月は蒼く紅く



「バニーのやつ、このごろ見かけませんね。具合でも悪いんすか?」
1978年が明けて、間もなく。
凍てつく夜空の下、今日もトランスポーターの中に待機しているのは、斎藤一人だ。
ヒーロースーツを着て、軽く柔軟体操をしながら、虎徹は相変わらず声の小さいメカニック担当者に尋ねた。
「ああ、だいぶ前に社長が来てね。新しいプロジェクトが立ち上がるって言うんで、連れて行かれてしまった」
「え?」
斎藤の口元に耳を近づけながらも、ぐるぐると続けていた腕の体操をやめ、虎徹はぴたりと固まった。
「連れて行かれた…って、異動になったんですか?あいつ?」
「いや。こちらのメカニックの仕事はしてもらってるよ。向こうの仕事と兼任するってことで」
「それじゃオーバーワークでしょう」
「だから、彼はこちらでの仕事量を減らしている。君と顔を合わせる機会が減るのも当然だ」
「はあ。そーゆーことか…」
身体のどこかに風穴が開いたような気分で、虎徹は斎藤から離れた。
居れば息が詰まるが、居ないと落ち着かない。
「バーナビー」の存在が、意外に心の領域の大きな部分を占めていたことに気づいてしまい、虎徹は柔軟体操を再開できずにいた。
しかも、あの(虎徹にとっては)うさんくさい社長がじきじきに彼を連れて行ったというのだから、ますます心のおさまりがつかない。

───社長が直接関わってるプロジェクト…か。

そんなに重要なプロジェクトなら、なんで斎藤さんを持ってかねぇんだ?ああ、そうすっとメカニックの方が空になっちまうからか。でもバニーだって良くやってんだから、メカニックの方をバニーに任せたってよさそうなもんなのに。ひょっとしてバニーが「異動したい」って社長に直訴したとか?「あんなうっとおしい男のヒーロースーツなんてもう作りたくありません」、とか言っちゃったりしてたんだろうか。それとも社長に誘われて、渡りに船の二つ返事で、俺にはぜってー見せねぇようなニコニコ笑顔でハイとか言って、せっせと向こうで働いてんのか。
ちらちらと心の最下層に浮かんでくる例のキスシーンが、虎徹のとりとめのない想像を、とてもリアルに組み上げてくれる。
社長が直接指揮するようなプロジェクトだ。その内容や過程が外部にもれてくるとはとても思えない。それが社内であっても極秘扱いだろう。
そんな隔絶された環境で、誰にも邪魔されずに、誰にも知られずに、あのバーナビーは今現在も社長のそばで働いているのだ。
唇も、その身体も社長に預け、社長室でうっとりと目を閉じていたあのバーナビーの姿が、一秒にも満たないほんの瞬間に見えただけのあの顔が、それこそドラッグのフラッシュバックのように、虎徹の意識の中であふれてはじける。
嫌な気分だ。
嫌な気分だが、それはしかたのないことだと、どうしようもなく気弱に納得したがっている自身のなげやりさにも気づいて、虎徹の感情はますます低空飛行に陥る。
頼るつもりはありません、とバーナビーに振り払われた腕の記憶は、虎徹の中でまだ鮮明だ。

───嫌われちまった、てのは確定なんかなぁ。

無理やり家に連れ込んだり、バーナビーの探しものに付き合おうとしたりしない方がよかったんだろうか。
伸びをするように、組んだ両手をマスクの後頭部に当てて、虎徹はトランスポーターの天井を見上げた。
いつもいつも、全身でバーナビーは虎徹を拒否していた。だが、その過剰な態度がかえって、彼の感情の行きどころのなさを表しているような気がして、放っておけなかったのだ。
嫌われてもいい、こうするのがベストだと思ってバーナビーに接してきたものの、実際に嫌われてみるとなかなかこたえる。

