空虚な二つの絶対条件



「僕と結婚してください」
その日、便秘でもしているのかと思うほど顔色のすぐれなかったバーナビーは、大きなバースデーケーキの前で、敢然と言い放った。
「ほぇっ?」
そのバースデーケーキを今まさに切り分けんと、ケーキナイフを軽く振りかぶったままの姿勢で、虎徹は硬直する。
返答とも悲鳴ともつかないおかしな音声を口から発してしまったが、それをフォローする思考能力も、虎徹の口から一緒にこぼれてしまっていた。
ソファの隣りに座っているバーナビーは微動だにしない。

───ヘビににらまれたカエルってやっぱこんな気分なんだろか。

バーナビーに知られたら確実に絶縁されるだろう感想をあわてて脳内から消し、虎徹は急に重さが増したケーキナイフを、ゆっくりと皿の上に寝かせた。
今は深夜だ。
バーナビーの二十七回目の誕生日は、あと三十分ほどで終わってしまう。
誕生日の祝いは何がいいかと虎徹が訊くと、バーナビーはいつも、虎徹の家で虎徹の気配を感じていられれば何もいらないと言った。
いくらなんでもそれでは特別感がないので、虎徹は今年も「いかにも誕生日」なケーキを用意した。
今日は午後遅くに出動があり、ハロウィンの悪ふざけが過ぎたNEXTを二、三人ポリスに引き渡すだけで済んだものの、予約していたケーキを店まで引き取りに行くのが遅れに遅れ、冷や汗をかいた。
出動の後処理でロイズに引きとめられていたところをバーナビーがかばってくれなかったら、ケーキ屋の閉店時間には到底間に合わなかったところだった。
虎徹の代わりにロイズに引きとめられたバーナビーは、なかなか帰ってこなかった。
そして、便秘を我慢しているような顔でバーナビーが虎徹の家に現れた時には、すでに「今日」はあと一時間ほどしか残っていなかったのだ。

───「便秘」の原因は…コレか。

コレを言うために、バーナビーは今日ずっと、妙な雰囲気を漂わせていたのか。
ソファに座って心なしか前のめりになり、自分の腿の上で自分のこぶしをぶるぶると握りしめ、大変な真剣さでこちらをにらみつけてくるヘビ…ではなく、大変な真剣さでかわいらしくこちらをにらみつけてくるウサギからどうにかこうにか目を逸らし、虎徹は皿の上に横たわるケーキナイフを見つめた。
「………ダメですか?」
さらにもう数センチ、バーナビーが前のめりになる気配を視界の端に感じる。
「や、その…イエスとかノーとか、そういうモンダイじゃなくって、さ」
バーナビーと、お互いの家を行き来し、食事を共にし、ベッドも共にする関係になってから、まだ一年もたっていない。
「急すぎたのは、わかってます。今まであなたがそういうことを考えたことがなかったんだったら、これを機会に、あの、考えてみてもらえませんか」
「ど…どしたの、バニー?なんかあったの?」
「…やっぱり…ダメですか?ダメなら、その…あの、ダメでも、僕はあなたと別れたくないです。あなたがそう言うなら、このままの関係でも、僕は」
「だっから。イエスとかノーとかじゃないって言ってるだろ?」
「じゃあ、どういう…」
「今はこれでいいとして。五年先、十年先のこと、俺だって考えたことが無ぇわけじゃねぇよ。…でも」
「でも?」
また前のめりになるバーナビーが本当に怖い。
こいつは実はウサギの皮をかぶったヘビなのかと思ってしまうくらいに怖い。
「でもな、け、結婚、つぅのは」
その単語をバーナビーの前で発音するのが意味もなく恥ずかしくて、思わずどもる。
どもったことがまた倍に恥ずかしく、虎徹の中で何かが切れた。
「だぁっ、もう!!わかった考える!!考えるから、あー、返事は、」
「待ちます。いつまででも」
切れた感情のしっぽが、また切れる。
「バッカやろぉぉ!そんなこと言ってたら、おまえも俺もすーぐジジイになっちまうんだよっ!いいか覚えとけ、こういうのはな、期限切るのが大事なんだよ!期限は…えーとえーと、次の俺の誕生日…じゃ遅すぎる、えーとそんじゃ、期限はクリスマス!再来月の二十五日だ!わかったらもーケーキ食え!今食え!すぐ食え!」
まるで自分が結婚を迫っているかのような勢いで虎徹は叫び、目前のケーキナイフを乱暴に握り取った。

