夜明けの獣



「なっがい付き合いだけど、俺はだんだん、おまえの趣味がわからなくなってきたぞ?」
だらしなくテーブルに肘をついたその指先で、虎徹は焼酎の入ったグラスを軽く振る。
テーブルの向かいに座るアントニオは、コップに残っていたビールを一気に飲み干した。
「まあそう言うな。オレも最初はこういうとこ、入る気にならなかったんだけどなぁ。たまたま昔の後輩に引っ張られて入ってみたら、食いモンがほんとに美味くてな」
場末、という言葉がかなりしっくり来る古びたバーには、老若男女が入り乱れていた。隅でくたびれたサラリーマンがくだを巻いているかと思えば、店の中央近いテーブルで、学生ぽい集団がカップル作成ゲームに奇声を上げていたりする。
その喧騒に押されて、かなりはっきりと声を出さなければ、この店で会話をすることはできない。
酒好きが静かに酒を飲むには、実に不向きな店だった。
「いつもはもうちょっと静かなんだけどな。まあ、食えよ」
運ばれてきたのは、由緒正しい「ヤキトリ」の盛り合わせだ。この街ではめったに出会えないオリエンタル風の匂いに、虎徹の目がきらりと輝く。
虎徹が最初のひと串にかじりつくと、フォーク片手のアントニオが目を白黒させた。
「おい。もうちょっと、食い方ってのがあるんじゃないのか」
「『ヤキトリ』はこれが正しい食い方なの。おまえこそ、ちまちまフォークなんかで分解してんじゃねーよ。クシはクシらしく食わねーとヤキトリに失礼だろうが」
「え、そういうもんか?」
この店の厨房にはきっと、職人肌の東洋人がいるのだろう。実に由緒正しい味のするヤキトリソースを味わいながら、ここにはもう一度来てみてもいいなと、虎徹はひっそり決心を噛みしめた。
その感動的なひと串を食べ終わりかけた時、店の奥から大きな音がした。
店のスタッフが忙しく行きかう厨房の入口から、ふいと風が吹き込んでくる。どこか、往来につながる奥のドアが開いたのだろう。
ほんの一瞬、全ての客の視線が厨房の入口に集まったが、喧騒はすぐに、元通りの音量を取り戻す。
ヤキトリの、最後のひとかじりに気を取られて、風の吹いてきた方へ振り向くのが遅れたのは、虎徹にとって幸運、と言うべきだったのか。
目をやったそこに、見覚えのある金髪頭が現れて、消えた。
虎徹は思わず立ち上がる。
厨房につながる、狭い廊下の奥から奥へ消えて行った、あの赤いライダースジャケットと、メガネの男は。
「おい。どうした?」
「すまんバイソン。用事ができた。後で埋め合わせすっから、今日は先に帰っててくれるか」




