Wait up!



「もう二度と逢うこともないだろうが」
彼がそう言った時、本当に二度と顔を見せる気が無いのだと直感した。
どうしよう。
彼がいつこの街を発つのか、僕は知らない。
携帯のナンバーすら知らない。
派手な色彩が扉の向こうに消えた直後、僕は走り出していた。
「待って下さい、僕は……!」




平手打ちを食らわすように扉を開けて、バーナビーはオフィスの廊下に走り出た。
ほんの三十秒、考え込んでしまったのがいけなかった。
廊下に、ライアンの姿はなかった。
それどころか人影もなかった。
真昼間の就業時間中だというのに、見渡す限りの無人だ。
いや、真昼間だから無人なのか。
一度会ったら忘れられないあの派手な服装と性格をした男が、ここからどこへ歩いて行ったのか、通りがかりの誰かに尋ねることもできない。
会社のエントランスまで走ればいいのか。
そもそもエントランスは、玄関と裏口の二ヶ所ある。
ライアンがふだんどちらから出入りしていたのかはわからない。
彼の自宅がどこなのか、それは仮住まいなのか、ホテル住まいなのか、そこからどうやって出勤してくるのか、徒歩なのか、モノレールなのか、タクシーなのか、車は持っているのか、レンタカーでも借りているのか。そんなことすら尋ねたこともなかった。
ああ。ああ。わからないことばかり。
短すぎた彼の契約期間とはいえ、数十日にわたって、彼はこの街で、この会社に出入りしていたのに。
再びバーナビーは駆け出した。
エレベーターを待っている時間が惜しい。
腹の中で内臓がくるりとひっくり返りそうな焦りの中、バーナビーは階下のエントランスを目指して、非常階段へと駆けた。


「ゴールデン・ライアンさん?いえ。今日はまだ見ていませんが」
エントランスの社員ゲートに立っている警備員は、少し目を丸くしただけで、淡々とバーナビーの質問に答えてくれた。
ライアンが顔出ししているヒーローで本当によかった。
彼の身体的特徴を説明しなくても、こんな時にヒーロー名を言うだけで用が足りるのだ。
表玄関の警備員がこう言っているということは、ライアンは今日、裏口から出勤したのだろう。
「す、すみません。ありがとうございました!」
何か言いたげな警備員に意味もなく謝り、バーナビーはまた駆け出す。
「どんな事件が起きても取り乱さないクールなバーナビー」のイメージは、かの警備員の中では粉々に崩れ去っただろうが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
裏口を目指して、バーナビーはとにかく駆けた。


「ゴールデン・ライアンさん?いえ。今日はまだ退社されてませんが」
大金庫の扉にも似て、がっちりと内側からロックされている裏口そばの、小さなブースから顔を出した警備員は、不思議そうにバーナビーをちらりと見つめ、すぐに手元の書類に目を落とした。
「うん。チェックシートにもサインはないね。まだ社内なんじゃないですか?」
「えっ?…す…すみません…あ、りがとうございました」
社員の退社を確認する書類にもライアンの名前がないとわかって、バーナビーはその場にへたり込みそうになる。
はあはあと肩で息をしながらきびすを返すが、社内のどこに行けばいいのかがよくわからない。
ライアンの性格からして、長居は無用とばかりに、とっとと帰るのだと思っていた。
いや、それは思い違いで、彼はロイズさんや斎藤さんのところへも退社の挨拶をしに行ったのかもしれない。
設定された王子キャラをキープするためなのか、チャラチャラと横柄な態度を人前では崩さなかったライアンだが、彼が心底横柄な人間ではないことぐらい、バーナビーにもちゃんとわかっている。
チャラチャラどころか。
横柄などころか。
むしろ、彼は。
腹の中でひっくり返った内臓がまた反転したのか、キリキリとバーナビーの胸は痛む。
とんでもない焦りの中に、ひとしずく冷めた後悔と、ひとにぎりの熱のかたまりが詰まっている。
ライアンが現れたらヒーロー事業部に電話してくれるよう、警備員に頼んで、バーナビーはまた駆けた。


「ライアンくん?少し前に来たよ。君にも挨拶するように言っといたんだけど、会えなかったの?」
執務デスクに着いて紅茶をすすりながら、ロイズは言った。
そのデスク前に立ちつくし、額の汗をぬぐいながら、バーナビーは大きな大きなため息をつく。
さっきの警備員から、この事業部に電話は入っていないようだ。
こんなことなら、表玄関の警備員にも電話を頼んでおくべきだった。
むしろ、最初からそれぞれの警備員に連絡を入れておけば、自分はこんなに走り回らずにすんだのではないか。
「………すみません………ありがとうございました」
可能な限り丁重に礼を述べ、バーナビーはヒーロー事業部を後にした。


