時間外勤務と有限回廊



唇が、近づいてくる。
ああ、これで忙しかった今日も終わるのだと、少しほっとする。
バーナビーは目を閉じた。
いつも温かくて少し乾いているその唇の感触は、バーナビーの唇の上で、静かに動きを止める。
静止の時間は長くはないが、そのほんの数秒で、これ以上なくいたわられている気がして、ほっとする。

───けれど、このごろ。

この頃、こうしてこの人に抱きしめられていると、安心と同じくらいに、不安のようなものが襲ってくる。

───不自然、だってことは前からわかってるけど。

世間一般に、親子と呼ばれる関係の人間が、こんな朝夕の挨拶を交わさないことは、ずっと前から知っている。それでも、どこか間違っているのだとしても、この行為を誰に告白できなくても、このぬくもりは、バーナビーにとって、必要なものだった。

───わかってるけど、なにか。

胸いっぱいに抱きしめられて、胸いっぱいに嬉しさを吸い込めた、あの幼い頃の記憶は少しも色あせていないのに、何かが、バーナビーの胸の底で、ことり、と不安げに動くのだ。
この人の背丈にとっくに追いついて、こんなに大きくなってしまったこの身体のせいか。
この人の期待に、いつまでも応えられないでいる、罪悪感のせいか。
実の両親以上に、親身になって支えてくれるこの人の全てを、どうして受け入れられないのか、バーナビーにはわからない。
本当なら、個人的な嫌悪感など捨てて、全てをなげうって、この人のために、この人に恩返しするために働かなければならないのに。

───この人が、優しすぎるから、いけないんだ。

優しく唇を割って入ってきた舌は、わずかなコーヒーの香りを、バーナビーの喉に届ける。
その香りにさえ申し訳なく思いながら、バーナビーは脳内で、あてのないやつあたりを始める。

───命令してくれれば、なんだってやるのに。

この人が───マーベリックさんが厳しく命令してくれれば、なんだってやれる気がするのに、この人はいつも、僕の気持ちを察してくれて。

───『君が嫌なら、それでいいんだ』。

そう言って、僕の選んだ道を──マーべリックさんの望むヒーローではなく、ロボット工学者になりたいと言った僕の意志を、尊重してくれる。
もうこの人に甘えたくない。これ以上甘えてしまったら、僕はこの人に、全ての恩を返しきれなくなってしまう。
バーナビーが目の前の肩にすがると、部屋の入口の方から、小さな音が聞こえた。
「……ぁ、ぁのっ…」
顔を小さく振って、侵入していた舌をもぎ離す。
深く湿ってしまったバーナビーの唇のすぐそばで、マーベリックはかすかに首をかしげた。
「どうかしたかい」
「ノックが…誰か来てます」
「大丈夫だよ。返事をしない限り、誰もこの部屋のドアを勝手に開けたりはしないさ」
「でも」
「もう少しだけ、おやすみの挨拶をさせてくれないかな」
「ん、…」
継ぎかけた言葉をさえぎられ、バーナビーは反射的に目を閉じた。
コンコン、コンコン、と切れ目のない音が、社長室の重厚なドアを、穏やかに震わせている。
穏やかだがせわしないその音に集中力を削がれて、バーナビーが薄目を開けた時。
「失礼しまーっ…す、え、あ、おっと」
マーベリックの肩越しに、ドアが開くのが見えた。
とっさにマーベリックの胸を両手で押し返し、数センチほど、バーナビーは飛びすさる。
見覚えのありすぎる無礼な客は、いつものツートンカラーの帽子を胸元に当てたまま、入口で突っ立っている。
「あの、すいません。返事がないもんで、誰もいないのかと思って…」

