スウィートチョコレート・モーニング



「すまないバーナビー。これを、片付けてくれないか」
朝一番のメカニックルームには、まだ空調が効ききっていない。
ひんやりとした冷気の中で、バーナビーは全ての意識を聴覚に集中した。
相変わらず、その口元に耳を近づけないと、この斎藤の言っていることは聞き取れない。ここに配属された当初はずいぶんと面食らったが、数カ月も経つと、バーナビーは斎藤の話し出すタイミングを予測できるようになった。今ではNEXT能力を使わなくても、さっと斎藤のそばに寄って、半身を少々かがめるだけで、十分に彼と会話ができる。
「これって…チョコレート、ですか?」
斎藤は、バーナビーの鼻先に、開封済みの板チョコを差し出してきた。
「タイガーからの差し入れだ。この製菓会社から、CM出演のオファーがあったらしい」
「僕は、チョコレートはあまり…」
「まあそう言うな。このヒトカケでも食べとけば、タイガーの機嫌もよくなるぞ」
バーナビーのために斎藤はこのヒトカケ以外を食べてくれたのか、それとも甘味好きの斎藤がこのヒトカケ以外を食べてしまったのか。
バーナビーにその判断はつかないが、他人へのご機嫌取りのために、朝からオフィスで菓子を口にする気にはなれない。
しかし、発声法に問題はあれど、この斎藤の、メカニックとしての優秀さに、バーナビーは常々感銘を受けていた。
差し入れの張本人は気に食わないが、尊敬する上司の気持ちをむげにするわけにはいかない。
苦笑いの染み出す唇をやっとゆるめて、バーナビーは小さなその最後のひとかけらをつまみあげ、舌に乗せた。
覚えのあるほろ苦い香りを放つ、黒いひとかけらは、思ったよりも甘かった。




「では。君の話から先に聞こう」
椅子をきしりときしませて、軽く座り直したマーべリックは、デスクの上で、にこやかに両手を組み変えた。
斎藤からのチョコを飲み込むが早いか、バーナビーはこの社長室に直行した。
ちょうどよかった、私も君に話があったんだと、いつになく歓迎してくれたマーべリックは、朝から上機嫌だ。
就業開始時刻まで、まだ二十分ある。この気持ちをマーべリックに説明するのには十分すぎる時間だ。
「いえ。僕の話は後でかまいません。マーべリックさんのご用件からどうぞ」
「こんな朝一番に来てくれたんだ、何か大事な話なんじゃないのかい?私はそちらの方を先に聞きたいんだよ」
本当に嬉しそうなマーべリックの表情に、バーナビーの胸がちくりと痛む。この痛みをひきずりながら、マーべリックの話をきちんと聞くのは、少々難しいかもしれない。
再三、座りなさいと促されたソファには座らず、バーナビーはマーべリックのデスクの真正面に立った。
目線の下にあるマーべリックの瞳に向けて、ようやく言葉を放つ。
「メカニックを…いえ、この会社を、辞めたいんです」
マーべリックの微笑が、ふと凍結した。
「入社して、二年もたっていないのに、本当に申し訳ありません」
「なぜ急にそんなことを?なにか、不本意なことでもあったのかい?」
マーべリックがまた、きしりと椅子をきしませる。
座ったままのその身じろぎが怖くて、バーナビーはデスクの影で、両のこぶしを握りしめた。
「僕がここにいても、あのウロボロスのタトゥーの手がかりは追えません。ですから、辞めて、ヒーローアカデミーに入りたいんです。ヒーローになるには、僕はまだ力不足ですから」
きれいごとだ。僕は、この人に、おねだりをしている。
あなたの力でヒーローにならせてくださいと、無茶な要求をしている。
「マーべリックさんの、言う通りでした。一般人のままで、あのタトゥーの犯罪者を探すのは無理です。ヒーローになれば、きっと…」
みっともないおねだりは、最後まできれいに言葉にすることができなかった。
言葉にならなかった言葉尻を飲み込んで、バーナビーはうつむく。
マーべリックは、バーナビーの視界の外で、細いため息をついている。
その音にもならない音が、やはり怖い。
あきれられているに違いない。
それでも今は、マーべリックの言葉を待つことしかできない。
バーナビーがもう一度こぶしを握ると、低く優しい声が、その場の空気を震わせた。
「ありがとう、バーナビー」
バーナビーは顔を上げた。
目線の下には、マーべリックの青灰色の瞳が、温かく濡れている。
「ずっと…私の言ったことを覚えてくれていたんだね。本当に…ありがとう」
一段低くなったマーべリックの声は、ある意味無表情だ。
だが、幼い頃からマーべリックと接してきたバーナビーにはわかる。

