緩やかで遥かな終わり



その跳躍は、何度見ても悔しいほどに美しかった。
星の見えない夜空をバックに、薄紅色の閃光が、長く尾を曳く。
「なかなかやるなぁ、ピンクのウサちゃんよぉ!」
『黙れ!』
車通りの途絶えた高速道路の上で、緑色と薄紅色の光の筋が、離れては絡み、絡んでは離れる。
ルナティックは、今夜もとうに退場している。
攻撃の対象を失った「ウロボロス」は、退場することも許されず、またもワイルドタイガーに追い回されているのだった。
タイガーはハンドレッドパワーを発動しているが、追われている「ウロボロス」も似たような能力の持ち主らしい。両者のデッドヒートはあまりにも高速で、テレビカメラは、飛び交う二つの光の玉を遠景で映すのが精いっぱいだ。
通行規制された道路の入口には、何台ものパトカーと───こんな時に間が良いのか悪いのかわからないが───ついさっき、ルナティックに襲われかかった犯人を捕まえた、ブルーローズのトランスポーターが停車している。
「おぉい、ブルーローズ!頼む!」
「ちょっと!今忙しいのよ!なんでこっちに来るのよ!」
「いいからこいつの足止め頼むわ!」
「もう、なんで私が…っ!」
見る間に「ウロボロス」は、きらびやかなトランスポーターに迫る。
ふわりふわりと、滞空時間の長い跳躍を何度も繰り返して、足元に絡むタイガーを振り払うように、黒いスーツは宙を駆ける。
速すぎる彼らの動きを見て、ブルーローズはフリージングガンでの狙撃をあきらめた。
「タイガー!道路の端に寄って!」
虎徹に向けて一声通信し、両手のひらを空へと向ける。
次の瞬間、人の頭ほどもある氷塊が、何十も「ウロボロス」に降り注いだ。
高速で移動している「ウロボロス」の肩に、足に、氷塊は激突し、細かく砕かれたそれが、冷たい白煙となって飛び散ってゆく。
「ウロボロス」は痛みなどまるで感じていないかのようだ。だが、その動きがわずかに鈍くなったのを、虎徹は見逃さなかった。
「サンキュー、ブルーローズ!」
道路脇の照明塔の上から、時間外勤務をこなしてくれた女王様に礼を言って、ワイルドシュートを放つ。
殺気に気づいた「ウロボロス」は、放たれたワイヤーをようやくかわしたが───飛び退いたその先に、特大の氷塊が落ちてきた。
ぐしゃ、と。
薄い金属がへこむような音がして、「ウロボロス」は何メートルかはじき飛ばされた。
そのマスクに直撃したらしい氷は、ダイヤモンドのような破片となって四散する。
幾千の光る破片を浴びて、「ウロボロス」が路面にたたきつけられると同時に、彼のマスクのフェイスガードがほんの少し持ち上がったのを、虎徹は夢を見ているような思いで見つめた。




結局、「ウロボロス」は捕まえられなかった。
ビルの密集する高速道路外に逃げられてしまっては、氷の女王もむやみに氷爆弾を降らすことはできない。

───あと一歩、早けりゃなぁ。

トランスポーターは、アポロンメディアの社屋を目指して静かに走る。
苦虫を噛み潰す心地で、虎徹は車内備えつけのソファに座ったまま、確かめるように右手の指を閉じて、開く。
あとコンマ何秒か早く、ワイルドシュートを撃てていたら、「ウロボロス」を捕らえられただろうに。
間が悪いにもほどがあるのだが、あの時、ちょうど能力の発動時間が終わってしまったのだ。