───見られた。

鏡を見なくても、自分の頬が紅潮してくるのがわかって、バーナビーは飛びすさったその場所で、氷像のように固まる。
見られた。
いいかげんで、礼儀知らずで、なれなれしいこの中年男に、今の、あれを。
「やあ。タイガーくんか。何か急ぎの用でも?」
マーベリックは不気味なほどに落ち着いている。
至近距離のバーナビーの肩を、ぽんと両手で一度だけ叩いて、ドア前の虎徹に向き直るその姿からは、何の羞恥も感じられない。
「いやー、その。バーナビーに用事があって。会社ん中で探してたんですけど、人に聞いたらここだって言われて」
ぐるぐると温度の上がってくる頬をもてあまし、バーナビーは思わずマーベリックと虎徹の会話に割り込んだ。
「何なんですか。もう終業時刻はとっくに過ぎてますよ?」
キイキイと、自分で聞いていても不快な声を、思いきり虎徹に浴びせる。
虎徹の顔など見たくないのに、虎徹の顔から目が離せない。
目を離したら、逸らしたら負けだと、バーナビーは思う。
メカニックなんていう、ほとんど研究職の規定終業時間なんて、あって無いようなものだ。
それでも、沈黙の海に放り込まれたまま動揺に溺れるのが嫌で、バーナビーは言葉を連射する。
「まさか…また、スーツ壊したなんて言うんじゃないでしょうね?」
一番簡単で、一番重大で、一番不愉快な予想を投げかけてやると、なんとも許しがたいことに、とても見覚えのあるしぐさで虎徹はうぐっ、と息を詰まらせた。
「き、気ィつけてはいたんだけどさー。あのスーツ新しいから、ワイヤーモーションが固いみたいで、ヒジの関節叩いたらワイヤー出なくなっちまって」
「自分の不慣れをスーツのせいにしないでください!叩いたって直るわけないでしょう!何世紀も前の電化製品と、あの最新鋭のスーツを一緒にしないでくださいっ!!」
「だから悪かったって。斎藤さんは別の用事で今手が離せないって言ってるし、とにかく、ワイヤー壊れてっと、この先俺のイノチに関わるから、今すぐ調整し直していただけないでしょうかバーナビー先生ほんとにマジで心からすいませんっっ!!」
直立不動の姿勢から、背中が丸見えになるほどに深く頭を下げる虎徹の態度には、相変わらず真剣さというものが足りていない。
次はどうやって罵ってやろうかと、バーナビーが震えるこぶしを握りしめていると、横からぽん、と、もう一度優しく肩を叩かれた。
「まあまあ。バーナビー、落ち着きなさい」
マーベリックはあくまでにこやかだ。
「彼の言う通り、ヒーローの仕事は、常に危険と隣り合わせだからね。その危険を可能な限り減らすために、我が社はヒーロースーツの開発に非常に力を入れている」
「それは、…わかってます、最初から」
叩かれた肩で、バーナビーは息をする。
虎徹のみならず、マーべリックにまでトゲのある物言いをしてしまい、ふと、無意味な興奮が冷めかかった。

───あわててる、場合じゃないんだ。本当は。

ワイヤーモーションが固いのも、叩いたぐらいでワイヤーが射出されなくなるのも、本当はみんな、メカニックであるバーナビーのミスだ。ヒーロースーツは、精密機械であると同時に、過酷な状況に負けない耐久性を備えていなければならない。
どんな時もバーナビーのミスは、バーナビーでなく、ヒーロースーツを着ている虎徹に返ってくるのだ。
だから、ミスなどあってはならないのだ。決して。
黙り込んでしまったバーナビーと、しょんぼり所在なさげな虎徹を交互に見やりながら、マーべリックは笑顔を崩さない。
「ヒーローの危険回避に加えて、あのスーツの性能の高さや、デザインの素晴らしさを市民に見せつけるのも、君の大事な仕事だよ、バーナビー?」
「…は、い」
「現に、スーツを我が社のものにリニューアルしてから、タイガーくんの人気も少しずつアップしているようだし。せっかく良い波が来ているんだ、タイガーくんが出動時にケガをしたり恥をかいたりしないように、もうひと頑張りしてくれないか?」
「………はい」
恥ずかしい。
自分のミスを、すぐに自分で認められなかったことが。
ついさっき、赤面していた時よりももっと恥ずかしい気分で、バーナビーはうつむくしかなかった。




