終わりなき最後のキスを



「キスしていいか」
虎徹の声が耳元で響く。
バーナビーは、痛みをこらえるために、細く息を吸った。
身体の上に折り重なっていたガレキは、虎徹が取り除いてくれた。ヒーロースーツの装甲は真っ黒に汚れているものの、損傷はほとんどない。ただ、ハンドレッドパワーは切れていたので、ガレキに圧迫されていた体幹の痛みがひどい。
内臓破裂の可能性もあるので、救急隊が到着するまで動かないようにと、アニエスに指示を受けてはいたが、横たわってただ待つだけのほんの数分が、途方もなく長く感じる。
フェイスガードを上げて横たわるバーナビーのそばにひざまずいたまま、ワイルドタイガーは───虎徹は動かない。
ひざまずいているだけではなく、バーナビーの顔にかぶさるようにかがみこんで、キスをしていいかと、場違いな質問を、バーナビーの耳元に浴びせてくる。
虎徹は無表情だ。
悲鳴のようにバーナビーの名前を呼び、ガレキを片っ端から剥がしてくれていた間の表情は見えなかったが、フェイスガードを上げて、バーナビーの額の血を拭ってくれた時から、アイパッチに覆われた彼の顔は、ずっと無表情だった。
いや、限りなく無表情に近かった。
バーナビーにはわかる。
虎徹はとてもあわてている。
出動中に、バーナビーがここまで負傷したことはなかった。
あの視聴率の鬼であるアニエスが、中継を切り替えるくらいなのだ。基本的に、負傷したヒーローがレスキューされるシーンは、中継されることがない。視聴者に不安を与えてはならないからだ。レスキューの対象がKOH候補なら、なおさらのことだった。
色々な感情が振りきれて、虎徹はたぶん、自分でもどうしていいかわからないのかもしれない。
仕事中だろうとプライベートだろうと、とにかくペラペラと騒がしい彼が、黙りこくってこんな顔をするのを見るのは、二回目か、三回目か。
仰臥したまま、バーナビーはそっと腕を上げた。
腕を上げて、指を伸ばして、唇から十センチも離れていないところにある虎徹の頬に、そっと触れる。
好きだと告げたあの時も、虎徹はこんな顔をしていた。
虎徹が長いこと人前で黙りこむのを、バーナビーはあの時初めて見た。
沈黙に耐えきれなくて、処刑を待つ心地で、何か言ってくださいと詰め寄ったら、顔を背けられた。
あまりなしぐさに心臓が痛んで、あの時は本当に死ぬかと思った。
顔を背けた虎徹は泣いていたのだった。
その涙の理由を説明してもらうのに、そこから一時間はかかったような気がする。
涙の理由を説明してもらって、やっと、恋人らしいふるまいも許してもらえて。
そういう関係に落ち着いてみて、気づいたことがある。
虎徹は、非常に律義な人間なのだ。
デスクワークは溜めこむわ、遅刻はしょっちゅうだわ、飲ませると酔い方は汚いわで、鏑木虎徹と律義という言葉は傍目には関係性ゼロに見える。
だが彼は、彼が決めた彼の規範の中で、かなりきゅうくつに生きている人間なのだ。
ヒーロー業に対する姿勢についてはいうまでもなく、父親としての自分のありかた、妻を亡くした夫としての自分のありかたに、虎徹は明快すぎるイメージを持って、それを実行している。
イメージは理想的で典型的でわかりやすいものだが、生身の人間が、そんなものに一から十まではみ出すことなく従うのは不可能に近いと、バーナビーは思う。
だが虎徹は頑なだ。
伴侶を亡くした人間は独身を貫くべきだと、まだ思っているふしがある。
その頑なさを、バーナビーは虎徹に指摘したことはない。
指摘するほど確信できていないということもあるし、何より虎徹のその部分の本心に迫るのが怖くて、未だに質問も確認もできない。
虎徹の頑なさは、生活の細部でもふと現れる。
新しいパソコンソフトを使うのを嫌がって手書きの計算にこだわったり、オフィスの会議室にどっちの足から入るか、などというジンクスにこだわったり。
そして、バーナビーとの恋愛には消極的なくせに、妙に「恋人」という記号にこだわったり。
人目があって別れのキスができなかったからと、社屋の駐車場の、バーナビーの車の前で彼が突っ立っていた時は、嬉しさと違和感が半々だった。