───どーも、納得いかねぇ。

このごろどうも、ヒーロースーツの内蔵時計と、NEXT能力の終了時間がずれるような気がする。
ずれるといっても、それは一秒にも満たず、インナーモニターの発動モードが終了する直前に、ぷつりと能力が体感できなくなってしまう気がする、というあいまいなものだった。
実際に、スーツの時間カウント機能をバーナビーに微調整してもらうと、ずれは治まることが多かった。
だがここ一週間ほど、そのずれが、ほとんど直らなくなっているのだ。
出動にはなんの支障もない。
体調に変化もない。
スーツも問題なく機能している。
ただ、能力終了の感覚が、ぱちりと一度だけ手を打つようなタイミングで、ずれる。
あの、仕事の鬼のようなバーナビーに調整してもらった直後なのだ。カウント機能に問題があるとは思えない。

───ってことは。

とても気持ちの悪い結論が頭の中に浮かんできて、虎徹の胸中はざわざわと波立つ。
能力の持続時間が短くなる、などということが、あるのだろうか。
少なくとも虎徹の周囲で、そんな話は聞いたことがない。
背の高い人間、低い人間、怒りっぽい人間、気の長い人間…身体的、性格的特徴が生来のものであるように、NEXT能力も生来のものであり、ある程度のコントロールはできるが、能力そのものをなかったことにはできない───それが、NEXT能力者についての、一般的な認識だ。
詳しいことはまだ分かっていない。能力者が現れて、まだ四十数年しか経っていないのだ。老年に達したNEXT能力者の状況など、誰が知っているというのだろう。

───そりゃ。俺だって、若い頃よりは、シンドイって、思う時もあるけど。

それでも、そこらの同年代の人間よりは、体力に恵まれていると思っていた。
シンドイ部分は、勘と経験で十分にカバーできるし、このNEXT能力さえあれば、まだ何年でもヒーローとしてやっていけると思っていた。
もしも。
もしも、老いた人間が体力を失うように、NEXT能力も枯渇することがあるのなら。
このまま、じわじわと能力の持続時間が減っていくのなら。
数年先か。
十年先か。

───あるいはもっと、早い時期に、俺は、NEXTじゃなくなってしまうんだろうか。

後頭部がしびれるような恐怖を、虎徹は首を振って拡散させる。
弱気になりすぎている。
ルナティックや「ウロボロス」に翻弄されて、疲れているのだ。

───もう一度だけ。

もう一度だけ、バーナビーに頭を下げて、スーツを調整してもらおう。
また「ウロボロス」を逃がしてしまって、少し彼とは顔が合わせづらいが。
トランスポーターが、急に速度を落とした。会社の駐車場に着いたのだろう。
時間がもうない。
バーナビーに対面するために、気持ちを立て直す、時間が。
アンダースーツ姿のヒーローは、ソファに座ったまま、そっと頭を抱えた。




───『よっ、バニーちゃん。遅くまで大変だなぁ。大変なとこホントに申し訳ないんだけど、今日じゃなくてもいいから、スーツのあのカウント時計、ちらっと確認しといてくんないかな』。

やっぱ、ごちゃごちゃ理由付けない方がいいか。あいつ変なとこでスルドイから、スパーっと、ストレートに言っちゃった方が、突っ込まれなくてすむかもな。
虎徹はひたすら考えていた。
考えながら、つぶやき続けた。
トランスポーターを降りて、ロッカールームに着くまで。
ロッカールームの中で着替えながら。
着替えて、メカニックルームに向かう廊下を歩きながら。
バーナビーにスーツのメンテナンスを頼む予行演習は、やはりそんな短い時間では完璧に仕上がらなかった。
しかし、だらだらと考え込んでいると、バーナビーは退社してしまうかもしれない。

