ビターチョコレート・ナイト



ロッカーが、臭い。
いつになくハードだった出動を終えて会社に戻り、ヒーロースーツもやっと脱ぎ、次は汗で身体に張りつくアンダーウェアを引っぺがそうと、虎徹は自らに割り当てられたロッカールームにたどりついた。
昼間もたいがいだったが、やっぱり、自分のロッカーが臭い。
悪臭がするのではない。
昼間、CM出演を打診しに来たどこぞの製菓会社が、大量にチョコレートを置いていったのだ。
「ワイルドタイガー」がCMに出演するか否かの回答はロイズに任せてあるので、その点は、虎徹に迷いはあまりない。移籍したばかりでわがままも言えないし、会社命令であるなら、CMでもなんでも勝手に撮影してくれればいい。
そう若くもない、ましてや美男や美女でもない(そもそもヒーローは素顔をさらせない生き物だ)、自分のヒーロー姿のどこにチョコレートとの接点があるのか、虎徹にはまったくわからないが、くだんの製菓会社のキャッチコピーは、「大人のほろ苦さ」なのだそうだ。

───しかーし。いくらなんでも、こりゃホロ苦すぎだろう。

虎徹の私物を完全に横っちょに追いやる勢いで、ダンボール一箱分のチョコレートは、虎徹のロッカースペースを激しく占領している。
整理整頓とは縁遠いこのスペースがごちゃつくのは今さら気にもならないが、このほろ苦い匂いがびっちりと吸着したこの私服を今から着て帰らねばならないのかと思うと、虎徹の気分はほろ苦いどころではすまなくなるのだった。

───こっちは、CMどころじゃないってのにな。

シュテルンビルトには、このごろルナティックなる謎のNEXTが現れて、ヒーローたちの活動を妨害している。
ターゲットがどんな凶悪犯罪者でも、決して殺害せずに、生かして逮捕するのがヒーローの仕事だ。
その仕事を、片っぱしから邪魔されて、虎徹は最近気が気ではない。
ようやく追いつめた犯罪者を、ルナティックに横から殺害されてしまう無念さは、まったくもって言葉にならない。
彼は、死刑制度のないこのシュテルンビルトを皮肉りたいのだろうか。
それとも、ヒーローへの妨害そのものが目的なのか。
何度か現場で、虎徹も彼に対峙したことがあるものの、ルナティックの意図はまだ、誰にもわからない。
ルナティックが操る、青い炎の残像が、ぐらぐらと虎徹のまぶたの裏によみがえる。
まぶたをごしごしと手でこすって、虎徹はほろ苦い匂いのするシャツを身につけ、ほろ苦い匂いのするネクタイを締める。

───グダグダ落ち込んでたって、しょうがねぇ。

今はまずこの、ほろ苦い匂いのする大量の物体を、なんとかしなければならない。
まず三分の一ぐらいを実家に送る。
そして三分の一は車にぶちこんで持って帰る。
残った三分の一はちまちまと…会社で食うか。
トレーニングセンターでヒーロー連中に配れば、そこそこの数ははけそうだ。スポンサー的にはマズイかもしれないが、黙っていればわからないだろう。
オフィスの数少ない事務員たちにはもう昼間に配ってしまった。
残るは…あそこしかない。