───そして、今の。

そして今の、ヒーロースーツを着たまま横たわるバーナビーに、虎徹がキスの許可を求めているこの状況にも、違和感は満ち満ちている。

───嬉しくないわけじゃない。

ただ、身体が痛くて、彼の唇の柔らかさを味わえるような心の余裕が、今のバーナビーには足りない。
腹部が痛くて、後頭部まで冷えるような感覚さえする。
最愛の恋人のキスでも、この痛みは消えない。
まだヒーローとしての勤務時間も終わっていない。
それらは厳然たる事実だ。
無表情になるくらい虎徹はこちらの心配をしてくれているのに、なぜそんな状況で、キスをしたがるのか。
嬉しくてたまらないのに、どうしても不可解で、バーナビーの思考は混濁する。

でも、受け入れようと思った。

「………キ、ス。してください」
彼に、もうこんな顔をさせたくない。
虎徹の質問に即答できなかったことを後悔しながら、バーナビーはほとんど吐息と化した声を絞り出した。
グローブをはめたままの手で、至近距離の虎徹の頬を、ほんの数ミリ、さする。
すぐに触れてくれた唇は、温かくて、乾ききっていた。




結局。
バーナビーのケガは頭の切り傷と、腹部の打撲だけだった。
入院までさせられたのは、内臓出血の有無を確認する検査に時間がかかったからだった。
『…具合どうだ?いま家か?』
短い入院期間を終えてバーナビーが帰宅すると、すぐに虎徹から電話がかかってきた。
数日ぶりに玄関ドアを開けて閉めて、入院用の荷物を積めたバッグを放り出して、ベッドに寝転がった瞬間のコール音だった。
『何か食べたいモンあるか?何でも好きなモン言ってみ?』
変わりない虎徹の声に、胸が痛む。
いや。これは、治りきっていない打撲傷が疼いているだけなのか。
携帯を耳に当てて寝転がったまま、バーナビーは背中を丸める。
あれほど動揺していたくせに、虎徹は入院中のバーナビーを見舞ってはくれなかった。バーナビーが病院に担ぎ込まれたその日の深夜に様子を見に来てくれただけで、あとは何の音沙汰もなかった。出動が重なったり、バーナビー不在中の業務フォローが大変だったのかもしれない。
が、やはりどことなく不安で、バーナビーは虎徹に何も尋ねることができない。この数日中、虎徹に時間的余裕があったのだと判明することが怖い。できれば、虎徹の口から、言い訳でもなんでもいいから、病院に来られなかった理由を聞きたかった。
この不安は、数日前のあの違和感と同種のものだ。
非常事態にキスをねだられたあの違和感と、入院を無視されたこの不安は、なぜかとてもよく似ている。それぞれの虎徹の行状は真逆であるのに。
『あ、でもナントカホテルのなんちゃらディナーとかは勘弁な。給料日、来週だし』
電話の向こうの虎徹の声は、本当に変わりない。
結果的にバーナビーの負傷は軽かったのだから、それは当然と言えば当然なのかもしれない。
携帯を握り、ベッドの上でさらに背を丸め、眠りにつく猫のような姿勢で、やっとバーナビーは声を出した。
「チャーハン以外で…あなたが料理してくれたものが食べたいです」
『うぇぇ…さらっとムツカシイこと言うねおまえ』
「チャーハンのような難しいメニューを作り慣れているあなたに、その他のレパートリーがないとは思えないんですが」
『なんちゅーか…ホントうまいこと言うよね、おまえって』
「で。食べさせてもらえるんですか」
『………鍋、なら作れるかもしんねぇけど……』
「調理器具じゃなくて料理の話をしてるんですが?」
『だから!俺の田舎じゃ鍋にいろんなもんぶっ込んで煮るだけの料理のことをナベって言うの!』
「ああ、スキヤキのことですか」
『だっ!知ってんなら最初からそう言え!』
「単語を耳にしたことがあるだけですよ。でも、材料を鍋で煮るのなら消化によさそうですね。ぜひお願いします」
『うーん…なんちゃらディナーに行くよかはマシだけど…』
「そんなに高価な材料が必要なんですか、スキヤキって」
『ううーん…高価っちゅうかピンキリっちゅうか。おまえ無駄に舌肥えてっからなー…』
「大丈夫です。あなたが作ってくれるものならなんでもいいんです」
『大マジメにそーゆーこと言うな』
虎徹のひどい拒絶の言葉にも、ようやく最近慣れてきた。
真正面からの求愛や称賛を受けてもらえないのは未だにストレスがたまるが、これは虎徹のせいではなく、病的に照れ屋な国民性を持つ東洋の血のなせるわざだと思えば、ダメージも軽い。
今回の電話はサウンドオンリーなので見られないが、実際、言葉だけで拒絶している時の───照れている時の、虎徹の表情はひどくセクシーだ。照れ隠しの暴言なぞ吹き飛んでしまうくらいに。
接待でスポンサーにべた褒めされた時も、ファンに握手を求められた時も、アイパッチの奥の目を細めて照れる虎徹は実に魅力的で、横で見ているバーナビーの方がハラハラする。
ワイルドタイガーのファンはバーナビーより格段に少ないが、一人ひとりが本当に熱狂的で真摯だ。