ミーティングルームも空。
休憩ラウンジも空。
疾走していたバーナビーの足取りは次第に重くなり、ゆるい駆け足になり、メカニックルーム前の廊下で、とうとう早足のレベルになった。
そして、、望みをかけたメカニックルームも───空だった。
斎藤は、またこっそりアイスの買い出しにでも行ったのだろうか。
残るはヒーローが通うトレーニングセンターぐらいだが、会社を出てトレセンまで追いかけて空振りした場合、完全に取り返しがつかなくなる。
だがこれ以上の後悔はしたくない。
トレセンに入っている虎徹に電話をかけようと、バーナビーはパンツのポケットに手を突っ込んだが、そこに携帯は入っていなかった。

───そうだった。

今日のランチタイムに、携帯をデスクの引き出しの中にしまっておいたのだ。
廊下の壁に片手をついて、ぐったりと三秒うなだれた後、バーナビーはなんとか駆け出した。


「おうバーナビー!いいとこに来た!ちょっと手伝ってくれねーか!」
携帯を置いてあるオフィスは、もうすぐそこだというのに。
なじんだ声に陽気に呼び止められ、バーナビーは狭い廊下の真ん中に立ちつくした。
「…なにごとですか…」
足元には吹雪のように書類が散らばり、その書類の海の真ん中で、ベンと若い女性社員が棒立ちになっている。
「さっき俺がこのお姉さんとぶつかっちまってよ!で、お姉さんのセーターと俺のボールペンがひっからまって取れねぇのよ。ボールペンはなんとかするから、書類拾ってくれ」
女性社員の腹部には、短く糸を引いたボールペンがぶら下がっている。ボールペンの突起部分が、ニットの編目に食い込んで解けかかってしまったらしい。
女性にとっては大変な災難だろうし、早くこの足元の惨状をどうにかしなければいけないのもわかる。
だが。
しかし。
「本当にすみません。今、どうしても急いでいるんです」
「どんな女性にも親切を尽くすバーナビー」のイメージは、この女性社員の中では粉々に崩れ去っただろうが、今はそんなことを気にしている時間がない。
「なんだぁ?急ぎの用事って」
「ライアンを探しているんです。見かけませんでしたか」
「ああ~っとぉ、俺は見かけてはねぇんだけど、どーしたもんかな…」
「どういうことですか?なにかあったんですか?」
「いや、こっちのことなんだけどよぉ、……わかった!バーナビー、これをそこのトイレに持ってってくれ」
ひとりで何事か悩み、ひとりでそれを納得したらしいベンは、懐から小さな工具のようなものを差し出した。
「あの、申し訳ないですが急いでるんです。早くしないとライアンが出て行ってしまう!」
「いーからコレ持ってトイレ行け!ライアンの居場所はそいつが教えてくれる!」
「え…?じゃあ、中にいる人に、訊けばいいんですね!?」
「そうだ!頼む」
何が何だかわからないまま、バーナビーはベンから工具を受け取り、通路の先のトイレへと駆けた。


飛び込んだトイレは、無人だった。
手洗い場にも、その奥にも、人影はない。
ベンが嘘をつくはずはない。
「誰かいますか!」
一縷の希望を込めてバーナビーが呼ばわると、一番奥の、個室の中から返答があった。
「あれぇー?その声、ジュニア君?」
その能天気な声に、足の力が抜けた。
閉じたドアにばったりともたれて、ずるずるとバーナビーはその場に座り込む。
がちゃりと奥で、個室のドアが開く音が聞こえた。
「ちょーどよかったぜジュニア君。ミスタ・ジャクソン見なかった?」
ひょっこりと個室から顔を出すだけで、ライアンはこちらに近づいてこない。
「……僕は、ベンさんに頼まれて来たんです……」
「あっマジ?じゃあジュニア君が持って来てくれたの?」
「コレの、ことですか…?」
何が何だかやっぱりわからないまま、バーナビーは握りしめていたペンチとピンセットを掲げた。
「そうそう、それ!あー助かるぅ。ちょっと持ってきてくれよここまで」
「…あなたが取りに来てください…!」
「やだよ~ジュニア君のエッチ~」
ぷっつりと、バーナビーの中で何かが切れた。
工具たちを握りしめたまま、猛然と立ち上がる。
「なにがエッチだっっ!!僕が!僕がここに来るまで、…どれだけ…っ!!」
語尾はわなわなと言葉にならない。
遠くに見えるライアンの目が、少しだけ丸くなった。
「ジュニア君、ミスタ・ジャクソンに頼まれてくれてたんじゃないの?」
「頼まれましたよ!トイレにこれを届けてくれって!あなたがここにいるなんて聞いてないっ!!」
「あ、そーゆーこと」
「どういうことなんですか!」
バーナビーの激昂に少しも動じず、ライアンは気の抜けた笑みを漏らす。
思えば、最初からこうだった。