何度ノックをしても、返事がない。
メカニックルームのドア前で、虎徹は立ちつくす。
終業時間はとうの昔に過ぎたとはいえ、几帳面で研究熱心なあのメカニック担当者たちが定時で退社したとはとても思えない。
ルナティックが現れてから、会社側は、ルナティックの情報集めに必死になっている。とりわけ、カメラ機能のあるスーツを着ている虎徹が、出動中に録画してくる映像は貴重で、ルナティックを追った出動の後、斎藤とバーナビーはいつも、その録画の解析に追われていた。
バーナビーが忙しいのは、虎徹にとって幸いだった。ヒマあらばヒーロースーツの調整に余念のないバーナビーに、また「密着作業」をされてはかなわない。
この間の「誤作動」以来、バーナビーになるべく近づかないよう行動していた虎徹だが、あれは本当に誤作動だったらしく、その後は、トランスポーター内だのメカニックのラボ内だの、狭い場所でバーナビーと肩突き合わせても、何事も起こらなかった。
そのことに、心ひそかに胸を撫で下ろし、やっと平穏な気持ちで出社できるようになっていたところへのルナティックと、このチョコレート爆撃だ。
呼ばれてもいないのにメカニックルームに来たのは、ひょっとしたら、移籍して初めてかもしれない。
もう一度、ダメ押しのノックを続けてみるが、ドアの中から返答はない。
そういえばこんなシチュエーションが社長室でもあったなぁと思いながら、虎徹はそっとメカニックルームのドアを開けた。
幸いに、この間のように衝撃的なキスシーンは展開していない。
もう仕舞いぎわなのか、はたまた節電仕様なのか、広い部屋のほとんどの照明を落とした薄闇の真ん中で、ぽつんと一つ、パソコンのモニターが光っているだけだ。
光るモニターの前に、これまたぽつんと座っているバーナビーは、いつもの白衣のままで、微動だにしない。
「うん?」
そっとドアを開けて閉めて、のそのそと虎徹はメカニックルーム内に侵入するが、バーナビーはこちらを振り向きもしない。
ルーム内のバーナビーといえば、いつも忙しそうに、両手をキーボードの上で流麗に動かしている姿しか印象になかったので、居眠りでもしているのかと思ったが、サイドに回ってバーナビーの横顔をうかがうと、その目はきっちりと見開かれていた。
「おい。どうし」
「う、わあああっ!」
虎徹がバーナビーの肩に手をかける寸前に、がたがたっ、と派手な音を立てて、バーナビーは椅子から飛びのいた。
「ちょ、おい、なんだよ?」
「おっ…おどかさないでください!いつ入ってきたんですかっ!」
信じがたいが、虎徹がこの至近距離に迫るまで、バーナビーは虎徹の存在に気がついていなかったらしい。
バーナビーの悲鳴という世にも珍しいものを聞いてしまった衝撃で、虎徹は数瞬、返事ができないでいた。
立ち上がったバーナビーは、パソコンのキーボード脇に片手をついて、おおげさに深呼吸をしている。
「…なんですか、じろじろ見て。ご用件は?」
丁寧だがとげとげしい口調で、薄闇に沈んだ深緑色の目が、虎徹をにらみつけてくる。
「………いんや。大した用事じゃなかったんだけども。どうしたんだよ。おまえ、顔色悪いぞ?根詰めすぎなんじゃねぇの。なに見てた?」
この暗がりでも、バーナビーの頬に血の気がなくなっているのがわかる。
ようやく呼吸を落ちつけたバーナビーは、鋭い視線で、光るパソコンのモニターに目をやり、またすぐにうつむいた。
モニターには、虎徹にも見覚えのある青い炎が映し出されている。
「…また、ルナティックの画像の解析か?」
大変だな、と虎徹が言いかけたところへ、バーナビーが身を乗り出してきた。
「昨日のこの画像。これは、フォートレスタワーの近くで録画したものですよね?」
「あ、ああ」
「ルナティックがこの少し前に殺害した男は、どんなふうに殺害されたか覚えていますか。あなた、見ていたんでしょう」
「えっと。それもスーツのカメラでオート録画してたんじゃ」
「あなたがフェイスガードを上げてしまったので、途中で映像が切れてるんです」
「うー、そうだっけか…」
「どうだったんですか。あの男は刺殺されたのか、墜落死なのか、焼き殺されたのか」
「おい、ほんとにどうしたんだよ、そんなの聞いて何するんだ?」
「いいから、その時の状況を教えてください!!!」
部屋中に響き渡る声でいきなり怒鳴られ、虎徹はあぜんとした。
落ち着いたはずのバーナビーの息がまた上がっている。肩を上下に揺らしながら、テーブルの縁をつかんで、つかみかからんばかりにこちらをにらみつけてくるバーナビーの表情には、どす黒い凄味が満ちている。
しばらくあえいだ後で、テーブルの縁をつかんだまま、バーナビーはがっくりと頭を垂れた。
「……すみません」
消え入りそうな声が虎徹の耳に届く。
何がなんだかわからないが、まずは、このバーナビーを真から落ち着かせた方がよさそうだ。
顔を上げないバーナビーの、伏せられた長い前髪に向けて、虎徹は低く声をかける。
「あんときの男は、ルナティックの炎にやられて、全身が燃え上がってた。ありゃあ、服も髪も…ヘタすりゃ皮膚も、残らなかっただろうな」
がば、とバーナビーが顔を上げる。
「遺体は、警察が…?」
「ああ。いつも通りにな。検死の結果は、今日明日あたり出るんじゃないか?」
「そう、ですか…」
「なあ。あの男が、どうかしたのか?ルナティックとなにかの関係があるとか?」
バーナビーは答えない。
先刻のギラギラとした眼光はあっという間に消えて、緑の目はもう、力なく、そばで光るモニターを見下ろすだけだ。
「俺のせいで映像途切れてて、解析が進まなくなったってんなら、謝る。次からは、ちゃんと録画できるように、フェイスガードは上げねぇようにするから」
「…次なんて。いつ来るかどうか」
モニターの白い光源に目を細めるように、バーナビーはかすかに笑った。
唇を歪めるだけのその笑みは、虎徹の背筋を冷たくさせた。
何もかもあきらめたような、何もかも拒絶しているような。
なんて顔してやがんだ、こいつは。
虎徹の疲労感と、ルナティックへのいらだちが、冷たく燃え上がる。
同時に、この間から腹の底に溜まっていた、バーナビーに対するわけのわからない感情も、一緒に燃え上がる。
「おい。バニーちゃんよ」
パソコンの乗っているテーブルを叩きたくなる衝動を耐えて、虎徹はそのテーブルに置かれたままの、バーナビーの手首をつかんだ。
「誤作動」を恐れる気持ちなど、完全に消し飛んだ。
びくりと全身をふるわせて、バーナビーがこちらを見る。
見つめられれば見つめられるほど、この男に拒絶されているような気がする。