なんとまあ、しおらしい。
社長室を出て、バーナビーと二人でメカニックルームへ戻る道すがら、虎徹はひたすら驚いていた。
バーナビーは黙って、虎徹の二、三歩先を歩いている。
白衣のせいでいつもヒョロ長く見えるその背中が、心なしか丸まっているような気がする。
去年ここに入社したばかりのヒヨッコのくせに、たった一年の社歴の差をカサにきて、肩で風を切るようだったバーナビーのあのキザったらしさは、きれいさっぱりどこかへ吹き飛んでしまっている。
こんなにしおらしいバーナビーを、虎徹は見たことがなかった。
露骨に驚いたそぶりを見せれば、きっとまたバーナビーは怒り出すだろう。
だから黙って、苦手なポーカーフェイスで、バーナビーの後ろを歩くしかない。
黙っている分、虎徹の脳内はあふれる驚きでパニック全開だ。

───このうるさい坊ちゃんを、ビシーっと黙らせやがった。

あの社長、ただもんじゃねぇ。
ていうか、そもそもあの状況はなんだったんだ?
どう見ても、その、あ、愛人とパトロンにしか見えなかったっちゅーかその、その割に社長は口止めしてくるわけでもねーしそれでもべったべったに俺の目の前でバーナビーバーナビーって甘やかしてやがるしバーナビーはスナオにはいとか返事してやがるし。どう見てもありゃーフツーの社員と社長のカンケーじゃねえし。え、ひょっとしてこいつコネ入社でまさか社長の隠し子とかそういうの?いや隠し子はオヤジと会社であんなキスしねーだろフツー、だってバッチリ見えちまったもんよ、社長絶対舌入れてたぞアレ…親子でマウストウマウスのオヤスミキッスなんてそんな、俺楓にそんなことしたら間違いなく三回以上殺されるっちゅうのにいやいやこれは人種的な習慣の違いってもんなのか、えーっと、成人の野郎同士でガチでキスする習慣のある民族なんてシュテルンビルトに存在するのかよ俺が知らないだけ?
そんな脳内サイレントパニックが虎徹のどこからにじみ出てしまったのか、しおらしかったバーナビーは、とげとげしいため息を突然鼻から吹いて、きらりとメガネを光らせながらこちらを振り向いてきた。
「…う?」
また小言を食らうのかと、虎徹は歩きながら身構えたが、バーナビーは振り向きつつ、歩く速度を少し落としただけで、すぐ前を向いてしまった。

───なんか、言いたいんじゃなかったのかよ。

メカニックルームはまだ先だ。そして、会社の終業時間は大幅に過ぎていて、この廊下を通りかかる社員の姿もほぼゼロと言っていい。
それならやっぱり、黙っているのは性に合わない。
「…あのさ、おまえと社長って」
「愛人関係じゃありませんよ、あたりまえでしょう」
振り向きもせず、バーナビーはすたすたと歩き続ける。
訊きづらいなんてもんじゃなかった質問のその先をあっさり切り返され、虎徹は呼吸困難に陥る。
「う、ん…ぐぐ…ぅあー、その、なんだ、じゃあさっきのは」
「マーべリックさ…社長は、僕の後見人です。僕は小さい頃に両親を亡くしたので。親代わりの人と、就業時間外に私的な会話をすることが、そんなにおかしいですか?」
してたのは会話じゃなくてキスだろ、と突っ込みたいのをとっさに耐えて、虎徹はどうにか呼吸困難から立ち直った。
「んじゃ、おまえコネ入社なわけ?」
核心を微妙に外した虎徹の質問に、前を向いたままのバーナビーの眉が、ぴくりとひそめられる。
「そう思うなら、思っててくださって結構です」
「…怒んなよ」
「別に怒ってなんかいません。入社試験は受けましたけど、あなたや他のたいていの方が想像するように、完全にコネじゃないとは僕からも言いきれないので」
とりつく島もないバーナビーの整った横顔が、どこかはかなげに見えたのは、気のせいだろうか。どうにも返事のしようがなくなり、虎徹はまた、黙って歩く。

───そうだな。こいつ、怒ってる、っていうよりは。

怒っている、というよりは、ただ自分を守りたいんだろう。
後見人うんぬんは嘘じゃないんだろうが、他人に訊かれたくない事情がこいつと社長にはいっぱいあって、コネだの愛人だのも、他のヤツからいいかげん言われ慣れてる、って、そんなとこか。
社長室のドアを開けてしまったあの一瞬に、社長を突き飛ばして真っ赤になっていたバーナビーの表情が目に浮かび、虎徹はゆるく唇をかんだ。
誰にも言えねぇマズイとこ俺に見られちまって、そんでも動揺したままじゃあますますマズイから、俺の質問にも堂々答えるフリで。