───『ほら。行きますよ、おじさん』。

白衣の裾をひらりとはためかせ、生意気に顎をしゃくって、トランスポーターに乗るように指示してくるバーナビーのあの顔を、もう何日も見ていない。

───『かすり傷でも、傷は傷です。ちゃんと見せてください。その部分のヒーロースーツを補強したいんです』。

それが、ヒーロースーツのためでもよかったのだ。
絆創膏も要らないような虎徹の擦り傷を、険しい顔でのぞき込んでくれるバーナビーを見ていると、どこかしら、こそばゆく感じた。
平たく言うと、嬉しかったのだ。
「斎藤さん」
もうこれ以上低空飛行を続けたくなくて、虎徹は無理やり思考を中断して、斎藤に呼びかけた。
「まだ犯人はこっちに来てないんですか」
手配中の殺人犯が、シュテルンブリッジを目指して逃亡しているという情報が入ったのは十五分前だ。その逃亡を阻止するべく、橋のたもとまでトランスポーターを走らせ、斎藤とワイルドタイガーは待ち伏せ中なのだった。
「…まだだね」
GPS受信パネルを見つめたままの、斎藤のそっけない返事に、虎徹は肩を落とす。
犯人の逃走距離と、逃走時間が長くなればなるほど、嫌な予感が雪だるまのように膨らんでくる。
そしてその虎徹の嫌な予感は、不幸にして大体、外れないのだ。
『タイガー、聞こえる?』
突然、虎徹の耳に、低く鋭い女性の声が刺さった。
アニエスからの通信だ。
『シュテルンブリッジ付近に、ルナティックが現れたわ。すぐに追って!』




青い炎を、翼のようにひらめかせて、ルナティックは宙を舞う。
舞ったかと思うと、上空にまでそそり立つ橋脚の頂上に留まり、下界を統べているかのように、ゆっくりと眺め回す。
逃亡中の犯人は、まだ現れない。
今は、このルナティックの動きを止めることが優先だと、虎徹は判断した。

───こんの、グローブ野郎。今日は邪魔させねぇ。

トランスポーターからひとっ飛びに駆け出すと、虎徹は珍しく、目標の敵に声もかけずにワイルドシュートを放った。
オレンジ色に光るワイヤーが風を切り、こちらに向き直ったルナティックの左手首に、ぎっちりと絡みつく。
ふらりと体勢を崩し、彼が橋脚から足を踏み外したところを、思いきり引っ張った。
とたんに青い炎が炸裂し、虎徹の腕のワイヤーから、抵抗が消える。
ワイヤーを焼き切られることは予想済みだ。
手のひらから炎を吹き、ルナティックはこちらへ身体ごと滑空してくる。
虎徹が身構えた時、鼻先に、薄紅色の光の玉が飛んできた。
予想もつかなかった方角から飛んできたその光は、虎徹とルナティックの間に割り込み、風を起こして、拡散した。
「うおっ…何だ…?」
閃光に、完全に視界を塞がれ、思わず虎徹は数十メートル飛び退く。
目の中で、ちかちかと閃光の残像が紫色に燃え、前方がよく見えない。
少しずつ薄くなってくる残像の向こうで、橋面に舞い降りたルナティックが、薄紅色に光る何かと対峙している。
目の残像も消えきらないうちに、どう聞いても人間の肉声ではないデジタルボイスが、虎徹の耳に届いた。
『我々の名は、ウロボロス』
薄紅色の光に包まれた、人型の何かが、言葉を発している。
グローブ野郎と真正面から、向き合って。
『ルナティック。ヒーローを気取って、おまえは我々の組織の者に手を出した。その報復を受けてもらう』
人型のそれは、黒いメカニックスーツのようだった。
黒いスーツの肩にも、背中にも、耳元にも、一対の翼をモチーフにしたような流線形の装甲が施され、それらが薄紅色に輝いている。

───うろぼろ…す…?誰だ?