───そりゃ。俺はこの会社に拾われたばっかだし、ポイント稼ぎも得意じゃねぇ。こいつの作ったスーツも壊しちまうし、スーツの機能を使いこなせてもいねぇ。

けど、こんなにまで拒絶されるいわれはねぇはずだ。
「おまえが俺を嫌いなのは知ってる。けどな」
身じろぎもしないバーナビーの手首は、ひどく冷たい。
「今んとこ、このアポロンメディア所属のヒーローは、俺しかいねぇんだ。おまえがきちんとしたルナティックの画像が欲しいなら、俺が現場に出て録画する。おまえがその画像を解析する。どんなにおまえが不満でも、今その役割を変えるわけにゃいかねぇんだよ。おまえが、画像の解析以外に何か知りたいことがあるなら、俺も協力する。俺が嫌い、っていうそんな理由だけで、おまえは知りたいことを知るのもあきらめるのか?」
ぴったりこちらを見つめて固まっていたバーナビーの瞳が、ふらりと揺れた。
こんなにいらだっていても、危ういその揺れすら、きれいだと思う。
虎徹は手に力を込める。
揺れた瞳は、すぐに元に戻ってしまった。
「手。離して、ください」
つぶやくように要求してきた声は、どこか幼い。
「離してください。僕は、あなたに頼るつもりはありません」
一本調子の小さな声は、まるで合成されたデジタルボイスだ。
「ご迷惑をおかけしました。ルナティックの録画は、これまで通りで結構です」
慇懃な言葉とは裏腹に、恐ろしい力でつかんでいた手を振り払われ、予想していなかったその勢いに、虎徹は半歩、後ろによろめいた。
「斎藤さんと打ち合わせがあるので。失礼します」
手早くパソコンの画面をクローズし、白衣の裾を暗がりにひらめかせて、バーナビーはドア前へと、早足で歩いてゆく。
その歩き方も、歩くスピードも、ぴしりと張った白衣の肩口も、全てが虎徹を強烈に拒んでいる。
追いかける気にもなれずに虎徹がただ立っていると、ふとバーナビーがドア前で振り向いた。
「ああそれからオジサン、」
また強がって、自分の感情を必死で抑えている緑の目が、つかの間の静けさをにじませて、こちらを見据えてくる。

───あれ?