───ま、バニーがいないなら、斎藤さんに頼めばいいんだけど。

非常に短絡的な解決方法に、どっと安心があふれ、これまた短絡的に、廊下を歩く足取りも若干軽くなる。
僕が把握していた案件ですよ、どうして途中で斎藤さんに頼むんですか───などと、バーナビーが四角四面にごねる可能性は非常に大きいが、その時は、「だっておまえ、いなかったんだもん」ですませればいいのだ。
それにまた、バーナビーは「あっちのラボ」にかかりきりで、メカニックには帰ってきていないということだって十分に考えられる。
いささか卑怯だが、ロッカールームで着替えていた時より、だいぶほの明るい気分になって、虎徹はメカニックルームのドアを開けた。
部屋の真ん中に一人座っていた斎藤は、椅子をちょろりと半回転させて虎徹を振り向き、片眉を上げる。
「お疲れ様でっす。あの、スーツの調整ってもう終わっちゃいましたかね?」
バーナビーがいないことに、虎徹は心底安心した。
実に軽やかな足取りで、斎藤の手招きに応じて、彼の返答を聞くべく、彼のそばにしゃがみこむ。
すぐに、八十パーセント以上は吐息で形成されている斎藤の声が、虎徹の耳に滑り込んだ。
「調整はバーナビーがこっちのラボでやっている。用事があるならラボで聞け」
お手軽な安心を真っ向からガラガラと崩され、虎徹はしゃがみこんだまま、がっくりと頭を垂れた。
「そうですか…」
「どうしたタイガー?」
「いや。なんでもないっす。ラボ行ってきます」
心情的にも疲労度からしても重い腰をえっちらと上げ、立ち上がったところで、くいくい、と斎藤にシャツの袖を引っ張られる。
「なんですか?」
抑えきれずに情けない声を出した虎徹に、また片眉を上げて、そして戻して、斎藤は、とても珍しい指示を出した。
「何に手間取ってるのかバーナビーがなかなか帰ってこない。スーツの調整が済み次第、バーナビーに、ここに帰ってくるよう言ってくれ」




これは確かに、「なかなか帰ってこない」はずだ。
メカニックのラボに踏み込んで、虎徹ははー、と、驚嘆の息を吐いた。
パソコンのモニターを煌々と光らせたまま、バーナビーはデスクに突っ伏して、眠っている。
スーツのメンテナンスはほとんど終わっているようだった。
デスクの横に据えられたヒーロースーツの胸部分が、モニターの光源を反射して、寂しく輝いている。

───あのバーナビーが、寝てやがる。

ナニゴトだ、これ。
具合でも悪いのかと一瞬焦って、虎徹は首を伸ばしてバーナビーの顔をのぞき込んだが、彼の寝息はとても穏やかで、規則正しかった。
もちろん顔色もいつも通り───だったが、この、頬に貼られた絆創膏は、いったいどういうわけなのだろう。
目を凝らしてよく見ると、彼の真っ白な頬には、絆創膏の他にも小さな掻き傷がいくつかついている。嫌味なくらい上品な形の唇にも、端の方に、ぶつけたような擦り傷がついている。
虎徹がバーナビーの顔を見たのは、今日のこれが初めてだった。
いつこんなケガしたんだ。昨日おとといあたり、またダウンタウンでドンパチやってきたんだろうか。
唇の端の傷はまだ新しいのか、その場所ゆえに裂けてしまうのか、固まりきらない小さなかさぶたから、わずかに鮮血がにじんでいる。
針の先ほどの細かな白さで、湿った血が照明に反射する。
とたんに、虎徹の腹の底で、どろりと何かが動いた。
動いた何かが、身体の中を駆け上がる。
神速で駆け上がってきたそれは、虎徹の心臓にたどりついて、どん、と一つ、大きく震えた。

───おい待て。まてまて。

俺は、痛そうだなって、思っただけだ。
せっかくキレーな顔が、もったいねーな、って。
こいつ、この間も駐車場で疲れた顔してたし、あっちのラボの仕事がしんどそうで、なのにまた人探しに出かけて、油断してチンピラにボコられちまったんじゃねーかって。ついてねーな、悔しいだろうなぁ、って。