「よぉ復讐クン。ひっさしぶりだなぁ、ええ?」
タバコの煙なのか弱いドラッグのそれなのか、それとも厨房からの吹き込みなのかわからない薄煙の向こうで、黒い三つ揃いスーツを絶妙に着崩した男は、以前と少しも変わっていなかった。
落胆する気持ちを抑えて、バーナビーはビリヤード台にもたれるその三つ揃い男をまっすぐ見返す。
「あの、ジェイクさま。お知り合いで…?」
バーナビーの両脇を抱え込み、ここまで連れ込んできたパンクファッションの男のひとりが、困惑した声で三つ揃い男に尋ねる。
ジェイクと呼ばれた三つ揃い男は、パンク男の質問をまるきり無視して、だらしなく開けたシャツの襟元のボタンをもうひとつ、けだるげに外す。
「何年ぶりになるかなぁ、二年か、三年かぁ?復讐クンがまーだこんなとこに出入りしてるってことは、あのボロボロスとやらはまだ見つかってねぇみてぇだな」
「『ウロボロス』ですわ、ジェイクさま」
ジェイクにひたりと寄り添う黒ずくめの女が、猫のようなしぐさで、くすくすと笑う。
そうやって茶化されても、バーナビーの中には悔しさすら湧いてこない。
二十年前にバーナビーの両親を殺した犯人の手には、ウロボロスのタトゥーが刻まれていた。
今はないあの家の、リビングに続くドアを開けたあの時、バーナビーははっきり見たのだ。
部屋中を覆っていた炎と、その中に倒れていた両親の姿。そして、その両親のそばに、銃を持って立っていた犯人の、右手を。
彼の手の甲の、黒いタトゥーを、バーナビーは忘れたことはなかった。
それなのに、犯人の顔だけが、記憶から抜け落ちているのだ。
殺人の手口はあまりにも鮮やかでありふれていて、警察もとうとう、犯人の行方を割り出すことはできなかった。
だからバーナビーは、誰にも頼らずに街に出た。ただ、ウロボロスのタトゥーの意味を知っている人間を探すために。
このブロンズステージのダウンタウンにも、何度足を運んだことだろう。治安が良くない場所なのはわかっていたが、そもそも、身体にタトゥーを入れているような人間は、アッパータウンにはまず存在しない。ダウンタウンで聞きこみをした後、無事に帰れる日も多かったが、バーナビーの容姿は良くも悪くも注目を集めてしまい、こうしてチンピラどものアジトに連れ込まれることがままあった。
良からぬ連中を路上で撃退するのは簡単だ。だがバーナビーはいつも、腕力もNEXT能力も使わずに、黙って彼らに従った。彼らのアジトに入り込めれば、それだけこの街の深部を知ることができる。そうして、すんでのところで、アジトそのものを破壊しかねない勢いでNEXT能力を発揮して、彼らから逃れるのだ。
銃を突きつけられたり、いきなりレイプまがいに押さえ込まれたり、この数年で、ひととおりの危機は経験した。
だがこのジェイクは、初めて会った時から、顔に似合わず紳士的な男だった。

───ふーん。探しモンしてるって?え?親のカタキ?なんだそりゃ。

いや、紳士的というよりは、単純に、バーナビーの事情に興味を持っただけなのだろう。数年前のあの時も、部下に連れてこられたバーナビーには指一本触れず、部下に乱暴もさせず、ジェイクはただバーナビーの話を聞いてくれた。

───一途なヤツは好きだぜ。まぁ復讐、がんばりな。

協力はしねぇけどな、と高らかに笑ったあの笑顔が今また、バーナビーの目の前にある。
この街では、どうあがいても、この男にたどりついてしまうのだろうか。この男が、街の最深部に、最も近い存在なのだろうか。
また同じ人物のアジトにたどりついてしまった落胆をどうにか抑えて、バーナビーはやっと、口を開いた。
「あれから、ウロボロスのタトゥーがある人間を見かけたことはないですか」
このジェイクが真実を教えてくれるという保証などかけらもないが、バーナビーはただ、尋ねることしかできない。
「ザンネンだなぁ。さっぱりよ。ハートだのドクロだのオンナの名前だの彫ってるやつは、わんさと見るんだけどねぇ」
少しも残念がっていない声で、ジェイクはにやりと笑う。
「そうですか。では失礼します」
くるりときびすを返しかけたバーナビーの肩を、それまであっけにとられていたパンク男があわてて捕まえた。
「ジェイクさま!帰すんですか、こいつ」
「んー?なんだって?」
ビリヤードのキューを握り直し、もう次の構えに入っているジェイクは、心底面倒くさそうだ。
かつん、と突かれた球は、目的のポイントにまでうまく届かず、ジェイクの舌打ちが飛ぶ。
「ええい!今日はやめだ!帰るぞ、クリーム!」
「はい」
バーナビーを捕まえたままのパンク男は立ち往生している。その脇をすいとすり抜けて、ビリヤード部屋のドアを押しあけながら、ジェイクは下卑た笑みをもらした。
「その復讐クンは、おまえの好きにしな。オレが許す。ただし、手強いぞう?気をつけてな!」
すぐに閉まったドアの向こうで、ジェイクとクリームの絡み合うような笑い声が響き、すぐに遠ざかる。
肩をつかんでいたパンク男の手が、バーナビーの喉元に伸びた。
「手強いんだって?お嬢ちゃん?」
鎖骨をなぞり、ジャケットを脱がせようとするその男の手のひらから、えもいわれぬ嫌悪感がしみ込んでくる。
ほんのしばらく、ゆるやかにうごめいていた男の手に気を取られ、バーナビーは、もう一人のパンク男の動作に反応するのが遅れた。
いきなり、背後から口を塞がれる。
粉末の、おそらくドラッグを、塗り込めるように唇に押しつけられて、バーナビーは刹那、あわてた。今まで、押さえ込まれることはあっても、ドラッグを使われたことはなかった。
ひと呼吸した後、ひきむしるように、バーナビーはその男の手のひらを捕えた。