こんな扱いされてんのに、なんで俺は、こいつが今、キモチ抑えてる、なんてわかるんだ?
虎徹の間抜けな自問は、続くバーナビーの言葉に、ばっさりと裁断された。
「何度も言ってるでしょう。僕はバニーじゃありません。バーナビーです」
気持ちを抑えている男を送り出したドアは、あっさり静かに閉まってしまった。
片手に、チョコレートの束。もう片手には、冷えていたバーナビーの手首の感触が残っている。
モニターの明かりがない分、さっきよりももっと暗くなった薄闇の中で、虎徹はひとり、ため息をついた。




虎徹に嘘をついて出てきたが、バーナビーには行くあてがない。
斎藤は、作業の合間に休憩に出ているだけだ。行きつけの店でアイスを買い込んだら、すぐにメカニックルームに戻ってくるだろう。虎徹と彼が鉢合わせすると、バーナビーの稚拙な嘘がばれるわけだが、あんな扱いをされて、虎徹がいつまでもあの部屋にとどまっているとは思えない。

───どうでもいい。嘘なんか、ばれたって、どうでも。

どうしてこう、虎徹に対してはくどくどと見栄を張ってしまうのだろうか。
誰にも会いたくなくて、自分自身からも逃げたくて、バーナビーは社屋の階段を駆け上がる。
屋上に駆け出して、星も見えない真っ暗な空の下で、ただ鉄柵を握って、唇を噛みしめる。
あの映像を見てしまったショックは、まだ治まらない。
昨日、ルナティックに襲われて死んだ男のうなじには、はっきりと、あの不気味な蛇の───ウロボロスの、タトゥーが彫られていた。
この二十年、探し続けた、タトゥーだ。
探して、探して、探していたものをようやく見つけられたのに、のんびりショックなど感じている自分は、本当に軟弱すぎる。
虎徹につかまれた手首が、じんわりとうずく。
そこがまだ余計な熱を持っているような気がして、バーナビーは冷たい鉄柵をいっそう強く握りしめる。
どれほど街を歩き回っても、どれほど犯罪者データを集めても現れなかったあのタトゥーの持ち主は、やっと現れたと思ったら、すぐにこの世を去ってしまった。
あのルナティックに、焼かれて。
皮膚まで焦げてしまっては、タトゥーどころか、人相もわからなくなっているだろう。
眼下に広がる夜景は、荒れ狂うバーナビーの気持ちとは無関係に、星屑をこぼしたように美しい。

───あのおじさんでなく、自分がヒーローだったら。

そうしたら、死ぬ気でルナティックを阻止して、あのタトゥーの男を生かして捕まえられたかもしれないのに。
涙がこぼれてくる気配などないのに、飽和する悔しさで、目の奥が痛い。
バーナビーは固く目を閉じた。
自分だったら、ルナティックを阻止できなくとも、途中でフェイスガードを上げたりしないで、どんな状況も手がかりになるように、カメラで録画を続けるのに。
ヒーローにならない限り、千載一遇のチャンスを拾うことはできないのかもしれない。
ヒーローが気に食わないなどと、言っている場合ではないのかもしれない。

───全部、マーべリックさんの、言う通りだったのかもしれない。

バーナビーがまだハイスクールの学生だった頃、マーべリックは一度だけ、バーナビーに申し出たことがある。
ヒーローになってみないか、と。
全寮制のスクールのバカンスを前にして、バーナビーが久しぶりに帰宅したあの晩、凝った夕食を用意してくれたマーべリックが、ぽつりと口にしたのだ。

───『もちろん無理にとは言わない。君が嫌なら、それでいいんだ』。

大学に進学したいのならもちろんそれは歓迎だ、ただ、君のNEXT能力は本当にヒーローに向いている、大学で勉強しながら、ゆっくり考えてくれればいい、と。
幼い頃から、ヒーローという存在を好きになれないバーナビーを、マーべリックは育ててくれた。何の皮肉かマーべリックは、この街のメディアに君臨するヒーローたちを統括する立場の人間だったが、そんなことを忘れてしまうくらい、バーナビーは彼から、何も押しつけられたことがなかった。
だからあの晩、バーナビーはすぐに返事ができなかった。
マーべリックの真の望みと、決してヒーローには関わらず生きて行きたい自らの気持ちに挟まれて、立ち止まるしかなかった。
ただ。
マーべリックがその後もらした一言を、バーナビーはどうしても忘れることができなかったのだ。