クリーム満載のバースデーケーキは、どことなくしょっぱかった。
生まれて初めて感じる味覚に、虎徹の目の中まで、あやうくしょっぱく濡れるところだった。



***

期限を切って、虎徹はどうするつもりなのだろう。
自室のリビングの椅子に身体を投げ出したまま、バーナビーは喉を逸らして天井を眺めた。
ぼんやり見ていたテレビのニュースも、もう内容が頭に入ってこない。
しかし、テレビを消すためにリモコンに手を伸ばす、その動作さえも面倒くさくてたまらない。
虎徹に決死のプロポーズをしてから、一週間経った。
何をしていても、真から集中できない。
仕事中はさすがにそんなことは言っていられないが、無理やりに集中したその仕事が終わった後は、とにかくだるくてたまらない。
虎徹がプロポーズの返事をくれない、そんなあたりまえのことが、こんなにも気になり、こんなにも受け入れられない。
振られる覚悟はしていた。
虎徹から結婚話を切り出してくれることなど、これからもまずないだろう。
どんなに好きでも、何回ベッドを共にしても、虎徹に娘がいて、虎徹の心の中に亡妻が存在する事実は変わらない。
虎徹の人生で今一番重要なのは、亡妻との間に生まれた娘を守り、育てることなのだ。
一回りも年の離れた、しかも男といちゃつく時間など、本当はないはずなのだ。結婚など、言語道断である。
元はゲイでも何でもない虎徹がなぜ「特別なお付き合い」を承諾してくれたのか、バーナビーには未だにわからない。
両親を亡くし、家庭に恵まれなかった自分に同情してくれてのことなのかとも考えたが、このどうしようもない恋愛感情にある程度応えてもらっているのだから、始まりが同情だろうが劣情だろうがもうどうでもいい気もする。いや実際そう思って、この一年近く、バーナビーは虎徹に寄り添い続けた。もとい、至近距離で存在することを許してもらっていた。
それなのに。
それなのに、虎徹はわざわざ、プロポーズを断るために、一ヶ月近くも時間をくれと言うのだ。
あの驚愕と困惑に満ちた顔は、どう見ても、バーナビーの求婚を喜んでいなかった。断るならその場で断ればいいのに、そして、応えられないなら応えられないで、いつまでもバーナビーを待たせておけばいいのに、そんなお茶すら虎徹は濁さない。
バーナビーを傷つけずに、いかに耳ざわり良く断るか、そんなことを考えるために一ヶ月も費やそうというのか。
残酷すぎる。
理解不能だ。
やっぱり、プロポーズなんかするんじゃなかった。
これからもずっと、今まで通り穏やかに、黙って一緒にいればよかったのに。
だいたい、自分の誕生日を祝ってもらうついでにプロポーズ、なんていうのが間違っていたのかもしれない。普通なら、相手の誕生日を祝うついでであるべきだろう。
でも、あの時は、しかたなかったのだ。
どうしてもあの日、バーナビーは、虎徹にプロポーズせずにはいられなかったのだから。
考えてもしかたのないことばかりが脳内に満ち、頭痛がする。
鉛のように重い腕を上げて、バーナビーはサイドテーブルの上のリモコンを握り取った。
ボタンも確認せずに指に力を込めると、チャンネルが次々と切り替わった。
テレビの画面を見ることもなく、一番騒々しい音がするチャンネルで、リモコンから指を離す。
指から滑り落ちたリモコンが、床に落ちてカラリと軽薄な音を立てた。
名前も知らないロックバンドのライブ放送が、大音量でリビングに響き渡る。
その意味不明な音のシャワーを浴びながら、バーナビーは椅子の上でごろりと体勢を変えた。
床に落としたリモコンを拾う気力も、もうなかった。