絵に描いたようなチンピラ風の男たちをどうにかかき分けて、虎徹がその部屋のドアを開けると、全身を青く輝かせたバーナビーが、身体を二つ折りにして咳き込んでいた。
「おい、大丈夫か!?」
駆け寄ると、目線のずっと下から、苦しげなバーナビーの、青く変色した瞳がにらみ上げてきた。
部屋の中には、ビリヤード台だったらしい粉々の木片が散乱し、顔を極彩色に塗りたくったパンクファッションの男が二人、白目をむいて失神している。
「なにやってくれてんだ、おまえらはぁ!」
虎徹の背後から罵声が飛び、さっきかき分けたチンピラどもが、部屋へ大挙してきた。
これはもう、弁明している余裕もない。
三十六計、逃げるにしかず。
「行くぞ!」
まだ上体を起こせないバーナビーの腕を取り、虎徹は入口とは反対側の窓に向かって、精いっぱい跳躍した。




とにかく建物から建物へと、跳ぶ。
ビリヤード部屋は不運にも一階だったので、高層階から一気に飛び降りて追手をまく、という手は使えなかった。
夜のダウンタウンを、青く光るウサギのように二人して跳ね回って。
「おっ…ととっ、うわっ!」
跳躍の最後のひと足でけつまづき、虎徹の視界が反転する。
「危ないっ!」
叫び声と一緒に、腕を引かれていたバーナビーの身体が、空中で離れる。
せっかく跳びついた雑居ビルの屋上から、虎徹がまっさかさまに落下したその時、離れたはずのバーナビーが、ビルの壁面を滑り下りるように蹴りながら、追いついてきた。
「え…おぉ?」
驚く虎徹を空中で抱きとめ、そのままバーナビーは路地に飛び降りる。
路面に足をつくやいなや、バーナビーはバランスを崩して倒れ込み、抱きとめられていた虎徹はバーナビーに押し倒されるような姿勢でその場に転がった。
「あててて…おーい、大丈夫か…?」
腹の上に、バーナビーの頭が乗っている。金髪の頭はうつぶせられていて表情はわからないが、痛みをこらえるような吐息が聞こえる。
「すまねーな、おい」
もう一度声をかけると、やっとバーナビーは顔を上げた。
不機嫌なその瞳は、もう青くは光っていない。
「…ひょっとして、おまえも能力、五分しかもたねーのか?」
虎徹の身体はまだ青く光り続けている。能力が切れる寸前の、まさにギリギリのタイミングで、バーナビーは虎徹を助けてくれたのだ。
顔をしかめながらバーナビーは半身を起こし、乱暴に虎徹の身体を放りだして、離れた。
「いいかげんにしてください。僕がもし、パワー系のNEXTじゃなかったら、どうするつもりだったんですか」
「俺のカンは外れねぇんだよ。それに、おまえが一緒に跳べなかったとしても、俺ぁ仮にもヒーローだぜ?男や女の一人や二人、軽―く運べなくてどーするよ」
「最後までちゃんと運べなかったじゃないですか、実際」
「あー、それはその…すまん。…ってか、ありがとな」
虎徹があぐらをかいたまま頭を垂れると、バーナビーが立ち上がる気配があった。
ずれたらしいメガネを軽くかけ直し、膝頭の砂ぼこりをぱたぱたと払い、涼しげな声がこともなげに言う。
「じゃあ。帰ります」
えっちょっと、さっきの状況への弁明ナシで質問受け付けもナシなの待てよコラ、という虎徹の内心の声は、バーナビーにはもちろん聞こえない。
だが、虎徹に背を向けたバーナビーは、歩き出すことができなかった。
ふっ、と上体をふらつかせ、ビル壁に手をついて、ずるずるとしゃがみこむ。
「どした!?」
はじかれたように虎徹は立ち上がる。
しゃがみこんだバーナビーの額に、冷や汗のようなものが浮いているのが、暗がりの中でもはっきり見えた。
数瞬、沈黙が続いたが、小さな声が、ようやく金色の前髪の下から聞こえてきた。
「少し。ドラッグに酔っただけです」
「おまえ、」
「誤解しないでください。さっきのやつらに、ほんの少し、舐めさせられただけですよ」
問答無用だ。
バーナビーの腕を肩に回し、強引に虎徹は立ち上がる。
「離してください!歩けますよ、もう少しすれば」
こいつをこれ以上、ここに放っておいてはいけない。
「黙ってろ。来い」
短い威嚇の後、虎徹がバーナビーをひきずって歩き出すと、もがいていた身体はあきらめたように、力を抜いた。