───この人の魅力を知っているのは僕だけでいいのに。

この人の本当の優しさを知っているのは僕だけでいいのに。
「友恵さん」にかなわないことは百も承知だけれど、それ以外の人に、今生きている人たちに、これ以上あなたの魅力をふりまかないで。
そんな虎徹への懇願を、何度バーナビーは喉の底へ飲み込んだことだろう。
ハラハラすることそのものが、とても幼稚な嫉妬であることは分かっている。支えてくれるスポンサーあっての、ファンあっての、ヒーローという仕事だ。
口に出せない色々なことがつらくて、ベッドでうずくまったまま、バーナビーは黙りこむ。
『どした?どっか痛いか?』
話すトーンを落とし、声色を変えてくれた虎徹のことを、本当に好きだと思うのに、いい気味だとも思ってしまう。

───そうです。僕は痛い。

胸もお腹も頭も痛くて、たまらないんです。
あなたのことを考えていると、いつも身体のどこかが痛い。
だから来てください。
会いに来て。すぐに。
「………お腹が減りすぎてお腹が痛いです。早く来てください」
口に出せた懇願は、欲望全体の、ほんの数パーセントのような気がする。
照れ屋な東洋の民に、知らぬ間に毒されているのだろうか。
ぱち、と携帯を閉じて、バーナビーは横たわったまま、その小さな電子機器を隠すように、腕全体で抱きしめた。




「スキヤキはさぁ。最後が美味いんだよ」
深くはないフライパンの底をゆっくりとさらいながら、虎徹はその「ウドン」を数本、箸で持ち上げた。
甘辛いソイソースの海に、白いヌードル───いや、「ウドン」が、なみなみと浸かっている。
虎徹曰く、「スキヤキ」は「スキヤキナベ」で作るものだそうだ。
しかしそのナベを探して買って持ち込む時間が惜しいということで、急きょフライパンを代用している。
砂糖入りのソイソースで煮た肉や野菜は、本当においしかった。オリエンタル料理にしては珍しく、かなり濃い味付けなのに、肉や野菜本来の味を損なっていない。
「この最後の『ウドン』が美味くてさー。ガキの頃兄貴と奪い合いになったんだよしょっちゅう…っておまえ、言ってるそばから取りすぎだ!遠慮しろ」
「だって、本当においしいんです。いいじゃないですか」
「もー。わかったおまえがそういう気なら」
ウドンの代わりにアレ飲んでやるもんね、と箸を置き、虎徹はがばりと立ち上がる。
どこへ行くんですかというバーナビーの質問も無視してリビングを出て行き、すぐに戻ってきた虎徹の手には、未開封の高級日本酒が握られていた。
「バニーちゃんはケガ人だかんな。酒はやめて、うどんでもしっかり食っててくれ」
汚すぎる。
その日本酒は虎徹をこの部屋へ誘い込む最後の切り札だったのに。
スポンサーから贈られてくる酒は洋酒が多い。異国の酒に詳しくないバーナビーには、良い日本酒を入手できる機会はめったにない。
スウィーティなウドンを噛みしめながら、バーナビーは文字通り歯噛みしたくなったが、日本酒の封をそれは幸福そうに開けている虎徹を見ていると、恨み節の切っ先も鈍くなる。
「バニーちゃんのケガが軽かった、祝いだ」
にこりとほほ笑まれ、グラスをすいと掲げられてしまうと、もうバーナビーはウドンを静かに飲み込むこと以外、何もできなくなっていた。




