ところにより、土砂降りの星



眠れない。
規則正しい列車の振動を、窓枠についた頬杖で顔面全体に受け止めながら、虎徹は目を開けた。
平日の昼間に、シュテルンビルトから、こちら方向の路線を利用する乗客は非常に少ない。虎徹の隣りにも、向かいの座席にも、誰も座っていない。座っていないどころか、この車両には、虎徹を含めて数人の乗客しか乗っていない。
通い慣れた実家までの長い道中は、いつもなら、駅で買った雑誌を眺めるか、携帯電話のゲームをいじるか、寝るかの三択だったのだが、今日の虎徹は、どれも選ぶことができないでいた。
今は、何の活字も頭に入らないし、どんなゲームも面倒臭いし、いくら目をしっかり閉じても、眠気はチラとも訪れない。
頬杖のまま、虎徹は窓の外を眺める。
どこかしら見覚えのある街の風景は、見覚えがあるのに壮絶によそよそしく、後方へと流れてゆく。
よそよそしすぎて、虎徹はもう、列車が今どのあたりを走っているのかわからなくなっていた。
窓の外を見ているのに、何も目に入らない。
空虚な視界に浮かんでくるのは、ほんの数分前に見た彼───バーナビーの、笑顔になり損ねた笑顔だけだった。

───『じゃあな。バニーちゃん』。

ほんの数分前、列車のデッキから、虎徹がそうやって声をかけても、バーナビーは黙っていた。
プラットホームで、「さよなら」と言えずに唇を震わせて、震えている唇を隠そうとして、笑おうとして失敗した彼のあの顔が、虎徹の目にも、心にも、身体の奥底にも焼きついている。
あんなに来るなと言ったのに、バーナビーは頑なに、虎徹を見送ることにこだわった。
眠るという意味でなく、昨日は二人で、ほぼ一日中ベッドの中にいたから、バーナビーの疲労は積もっていたはずだ。
もちろん虎徹も疲労を感じてはいるが、やっと病院を退院してきたばかりなのに虎徹を受け入れ続けたバーナビーの疲労は、こんなものとは比べ物にならないだろう。
あのきれいな目の下にうっすらと影を作り、それでもバーナビーは虎徹を求め続けた。
影がかえって、バーナビーの面差しに凄味と色香を加えた。
言い訳キングとして言わせてもらうなら、あの顔のバーナビーに迫られてきっぱり断れる人間は、この地球上にそうそう存在しないだろう。
昨日の朝、喉の奥から何か変な叫び声が出そうになるくらい我慢して、退院したバーナビーを彼の家まで送っていったのに、その玄関前できっぱり別れてくるはずだったのに、何もかもが違ってしまった。

───『寄って行って、ください』。

あの声を聞いたら、もうダメだった。
抱きしめたら、もう止まらなかった。
脱がせたはずなのにいつのまにか脱がされて、脱がされたと思ったらあっという間に股間に食いつかれて。
正直なところ、二、三回扱かれたってもうダメだと思っていたのに、あの柔らかい唇に根元まで咥えられたら、何秒ももたなかった。
友恵だって、あんなに乱暴に押し倒したことはない。
ムードもテクニックも丸無視で後孔に指を入れたら、見たこともない動きで腰を振られた。

───『止める必要なんか、ないでしょう…?』

まだ指しか入れていないのに、中へ中へと誘うように孔を締められ、気が遠くなった。
乱暴はだめだと思うのに、優しくしなければいけないと思うのに、考えることがもうできなかった。
バーナビーが納得してくれていなければ、あの行為は、客観的には強姦そのものだった。
深く、強く、内襞にぴったりと密着して、ペニスがあの後孔に飲み込まれる感触を思い出すだけで、鳥肌が立つ。
意志を持って締めつけてくるそこを、動物のように探り、暴き、突きまくった。
脳が溶けるかと思った。
いや、実際にもう脳の一部は溶けて流れてしまっているのかもしれない。いくら乗客が少ないとはいえ、こんな公共の場所で、延々とバーナビーの痴態を思い起こしながら、自分はまた下肢を熱くしているのだから。