───喜んで、もらえている。

こんなに無茶で、わがままで、勝手な僕の希望を、喜んでもらえている。
まだ、バーナビーはマーべリックにあきらめられたわけではなかったのだ。バーナビーの、メカニック担当という仕事を応援してくれる一方で、バーナビーがヒーローになる決断をするのを、マーべリックはずっとずっと、待っていてくれたのだ。
「だがね。辞表を出すのは少し待ってくれないか?」
「どうしてですか」
「君はとてもよく働いてくれていると、メカニックから聞いている。我が社としては、重要なヒーロースーツの開発に支障が出るような事態は避けたいんだ」
「僕一人いなくなったところで、たいしたことは…」
「謙遜もいいがね。実際問題として、現時点で、メカニックルームの人員が減るのは困るんだ。ルナティックの件もあるしね」
バーナビーは唇を噛んだ。
確かに、ルナティックが現れてから、タイガーのスーツの破損は(微細ではあったが)多くなったし、画像解析に時間を取られて、どちらかというと人手は足りなくなっている。
一晩かけて、頭を冷やして考えたつもりの決心だったが、改めて指摘されると、いつも困ったような顔をしている斎藤が、もっと困っている場面を容易に想像できて、胸苦しくなる。
「君には、前から話そう話そうと思っていたんだが」
ふと、低かった声色を元に戻して、マーべリックは椅子から立ち上がった。バーナビーから視線を逸らし、数歩歩いて、真っ青な空を窓ガラスごしに撫でる。
「今、メカニックルームとは別系統で、新しいヒーロースーツの開発を極秘に進めているんだ」
バーナビーは目を見開いた。
総ガラス張りの窓際に立って、マーべリックは隙なくこちらを見据えてくる。
「メカニックルームの仕事を調整しながら、でいいんだ。君が、その極秘プロジェクトに協力してくれれば、ウロボロスを追いたい君の願いを、かなえることができるかもしれない」
「どういうことですか」
「それを今日、君に話すつもりだったんだが。君の嬉しい申し出のおかげで、予定が少し変わりそうだよ。おお、もうこんな時間か。私の話は、また終業後にしよう」
「すみません、僕が長々と…」
「いや、いいんだ。大事なプロジェクトの話を、朝の短い時間ですませようとした私が悪いんだよ」
目を細めてマーべリックは笑み、ゆるやかにデスクの縁を回って歩いてくると、困惑して棒立ちになっているバーナビーの肩を、いつもと同じしぐさでぽんと叩いた。
「また夜に、ゆっくり話そう。楽しみにしていなさい」
「……はい…」
肩を叩いた手は、そのまま離れることなく、バーナビーの上半身を、マーべリックの胸元に引き寄せる。
また別の意味で困惑しながら、バーナビーは軽くもがいた。
「すみません…さっき、チョコレートを、食べてしまったので」
マーべリックの肩口に額を押しつけて、バーナビーは迫ってくる視線から逃れようと、静かにもがき続けた。
「珍しいね。君が、朝から会社でものを食べるなんて」
「斎藤さんに、勧められて…断れなくて」
目を合わせれば、また口付けられてしまう。
「別に、かまわないよ」
「ですが、」
「かまわない」
「恥ず…かしい、です。歯も磨いていない」
それに、この間のように、またここに闖入者が現れないとも限らない。
「…わかったよ。バーナビー」
バーナビーの両肩をつかんでいたマーべリックの腕が、急に力を失ってゆるむ。
そのあっけなさに、バーナビーは身構えながらも、もがくのをやめた。
マーべリックの顔が、なぜか見られない。
どこからともなく苦しい呼吸を整えようと、床に向けてただ息を吐く。
隙を突くように、頬に湿った感触が降ってきた。
「ありがとう。本当に嬉しかったよ」
頬へのキスは温かかったが、ぬくもりはすぐに、蒸発してしまった。