一時間後。
ぐったりと酔い潰れた虎徹を寝室のベッドに放り込み、バーナビーは深くため息をついた。
飲む相手もなしに一人で飲んで(食後も虎徹はバーナビーの飲酒を禁じていた)、たったあれだけの酒量で虎徹が潰れてしまうのは、少し不思議な気がした。
いいかげんゆるゆるになっていた彼のネクタイを取り、ベストを脱がせ、スラックスを脱がせることはあきらめて毛布をかけてやろうとした時、くぐもった電子音が響き始めた。

───電話?

バーナビーは眉をひそめる。
おそらく虎徹の携帯電話が、虎徹の身体のどこかで鳴っているのだろう。
「虎徹さん」
無駄とは思いつつ、毛布の上から虎徹の肩を揺すってやる。
「虎徹さん、電話鳴ってますよ」
「んー…?」
鼻から息をもらすだけで、虎徹は微動だにしない。
電子音は鳴り続ける。
「虎徹さん!電話ですってば」
「んんー。バニーちゃん出てー」
「バカ言わないでください」
「どーせアントニオだろー。俺は今取り込み中ですーって言っといてよーバニーちゃーん…」
「ちょっと!寝ないでくださいっ!電話どこのポケットに入ってるんですか!」
「んもーうるせーなー…尻ポケットに入ってるよもー」
もーもーと牛のように文句をたれる虎徹の下半身から、電子音は鳴り続けている。
舌打ちをやっとのことでこらえて、バーナビーは虎徹にかけた毛布を尻から乱暴に剥がした。
そこで鳴っている電話を引きずり出し、画面の確認もそこそこに通話ボタンをタップする。
「…はい」
『もしもしお父さん?』
電話の向こうから聞こえてきた声に、バーナビーの呼吸が止まる。
ロックバイソンの野太い声とは似ても似つかない、鈴を転がすような、女の子の声。
『あれ?お父さん?』
沈黙が続き、バーナビーの心臓が締めつけられるように痛む。
どうして着信画面をきちんと確認しなかったのだろう。
後悔してももう遅い。
虎徹は自分の職業を、最愛の娘に明かしていない。
そして、あたりまえだが同性の恋人がいることも明かしていない。
こんな時間に、「お父さん」が「バーナビーブルックスジュニア」の家で酔い潰れて寝ているなどと、この少女に教えるわけにはいかない。
『お父さん?どうしたの?』
だが、血の気の引く沈黙の中で、バーナビーの理性はとても奇妙な結論を出した。
「……すみません。僕は、カブラギさんの会社の同僚です」
『えっ…あの、私』
「勝手にお父さんの電話に出てしまってすみません。お父さんは僕の家で食事をしてたんですが、少し飲みすぎてしまったみたいで、今寝ているんです」
虎徹の娘は、父に緊急の用事があるのかもしれない。
ヒーローの仕事は時間的に不規則だ。彼女は、父と定期的に電話できないのかもしれない。
めったに繋がらない電話が、ここでやっと繋がったのかもしれないのだ。
だからせめて、虎徹への伝言があるなら聞いてあげたい。
いくらこの少女が「バーナビー」のファンでも、電話越しの声だけで「バーナビー」だと気づかれることはないはずだ。
バーナビーは唇を歪めた。