───『奥まで。…もっと』。

だめだ。
もう思い出してはいけない。
ひどい罪悪感と一緒に、吐きそうなほど胸苦しい熱が、虎徹のはらわたを焼く。
自分の中で渦巻いているこの感情が、愛なのか恋なのかそれともただの性欲なのか、もう区別がつかない。
区別などつける必要はないのかもしれないし、つかないのが恋愛というものの初期形態なのかもしれないが、このカオスな感情と、場違いに硬化してしまったこの息子は、早くどうにかして落ち着かせないととりあえず人前には出られない。
閑散とした車内の状況に心から感謝して、虎徹はただただ深呼吸を繰り返し、思考を別方向へとねじ向ける。

───『虎徹さん。寝ましたか?』

ゆうべは、眠りに落ちる寸前に声をかけられた。
本当は、夕食をバーナビーに食べさせたら、バーナビー宅を出るつもりだったが、一挙一動をバーナビーに観察されてしまい、どうしても帰ると言い出せなかった。
帰れなくても、また同じベッドで朝まで過ごすことになっても、疲労困憊しているバーナビーと、もうセックスしてはいけないと思った。
だから、広いベッドのシーツに埋もれたまま、虎徹は寝たふりをした。

───『…おやすみなさい』。

何秒かの沈黙の後、そっとベッドが沈み、衣擦れの音さえ遠慮するような動きで、隣りにバーナビーがもぐり込んできた。
仰臥して動かない虎徹の首筋に、柔らかい髪が触れた。
バーナビーは、虎徹の肩口に顔を埋めているようだった。
虎徹の身体に腕を回すようなことはせず、ただ、隣りでうずくまり、寄り添っていた。
肩口がバーナビーの吐息で温められ、よほど目を開けてしまおうかと思ったが、やっと訪れてくれたこの眠気の尻尾を逃したら、確実にまた抑えられなくなってバーナビーを朝まで犯してしまう。
だからやっぱり、虎徹は寝たふりをした。
バーナビーの吐息が温かすぎて手に汗握っても、シャンプー直後のバーナビーの髪の匂いが甘すぎて下半身が熱くなりかけても、目を閉じていればなんとかなるんじゃないかと思った。
なのに、聴覚など放り出してしまいたいのに、普段の注意力ではまず聞き取れない、音声ですらない、かすかなバーナビーの呼吸音が、虎徹の眠気を容赦なく削りにかかってくる。
さっきまでしゃくりあげていたあの吐息が、今はこんなに穏やかだ。
穏やかなことに安心しているのに、その安心の裏側で、しんと痛みを伴う何かの破片が、身体の底に静かに落下していくような感覚がある。
両親を亡くしてから、ずっと死にたかったと、バーナビーは言っていた。
誰でもが幸福でなければならない子供時代を、青春時代を、彼は送ることができなかったのだ。
心の支えにしていたであろう、復讐という目的すら、あんな形で強制終了させられて、バーナビーは心身共に傷ついて、弱りきっている。
そんなに弱っている人間に、自分は、なんということをしてしまったのか。
今現在つらいから、抱かれたいとバーナビーは言った。
自身とバーナビーに負けて、虎徹は彼を抱いた。
そのことによって、バーナビーの「今」の悲しみを、ほんのわずか和らげてやれたのは事実かもしれない。
だが、バーナビーはまだ知らないのだ。
この世には、何をどう努力しても、癒せない悲しみがあることを。
ヒーロー業にかこつけて、自身の命を粗末にしてきた虎徹の愚行を、バーナビーは受け入れてくれた。
虎徹の悲しみと、自分の悲しみは同じだと言って、涙を流してくれた。
誰にも打ち明けられなかった悲しみを、共有できる。そんな相手に巡り合えて、嬉しいのは虎徹も同じだ。
だがいつか、バーナビーは気づくだろう。
何十時間、何十日、あるいは年単位で鏑木虎徹と時間を過ごしても、自身の悲しみは、決して消えないということに。
消えないことに絶望して、バーナビーが虎徹から離れていく可能性は、ありすぎるくらいに、ある。