ダウンタウンからそう離れていない、ブロンズステージの住宅街の一角が、虎徹の住まいのようだった。
狭くも広くもない部屋だ。
小汚い、とまではいかないが、微妙に片付いていない部屋の端々には、空の酒瓶がいくつも放置されている。
「ご家族に迷惑でしょう。帰ります」
「殊勝な気遣いありがとよ。安心しろ、ここには俺一人だ」
有無を言わさずテレビの前のソファに座らされ、水の入ったコップを握らされ、バーナビーは逃げ出すタイミングをすっかり失った。
座っているバーナビーの目の前で、虎徹はリビングテーブルに積まれた新聞を片付けている。
非常に投げやりな気分で、バーナビーはしかたなく質問を重ねる。
「一人…って、それは、マリッジリングじゃないんですか」
虎徹の左手の薬指を指さしてやると、整理整頓が苦手らしい中年ヒーローは、ガサガサと紙をたばねながら、ふいと鈍く笑った。
「ヨメはちょっと前に病気で逝っちまってな。俺はこんな仕事だから、子供は俺の実家に預けてる」
笑った、と思ったのは間違いだったかもしれない。
見慣れたあのニヤニヤ笑いとは、まったく要素の違う表情だ。
ほのかに温かいような、それでいてすげないような虎徹の表情は、バーナビーが会社で見ているそれとはまったく違っていた。
プライベート、と言われればそれまでなのだが、虎徹の軽い口調の中には、とても重いものが詰まっている。
今は亡い家族のことを、赤の他人に説明せねばならない時の、あのなんとも言えない居心地悪さを、虎徹も今、味わっているのかもしれない。
「…そうですか」
冷徹なまでにそっけなく答えて、バーナビーはコップの水を喉に流し込んだ。
つまらないことを訊いてすみません、とは謝りたくなかった。
何度も何度もバーナビーはそうやって謝られてきたからだ。
あの居心地の悪さを、虎徹に味わわせたくはなかった。
勝手に人の事情に首を突っ込んできて、勝手にやっかい者を自分の家に連れ込む、頭が痛くなりそうにおせっかいなこの男に、気を遣ってやる必要などどこにもない。
が、あの居心地の悪さをここで虎徹に投げつけてはいけないのだ。
ほとんど本能で、バーナビーは思った。
「具合、どうだ。まだ目が回るか?」
新聞の束を、部屋の隅の酒瓶のそばにばっさりまとめ落としながら、虎徹が尋ねてくる。
「いえ。大丈夫です。これ飲んだら、帰ります」
「どんなドラッグだったかわからないんだろ。あんまり甘く見るな。夜中に気持ち悪くなるかもしれねぇぞ。今日は泊まってけ」
「帰ります」
沈黙が落ちる。
部屋の隅でがさがさと何かかき分けていた音が止み、ずかずかと大股で虎徹がソファ前に戻ってきた。
「シーツぐらいは換えといてやる。おまえは上のベッドで寝ろ」
言うなりまた、ロフトらしい二階へ続く階段へ歩いて行ってしまう。
「ちょっと!人の話聞いてますか?僕は帰るって言ってるんです」
「あー、なんだって?年取ると、耳が遠くなんだよ」
東洋人にしては長い足が、すたすたと階段を上がっていき、見えなくなる。
憤懣やるかたなく、バーナビーは空になったコップをテーブルに置いた。
本当に、あの男のおせっかいには、頭が痛くなる。
この頭痛は、冗談抜きでドラッグのせいだけではないのかもしれない。
単なる職場の同僚に、しかも好かれていないことが確定している人間に、ここまで世話を焼く理由がわからない。
とにかく帰りたいのは確かだが、ここで逃げ出すと、また明日の朝、会社へ行ったその時が面倒だ。最近ずっと(バーナビーの努力もあって)、虎徹と二人きりで話す機会はなかったが、この調子でいくと、虎徹は虎徹自身が納得しない限り、会社内でもバーナビーを追いかけ続けるだろう。
ふう、と、何かとてつもないドジをふんでしまったような気分でバーナビーは息を吐き、ソファに座ったままうなだれた。
耳元の脈動に合わせて、ずきずきと頭に響いていた痛みは、もうかなりゆるんでいる。
しばらくすると、丸めたシーツらしき布を小脇に抱えた虎徹が、階段を降りてきた。
「できたぞ。じゃ、俺はそのソファで寝るからどいてくれ」
くいくいと、二階へ行くよう親指で階上を指さされ、バーナビーはようやく観念した。
ソファから立ち上がり、階段の上り口で虎徹とすれ違う。
「なあ」
すれ違いざまに、一段低くなった声で呼び止められ、バーナビーは階段に片足をかけたまま、振り向いた。
「おまえ、さっきはなんであんなとこにいたんだ」
ブランデー色の瞳が、まっすぐこちらを見つめてくる。
温かみのある色なのに、その視線は空気を切るような、冷えた真剣さを含んでいる。
「あなたこそ、なんであんなところにいたんですか」
「質問に質問で返すなよ。俺ぁあの店で飲んでただけだ」
「僕がいたあの部屋に、普通の客は入れないはずですが?」
「飲んでたら、おまえが店の奥に入ってくのが見えてさ。邪魔するチンピラみたいのをかき分けてったら、あの部屋に着いたんだよ」
腐ってもヒーローはヒーローということか。虎徹の並はずれた視力と、無鉄砲な行動力にあきれて、バーナビーの下腹から力が抜ける。
「で?おまえはなんであんなとこに?」
またブランデー色に見つめられて、バーナビーは思わず目を逸らした。
今は、この男を、なんとか納得させなければならない。
脳内で必死にシミュレートした、一番あたりさわりのない言葉を、バーナビーはやっとのことで口に乗せる。
「人を、探していただけです」
「人?あんなとこで?」
「ええ」
「大事な人間なのか?親戚かなんかか?」
「プライベートですよ。答えたくありません」
あの場で、虎徹に助けてもらう必要など、少しもなかった。ドラッグで少し目は回っていたものの、NEXT能力を使えば、いつものように、十分に逃げられる状況だったのだ。
だから、この男に恩など感じる必要はない。
こちらの事情を説明してやる義理もない。
今からこの家の、この男のベッドを借りるのは、この男がしつこくてしかたないからだ。
バーナビーは振り向かずに、寝室へ続く階段を上った。
階下の虎徹はもう、声をかけてはこなかった。