───ヒーローになれば、あのウロボロスのタトゥーの意味に、近づけるかもしれないよ。

ある意味芸能人のように、その活動をメディアにさらされるヒーローは、生真面目な人間にとっては軽薄な存在だが、実はきちんと司法局に認可を受けた、れっきとした専門職だ。
司法局と繋がりがあるということは、一般人なら行けない場所に行くことができ、一般人には手に入らない情報が手に入る、ということだ。
その唯一の利点が、ひそかに、そしていつまでもバーナビーの心を揺らし続けた。
マーべリックへの返事を濁したままバーナビーは大学に進学し、ロボット工学を専攻した。アポロンメディアの入社試験も、マーべリックには黙って受けた。もっとも、最終選考の直前に、社長として選考書類に目を通したマーべリックに、すぐ見つかってしまったのだが。

───なぜ、私に黙っていたんだい。君が望むなら、すぐにでも我が社で…
───だからです。これ以上、僕はあなたに甘えることはできません。
───君の優秀さは、誰よりも私が知っている。甘えるとか、甘えないとかは関係なく。
───僕は、あなたの望むヒーローにはなれません。だからせめて、別の形で、あなたの役に立ちたいんです。
───私の会社に入社したからといって、君が望む仕事が与えられるとは限らないんだよ。
───わかっています。

ヒーローに近づきたくないバーナビーが、ヒーロースーツのメカニック担当に抜擢されたのは、アポロンメディアの人事部の判断だ。結果的にこの配属が、バーナビーとマーべリックの妥協点になった。
あれから、一年と少し。
バーナビーがヒーローになることを拒んでも、マーべリックの態度は以前と少しも変わらない。それどころか、良いメカニック担当になるための、助言までしてくれている。
もう間に合わないのだろうか。
今さらヒーローになりたいなどという、虫のいいバーナビーの願い事を、マーべリックはかなえてくれるだろうか。
我ながら、ずうずうしすぎて、もうマーべリックの目を見て話せないかもしれないけども。
他に方法がないのなら、それが一番確実な方法なのだとしたら。
もう、迷っている時間はないのかもしれない。
バーナビーは目を開けた。
背中を丸めて、鉄柵を握っている両手の甲に額を預けている自分は、本当にちっぽけな存在だ。
眼下の星屑たちが、ちっぽけな自分の苦悩と無関係に、平和に輝き続けるのも、あたりまえのことだ。
丸めた背中を伸ばす気にもなれずに、バーナビーは鉄柵の隙間から、光る街並みを見つめ続けた。
ふと夜風を吸いこむと、嗅ぎ慣れない匂いが鼻をついた。
頬骨のそばにある、自分の手から──いや、正確に言うと、さっき虎徹につかまれた手首から、妙な匂いがする。

───コーヒー?ココア?いや。

チョコレート、みたいな苦い香り。
悪臭ではないのに、吸い続けると喉がいがらっぽくなりそうなこの匂いは、どう考えても香水ではない。
いい年をして、手に匂いがつくほどチョコレートを食べるなんて、健康管理の上では激しくマイナスだろう。冗談抜きで、あの男はヒーローとしての自覚が足りなさすぎる。

───『俺も協力する』、か。

こっちの事情など何も知らないくせに、ろくに実績も上げられないくせに、よくあんなことを言えるものだ。
お互い嫌い合っているのはわかっているのだから、文字通りビジネスライクに接してくれれば、こちらも楽なのに。
先日新たに結ばれた企業間協定で、正規のヒーロー職は七大企業が独占することになっている。
彼がもっとどうしようもない男だったなら、何の迷いもなく、「あなたのヒーローポジションをください」と言えるのに。
ちっぽけな苦悩の中から生まれたちっぽけないらだちは、苦い香りと一緒にバーナビーの鼻腔に刺さり、粘膜に沁み、身体のどこだかわからない、深い場所に転がり落ちてくる。

───迷う、なんて。

こんなバカらしい感情を自覚してしまうなんて、僕はどこまで疲れてるんだ。
バカらしい感情は捨てなければならない。復讐のために。
捨てなければ前には進めない。
鼻腔に新しい空気を取り込もうと、バーナビーは顔を上げた。
背筋を伸ばして、白衣の袖をたくし上げ、チョコレート臭い手首を風にさらす。
苦い香りが、今すぐ消えることを願って。