───『ヒーローのくせに、死んじまっても別にいいなんて思ってたんだ』。
───『割とそーゆーサイテーな人間なんだよ、俺』。

なぜバーナビーに、あんな無神経なことを言ってしまったのだろう。
気が緩むにもほどがある。
いや、あれは無意識の牽制だったのかもしれない。
こんなサイテーな人間にこれ以上近づくのは危険だぞ、と、自分はバーナビーに言っておきたかったのかもしれない。
虎徹は、閉じたまぶたに力を込めた。
体の欲を発散するだけの相手としてなら、俺はそれで構わないと、バーナビーに言っておけばよかっただろうか。
もうヒーローでも何でもない、こんな無職の中年男に執着するのは、リスクが高すぎる、と。
愛している、という言葉を彼に乱発したことも失敗だったが(バーナビーに対して嘘はついていないし、欧米系の人間と関係を持つなら、この言葉はほぼ挨拶でなければならない)、バーナビーの心の、一番深いところの弱みに触れて、つけこんでしまうような言葉を漏らしてしまった自分の軽率さは、また別次元で情けない。
隣りでうずくまるバーナビーの吐息は本当に静かで一定だ。もう眠りに落ちているのかもしれない。
閉じたまぶたの裏が暴力的に熱くなって、虎徹は寝返りを打ち、バーナビーに背を向けた。
どんなにまぶたに力を入れてこらえても、目頭が濡れてくるのを止められなかった。
寝ぼけて身じろぐふりで、顔の半分をやっとシーツに押しつける。
今、バーナビーに顔をのぞき込まれたら、いろいろとまずいことになる。
幾筋かあふれた水分が、やっと全部シーツに吸収された時、背後から、小さな小さな声が聞こえた。
「……好きです」
心臓が止まるかと思った。
瞬間の、胸の痛みに耐えかねて、虎徹は背中を丸めた。
丸めたそこに、ひっそりと、バーナビーの手のひらが触れてくるのを感じた。
「好きです。愛してます。…すき、です。好き…」
一方的にささやかれる言葉は、返答を求めていない、まったくの独り言だ。
バーナビーは、虎徹の覚醒に気づいていないのだろう。
何が何でも目を開けてはいけないと、虎徹は思った。
今すぐ振り向いて彼を抱きしめたくても、嗚咽さえこぼれそうに自分の軽率さが情けなくても、自分は今、どうしても「眠って」いなければいけないのだ。
「好きで、好きで…好きなんです。ごめんなさい…」

またこぼれた涙を、虎徹はやっとのことでシーツに押しつけた。




がた、と列車の窓枠が揺れる。
虎徹は我に返った。
いつの間に速度を落としていたのか、列車は駅に停車していた。
虎徹の実家であるオリエンタルタウンはまだ先だ。シュテルンビルトを出てから二十分ほどしか経っていない。
頬杖を下ろして、窓の外のプラットホームを眺めるも、乗降客はやはりまばらだった。
虎徹のいる車両にも数人が乗車してきたが、彼らは当たり前のように虎徹の座っている場所とは一定の距離を空けて、それぞれの座席に収まっていった。
仮に列車が満員で、虎徹のそばに乗客が座ってきたとしても、さっきまで無節操に熱かった虎徹の下半身はすっかり冷えていて、誰に見られようともう何の支障もない。
こうやって、途中下車できない列車に乗って、周囲の乗客と一定の距離を保ちながら進んでゆくのが、人生というものなのかもしれない。
人生はよく鉄道に例えられるけれども、近しい人間と同じ列車に乗って、自分の人生の終着駅まで行くことはできない。一時的に同じ車両に乗り合わせたり、並走する列車の窓から顔を見合わせることはできるが、最後まで一緒に行くのは、天変地異か大事故でも起こらなければ、まず不可能だ。
それでもいつかバーナビーを連れて、この路線の列車に乗って、オリエンタルタウンに帰る日が、来るのかもしれない。

───いや。今は、そんな夢物語を考えてる場合じゃねぇ。

バーナビーは今頃ひとりで、何をしているだろう。
泣いているだろうか。
苦しんでいるだろうか。
そんな気持ちを耐えて、紛らわして、片付け慣れないあのキッチンを、片付けてでもいるだろうか。
それとも何もできないで、ひとりで、あの広大な部屋の、広大なベッドの中で、ゆうべのようにうずくまっているのだろうか。
虎徹が実家に着いても、バーナビーから電話やメールが来る確率は低い。彼は自分の家族を亡くしているせいか、他人の家族に異様に気を遣うところがある。水入らずを邪魔するまいと、過剰なほどに遠慮するのだ。