実に気が進まない中、バーナビーはジャケットを脱ぎ、ブーツを脱いで、虎徹のベッドにもぐりこむ。
枕も一応触ってみたが、自宅にあるものとはあまりにも固さが違うので、それを使うのは早々にあきらめた。合わない枕なら、ない方がましだ。
嗅ぎ慣れない洗剤の匂いのするシーツに片頬をつけると、ベッド脇の写真立てが、目に飛び込んできた。
長い黒髪の、目鼻立ちのはっきりした女性が、写真立ての中で赤ん坊を抱いている。
女性の横には、いくらか若く見える虎徹が、寄り添うように立っていた。
何年前の写真かはわからないが、写真の中の虎徹は、バーナビーが見たこともない私服を着ているせいか、今現在、階下のソファで寝転がっているだろう虎徹とは別人のように思えた。
誰にでも、過去がある。
そんなあたりまえのことを、わかっていなかったはずはないのに、バーナビーの過去とはまったく色合いの違う虎徹の過去は、バーナビーの中に、小さくない驚きを呼び覚ました。
誰かと結婚して、家庭を、子供を作る。
そんな、世間ではあたりまえとされている未来を、バーナビーは自分のものとして考えたことはなかった。そんな、バーナビーの思考とは遠くかけ離れた人生を、既に虎徹は生きてきたのだ。
これは今、深く考えるべきことではない。
あのおせっかいが過ぎる中年男の過去を、どんどん想像してしまいそうになる。
バーナビーは頭から毛布をかぶり、丸められる限りに身体を丸めて、思考を遮断した。




