インパーフェクト・ハグ



「だからっ!説明書を読んでくださいと言ったでしょう?」
「あんな何百ページもちまちま読んでたら、一生出動できねぇよ!事件は待ったナシなんだよ。ヒーローは、市民が困ってたらいつでもどこでもすぐに出て行かなきゃならねーの!」
「出て行って、役にも立たずに自分で自分のワイヤーにからめ取られるのがあなたの仕事なんですか?」
「あれはちょっと場所が悪かっただけで…狭いとこでワイヤー撃ちってのは難しーんだよ!」
「とにかく。もう一度、僕がスーツの基本操作を説明しますから、目の前のパネルをよく見てください」
スーツのマスク内で展開する、インナーモニターの光源が、ピコピコと落ち着きのない動きで虎徹の目を射す。
その光源を透かして目の前に見えるのは、いつも通りに不機嫌な、バーナビーの姿だ。
インナーモニターに連動したパソコンの画面を開き、バーナビーは片手でキーボードを打ち、もう片手でヒーロースーツの説明書を開いている。

───あー。厄日だ。

バーナビーに表情がばれないのをいいことに、虎徹は大口を開けてあくびをした。
今日は朝から、ロイズの部屋で先日の出動時の失態について怒られた後、このメカニックルームに強制連行され、出動要請もないのにヒーロースーツを着せられて、鬼神と化したバーナビーから、スーツの使い方の詳細を強制レクチャーされている。

もう一度説明しますね。ここを押せば、ワイヤーモーションが作動して、腕部分の『ワイルドシュート』が射出可能になります。同時に、インナーモニターの正面にスコープが出てきますから、サイドの飛距離自動予測数値を確認しながら、ワイヤーを目標に向けて射出してください。あまりにも目標が遠いと、自動予測不可能と判断されるので、スコープは出てきません。スコープがモニターに映らなくても手元でワイルドシュートを強制的に作動させることはもちろんできますが、その動作の後は一時的に自動予測数値が出なくなることがあるので、注意してください。
それから、右利きのあなたに合わせて、右手よりも若干弱い力で作動するように、左手側のモーションスイッチの反応を、少し調整しておきました。もし使いにくかったら言ってください。すぐ直します。…聞いてますかおじさん?

「……ふぁい…」
かみ殺しきれないあくびが声に溶けてしまい、マスクの中で虎徹は涙目をこらえる。
と、バーナビーが全ての動きを止めた。
こちらを見据える緑の目の中に、みるみる攻撃的な色がわき上がる。
「おじさん」
冷たく冴えわたる声が、虎徹のはらわたにまで染みとおった。
「さっきから、あくびばっかりしてるのはわかってるんですよ」
うっ、と虎徹は肩をすくめる。
この男は透視能力まで持っているのだろうか。いや、バーナビーの身体は今発光していない。そんなNEXT能力まで隠し持たれては、たまったものではない。
「なんでわかった」
「…やっぱりしてたんですね」
「やっぱりっておまえ!カマかけたのか!」
「あなたに怒る権利はありませんよ。一ミリも」
ひっかけられたうえにまたもやの説教だ。悔しいやら反論できないやらで、虎徹はすくめた肩をぶるぶると震わせた。それだけでは気がおさまらず、思わずマスクに手をかけて頭から引き抜き、まっさらな素顔でバーナビーをねめつける。
バーナビーは微動だにしない。
「あなたにそこまでやる気がないのなら、今日はもう説明はしません。トレーニングセンターでもオフィスでも、好きなところに退散していただいて結構です。そのかわり、」
手元で開いていたスーツの説明書を乱暴に閉じて、バーナビーはつかつかと虎徹に歩み寄った。
「退散する前に、僕の作業に付き合ってもらいます」
「作業?」
あっという間にバーナビーの顔が目の前に迫る。迫ったかと思うと、手に持っていたマスクを奪われ、それはパソコンテーブルの上に片付けられてしまった。
「スーツ装着時の、ワイヤーモーションをチェックしたいんです。僕がもういいと言うまで、おじさんはそのまま立って、僕の言うことに従ってください」
言いながらバーナビーはもう一度歩いてくると、これまた乱暴に虎徹の右腕をつかみ上げた。
「お、おう…」
バーナビーの静かな声には、ノーと言えない恐ろしさが満ち満ちている。
「じゃあまず、ワイルドシュートを真正面に撃つ時の姿勢で、じっとしていてください」
つかまれていた腕が解放され、虎徹は戸惑いながらも、足を少し開いて、右腕を正面に突き出した。
「動いちゃだめですよ」
言いながら、突き出した虎徹の腕に、バーナビーの指がからみついてくる。虎徹の手元のスイッチ部分に、バーナビーの指がねじこまれ、がちゃりと「ワイルドシュート」がスタンバイされる。
バーナビーは、虎徹の腕を胸いっぱいに抱えこみ、白衣の胸元から取り出した、極小のスパナのような工具で、スタンバイされたその可動部分を触り始めた。
静かな部屋の中に、小さな小さな金属音と、バーナビーが身じろぐ衣擦れの音だけが拡散してゆく。
間近に見えるバーナビーの横顔は、真剣そのものだ。
先日、虎徹がワイルドシュートを壊してから、バーナビーは神経質なまでにこのギミックにこだわっている。
銃火器を持たない「ワイルドタイガー」の、唯一の武器らしき装備だからだろうか。
企業の吸収合併という不本意な移籍によって、このアポロンメディアに転がりこんだ虎徹の旧いヒーロースーツを、斎藤は「クソ」だと切り捨てた。
しかし、デビュー時からの虎徹の得意技を、「ワイルドシュート」として、この新しいヒーロースーツにも組み込んでくれていたと知った時の嬉しさを、虎徹は忘れることができない。
このバーナビーも、斎藤と一緒に、ワイルドシュートを作ってくれたはずなのだ。
斎藤もバーナビーも、研究一辺倒のようでいて、そうではない。
両者に共通する、壊滅的とも言える人付き合いの下手さには、少々閉口しているが。