今年も、墓地にはうっすらと雪が積もっている。
夜の闇の中で、墓石に積もった雪が、ずらりと青白く浮かび上がる。
花束を抱えて、バーナビーは鉄製のゲートをくぐった。
昼間に来ればもっと暖かかったのだろうが、この大事な日に、多くの人目に触れたくはない。二部リーグに移ってからマスコミの取材はがくっと減ったが、それでもバーナビーが顔出しヒーローであることに変わりはない。
ヒーローになってから、バーナビーはいつも、わざと深夜にここを訪れていた。
夜の墓地を、怖いと思ったことなど一度もなかった。
バーナビーが怖かったのは、炎。
それから、両親を亡くした日の記憶と、そのフラッシュバック。
そして今は、別離だ。
虎徹と別れるのが怖い。
自分でまいた種とはいえ、こんなに早く、別離を悲しまねばならない日が来るとは思っていなかった。
幼稚で、一方的で、ドリーム満載だと誰にだって笑われるだろう願望だが、できればその別離は、数十年先のことであってほしかった。
クリスマスは───虎徹がプロポーズの返事をしてくれる日は───明日だ。

───明日。僕は、振られる。

虎徹に振られて、バーナビーはひとりになる。
ほんの数年前まで、誰と居るよりもひとりが好きだったのに、ひとりで生きているのが楽だったのに、今のバーナビーには、「楽」というその感覚がもう思い出せない。
見覚えのある墓石の前を次々と通り過ぎて、いつもの、両親の居場所を、バーナビーは通路の遠くから確認する。
白い雪のベールが、そこだけ剥がされていた。
そこかしこで、花束の残骸らしきものが雪に覆われているのは見た。だが目視で端から何度数えても、両親の墓石であるそこだけが、頼りない外灯の下、白ではなく、ほのかなオレンジ色に輝いている。
非常に薄く積もる雪を踏み進むと、靴の裏に、枯れきった芝生の感触が伝わった。
バーナビーはようやく立ち止まる。
雪を丁寧に払われたその墓石の前には、オレンジ色のカサブランカが捧げられていた。
数本束ねられたそれは、明らかに、置かれてから数分も経っていない。
今日、この時間にこの場所を訪ねる人間を、バーナビーは自分の他に一人しか知らない。

───ついさっき、虎徹さんが、ここに来た。

ほんの数分前に虎徹はここに来て、この花を置いて、バーナビーに会わずに帰って行った。
一人分の足跡が、バーナビーとは反対方向からやって来て、戻っている。
この広大な墓地の出入り口は一つではない。別のゲートから入ってきたのなら、すれ違ってあたりまえだろう。
去年は、二人一緒にここに来た。
今年のバーナビーは虎徹を誘う勇気もなく、虎徹もまた、バーナビーに墓参りをもちかけなかった。
なぜ、と思うより先に、絶望で胸も脳も張り裂けそうだ。
虎徹に振られる。
こんなにはっきりと、虎徹はバーナビーを避けている。
知らずに力のこもった腕の中で、花束をゆるく巻いた包装紙が、はら、と音を立てる。
その音にふと気づき、バーナビーは壊れかかったロボットのような動きで、花束を墓石に捧げた。
カサブランカの隣りに、ピンクのシンビジューム。
そっと並べたそこだけが、雪の中で熱を持ったように暖かく輝いた。
バーナビーは立ち尽くす。
「……こんなこと言うのは…神様にそむくことだと思うけど」
暖かく墓石を彩る花を見つめながら唇を開くと、剥き出してもいない歯茎にまで冷気が染みた。
「…父さんたちは、どんなにか生きたかっただろうと思うけど。それでも、父さんと母さんは、同じ日に神様に召されて。僕は、それが今、うらやましい」
口に出せばもっと罪が重くなるのに、我慢ができない。
この恐怖を、誰かに聞いて欲しかった。
「ほんとに…こんなこと、考えてるから。だから僕は、明日、罰を受けるんだ」

───あさってから。

明後日からどうしたらいいか、わからない。
ひとりで、ひとりきりの家に帰って、ひとりで食事して、ひとりで仕事に行って…その繰り返しを、死ぬまでやらなくちゃいけないなんて、怖くて、怖くて、しかたない。

───どうしたらいいのかわからないんだ。

僕と別れても虎徹さんは生きていてくれるのに、そんなことも、ちっとも喜べないんだ。
怖い。
明日なんか、永遠に来なきゃいい。
父さん。母さん。助けてください。助けて。
最後の懇願はさすがに口に出せず、バーナビーは奥歯を噛みしめた。

