カノン



酔っていたので、何がどうしてそうなったのか、バーナビーもよく覚えていない。
午後の出動でありえないほどに見事な連係プレーが決まり、久々に高ポイントをゲットした流れで、その日は虎徹と飲むことになったのだった。
一軒目の店を出てからなぜか、バーナビー宅で酒盛りを続けることになった。
買い置きのチーズとワインは確実に減り続け、終電の時間も過ぎ、そろそろ客用の毛布を引っ張り出して虎徹をベッドに放り込めないものかとバーナビーが考えていたところで、当の虎徹が呂律もあやしく尋ねてきた。
「んで?バニーひゃんのバイオリン、見して見して!なんか弾いてくれよ」
お互いの、子供の頃の思い出をなんとなく虎徹と話していたのだと思う。
「もう夜中ですよ。近所迷惑です」
「ここ、防音完璧なんじゃねーの?」
「バイオリンの生音って、意外に大きいんですよ。いくらこの部屋が防音仕様だったとしても、専門の練習室の防音にはかなわないです。お隣や階下には聞こえますたぶん」
「じゃあ部屋の真ん中でちっちゃい音で、そーっと弾いて?」
「エチュードもうろ覚えなんですよ。まともな演奏にはならないです」
「エチューだかシチューだか知らないけど。なんでもいいから俺はバニーひゃんがバイオリン弾いてるとこが見たいの!」
ぐいと立ち上がり、中身の残ったワイングラスをぺん、とサイドテーブルに置いて、虎徹はすたすたとリビングを出て行こうとする。
「どこ行くんですか」
「バイオリン探しに行く。ばにーひゃんが出してくんないなら俺が出す」
「やめてください!わかりましたよもぉ、今探してきますからおとなしく待っててください!」
酔っ払いの要求ほど手におえないものはなかった。




もともと荷物の少ないクローゼットだった。
すぐにバーナビーはバイオリンケースを探し出し、リビングに戻る。
ケースを開けてみると、弾かなくなって十年近くが過ぎているにもかかわらず、奇跡的に弦は切れていなかった。
「おお~…バイオリンだぁ…」
完全に出来上がっている虎徹が、バイオリンのボディの曲線を、ちょんちょんと指先でつつく。
弓に松脂を塗りながら、バーナビーはバイオリンケースの前に楽しげにうずくまっている虎徹を見下ろした。
酒で赤くなった顔をくいと持ち上げ、やはり楽しげに、虎徹はバーナビーを見上げてくる。
「あのさ。ちょっとオゲヒンなこと訊いていい?」
「お下品の程度によっては答えかねますが」
古くなって乾燥しすぎた松脂が、バイオリンの弓毛を真っ白に染める。
「あのさー。このバイオリン、いくらぐらいすんの?」
「さあ。僕も知らないです」
「バイオリンてさ、たっかいんだろ。ナントカカントカいう名前の古いやつが、何十万ドルもするってテレビで見たことあるしさー」
「さすがにそんな、有名な職人の作じゃないと思いますが」
「いやー、バニーちゃんの両親ならバニーちゃんのために買ってくれたんじゃないの?」
「まあ子供の頃からコレの値段は正確には教えてもらえませんでしたけど…大人になってからネットで同じ銘を検索したら、時価で二万ドルでした」
「うおおお…にまん…にまんどるか…くそぉぉぉ~」
何が悔しいのかさっぱりわからないが、猫のように床にぱたぱたと転がりながら悔しがっている虎徹は、悔しがっているのにただただ楽しそうだった。
思わず笑みながら、バーナビーは指についた松脂の粉をもう片手で払い落とした。
両親に買ってもらった子供用のバイオリンは、あの火事で燃えてしまっていた。
今バーナビーが手にしているこれは、バーナビーが十二歳になった時に、マーべリックが買い替えてくれたものだった。
子供の体格が大きくなるのにしたがって、バイオリンも大きなものに取り換えなければならないことを、虎徹は知らないのだろう。
虎徹の言う「古くて高いバイオリン」は、個人で所有できるような値段ですらない。あれは、資産家団体が所有しているものを、有望な演奏家がレンタルして弾かせてもらうものだ。
虎徹にはそういう事情をすべて黙っていようと、バーナビーは思った。
虎徹が今楽しんでくれているなら、面倒くさい事情などもうどうでもよかった。
長い時間をかけて弦のチューニングを終え、バーナビーは弓を構えた。
「よっ!待ってましたぁ!!」
バイオリンケースのそばでちんまりとあぐらをかき、虎徹がぱちぱちと拍手する。
数秒考えて、バーナビーは弾き始めた。
楽譜もなしに、とっさに思い出せる練習曲はこれしかなかった。
「あー!この曲知ってるぞ!俺んちの風呂タイマーのお知らせミュージックだわ!」
酒でうっすらと充血した目を、丸くきらめかせて、虎徹はまたハタハタと拍手する。
飛びぬけてバイオリンを弾くのが好き、というわけではなかったが、単調な音階練習を繰り返していると、他のことを考えなくてよくなるので、バーナビーはバイオリンを一人で練習することが嫌いではなかった。
弾いている間は、両親のことも、ウロボロスのことも、考えずにすんだ。
バーナビーの記憶にないほど幼い頃から、音楽好きの両親に習わされていたバイオリンは、そんな形でバーナビーの精神を救ってくれた。
残念ながら、ハイスクールに入学した後は、勉強とウロボロスの情報集めに時間を取られて、練習にまで気が回らなくなったのだけども。