───天は二物を与えず、って言うしな。

バーナビーに腕を預けたまま、虎徹はかすかに苦笑する。
明晰な頭脳に強力なNEXT能力、ついでに非の打ちどころのない美貌まで兼ね備え、天から二物も三物も与えられたこの男にも、足りないものがある。
ついこの間、ベッドでうなされていたバーナビーを思い出し、虎徹は苦笑を消し去った。

───ちっさい頃に、両親亡くして…か。

自動的に、離れて暮らす娘のことが思い出される。
母親を亡くした時、楓はひどく泣いた。周りに諭され、昼間は母親の死を納得したようにふるまっていても、夜になると、悲鳴のような声で泣いた。
泣きじゃくる楓を抱きながら、虎徹も泣いた。
子供だったバーナビーは、誰に抱いてもらったのだろう。
泣くこともできずにいたのだろうか。
バーナビーを家で寝かせたあの夜から、ふとした調子にそんなことを考えてしまう。
バーナビーのことだ。虎徹に同情されることすら嫌がるだろう。
そうやって複雑な気持ちと、朝からついてない敗北感と、長かったレクチャーのせいで湧きおこる眠気に襲われているのに、その気分の原因の大半を担う男に、こうして利き腕を至近距離でホールドされて、今日は内心で愚痴る気力も失せた。

───ああ。楓がちっさい頃、こうやって腕にぶらさがってたなぁ。

それこそすがるように虎徹の腕を抱え込んでいるバーナビーに、もう一度目の焦点が合ってしまう。
とたんに、バーナビーが首を伸ばして、腕の装甲の裏側をのぞき込む。その身じろぎに連動して、バーナビーの後ろ髪が、虎徹の鼻先をくすぐった。

───う、わ。

光に溶けそうな金色の髪から、シャンプーなのか石けんなのか整髪ワックスなのかわからない、柔らかい匂いが伝わってくる。視界いっぱいに広がるカールした髪が、暴力的なタイミングで虎徹の顔を何度も撫でた。

───うわ、くすぐってぇ、ちょっとちょっと!

うむを言わさず嗅覚に集中させられ、虎徹は声も出せない。
胸苦しいまでの匂いに、娘の思い出もどこか遠くに吹き飛んだ。

───この匂い、ちっと、反則じゃね?

ナニ付けてんだか知らねぇが、男がこんな匂いさせてるって、ナシじゃねぇの?
街中やオフィスですれ違う女性たちの香水とは違う。
彼方の記憶の母親の匂いとも、亡き友恵の匂いとも似ていない、未知なのに、心をざわめかせる、不穏で甘い匂い。
鼻先どころか、全感覚、全神経をくすぐられているような錯覚に陥り、虎徹はぎゅっと目を閉じた。
匂いというのは、なぜこんなにもダイレクトに、意識の全てを支配するのだろう。
すっかり存在を忘れていた、身体の深い深い奥底から、ねっとりと熱い何かが漏れ出しそうになる。
その懐かしい感覚に、虎徹は鳥肌を立てた。
ナシ。
ナシだ。
これはナシだ、ありえねぇ、なにがなんでもナシだ。
腰から下が熱い。そのあり得ない身体の誤作動に、首から上はすうっと冷たくなる。
いくらスーツを装着しているから、外から誤作動の結果は見えないから、と言っても、この状態を放置すると、遅かれ早かれ歩くこともできなくなってしまう。
虎徹は目を開けた。
今すぐバーナビーをこの腕から引っぺがすべく、拘束されていない左腕を上げようとしたが、誤作動になだれ落ちてゆく虎徹の脳細胞は、とんでもない結論を導き出した。

───あ。これ、俺が左腕上げたら、こいつを抱きしめちまう。

「動かないでくださいおじさん」
視線は極小スパナの作業位置に固定したまま、低い声でバーナビーが虎徹を制する。
限界だ。
「頼む」
限界と言ったら限界なのだ。
「頼むバニーちゃん。ちょっと、」
バーナビーが、ひた、と動きを止める。
動きを止めて、抱えていた虎徹の腕をいきなり解放して、極小スパナをぎっちり握りしめたまま、きっ、と音がしそうな鋭さで、本当に本当に近くから、こちらを見つめてくる。
「僕はバニーじゃありません!バーナビーです!」
虎徹が二度目に口に出した、あだ名の呪文は実によく効いた。
解放された腕が、泣きたいほど嬉しい。
間髪入れず、両腕で突き飛ばす勢いで、虎徹はバーナビーの白衣の両肩を押して、精いっぱい自分から遠ざけた。
「わかったからバーナビー!トイレ行かせてくれ今どーしても行きたいっ!!」

言っていることはちっとも嘘じゃないのに、その言葉のありきたりさは、絶望的にやましくて軽薄で、深刻だった。