虎徹の思考が立ち止まったその瞬間、薄紅色の残光を曳いて、黒いメカニックスーツはルナティックに襲いかかった。




まったく、何が何だかわからない。
アンダースーツを着たまま、虎徹は座りこんでいた。
トランスポーターは会社の駐車場に着いたが、車の外へ出る気になれない。備えつけのソファの上で、虎徹は自分の両膝を力無く握りしめる。
ついさっき、シュテルンブリッジに現れた『ウロボロス』は、あのルナティックと壮絶な空中戦を演じて、引き分けたまま闇に消えた。
会社でも、OBCの局でも、騒ぎになっているに違いない。
今までヒーローが束になってかかっても敵わなかったルナティックを、たった一人で、あそこまで追いつめられる人物が現れたのだから。
手配中の殺人犯は、パトロール中のスカイハイが既に捕らえてしまっていた。
今日の捕り物に、ワイルドタイガーの出番など、どこにもなかった。
それに関しては、今さら嘆くようなことではない。ただ、選び抜かれたヒーローたちの能力を上回る人物がまたも現れたことが、ひたすら虎徹には衝撃だった。

───どうなっちまうんだ。どうすりゃいいんだ、俺たち。

「あのメカニックスーツにおそらく備わっている、筋力サポート機能を考慮に入れても、彼は…相当な力を持ったNEXTだろう」
運転席から戻ってきた斎藤が、いつのまにか隣りに座ってつぶやいていた。
「私の作ったスーツに匹敵するほどの高性能なスーツがこのシュテルンビルトにもうひとつ存在するとはとても思えないのだが…スーツの機能性が高いのかあの彼のNEXT能力が抜きん出ているのか、たった数分の映像だけではとても検証できない…」
斎藤は斎藤で、メカニックとしての方向でショックを受けているようだ。
すらりとした、あのメカニックスーツの体型を思い起こしながら、虎徹もつぶやく。
「彼…って。肉声がわからないんですよ。女かもしれないじゃないですか」
「たった今、あのデジタルボイスの声紋を分析してみた。数値的には、九十五パーセントの確率で、ヤツは男だ」
「はぁー。すごいんですねぇ、斎藤さん…」
すっかり身体の力が抜けて、虎徹は膝を支えに、頬杖をついた。
「うろぼろす…って、何なんですかね。なんかの組織の名前っぽかったですけど」
カタカタと手元のパソコンのキーを打ちながら、斎藤はディスプレイを見つめたまま、虎徹のぼんやりした疑問に答える。
「『ウロボロス』とは、ギリシア語で、『尾を飲む蛇』という意味だ。不老不死、永遠もとい完全性の象徴とされている。君は古代ギリシアの逸話も知らんのかね。ま、古典に詳しくなくてもヒーロー業は務まるけどね」
チョイチョイとディスプレイを指さす斎藤に促されて、虎徹もそちらをのぞき込む。
語句検索されたらしい画面は、びっしりと文字を並べている。同じ画面のその脇に、ブレスレットのように丸くなって、尾をくわえる蛇の壁画の画像が掲載されている。
「いや…そーゆーことじゃなく、ウロボロスって名乗ってたあいつが、何モンなのかってことですよ」
「ルナティックは犯罪者を多数殺害している。そのルナティックへの報復…ということは、殺害されたその中に、『ウロボロス』に属している人間がいたということなんじゃないか?」
「ってことは、『ウロボロス』も犯罪者集団、ってことなんですかね」
「その可能性は高いな」
犯罪者。
ルナティック。
尾を飲む蛇。
ぼんやりと、画面上の蛇の絵を眺めた虎徹の脳内に、小さなしずくが落ちてきて、はじけた。
「斎藤さん」
「ん?」
「今までのルナティックを撮った画像、ここで見れますか」
「いや。メカニックルームに戻らないと見られないが」
「んじゃ、戻って見せてください」
「どうしたんだ?急に」
「ちょっと。あの。気になること思い出しちまって」
今しがた充電を終えたロボットのように、虎徹はソファからがばと立ち上がった。




なぜ、すぐに気がつかなかったのだろう。
メカニックルームに飛び込み、斎藤がデータファイルから呼び出してくれたルナティックの画像を、虎徹は食いいるように見つめた。
何度も何度も録画を一時停止させた末に、画面に浮かび上がったのは、尾を飲む丸い、蛇の絵だ。
ルナティックに殺された男のうなじに、それは黒々と描かれていた。タトゥーなのだろう。
録画の記録日時を何度も確認して、虎徹は吐息を噛みしめた。
頭の中で、パズルのように記憶が組み合わされる。
パズルの答えは、バーナビーだ。