「罰ってなんだ?」

背後から声が飛ぶ。
涙が出そうに聞き慣れたその声に、バーナビーは真からすくみ上がる。
墓場のゾンビに会った方がまだマシだったかもしれない。
覚悟も決まらないまま、ゾンビ以上に恐ろしいその人物の方へ、振り向く。
「な、んで、ここに?」
「なんでって、今日はおまえの大事な日だろ」
「そうですけど。あなた、帰ったんじゃなかったんですか」
「ああ、帰ろうと思ったけど。車の窓からおまえの車が止まってんの見えたから、戻ってきた」
背後遠くから、虎徹が歩いてくる。
ゾンビに足首でも捕われたかのように、バーナビーは動けない。
手を伸ばして、届くか届かないかという微妙な距離を残して、虎徹は立ち止まった。
「…俺。やっぱ、ジャマだったか?」
「ど、うして?」
「墓参り、誘ってくんなかったからさ」
「邪魔なんて、そんな」
「じゃあなんで誘ってくんなかったの?今年」
「それは」
「俺がおまえにアレの返事しねーから、気まずかった?もうアイソが尽きた?」
虎徹の唇から白い吐息が漏れる。
薄い水蒸気の白煙が、虎徹の顔を柔らかく覆い、すぐに消える。
予想外の質問に、バーナビーは返事ができない。
気まずかったのは本当だ。
だがそれは、アイソが尽きたとかそんなことでは全然なくて。
「でも、約束は約束だからな。おまえの中でもう答えは出てても、アレの返事、今ちゃんとするわ。一日早いけど」
「え」
まだだ。
聞きたくて聞きたくなくてしかたがなかった答えだけれど、まだ倒れない準備も泣かない準備もできてないのにそれはまだ何時間か後のことだったはずなのに。
だからまだなのに。
「う、あ、その、」
勝手に口がパクパクして、我ながら断末魔の熱帯魚だ。
バーナビーが満足に声を出せないうちに、虎徹は瞬間伏せた目を、きっ、とこちらに向けた。
無音の悲鳴のようなバーナビーの吐息を聞いても、彼はひるまない。
「結婚…しよう。バーナビー」
久しぶりにニックネームでない名前を呼ばれて、さっきよりももっと、バーナビーはすくみ上がる。
「ただし」
淡い外灯の光を吸って、虎徹の瞳がゆるく輝く。
輝いているのに、その瞳はたまらなく頼りなくて、たまらなく苦しげだった。
「ただし。結婚するのに、条件が二つある」
「は、…い」
条件。
条件。
条件。
それがいったい何なのか尋ねるのも怖すぎて、バーナビーはイエス、としか口に出せない。
「…1コめは、」
この人の声は、なんて低くて、なんて頼りなくて、なんて優しくて、なんて恐ろしいんだろう。
「おまえは俺より必ず長生きすること」
すくみ上がったバーナビーの身体の中で、形のない何かが、ほろりと緊張して、緊張しすぎて、こぼれた。
「2コめは。俺が死んだ後、おまえは必ず次の相手を見つけること」
「……そ、んな…」
「反論はいっさい聞かねぇ。この二つをおまえが納得できないなら、俺はおまえと結婚しねぇ」

───条件?それが?

条件と名付けるには不確実すぎる。
未来のことなど誰にもわからない。
虎徹は自分が先に死ぬと決めつけているが、バーナビーが先立たないという保証は、運命論に限って言うなら、ゼロだ。
そして、数学的確率論で言うなら、50パーセントだ。
ただ、その運命論と数学的確率論に、生命学的予測を加えると、話はややこしくなる。いや逆にシンプルになると言うべきか。バーナビーより十数歳年上の虎徹が先立つ可能性がはね上がるのだから。
とにかく。
ややこしかろうとシンプルだろうと、そんな、条件というにはあまりにも確定性のないものを納得しろと言って、虎徹は大真面目にこちらを見つめている。
「……納得、できねぇか?」
虎徹の唇から、白い吐息がひとつ、立ち上る。
このうえもなく優しい声音と一緒に。

───待って、いるんですか?