───みんな、言い訳だ。

虎徹を起こさないのも、電話を切らないのも、善意なんかじゃない。
これは下世話な好奇心だ。
虎徹がヒーローを続ける限り、虎徹がバーナビーの恋人でいてくれる限り、バーナビーがこの少女との会話を許されることはない。
だから、話してみたかったのだ。
虎徹の血を分けた、虎徹の最愛の存在と、少しだけでも。
「お父さん、起こしましょうか?」
起きないような気もするし、起きてほしくない気もするが、彼女への礼儀として、一応は聞いておかねばならない。
『…え…えーと…あの、たぶん起きないと思うから…起こさなくていいです』
「何かお父さんに伝言があるなら伝えますが」
『あの…あの、うーん…』
よほどプライベートな用件なのだろうか。
ひどく困惑している様子の彼女が気の毒になり、バーナビーは電話に出たことをもう一度後悔した。
電話をかけ直すよう、お父さんに伝えますと言いかけたところで、少女が息を飲む音が聞こえた。
出しかけた声をとっさに引っ込め、バーナビーは聴覚に意識を集中させる。
『あの。すみませんけど、お父さんに、『バーナビーの写真集を送って』って伝えてもらえませんか。明日が発売日なんです。私の家の近くではそういうの売ってなくて…すぐ欲しいんです』
針を刺されたように、バーナビーの胸がさらに痛む。
聞いてしまった嬉しさよりも、罪悪感の方がはるかに大きい。
だが、勇気を出して用件を話してくれたこの少女に、恥をかかせてはいけない。
「ヒーロー、好きなんですか。僕も好きなんですよ」
少しでも、これで安心してもらえないだろうか。
大の男がヒーロー好きだなんて、小さな女の子から見たら、おかしいだろうか。
『え。そうなんですか。誰が好きですか?』
ほっとしたような少女の声に、バーナビーも安堵する。
「…僕はワイルドタイガーが好きです」
思わず込めたこの万感の思いは、別に伝わらなくていい。というか、伝わらない方が喜ばしい。
『…男の人は、そうなのかなぁ…スカイハイとかじゃなくて?』
彼女の中で、ワイルドタイガーの評価はかなり低いようだ。
「はい。タイガーはかっこいいですよ」
『そうなんですか…』
「そうなんです」
くすりと思わず笑ってしまう。
そして、言わなくてもいいことを、バーナビーは付け加えてしまう。
「この間も、バーナビーがピンチだった時、タイガーはすぐに駆けつけてましたし」
『あっ…それ、このまえバーナビーが建物の下敷きになった時のこと?』
「ええ」
『あの。それで、バーナビーケガしたでしょう。お見舞いの手紙を送りたいんだけど、送り先がわからなくて。写真集を買えば、送り先とか書いてあるんじゃないかと思って』
「ああ…なるほど」
『お見舞いとかじゃなくても、写真集はずっと欲しかったから、だからすぐにお父さんに買って欲しいんです』
本当に、ガレキに埋まったあの無様な姿が放送されなくてよかった。
バーナビーの胸の芯が、痛みながらほろりと温もる。
中継されなかった「バーナビーの出来事」に、こんなに小さな女の子が、こんなに胸を痛めてくれている。
「バーナビーは大丈夫ですよ。ケガも大したことなかったので、すぐに退院しましたし」
『えっ、そうなんですか!?どうしてそんなことわかるんですか』
「…ネットニュースで読みました」
危ない。
これ以上、ヒーロー事情を話すのは危険だ。
『よかったぁ…病院にお見舞いなんて行けないし、どうしようかと思ってたんです』
会えるものならこの少女に会ってみたい。そして、直接お礼を言いたい。
つまらない願望など口に出してはいけないと思うのに、少女が想像以上に一途で心優しいことが嬉しくて、バーナビーの口は滑り続ける。
「行ったら案外、会えるかもしれませんよ」
『ふふ。お見舞いなんかホントに行ったら、迷惑なだけですきっと』
彼女はすでに、分別というものをちゃんと身につけている。
子供だましを口にしてしまったことを、バーナビーは黙って恥じた。
『それに…私病院キライだから行きたくないです。あ。でもバーナビーがほんとに会ってくれるなら関係ないけど』
「病院、嫌いなんですか」
『あ。はい。いろいろ思い出しちゃうから』
「注射が痛かったとか?」
『お母さんが入院してたこと思い出すからイヤなんです』
かち、と。
小さな小さな、誰にも聞こえない音を立てて、バーナビーの脳内で何かがずれ動き、元の場所におさまった。
急激に苦さを増す後悔の中で、バーナビーの唇が、すいと冷える。
「……そう、ですか…」
もう何も言ってはいけない。
バーナビーの本能は、唐突に判断する。
もう、この少女に何も質問してはいけない。
「大変だったね」とも「よくわかります」とも、この少女に言ってはいけないのだ。
「すみませんでした。長々と話してしまって」
ここで謝ることも良くないとわかっているが、どうしてもこれ以外の言葉が思いつかない。
「そうしたら、明日の朝一番に、こて…カブラギさんに写真集のこと伝えておきますね。他に何か、お父さんに伝えることはありますか?」
強引すぎる話の転換だが、本当に本当に、どうしても言葉が思いつかない。
『いいえ』
「わかりました。それじゃ、失礼します。お話ししてくれて、…ありがとうございました」
『はい。ありがとうございました』
電話を握る指が、汗びっしょりになっている。
力が入りすぎて動かしづらい指で、バーナビーはなんとか通話ボタンを押して電話を切った。
切るやいなや、バーナビーの脳内に、ありとあらゆる種類の後悔が降り注ぐ。