バーナビーは、必死で「人」を探していた。
バーナビーは、ルナティックに殺された、この男のことを異様に気にしていた。
殺された男には、尾を飲み込む蛇の、「ウロボロス」のタトゥーがあった。
そしてさっき、突然現れたヒーローもどき「ウロボロス」は、ルナティックに報復しようとしている。

ひょっとして。
あのタトゥーは『ウロボロス』の一員の印ではないのか。
バーナビーは、あのウロボロスのタトゥーを──あるいはウロボロスという組織に所属する人間を──探していたのではないか?
いささか強引な推理だが、そうやって推理してしまうと、ますますそれが真実なような気がしてくる。
「バニーは今、どこにいるんですか!?」
斎藤の両肩を揺すって、虎徹は尋ねた。
今すぐバーナビーに伝えたい。
おまえの探している「人」が、現れたかもしれないと。
嫌われていても、推理が的外れだったとしても、いいのだ。
ほんの少しでも、あいつの力になれれば。
「…新プロジェクトの、ラボの内線番号だ。ここにかけてみろ。バーナビーが出るかもしれん」
斎藤が、自分の手帳を広げて示してくれたその電話番号に、虎徹の目は釘付けになった。




はあはあと荒い息をついて、バーナビーはしゃがみこんだ。
このラボまで帰ってくれば、もう人目を気にする必要はない。
ラボ内は薄暗く、無人のようだった。このスーツの装着を指示してくれたスタッフはどこへ行ってしまったのか、部屋の隅の補助照明しか点いていない。
どうにもこらえきれずに床に膝をつくと、スーツの膝部分の装甲が、がちりと硬い音を立てた。
額の汗を腕で拭おうとして、マスクをかぶったままだったことを思い出す。
両耳に、薄紅色の翼のような、流線形の装甲が施されたそれを、ゆっくりと頭から引き抜き、膝をついた床にそっと置いて、バーナビーは新鮮な空気を吸うために、もう一度あえぐ。
地下室であるこのラボには、窓がない。だが、最新のメカニックスーツを開発する作業場にふさわしく、空調はいつも完璧だ。凍える外気とは隔絶された温かい空気を喉に精いっぱい取り込んで、手のひらで、バーナビーはやっと額の汗を拭った。ついでに、目元に付けていた黒いアイパッチも、勢いよく剥がす。
顎にまで流れ落ちた汗を指先で押さえた時、背後のドアが開き、どこから照明スイッチが入れられたのか、部屋の中がいきなり明るくなった。
「…バーナビー。大丈夫かね?」
振り向くと、マーべリックが立っていた。マーべリックの背後には、連れられてきたのだろう、白衣を着たスタッフが一人、ひかえている。
「ケガをしたのか?」
駆け寄ってきたマーべリックを、バーナビーは首を振って制した。
「ちが…います。大丈夫です」
みっともなく床につけていた膝に手をついて、なんとか立ち上がる。
「すみません…でした。ルナティックを捕まえ…られなくて」
なぜこの息は、いつまでも整わないのだろう。
ばつの悪い思いでマーべリックの胸元のネクタイを見つめながら、バーナビーは自分で自分にいらだった。
「何を言うんだ。あんなにルナティックと互角に戦えた人間はまだいない。すばらしい動きだった」
温かい感嘆がにじむマーべリックの声が、硬い胸元の装甲を通り抜けて、バーナビーの身体にしみる。
「次こそ、捕まえます。…あいつを」
闘志を息と一緒に吐き出すように、うつむいたままつぶやくバーナビーの頬に、マーべリックの指が伸びた。
指にそっと力が込められ、促されるままにバーナビーは顔を上げる。
「焦らなくてもいいんだよ。君はまだ、数カ月しか訓練を受けていないんだ。無理は禁物だよ。今すぐにルナティックを捕まえられなくても、『ウロボロス』の名前をじっくりとアピールしていけば、組織の人間はそのうち食いついてきてくれる。きっと」
「…はい」
バーナビーの頬に、しっとり沈む指は、あまりにも温かい。
変わらないぬくもりに、バーナビーはふと不安を感じたが、スタッフがそばにいるこの状態で、マーべリックが唇を近づけてくることはなかった。
ほっとして、バーナビーは足元のマスクを拾い上げる。
急に、部屋の隅からけたたましい音が響いた。
隅のデスクの上の、電話が鳴っている。
「ああ、私が」
社長の手前もあってか、付いてきていたスタッフが、機敏な動きで電話に向かう。スタッフを置き去りにしてスーツを脱ぎに出るわけにもいかず、バーナビーは黒いメカニックスーツを着けたまま、電話に出る彼を見つめた。