───可愛い…なんてったら、怒られるどころじゃすまねーんだろうな。

バーナビーは無表情に前を歩いている。
自分の中に降ってわいた場違いな感情にこれまた驚いて、虎徹はゆるく噛んだ唇を、上下左右に運動させる。
この、一生懸命強がっているキザ男を可愛いとまで思ったのなら、もっとほっこりした感覚があってもよさそうなものなのに、腹筋の芯がひきつれるような不快感が、なぜか一緒になって付いてくる。
バーナビーが可愛いのは事実かもしれないが、あの社長と、社長とバーナビーの周りの空気が、なにか、嫌だ。
なんでこんなに腹の底が、ムズムズするのか。わからなさすぎる。
パニクるのもほどほどにしとかねーと。
自分を叱咤してみても、サイレントなパニックはなかなか治まらない。
クソ生意気としか思えなかったバーナビーの赤面。
クソ生意気としか思えなかったバーナビーの強がり。
クソ生意気としか思えなかったバーナビーの、キスシーン。
想像したこともなかったものを一度に見せられて、これですぐに落ち着けなんて言う方が、どうかしている。
社長室とメカニックルームが離れていて、本当によかった。
誰もいない廊下を、まだもう少し歩いていられる幸運に感謝して、虎徹はポーカーフェイスを構築し直すべく、表情筋と腹筋にそっと力を込めた。




毅然と、していればいいんだ。
この数日、何度自分にそう言い聞かせただろう。
車のキーを、カーゴパンツのポケットに入れて、バーナビーは急ぎ足で歩く。
事故で道路が渋滞していて、今日は十五分ほど遅れてしまった。
この時間だと、同じように車で出社してくる虎徹に、この駐車場で会ってしまう可能性が高い。
ヒーローの出動要請があるたびに、虎徹とは嫌でも顔を合わさなければならないのだが、メカニックルームやトランスポーターの中では、斎藤という第三者がいることもあって、彼とは一定の距離を保っていられる。
しかし社用の駐車場は普段から人通りが少ない。
人目のない場所で虎徹と二人きりになるのが嫌で、あの社長室の一件以来、バーナビーは出社時間を少し早めていた。
我ながら、格好の悪いことをしているとは思う。
説明しづらい場面を虎徹に見られたとはいえ、別に犯罪を犯しているわけではないのだから、毅然としていればいいのだし、そうしているつもりだ。
虎徹に対して、何も嘘は言っていない。
マーべリックはバーナビーの親代わりの人間であり、プライベートで、挨拶としてのキスを時々交わしているだけだ。
そのマーべリックと愛人関係に陥るなんて、想像しただけでぞっとする。

───『それでも。見てる人はつまらないところまで見てるから、社内では気をつけるように』。

そう言って斎藤に注意されるまで、マーべリックと自分の関係を、そんなふうに邪推する人間がいることさえ想像がつかなかったくらいだ。

───なのに。

こうして、呪文のように「毅然としていなければならない理由」を心で唱えなければ落ち着けないとは、情けないにもほどがある。
あの、ヒーローとしても社員としても大して優秀でない中年男にどう思われようと、バーナビーには関係のないことだ。バーナビーの仕事はヒーロースーツの性能を高めることであって、スーツの中身がケガをしない限り、その中身が何を考えて生きていようがどうでもいいことなのだ。
なのに、なぜこんなに、いつまでも動揺しているのだろう。
本当のところ、虎徹が何を考えているのかは、バーナビーにはわからない。
バーナビーの言葉を信じて、社長=バーナビーの後見人、と認識し直してくれたのか、それともまだ、よからぬ邪推をやめてはいないのか。
どちらかと言えば後者の可能性が高いことを思うと、バーナビーの心はますます曇る。

───あんなおじさんにまで、邪推されたのかと思うと。

白衣を置いてあるロッカールームに向かいながら、バーナビーはいらいらと自らの額をこする。
いいかげんにしろ。考えてもしかたのないことを考えるのは、時間の無駄だ。
本当に。
本当にあんなおじさんなんか、どうでもいい、はずなのに。