───よけいなことをしてしまった。
───しゃべりすぎた。
───しゃべりすぎたくせに、彼女に名前を名乗るのを忘れた。

だが、本名など名乗れないのだから、これは結果オーライと言うべきか。
彼女の伝言を虎徹に伝えれば、虎徹はなぜ俺を起こさなかったのかと、間違いなく激怒するだろう。
電話を尻に差したまま寝ている方が悪いのだと反論はできるが、よけいなことをべらべらと虎徹の娘にしゃべってしまったバーナビーの過失もかなりのものだ。
しかし。
その絶大な過失の中には、宝石のような、謎解きの答えが輝いている。

───『私、病院キライだから行きたくないです』。

積もる違和感の答えは、これだったのだ。
病院が嫌いだから、病院に行くと亡妻を思い出すから、虎徹はバーナビーの見舞いに来なかったのだ。
虎徹と、虎徹の娘の考え方が同じはずはない。
だがなぜか、バーナビーには合点がいった。
この答えは、バーナビーの推測にすぎない。そして、それはバーナビーの中で永久に推測にしておかねばならないものだ。
「友恵さん」の最期がどんな様子だったのか、バーナビーには想像もつかないし、虎徹も話してくれたことはない。
それでも、少し考えれば見えてくるものがある。
勤務時間の不規則なヒーロー業を続けながら、虎徹が「友恵さん」を看病することは、ほとんど不可能だったのではないか。

───下手をすれば虎徹さんは、彼女の最期さえ看取れなかったんじゃないか。

さよならも言えず。
愛しているとも言えず。
彼女の身体の、最後の温かみに口付けることもできなかったんじゃないか。
最後のキスを、本当の「最後」にすることができなかったんじゃないか。
だから、いつも。
終業後の別れ際も。
出動中の現場でも。
これが最後になるかもしれないといつも脅えながら、虎徹さんは僕にキスをしてくれていたのかもしれない。
考えすぎだと言われれば、それまでだ。
それでも。
思考の途中で急に目頭が痛み、バーナビーは虎徹の電話をそっと手放して、痛むそこを指で押さえた。

───僕がここで泣いたって、虎徹さんの悲しみはなくならない。

なのに、身体の奥底から、焼けつくような痛みが噴き上げてきて、それが目頭で暴発している。
痛くて苦しくて。
そして昏倒しそうなほど、いとおしい。
こぼれかけた不要な涙を、指先で涙腺に押し戻し、バーナビーはめくり上げた毛布を虎徹にかけ直した。
通話の終わった電話を枕の下に押し込み、ヒナを雨から守る親鳥のように、毛布ごと、眠る虎徹を抱きしめた。
抱きしめることしか、できなかった。