───…はい。…ええ?あ、ああ、その…ちょっと待ってください。

少し困惑した様子でスタッフは電話の保留ボタンを押し、こちらに向き直った。
「社内のワイルドタイガーから、バーナビーさんに電話が入っていますが…どうします?」
どくん、と心臓の鳴る音が、こめかみにまで響いた気がした。
息を飲んだまま言葉の出ないバーナビーの鼻先に、マーべリックの手がひらめいた。
まっすぐそろえられた指が、「声を出すな」とバーナビーに命じている。
「メカニックから以外の電話は、取り次ぐな。絶対に」
毅然としたマーべリックの声に、もう一度、バーナビーの心臓が鳴った。
このプロジェクトは、秘密なのだ。
マーべリックと、腹心の部下しか関わっていない最新鋭のメカニックスーツでバーナビーは覆面し、「ウロボロス」の名を騙り、ルナティックを捕獲するのが目的である。(ルナティックがウロボロスの一員であるという説も捨てられないが、それは彼を捕らえてみればわかることだ。)
組織の名を騙ってこれ見よがしに活動していれば、本物の「ウロボロス」は我慢できずに姿を現わしてくれるだろう、というのが、バーナビーとマーべリックの狙いだった。
当初は、ヒーロースーツを着たアンドロイドを開発していたのだと、マーべリックは明かしてくれた。
だが、ヒーローになってウロボロスを追いたいと申し出たバーナビーのために、計画は変更された。
いくらバーナビーが強力なNEXT能力を持っていても、正式なヒーローになるには時間がかかる。ヒーローアカデミーに通っているその数年の間に、ウロボロスの手がかりは遠ざかってしまうかもしれない。
しかし、非正規の覆面ヒーローならば、司法局からの認可を受けなくとも、ルナティックのように、すぐに、そして限りなく自由に活動できるのだ。常に警察と、正規のヒーローに追われるという大きなリスクと引き換えではあるが。

───『君の行動の全責任は私が取る。君は何も、心配することはないんだ』。

バーナビーの願いをかなえる一方で、マーべリックはルナティックの捕獲に、執念を燃やしているようだった。
社会的にも、バーナビーの心身の負担という意味でも、危険すぎるこのプロジェクトだが、バーナビーにためらいはなかった。マーべリックが、危険を冒してでもルナティックを潰したいのなら、協力したかった。
それに、もうほとんど手詰まりだと思えたウロボロスの追跡を、劇的に進展させられるのなら、多少のリスクなど、どうでもよかった。
危険なら、もうずっと味わっている。
両親の仇を探すために、ダウンタウンで、いつも、何度も。
機械的な応対の末に、虎徹からの電話を切るスタッフの姿を、バーナビーはぼんやりと見つめた。
「さあ。着替えて、今日はもう帰りなさい。社用車で送らせよう」
ぺた、と、スーツの肩の装甲にマーべリックが手を置いてくれる。直接触られるのではないその感覚が、少し不思議だ。
「いえ、大丈夫です。自分の車で帰れます。…その方が、自然ですし」
「ああ、そうか。そうかもしれないね。すまなかった」
早く、ひとりになりたい。
握りしめたままだったアイパッチを、バーナビーは手の中で小さく丸めた。
電話をかけてきた虎徹からも、抱えてしまった秘密からも逃れて、早く自分の車で、自分の家に帰りたかった。