やっぱり、夢見は最悪だった。
バーナビーの夢の中で、虎徹は、あの写真の赤ん坊を抱いて笑っていた。
声を立てて笑っていたわけではない、無言の笑みだったが、赤ん坊を見下ろすその笑みには、ずしりと胸が重くなるような敬虔さがあった。
誰が見ても文句のつけようのない「幸福」だった。
だが、それを見つめるバーナビーの胸の内は晴れない。
虎徹が幸せそうであればあるほど、彼らの存在が敬虔であればあるほど、身体の芯が、引き絞られるように痛む。
どうして痛いのかは、わかっている。
わかってしまっている自分がさらに情けなくて、バーナビーは彼らから目を逸らしたが、夢の中だというのに、まぶたの裏の残像は、なかなか消え去ってくれない。
お願いだ。消えてくれ。
誰にも聞こえないように、口の中でつぶやいても、それは消えない。
消えて。
消えてくれ。

───どうしても消えてくれないのなら、こっちを向いて。

こっちを向いて、その笑みを、僕に。
言葉にしたとたんに、痛んでいた身体の芯がバラバラになるような、壮絶な苦痛に襲われ、バーナビーの視界に、火花が散った。
望み通り、虎徹と赤ん坊の残像は、あとかたもなく消える。
消えてしまったその後の、もの寂しい暗がりの中には、見慣れた大きな背中があった。

───マーべリックさん。

僕はあなたに喜んでもらいたいんです。
わがままなのはわかっています。
けれど、僕は、ヒーローにだけはなれない。
僕の人生にヒーローは必要ない。
ごめんなさい。
他のことなら、なんでもします。
だから、こっちを向いてください。
ここは暗すぎて。
息が、詰まる。




バーナビーが、うなされている。
晩秋の夜は長い。まだ日も射さない暗がりの中で、眠さをこらえて虎徹は階段を上がった。
サイドランプを点け、ベッドの中でうなされているバーナビーに声をかけたが、彼は起きる気配がない。
肩をさすり、小さな子供にするように頭を撫でてやると、ようやくうめき声は消え、ゆるい寝息が戻ってきた。
バーナビーの額は平熱そのものだ。顔色も悪くなく、冷や汗もかいていない。
ドラッグのフラッシュバックではなさそうだ。
バーナビーがもう一度深く寝入るまで、何分かは様子を見てやろうと思い、虎徹はベッドの端に腰掛けようとしたが、思い直して立ち上がった。ベッドにイレギュラーな振動を与えると、またバーナビーの眠りを浅くしてしまうかもしれない。
立ったまま、腰に手を当てて、ひとまずは安心して、虎徹はバーナビーの寝顔を見下ろした。

───はぁ…起きてる時とは、別人だなぁ。

うらやましいほどに透き通った頬には、しみ一つない。
いつも攻撃的な緑の瞳は、まぶたに塞がれて見えないが、たったそれだけで、こんなにも印象が変わる顔だとは思わなかった。

───まるっきり、子供じゃねーの、コレ。

こんな子供が、ダウンタウンで、人探しとは。
あの落ち着いた態度からすると、ああいうところに連れ込まれたのも、一度や二度じゃないということなのだろう。
それにしても、あれほど強力なNEXT能力を持っているくせに、なぜバーナビーはチンピラどもの言いなりになっていたのだろう。
あんな追いつめられた状況に陥る前に、いくらでも逃げ出すなり、相手を蹴飛ばすなりはできたはずだ。

───まさか。わざと?