───『好きなんです。ごめんなさい』。

バーナビーが謝ることなど、何もなかった。
また、列車の窓枠が揺れる。
終着駅に向けて発車した車両は、どこか重苦しい音を立てて、加速を始めた。
後方に流れるプラットホームと駅舎をぼんやりと見送って、虎徹はまた眼を閉じる。
もう眠ろうなどとは思っていない。

───着いたら。バニーに電話しよう。

バーナビーに連絡を取るその行為が、バーナビーに対する壮大な偽善だったとしても。
自分が電話することで、バーナビーが自身の身体を労わって、食事をする努力をしてくれて、泣くのを少しでも止めてくれるのなら、今はただ、この偽善を貫き通すだけだ。

───謝るのは、俺のほうなのにな。



***

(モノローグ)

お父さんが帰ってきた。
今までだって何回も帰ってきてたけど、それとはちょっと意味が違う。
仕事をやめて、今度からずっと私と一緒に暮らしてくれるらしい。
どうして今までの仕事をやめちゃったのか聞いても、ちゃんとした返事はしてくれない。「楓に今まで寂しい思いさせたから」とか言ってるけど、私のせいで仕事をやめなくちゃならなくなったんなら、そんなのはちっともうれしくないんだけど。
お父さんはわかってない。
私はもう一人で眠れるし、お風呂だってひとりじゃなきゃイヤだし、宿題なんて言われなくてもやってるし、簡単なご飯だってひとりで作れるし、お母さんのこと思い出したってもう泣かないし。
おばあちゃんに聞いても、おばあちゃんも、お父さんが仕事をやめちゃったほんとの理由を知らないみたいだ。「まあしばらく好きにさせといたらいいんじゃないかねぇ」なんてのんきなことを言ってるから、お父さんのお給料がなくて大丈夫なのかって言ったら、笑ってた。
お父さんの今までのお給料は、けっこう高かったらしい。
貯金してあるから、って、おばあちゃんがあんなにニコニコ笑えるくらいに。
帰ってきたお父さんは、今までとは、なんだか違う。
べたべた私のごきげんを取ろうとするところは違ってないんだけど、時々、誰ともしゃべらないでぼんやりしてることが多い。
おしゃべりの相手なんて、この家では私とおばあちゃんしかいないから、黙ってる時間が長いのはあたりまえかもしれないけど、でも、黙ってテレビを見たり、仏壇の前に長いこと座ってたり、スマホいじってるお父さんは、前とはなにか違う。
前はいろいろ、スマホの中の写真とかも見せてくれたけど、今は、見せてって言っても、ニッコリ笑って見せてくれない。
ニッコリ笑うっていうのが、だいたいありえない。
やーだよー、とか、ダメ、とか言って意地悪されるんならともかく、ニッコリ笑って、ごめんな楓、見せられないんだわ、とか言ってる。
その笑ってる顔が、今まで見たことない感じで。
よそのお父さんが、笑ってるみたいで。
お腹の下の方がぎゅっと痛くなって、私はそれ以上お父さんに話しかけられなくなってしまう。
私も自分の携帯はお父さんにほとんど見せたことないけれど、「見せて」って言うお父さんにヤダって言った時、お父さんもこんな気持ちだったんだろうか。私の友達の名前とかメールとか、お父さんに見られるなんて絶対イヤなんたけど、お父さんにも、見られたくない友達がいるんだろうか。
見られたくない友達ってどんなのだろう。
私はお父さんみたいに、友達は何人いるかとか一番仲いい友達と何して遊ぶのかとか、しつこく聞いたりしないのに。
そもそも大人って何して遊ぶんだか。
ひまな時に一緒にお店でご飯食べたり?
一緒にお買い物したり?
ううん、お父さんの友達なら男の人だから、やっぱり一緒にお酒飲むのが楽しいのかな。
でも、なんでそれを見られるのがイヤなの?
今までなら、休みの日に友達とこんなとこに行ったよとか、シュテルンビルトの街はこんなのだよとか、見せてくれたのに。
ヒトの携帯は、家族のでも勝手に見ちゃいけないんだから、だから直接お父さんに見せてって頼んでるのに。
今までと違う、私にもおばあちゃんにも秘密にしたいような、大事な大事な友達ができたってこと?

その友達って、ひょっとして、女の人?