───僕がいくら怒っても、誰に何を怒っても、この人はいつもそれを流すだけで。

でも、そうやって流してもらえることが、本当は嫌いじゃなくて。
「いやー、さっきションベンしよーと思ったらさー。開けたファスナー閉まんなくなっちまって、ちょっと格闘してたワケよ」
「は?ファスナー?」
「トイレ行って開けるファスナーなんてアソコしかねぇだろ。もー、下のトランクスにまで食い込んじまって、ほんっとにアソコまで挟まれんじゃねーかってヒヤヒヤしたぜ。素手じゃどーにもなんないからペンチかピンセットか何か借りたくてもメカニックルーム遠いし、アソコ全開でゴールデンライアン様が会社の廊下ウロウロするわけにもいかねぇしさぁ」
勝手に沸騰していた怒りは、バーナビーのこめかみの下で急激に温度を下げる。
「誰かに電話しようにも俺、この街にダチいねぇしあんたの番号も知らねぇし。しょうがねぇから事業部に電話したら、ミスタ・ジャクソンが来てくれるって言うから待ってたんだけど、なっかなか来ないわけ。はーもー、よっぽど俺、ここの街の女神様に気に入られてんだわ。出てくなって言われてんのかもねコレ」
バーナビーは、まじまじとライアンの顔を見つめた。
「でも俺はさすらいの王子だからさ。女神様の引き止めも、俺には効かねーのさ」
こつりと一歩踏み出して、バーナビーはライアンに歩み寄った。
「…どうぞ」
ライアンの全身が見えない位置で立ち止まり、ペンチとピンセットを差し出す。

───女神の引き止めが効かなくても、僕は。

「サンキュージュニア君」
一転して真面目な顔で工具を受け取り、ライアンは個室のドアを閉めた。
ひとしずくの冷めた後悔は、ひとにぎりよりももっと大きな熱になる。
熱は視覚で感じることができない。
ライアンに熱を見られなかったことに安堵して、バーナビーはその個室から離れた。




「あり?まだ待っててくれたのジュニア君」
十五分後。
修理?が成功したのか、いつもの服装で個室から出てきたライアンは、微妙に失礼なセリフを吐いた。
ライアンの「修理中」に、もしも誰かが用を足しに来たら、清掃中だと大嘘をついてでも追っ払ってやろうと、バーナビーはひたすらドアの外を見張っていた。それなのに「まだ」とは、ずいぶんな言い草である。
手洗い場のボウル脇に軽くもたれて、バーナビーは冷ややかに目を細める。
「はー直ってよかったわ。トランクスはちっと穴空いちまったけど」
ライアンは悠々と歩いてきて、勢いよく手を洗い始めた。
彼が水を止めたタイミングで、バーナビーは手のひらを突き出す。
「携帯、貸してください」
「へ?」
「貸してください!僕のアドレスを登録しますから」
「え?」
「今度こんなことがあったら、僕に直接連絡してください!」
「……『こんなこと』って二度とないような気もするけど?」
「なくても、僕に連絡してください!!」
「…………えっ?」
「何か、おかしいですか!?」
ものすごく。
ものすごく、おかしな感じに話を持って行ってるような気もするけど、この際そんなこと、どうでもいい。
「…いや。おかしくねぇよ?」
ライアンの声音が、急に低くなった。
濡れた手を自分のパンツのポケットに突っ込んで、引っこ抜いて、パタパタとパンツの尻で手の水分を拭うその顔は、奇妙に無表情だ。
差し出された携帯を、バーナビーはわざと乱暴にひったくる。
ぺたぺたとアドレスを打ち込みながら、目も上げずにバーナビーは念を押す。
「空メールでもなんでもいいから、確認用にすぐ送ってくださいよ!?」
「………OK、ヒーロー」
快諾に、やはり目が上げられない。
彼がどんな顔をして快諾してくれたのか、そこを見ていなければいけなかったのに。
すぐにアドレスを入れ終わり、バーナビーはライアンの胸元に彼の携帯を突き出した。
「…お返しします」
「顔上げて?ジュニア君」
ライアンの声に、ますます目が上げられない。
「上げねぇなら、それでもいいけど」
バーナビーの手の中の携帯がひったくられる。
それと同時に、バーナビーの顎にライアンの指がかかる。
わざとらしいリップ音と一緒に、乾いた唇が、唇の上をかすめていった。
「あんたのおかげで助かったぜヒーロー。お礼に、今夜食事でもどう?」

ものすごく。
ものすごく慣れきった、ものすごくわざとらしい誘い文句だけど、そんなことも、どうでもいいのだ。

蚊が鳴くよりもっとかすかに、吐息だけでイエスと答えて、バーナビーはドアへと身を翻した。



※このお話の冒頭部分はツイッターのフォロワーさんの呟きをお借りしました。ありがとうございました。