───そんだけなのに、なんでまた俺は、「誤作動」しかかってんだ。

息を止めて舌打ちし、虎徹は、バーナビーの眠るデスク脇にしゃがみこんだ。
自分を問い詰めれば問い詰めるほど、下半身が熱くなればなるほど、頭の隅は妙に冷たくなる。
冷たくなったそこは、死にたいくらいに恥ずかしくて正確な、再びの結論を、ぽろりと自虐的にひねり出す。

───俺は、痛そうだなって、思った。

それで。そこを。
舐めたい、って、思った。

ひねり出された結論に、全身が冷える。
ありがたくて情けないことに、誤作動の理由を正確に自覚すると、その部分の「作動」は急激に治まっていった。
どうかしている。
バーナビーも疲れているが、自分も疲れている。
そういえば最近、「ウロボロス」で頭がいっぱいで、自慰さえ、とんと忘れていた。
不健康に溜まってるからって、なにも、職場の、ものすごい年下の、しかも男の同僚に欲情しなくてもいいだろう。
ままならない下半身を内心で叱りつけるも、その叱咤は、虎徹の中でどこか嘘くさい。
本当はちゃんとわかっている。
バーナビーは、きれいで。
バーナビーに怒られても、嫌味を言われても、呆れられても、嫌われても、そのしぐさの、その態度のいちいちが、心に温かく刺さって、抜けなくて。
冗談抜きで自分の体温が下がるのを感じて、虎徹はしゃがんだまま、組んだ腕の中に顔を埋めた。

───逃げさして、くれよ。頼むから。

「わかっている」ことを、自分はわかりたくないだけなのだ。
もう一度自分を叱ると、腹痛のような不快さで、一層しくしくと気分がささくれた。
「誤作動」が落ち着いてくると、別のところから、別の思考がふとわき上がる。誤作動ばかりに関わりたくないと、脳が無意識に自衛しているのかもしれない。
ささくれる気分を塗り潰したくて、虎徹はすぐに、意識をそちらに乗り換えた。
鼻だけで大きくため息をついて、まだしゃがんだまま、そっと顔を上げる。

───このカンジ、なんかどっかで。

脇のデスクで眠り続けるバーナビーの唇のイメージを、もっと別の場所で見たような気がして、虎徹は目をすがめた。

───ああ。今日の、あいつだ。

難なく思い出す。
ほんの一時間前に、高速道路の上で追いつめた「ウロボロス」のフェイスガードが、氷塊の当たった衝撃で持ち上がり───「彼」の顔半分というか三分の一というか───口元だけが、ちらりと見えたのだ。
真っ白な顎と、その上に浮かぶ、血の気の薄い小さな唇。
スポットライトが当たっていたわけではないので確信は持てないが、あの肌の色からするとたぶん、「彼」は、バーナビーと同じ、コーカソイド系の白人だ。
「彼」の白い顎にも、しわひとつなかった。まだ若いのだろう。
もしかすると、年もバーナビーと同じくらいなのかもしれない。
片や犯罪組織の末端、片や大企業の、将来有望な技術者。
あの「ウロボロス」を捕まえて、話を聞きたい。
ヒーロー活動において、ターゲットにむやみに感情移入することは危険だ。だが、考えずにはおれない。尋ねたくてたまらない。
バーナビーの両親を知っていたか、と。
誰かに命じられたからおまえは「ウロボロス」になったのか、と。
それとも自らの意志でなのか、と。
自分と年の変わらない人間が、必死でおまえを追っていることを、どう思うのか、と。
「ウロボロス」への質問は尽きない。
しかし時間に限りは、ある。
すっかり頭も身体も冷えたのを体感して、虎徹はようやく立ち上がった。
バーナビーはまだ眠っている。
バーナビーにスーツの調整を頼むのは、今日はやめよう。
バーナビーを、これ以上疲れさせてはいけない。
このまま、バーナビーを寝かせたままラボを出ていけたら、どんなによかっただろう。
だが斎藤の指示は守らなければならない。
はかない後悔を噛みしめながら、虎徹は可能な限り優しく、バーナビーの白衣の肩を叩いた。