やはり、訓練と実戦では違う。
訓練の時には感じたこともないような疲労感が、バーナビーの全身を、膜のように覆っている。
社用の駐車場でようやく自分の車を見つけ、バーナビーはよろよろとそれに向かって歩いた。
とっておきのワックスを塗った車の屋根を汚したくはなかったが、疲労に耐えきれず、ドアロックを解く前に、屋根に肘と頭を預けて、一息をつく。
スーツの機能も、NEXT能力も、最大限使える限りに振り絞って追いかけたのに、先刻のルナティックには、触ることさえできなかった。
あの不気味なマントに覆われた細い肩をつかんで、その場で問い詰めたかった。
おまえはウロボロスの一員なのか。
なぜタトゥーの男を殺したのか。
焦燥と疲労が、バーナビーの身体の中でないまぜになっている。
が、今までの、雲をつかむように手ごたえのない街中での聞き込みよりも、ずっと真実に近づけている気がして、バーナビーはかすかな爽快感を覚えていた。
「バニー」
突然、背後から不快なあだ名で呼ばれて、全身が硬直する。
振り向くと、いつの間に近づいていたのか、虎徹がほんの数歩の距離に立っていた。
いつも、この男は魔法のように現れる。
「おい、大丈夫か?あっちのラボの仕事、きついのか」
車にもたれかかっていたのを見られたらしい。バーナビーはあわてて、車の屋根に残していた肘を下ろした。
「たいしたことはないです。どうしたんですか、こんなところで」
薄暗い予感をこらえて、バーナビーは尋ねる。
電話がダメなら待ち伏せとは、いったいどういう神経なのだろう。
この男に一言も説明せず、メカニックの仕事をおろそかにしていることを、責められるのだろうか。
それとも。
バーナビーはゆっくり唾を飲む。
「ウロボロス」の覆面は完璧だったはずだ。さっきの一戦でフェイスガードは上げなかったし、スーツ内蔵の変声機で、バーナビーの肉声はカバーされてしまっている。
鼓動が早まる直前の、締めつけられるような胸の痛みを感じながら、バーナビーは虎徹を見つめた。
「いや。どーしても、おまえに伝えたいことがあってな。……おまえ、さっきのヒーローTV、見たか?」
少し暗く沈んだブランデー色の瞳は、どこか、焦りのようなものをにじませている。
「いいえ。仕事中でしたから」
とっさに、嘘とも本当ともつかない答えを返す。
現場にバーナビーはいたが、あの出来事がどう放送されたのか、まだ自分で確認していなかった。
「…っと、そりゃそーか。さっき俺、出動してたんだけど、すんげースーツ着た、すんげー謎のNEXTが現れてさ。そいつが、『ウロボロス』って名乗ってたんだよ」
「……」
「それって、ひょっとして、おまえが探してたヤツじゃねーの?」
「え?」
「だいぶ前に、おまえ、ルナティックに殺された男のこと、気にしてただろ?あいつも首に蛇の…ウロボロスの、タトゥーがあったよな。それ思い出したら、なんかピンときてさ」
虎徹の言葉は理解できるが、事態がうまくつかめない。
確かにバーナビーは「ウロボロス」のタトゥーと、「ウロボロス」を探している。
それがどうして、この男に筒抜けになるのか。
「的外れだったら悪い。けど、おまえ人を探してるって言ってたし、もしも…って思ったんだよ」
どうして、あんなに少ない情報量で、正解に迫れるのだろう。
こんなに、この男は頭の回る人間だっただろうか。
虎徹が知れば間違いなく憤激するだろう感想を心に浮かべて、バーナビーは早まる鼓動を鎮めるために、細く長く、息を吐いた。
いや。
情報量としては、十分だったかもしれない。
とても不本意で、意図していなかったことだが、この男に、バーナビーは個人的な情報を与えすぎていた。
両親がいないこと、マーべリックとの関係、ルナティックの犠牲者に執着してしまったこと、果てはダウンタウンでの聞き込みとその醜態までも。
色々と面倒なので、なるべく他人には秘密にしているバーナビーのNEXT能力のことも、虎徹は既に知っている。
疲れているせいだろうか。この場を切り抜ける嘘は、今どうしても思いつかない。
一瞬だけ目を閉じて、バーナビーは顔面の緊張を意図的に解いた。
「ん?なんかおまえ、呆れてる?」
目を逸らして返事をしないバーナビーを、虎徹は不安げにのぞき込んでくる。
これは、あきらめた方がよさそうだ。
「いえ。あなたにしては、すばらしい推理力だなと思って」
「なんだよそりゃ。俺はいつだって」
「…そうです。僕が探しているのは、あのウロボロスのタトゥーを入れた人間と、その仲間ですよ」
急に質問を肯定され、虎徹は目を白黒させている。
「『ウロボロス』が、個人のコードネームなのか、組織の名前なのかは、僕にもはっきりわかりませんが。あの形のタトゥーを入れた人間が複数いるということは、たぶんあれが何らかの組織を象徴する印なんでしょう」
「複数…?あの殺された男の他にもいたのか、そんなヤツが」
また、情報を与えてしまった。
痛烈な自分の過失を自分の奥歯で噛みつぶして、バーナビーは口元を手のひらで押さえた。