***

だだっ広い寝室に射し込む朝日がまぶしい。
二日酔いの頭痛の大海に沈みながら、虎徹は薄目を開けた。
そのまぶしい光の中で、起床の挨拶もそこそこに、バーナビーは大きくて平べったい紙袋を差し出してきた。
「お詫びです」
「ふへ?」
何もかもいきなりすぎて、寝起きの虎徹の口からは破れた風船のような声しか出ない。
「何コレ?」
「今日発売の、僕の写真集です。娘さんに送ってあげてください」
「どしたの突然」
「昨日虎徹さんが寝ていた間、娘さんから、この写真集が欲しいと電話がありました」
「えええっ!?なんで起こしてくんなかったのおまえ」
「すみません」
「まさか、おまえ楓の電話に出たの?」
「はい。でも、」
「でも何だ!」
「僕がヒーローだとは名乗ってません。お父さんの会社の同僚、とだけ言っておいたので、僕とあなたがヒーローだということはバレてません」
「……マジで?マジで楓気づいてなかったの?」
「はい。たぶん」
「…ぅあー。一気に目ぇ覚めちまったわ…」
寝乱れてしわだらけのシーツの上に、頭を抱えたまま虎徹はスローモーションで倒れ込んだ。
「本当に。すみませんでした」
頭を抱えたまま、虎徹はチラリと視線だけを上げる。
写真集の入った紙袋を律義に両手で持ち、バーナビーは見るも無残にしおれている。冷蔵庫に半月放置したホウレンソウのように。
「ソレ。写真集?おまえわざわざ買ってきたの?」
「はい。さっき近くのコンビニで。娘さん宛てにサインもしておきました」
「サインってなぁ…それこそどーやって楓に説明すんだよもー…」
「発売記念のサイン会が、今日実施されることになってます。そこで『バーナビー』にサインしてもらった、と娘さんには説明してください。そうすればあなたの職業は娘さんにはバレないと思います」
「あ…そう…」
ごろりと寝がえりをうち、虎徹はバーナビーに背を向けたが、かえっていたたまれなくなり、再び半回転して飛び起きる。
飛び起きて、ため息をついてやって、ベッドの上であぐらをかいて、できるだけ横柄に、差し出された紙袋に手を伸ばしてやる。
見上げたバーナビーの目は、眼鏡の奥で少し赤くなっていた。
退院したばかりなのに、このウサギはまた夜更かしでもしていたのだろうか。
その血色を少し不審に思いながら、にんまりと、紙袋を受け取ってやる。
「…ありがとな。バニー」
ウサギの赤い目が、なぜか泣き出しそうに歪められた。
「どしたよ?楓にバレてなきゃ、もーいいんだからさ?」
赤いブーツを履いた長い足が、虎徹の目前でふいと折られる。
姫にかしずく王子のように、バーナビーはベッドに座る虎徹の前で、ひざまずいた。
「ほゎっ、何?」
「キスしていいですか」
唐突な問いに、あぐらをかいたままひっくり返りそうになる。
「うん?…い、いーよ?」
応えたとたんに抱きしめられ、胸に抱えた写真集の袋が、パリパリと音を立てた。
いつもの、バーナビーの香水が鼻腔いっぱいに広がる。
朝からぬかりのないことだ。
いつもこのウサギの言動は読めない。
でも。
いや、だから、こうしていつまでも、甘く驚かせてほしい。
生涯口に出すことのないだろう、気恥ずかしすぎる願望を、虎徹はとっさに腹の底に押し込めた。
押し込めて、もう一度バーナビーの腫れた目を見つめ直した。
今日最初のキスを受けるために。




腕の中の虎徹が身じろいだので、バーナビーは抱きしめる力をゆるめた。
写真集を胸に抱きしめて、どこか恨みがましく、でも不思議そうに、ベッドの上の虎徹はバーナビーを見つめている。
このキスは最後じゃない。
朝も昼も夕方も、明日も明後日も十年後も、最後にするつもりはない。

───最後じゃないけれど。

人生での最後のキスを恐れながら、そしてそれを考えるまいと努力しながら、今日この時の、この朝の最後のキスを、バーナビーはそっと虎徹の唇に捧げた。