この人は、僕が「納得できない」と言うのを待っているのだろうか。
こんなに優しい声で、「条件」を受け入れるなと、僕に言うのか。
この人は全部わかっている。
この「条件」のばかばかしさも、不確実性も、全部。
そのばかばかしさのせいで、僕が離れていってもかまわないと、離れてくれたほうがいいと、本気で思っているのか。
ばかばかしくて不確実で───文字通り命をかけるほどに切実な、あなたの条件を、僕が受け入れるはずなどないと、勝手にあきらめているのか。
「…わかりました。結婚してください」
ここで激昂すれば、虎徹は確実に離れてゆく。
静かで優しすぎる虎徹の目を、バーナビーは懸命に見返した。
とにかく気を鎮めて、この人と話をしなければいけない。
「ウソだな」
なのにこの人は、優しい目のままで、不信を口にする。
「ウソって、」
「ウソだよ。おまえのその顔は、納得してない顔だ」
優しい声。
優しい目。

───もう、くそくらえだ。

今までの人生で、数度しか口にしたことのない最低ランクの罵倒の言葉が、バーナビーの頭の中で爆発した。
「じゃあ、どうしろっていうんですかっっ!!」
自分でも頭痛がするような、大声が出てしまう。
「そんなに僕と別れたいなら、まどろっこしいことしないでくださいよ!別れてくれってひとこと言えばいいんですよっ!なのに…あなたはっ、」
焼けつく喉に涙がこみ上げ、バーナビーは喉を押さえた。
押さえても押さえても、爆発したものは元に戻らない。
「…ええ、本当は納得なんかしてませんよ。長生きするのはともかく、次の相手なんて、探す想像もしたくありません。あなたの代わりはいない。地球上のどこを探したって、あなたはあなただけだ。あなただけが好きだっていうのが、そんなに悪いことなんですか?」
泣いてはいけない。
興奮してはいけない。
理性を手放してはいけない。
もうこれ以上絶対に声を荒げてはいけないと思うのに、バーナビーの語尾は嫌な感じに震え、身体から勝手にあふれてくる吐息が、今にも怒声に戻りそうだ。
バーナビーが再度喉元を押さえると。
半径数十メートルをも震わせるような、咆哮が降ってきた。
「ああ、悪ぃよっっ!!」
野生の虎の咆え声など聞いたこともないが、虎徹のその声は、まさに咆哮としか言いようがなかった。
今までどんなに怒鳴っても、虎徹はこんな声を出したことはなかった。
凍りついたように、自分の喉に爪を立てたまま、バーナビーは虎徹を見つめる。
虎徹の唇から、言葉と一緒に、また白い息が漏れる。
「一人で生き残っちまって、ぽかーんとしたまま葬式やって、メシ食っても何の味もしねぇ、どんな音も風景も映像もアタマ素通りしてって、自分がどこにいんのかもわからねぇ、ここがあの世かこの世かもわからねぇ、空っぽで空っぽでからっぽな、あんな!」
涙が絡んだような、唾を飲み。
「あんな…あんな思いをおまえにさせるぐらいなら、俺は、一生おまえと結婚なんかしねぇっ!!」
声を地面に叩きつけ、顔を伏せる。
全力疾走してきたかのように、虎徹は上体をかがめ、肩を上下させた。

───一ヶ月。

虎徹はこれをバーナビーに言うために、一ヶ月を要したのだろう。
全力疾走に匹敵するほどの体力と精神力を使うことを予測して、心の準備をしていたのだ。
「……僕は」
安心でも悲しみでもない、暑苦しくて冷えたような、喉元から飲み込むのも難しかった、複雑怪奇な感情が、バーナビーの身体の底に、ゆっくりと着地する。
「僕は虎徹さんがいなくなったら、泣いて泣いて、立ち上がれなくなります」
「死」という言葉は、今はどうしても使えない。

───こてつさんがしんだら、と口にする勇気すら、僕にはない。

僕はあなたとの別離を恐れていたけれど、あなたはもっと深いところで、僕との別離を恐れていた。
考えてみれば、あたりまえのことだったのに。
「だから!あん時あの条件にイエスって言っときゃよかったって、何十年かたったらおまえ、絶対思うんだよ!だから俺が生きてるうちにイエスって言っとけ!死人にイエスって言っても何の約束にもなんねぇんだよ!手遅れなんだよ!!だからっ!」
僕はそんなあたりまえのことさえ想像がつかなくて、うじうじうじうじと、自分の悲しみばかり考えて。
「だから今言え。僕はコテツさんが死んでもモテる努力をして彼氏でも彼女でもすぐに見つけて必ずいつまでも楽しく暮らします、って言え!!今すぐ言えっ!!」
これは、祈りなのだ。
罵倒のようにこの人の口からあふれてくるこれは、条件であって条件でない、この人の祈り。
ただただ僕の幸福だけを祈って、祈りすぎて、自分の後悔さえもついでに背負って、この人は自分の幸福が見えなくなっている。
それなら。