───ひょっとして、僕はこの人にも、追われることになってしまうんだろうか。

自分のこのNEXT能力と、あの最新のメカニックスーツがあれば、正規のヒーローたちと「やり合う」まではいかなくとも、彼らから「逃げる」ことぐらいはできると思っていた。
ルナティックさえ捕まえられればいいのだ。他のヒーローにも、ワイルドタイガーにも、関わるつもりはなかった。
「僕の両親は、あのウロボロスのタトゥーがある人間に殺されたんです。犯人はまだ捕まっていません」

───おせっかいな虎が、どこまでも追ってくるかもしれないのに、僕はその虎に種明かしをしている。

どうして。
どうして僕は、この人に完全な嘘がつけないんだ。
噛みつぶした過失が、バーナビーの喉の奥で、声にならない悲鳴を上げる。
「だから僕は、その犯人と『ウロボロス』を、探しているんです」
バーナビーの気持ちに反して、バーナビーの唇は、ほろほろと軽く、真実を垂れ流す。
また与えてしまった個人情報に、虎徹の表情が歪んだ。
いつものように同情されるのかとバーナビーの胸は重くなったが、虎徹は何も言わない。
無言のまま、彼の目だけが徐々に力を取り戻す。
そのブランデー色は、少年のように力強く澄んでいた。
見たことのない虎徹の顔に、バーナビーは息を飲んだ。

「わかった。ルナティックと二人まとめて、あの『「ウロボロス』、俺が、必ず捕まえてやる」

あんなに強く、あなたの腕を振り払ったのに。
少しも懲りずにおせっかいを発揮してくるその男の声を、バーナビーは気の遠くなるような気分で耳に収めた。




翌日。
ヒーローTVは緊急特番を組み、昨夜現れた新しいダークヒーローの情報は、詳細なカメラワークの映像と共に、都市全土を駆けめぐった。
凍るような月光の下で、「ウロボロス」とルナティックが、赤青の閃光となってすれ違うさまは奇妙に美しく、衝撃的だった。
企業のバックアップを受けずに、私財を投じて、フリーのヒーローを名乗る者もシュテルンビルトにはかつて存在した。が、ここまでの能力と、機能性の高いメカニックスーツを持つ人物が現れたことはない。
くだんのテレビ中継は結局、決着もつかないまま、正体もわからないまま、めいめい闇に消えて行く二人のNEXTの後ろ姿を映せただけだった。
「なんかもう、わけのわかんないやつはルナティックだけにして欲しいわよねぇ」
「でもさぁ、こいつの目的はルナティックなんでしょ?他の人になにもしないなら、あわてて捕まえる必要はないんじゃない?」
トレーニングセンターの休憩椅子に腰掛けて、ファイヤーエンブレムとドラゴンキッドは、交互にため息をつく。
「うーん…でもねぇ、ホーフクがうんぬん、って言ってたから、この『ウロボロス』も犯罪者になりえるわけだし。っていうかたぶん犯罪者だし」
「あぁー…そっかぁ…」
ドラゴンキッドが膝上に抱えている、テレビ放送中のポータブルパネルを見つけて、他のヒーローたちも集まり始めた。
「そうよ。こいつがルナティックしか襲わないなんて保証、どこにもないわよ」
腰に手を当てて、ブルーローズは仁王立ちする。
「それに、ヒーローとして活動ができるのは、司法局から認可を受けた者だけだ。昨夜、ワイルド君の出動を邪魔した点でも、この人物は法を無視している」
腕組みをしたスカイハイも、険しい表情でパネルを見つめる。
「そういえば、タイガーさんは?」
スカイハイの背後から、半身をかがめてパネルをのぞき込んでいた折紙サイクロンが、きょろきょろとセンター内を見回した。
つられてそこらを見渡した皆の視線から、一番遠いところのマシンに座っている虎徹は、トレーニングもせずにうなだれている。
「やっぱり…ショックだったんでしょうか」
「目の前で、ルナティックさらわれちゃったみたいなものだったしね」
折紙とドラゴンキッドが、けなげに声を抑える中、ブルーローズはくるりと遠くの虎徹に背を向ける。
「別に今さら、そんなことでタイガーが落ち込むわけないじゃない。タイガーに出番がないのは今に始まったことじゃないんだし」
「あんた…タイガーをほめてるのかけなしてるのか、どっちなのよ」
「どっ…どっちでもいいでしょ!」
自称女子ヒーローに突っ込まれ、氷の女王様はぷいとセンターを出て行った。