……考えてたら、ほんとにお腹が痛くなってしまったから、お父さんのことを考えるのは、今はやめにしようと思う。
こんなつまんないこと、考える方がバカなんだ。
でも。
もしも、もしもお父さんにそんな友達がいたら、友達を通り越して、二人目のお嫁さんにしたいくらいの恋人がいたら、私はどうしたらいいんだろう。
お父さんはどうするんだろう。
ほんとに、なんで今、お父さんはこの家に帰ってきたんだろう。
だめ。やっぱりお腹が痛い。
ほんとにもう、考えるのはやめにしなくちゃ。
お父さんに、宿題やったかーって言われる前にやっておこう。
アレを言われると、ほんとにマジメにやる気なくなっちゃうからね。



***

桜も散って、ひと月は経っている。
それでもこの季節のオリエンタルタウンは、夜に薄着で出歩くと肌寒さを感じる。
風呂上がりのスウェット姿にサンダルをひっかけ、スウェットの両ポケットに両手を突っ込み、ぺたぺたと虎徹は夜道を歩く。
玄関に脱いであった、母のものらしい古びたサンダルをそのまま履いてきた。たかが散歩に出るのに、靴箱まで探るのが面倒くさかった。
それに、あまりきっちりした靴を履くと、どこまで散歩に行くのかと、母や楓に突っ込まれる可能性がある。
とにかく、何気なく玄関に出て、何気なく散歩に行きたかった。
何気ない散歩の行き先は、家から徒歩五分の神社だ。
誰にも会話を聞かれない場所で、バーナビーと話がしたかった。
実家に帰ってきてから数日たつが、バーナビーから電話がかかってきたことはない。メールも送信されてこない。
虎徹が電話をかければもちろん出てはくれるが、彼は常に「今、電話して大丈夫なんですか」とこちらの状況ばかり気にしている。やはり、虎徹の家族に遠慮しているのだろう。
メールアドレスさえ教えてくれればそれで生きていけるとバーナビーは言っていた。まさか、そんな方向違いの決心をこんなに律義に実行されるとは思わなかった。
メールだって、来ないならこちらから送信すればいいのだが、虎徹はメールで会話するのが苦手だ。元気か、と一言送信するぐらいなら、多少時間帯に制限はあろうとも、電話で相手の声を聞いた方がよほど手っ取り早い。
というか、声が聞きたい。
電子機器を通すと少し低く、そして甘くなるバーナビーの声が聞きたい。
元気かと訊いても、元気ですとしか返事は返ってこないだろうが、人間の声には、体調の良し悪しや精神状態が如実に表れる。
バーナビーの声音の裏側に潜む、彼の遠慮や強がりを、少しでもダイレクトに感じたい。
自分勝手なこの偽善がどこまでバーナビーに通用するのかわからないが、彼がもういいと言うまで付き合う覚悟くらいはある。