それでも、弾いていると、どうしても思い出してしまう。

───上手になったね。

───趣味を持つのは、いいことだよ。バイオリンを続けてみなさい。

───背が伸びたね。バーナビー、バイオリンを買い替えよう。

───お金のことは気にしなくていい。私は、君のためにお金を使えることが、とても嬉しいんだ。

彼のすべてが嘘だったとは、やはり思いたくない。
脳が焼け切れそうな怒りの後に残ったのは、深い疑問だった。
なぜ。
どうして。
僕の両親を。
問うても問うても終わらないこの疑問に、息の根も止められそうだ。
「…んで、バニーひゃん。これは、……なんていう曲?」
はっと我に返り、バーナビーはバイオリンから弓を下ろした。
虎徹はとうとうバイオリンケースの傍らに寝転がり、片手で頬杖をついている。
「カノンです」
「んぁ?」
「パッヘルベルのカノンという曲です」
「へ?晩に腹減るカノン?」
「まあそんな感じの曲です」
聞き違いを笑って許せるほどには、バーナビーも酔っていた。
「ちゃんと知らねぇけど、イイ曲だなぁ。もっと…弾いて、くれ…」
イイ曲だと言いながら、最低にだらしない姿勢でもう眠りかかっている虎徹を、怒る気にもなれない。
「弾いて~。な、バニー…」
下ろしていた弓を、バーナビーはもう一度構える。
構えたとたんに腹の力が抜け、キュウとそこが鳴った。
とろけそうな顔で、虎徹が寝たまま笑い転げる。
「チーズ、あなたがほとんど食べちゃったからですよ。僕は全然食べられなかった」
「太るの、ヤだから…控えめに、するっ、て言ったの、おまえじゃーん…」

───ああお腹がすいた。

あなたの楽しそうなしぐさも、幸福そうな笑顔も、どうして食べられないんだろう。
それを食べることができたら、僕は。
ふと、先刻の虎徹よりもはるかにお下品な妄想が浮かび、あわててバーナビーは弓を構え直した。
大きく息を吸って、弾き始める。

あなたがいれば。
あなたがいれば、僕は呼吸ができる。

子供用に編曲されたカノンは、せわしなく音階を変えながら、小さな音符がころころと転がるようなメロディが美しい。
ころころと転がって、そのすぐ後は波のように悠々としたメロディに切り替わる。
ひたすら、その切り替わりの繰り返しだった。
バーナビーが弾いても弾いても、ある地点で記憶違いがあるのか、メロディーは元の場所に戻ってしまって、いつまでもエンドマークに行きつかない。
数分弾いてみて、妙に静かになったことに気づき見下ろすと、虎徹はさっき悔しがってぱたぱたと転がった猫のような姿勢のままで、とうとう眠り込んでいた。

───この時間も、終わらなければいいのに。

大きなリビングの真ん中で、細く長く優しく、そして時々音程を外しながら、バーナビーは、終わりなく腹の減るカノンを弾き続けた。