───それなら僕も、祈るだけだ。

「でも僕は、生きますよ。今日のあなたのこと、思い出しながら」

口に出すと、上体をかがめていた虎徹が、はっとこちらに顔を向けた。
たまらず、バーナビーは一歩を踏み出す。
薄い雪と、枯れた芝生を一足ごとに踏み固めて、数十メートルにも思えた数歩の距離を歩いて、虎徹の肩を捕まえる。
真冬に着るにしては薄い、そのジャケットの肩から背中に手を回し、力の限り抱きしめる。
抱きしめて、虎徹が腕を回してきてくれるのを、心臓が縮む思いで待った。
待つだけなのが恐ろしくて、饒舌を装う。
「…それから僕は、モテる努力なんかしません。だってそんなことしなくても、僕はモテますから」
腕の中のジャケットが、もぞもぞと身じろいだ。
「あのな。おまえが今、どんなにイケメンだったとしても、五十年経ちゃ立派なじーさんなんだぞ?わかってんのか?」
虎徹の声はくぐもっている。
「大丈夫です。今から美老年を目指せば間に合います。素材が極上なんですから、そんなに難しくはないはずです」
「……よくジブンのこと、そんなふうに言えるな……ダメな方の意味で感心するわ…」
くぐもった虎徹の声は、バーナビーの肩口で湿って、崩れた。
「僕に美老年を目指させたいのかさせたくないのかどっちなんです」
崩れた虎徹の声は、湿って震える吐息になり、小さな小さな嗚咽になった。
脇から背中に、虎徹の腕が触れてくるのを感じて、バーナビーも、嗚咽に似たものをこらえた。
「あなたが、いつか、僕…のそばからいなくなった、としても」
未来を約束することは、虚しい。
この世に存在する約束は、すべて空約束であるのかもしれない。
だから、祈る。
渾身の力で、僕は僕の魂と人生をかけて、祈る。
「でも、僕もいずれ、必ず行きますよ。あなたのところへ。それはもう決まっていることで、何も心配することなんかないんです。天国とこちらとで離れている時間は、短い方がいいに決まっていますけど…何年だろうと、何十年だろうと、最終的に、僕はあなたのところへ行くんです。僕が行く場所は、帰る場所は、いつも絶対に、あなたです」
虎徹の腕の震えが増した。
しかし、彼の手のひらはバーナビーの背中にしがみついたまま、力をゆるめようとしない。
「絶対なんて…そんな言葉、安直に使うんじゃねぇよ」
「はい。そうですね」
「そんなあっさり…コーテイもすんな」
「はい」
「はいはいって、おまえ、真面目にきーてんのかっ」
背中に伝わる虎徹の握力が嬉しくて、こちらまで涙が出そうだ。
「聞いてます。だから結婚してください」
「………」
「OKなら、キスしてくれませんか」
「…俺、いま、汚ぇもん…」
「ハンカチ、ありますよ。でもその前に」
虎徹の涙さえこの身体に取り込みたい。
ぐしゃぐしゃに濡れた彼のまぶたに二度、バーナビーは口づける。
三度目の直前に、涙と同じ香りのする虎徹の唇が、そっと近づいてきた。




「…それで。さっき言ってた罰ってなんだ」
「帰宅してからお答えします。ここは寒すぎますから」
二人分の足跡しかない雪の上で、空虚な二つの条件は受諾された。
卑怯だったかもしれない。
降る罰は、もっと重くなったかもしれない。
それでも、先日のロイズの話を───まさに青天も霹靂するような、バディ解消の予告を───虎徹に話すのは、まだもう少し先にしようと、バーナビーは思った。


今も、明日も、あさっても、あなたのすべてを祈っている。
それだけは絶対だから。