なんだかわからないその「人」を探すために、少しでも多くのならず者に接触するために、バーナビーはわざと無力なふりをして、チンピラどもがひっかかってくるのを待っているのだろうか。
考えすぎだと思いたいが、あの天をも突きそうなプライドの持ち主であるバーナビーなら、本来は、妙な気を起こしたチンピラどもに、指一本触れられることすら許さないはずだ。

───なりふりかまってられねぇってことなんかな、つまり。

そこまでしてバーナビーが探しているのは、誰なのだろう。

───なんつーか…不可解だ。

超のつく真面目っぷりで、日々の仕事を完璧にこなしていると思ったら、社長と妙なつながりを持っていたり。機械好きの気難しい坊ちゃんだと思ったら、ダウンタウンをほっつき歩いて、チンピラどもをねじふせていたり。
そして、寝ている時は、こんなに、子供のように、小動物のように、可愛らしかったり。
いやいや、こいつの見てくれにだまされてる場合じゃないと、虎徹は突っ立ったまま、耳の後ろをボリボリと掻きむしる。
掻きむしりながら。
この見てくれの良さをバーナビーは自覚していて、それすらも「人探し」に利用しているのかもしれないと思うと、虎徹の心のひとすみは、
容赦なく痛んだ。
心底、冷たい男ではないはずなのだ。
ヒーロースーツのメンテナンスは完璧だし、出動中に虎徹がかすり傷でも負おうものなら、バーナビーはすぐさまスーツの仕様の改善策を申し出てくる。
ついさっきだって、自分の能力の時間切れも恐れずに、ビルから落ちた虎徹を助けてくれた。虎徹は仮にもヒーローで、しかも能力の発動中だったのだ。放っておいても大ケガをするには至らなかった。

───計算高いばっかりじゃないんだ。こいつは。

目が合えばいつも憎まれ口をたたいてくるこのバーナビーを、心底嫌いきれないのが自分でも不思議だったが、今日の出来事で、その理由がかなり、わかった気がする。
腕組みをして、虎徹は深呼吸した。
悔しいような、安心したような、それでもどこか、ぐらりと不安定なような。
形容しがたい、だが不愉快ばかりではない気分で、虎徹はひっそりとつぶやいた。
「あんまり無理すんなよ。バニーちゃん」
白衣が好きで、跳躍の得意な、小動物のような男。
いや実際の彼は、堂々たる体躯を持つ、強力なNEXTなのだが。
もう一度、バーナビーの頭をそっと撫でてやってから、虎徹はサイドランプを消した。




翌朝、玄関ドアの開く音で、虎徹は目を覚ました。
昨夜、鍵はちゃんと閉めて寝たはずだ。
窓の外はまだ仄暗い。
すわ強盗かと跳ね起きたが、いつまでたっても、人がこの家に入ってくる気配はない。
ソファの上で身構えている最中に、リビングテーブルの上に置いてある紙きれが目に入った。
ピザの広告チラシを裏返したその白紙部分には、流れるような文字が書きつけられている。

───『帰ります』。

ロフトのベッドで寝ていたウサギは、たった今、出て行ってしまったらしい。
署名もなく、礼の一言も書かれていないそのチラシをつまみ上げると、チラシの上辺に置かれていたボールペンが、ころころと転がった。
そっけない一言の下には、やはり流れるような文字がもう一言、くっきりと踊っている。

───『僕はバニーじゃありません。バーナビーです』。

「なんだ。ウサギのくせに、タヌキ寝入りかよ」


寝顔は小動物のように、ウサギのように、愛らしくても。
その本性は、虎にも互角だ。