トレーニングに、身が入らない。
いや、普段からそれほど真面目にやってもいないのだが。
ベンチプレス用のベンチに座って、虎徹はただ床を見つめていた。
向こうの休憩コーナーで人の気配がするが、きっと他のヒーローたちも、緊急特番の話をしているのだろう。

───『とにかく家に帰って。テレビを見てみます』。

そう言って帰っていった昨夜のバーナビーは、終始、人形のように固い表情だった。
いきなり虎徹が核心に突っ込んでしまったからだろうか。
ウロボロスの出現を告げた時も、驚くと言うよりは、どうしていいかわからないようだった。
心ここにあらずといった風情で、それなのに、本当にプライベートな彼の目的を、なぜか彼は語ってくれた。
あなたにはこのことを知られたくなかった、と、あの固い表情が訴えていた。
今頃、動揺にまかせて余計なことをしゃべってしまったと、後悔でもしているのだろうか。
考えれば考えるほど、バーナビーに訊きたいことがあふれ出てきて、虎徹の思考をどこまでも乱す。
小さい頃って、いったい彼は何歳の頃から、両親殺しの犯人を追ってきたのか。
ヘタをすれば、十年やそこらの話ではないんじゃないか。
まさか、ヒーロースーツの仕事も、そのためだったのか。
警察にも頼らず、たったひとりで───どんな思いで、犯人を探し続けてきたのか。
昨夜のバーナビーの様子からすると、たぶんもう彼は、これ以上の情報を、虎徹に与えてはくれないだろう。
必ずやつらを捕まえる、と、大言壮語した虎徹をなじるでもなく、歩み寄るでもなく、ただふらふらと視線を逸らして車に乗り込み、彼は帰ってしまった。

───信じられてないって言えば、それまでなんだろうけど。

確かに、虎徹一人で、あの大変なNEXT二人を捕まえるのは、今のところ不可能に近い。
けれど、他のヒーローたちと協力し合えば。
斎藤やバーナビーに、メカニック的な知恵を借りられれば。
ヒーローは一人ではない。そして、そのヒーローたちを支える支援者も、決して少ないわけではない。
バーナビーの個人的な事情をヒーローたちに明かさなくとも、今日明日中に、ヒーロー全員に、当面の指令は出るはずだ。

───ルナティックとウロボロスから、市民を守れ、ってな。

休憩コーナーに集まっている連中は、ポータブルパネルでテレビを見ているらしい。
俺も見に行こう。
自分の握りこぶしを、ぱちん、ともう片手で握りしめ、虎徹はベンチから立ち上がった。

わかったふうに同情するなと、バーナビーにうとまれてもいい。
とっくに彼には嫌われているのだから。
彼のきつい言葉を受け止めるのにはほんの少し、骨が折れるが。
どんな形であろうと、誰かの力になれることが、「ヒーロー」の、大切な条件なのだから。