───バニーが、俺に愛想を尽かすまで。

何日か、何ヶ月か、その期間を想像するのはきっぱりやめて、虎徹は神社への石段を上がり始めた。
足に合わない小さなサンダルで階段を昇降するのは、なかなか神経を使う。無駄に足の裏を疲労させ、祠の前に到着した時、ポケットの中の電話が鳴った。
あわててつかみ出し、その画面に浮かび上がった名前に驚愕する。
「…は、はいもしもし!?」
思わずどもってしまい、痛烈に恥ずかしい。
『……すみません。今大丈夫でないなら、かけ直します』
聞こえてくるバーナビーの声は、心なしか遠い。
消え入りそうなその声が嬉しくて、聴覚以外のすべての感覚が吹き飛びそうになる。
「いや全然!も、なんか、おまえ遠隔操作カメラで俺のこと見てたんかって思うぐらいグッタイミンまじで!!」
クス、と微細に、そして確かに、電話の向こうでバーナビーが笑った。
彼の微細な吐息までを拾って、音声として届けてくれるこの小さな高機能携帯電話に無限大の感謝を捧げたいが、無駄な腕力でその液晶画面を押し潰してはいけない。
虎徹は急に汗ばんできた指から力を抜いた。
抜いたとたんに耳にあてていた電話を取り落としそうになり、とっさに両手でそれを支える。
『どうかしました?大丈夫ですか』
不必要に電話が揺れたので、雑音が入ったのだろう。
「だ、だいじょぶだいじょぶ!いやその、ウレシすぎて、俺ちょっと」
『遠隔操作カメラがあれば僕もありがたいですけどね。ヒーロースーツに着いているカメラ機能をいじれば、わりと簡単に作れると思いますが』
「え、マジ?」
『冗談ですよ。半分だけ』
冗談。
バーナビーの口から、そんな単語が聞ける日が来ようとは。
突っ立ったままの虎徹の肩に力が入り、寝たふりをしていたあの日の晩のように、思わず背中を丸めてしまう。
それでも、両手で電話をなんとか支え、バーナビーの声を逃すまいと、虎徹は聴覚を研ぎ澄ます。
『今、外なんですか』
バーナビーには、虎徹の姿が見えていないらしい。バーナビーの携帯には、テレビ通話機能が内蔵されているはずだが、彼はあえて音声機能に絞って、電話をかけてきているようだ。
「そ。ゆっくりおまえに電話しよーと思って、散歩してたとこ」
『こんな時間に散歩すると、ご家族が心配しませんか。電話なら、家の中でもできるでしょう?』
「おまえな…俺をいくつだと思って…、まあいいや。ここらの家はさ。壁もドアも薄いから、自分の部屋で電話してても、わりと外に筒抜けでさ。落ち着かねんだ、けっこう」
『…そう、ですか…』
「いや、だからってもう電話しねぇとかやめてくれよ?昼間なら楓は学校だし、この辺は治安がいいからいつでもこーやって出歩けるし」
『…はい』
近づいてはいけないのに、近づいてしまう。
醜い苦笑いを、虎徹は飲み込んだ。
ゆっくり、少しずつ、このままバーナビーとは疎遠になった方がいいのに、無責任に回り放題なこの口は、あらぬセリフを並べ立てて、バーナビーに近づいてしまう。
「だから。電話がしんどいならメールでいいから」
でも、並べ立てられるセリフは、嘘じゃない。
「メールでいいから、くれよ」
嘘じゃないから、今は許してくれないか。
呼吸が苦しくなり、虎徹は顔を上げた。
丸めていた背中を伸ばし、視線を一気に夜空に向ける。
雑木林の上に突き抜ける暗い空には、砂のように星が散っている。
自力でちりちりと瞬いていたはずの星は、数秒もしないうちに歪んでぼやけ、濡れそぼった。
『泣いてます?虎徹さん?』
まったくほんとにこのウサギはなんという質問をしてくるのか。
もう少し、知らないふりなりなんなりできないのか。
なんのためにサウンドオンリーで電話しているのか。
心で支離滅裂な八つ当たりをしているその間にも、空の星は歪み続け、ミルクが流れるように白く跡を曳いて、虎徹の視界から流れ落ちてゆく。
「…泣いてねーよ…」
晴れているのに、土砂降りだ。
つい数分前。
電話をかけるまで、バーナビーはどれほど迷ったことだろう。
こんなちっぽけな男のために、自らの携帯の通話ボタンを押すために、どれほど勇気を振り絞ってくれたことだろう。
指さえ震えたかもしれない。
そのことが、めまいがするぐらいに、全身の細胞が入れ替わってしまいそうなぐらいに、嬉しい。

───偽善とか何とか言ってたけど。

友恵のこと。
友恵の思い出のこと。
楓のこと。
ヒーローでなくなった自分のこと。
その他、もろもろ。

───俺は、怖いだけなんだ。

ひっくり返りそうなこの嬉しさを、失うのが怖いだけ。
勇敢なバーナビーの前で、怖くてただ泣いてる、ちっぽけすぎる、どうしようもない男。
『テレビ通話に、切り替えていいですか。顔を見て話がしたいです』
「バカ…やめろ」
『ホログラム上でいいから、あなたにキスしたいです』
「バカたれ」
『お願いします』
「……も少し……」
『はい?』
「も少し待ってくれ」
『少し待てば、顔見せてくれるんですか』
「ああ」
『わかりました』




もう少し、あと何分か経ったら、バーナビーに、この夜空を見せてやろう。
虎徹はスウェットの袖で乱暴に目をこする。
ホログラム画面を通して、どこまでこの星が鮮明に映るか見当はつかないが、パネルを空に向けて、俺の顔でなく、この星を映してやろう。
しっかり光ってろ、と傲慢に天空に向かって心で命令して、虎徹は耳元の電話を握り直した。