の作用なのだろうか。
ニールにも、ライルにも、こんな顔を見られたくない。
自分の顔はきっと今、薄汚い苦痛に満ちて、歪んでいる。
おざなりな動作で、刹那はエクシアの操縦をオートモードに切り替えた。
ほんのしばらくの間でいいから、誰にも見られない薄闇の中で、目を閉じて休みたかった。