憂鬱で愛しい青



困る。
それが、エドワードの二番目の感想だった。


***

最初に彼を見た時、心臓が止まるかと思った。
また夢を見ているのかと思って、周りに気づかれないようズボンの上から太腿をつねってみたが、指先から足へと伝わる痛みは鋭く、その痛みが、これは夢ではない、と、筋肉の中からじんじんと主張してきた。
ずっとエドワードが心の中で描き続けた弟が、そこにいたのだ。
何年もの間、写真の中にしか、エドワードと、ロックベル家の人間の心の中にしか存在しなかったアルフォンスが、傾いた日の射す無人の教室で、椅子に腰掛けて本を読んでいる。
光に縁取られ、白っぽく輝く金色の髪。
うつむき加減に、だが熱心に活字を追うその目は、逆光で黒っぽく見えたが、優しげなその顔立ちは、エドワードの覚えているアルフォンス・エルリックそのものだった。
弟の肉体が、弟の魂から離れていた間もきちんと年を取っていたのだとしたら、アルフォンスは今、15歳のはずである。10歳だったアルフォンスの面影を、想像力だけで15歳相応に構築するのは、肉親といえども非常に難しい作業であるはずだが、エドワードはもう、彼を見てしまったのだ。

───アルは、扉のこちら側に来ていたのか?

オレの後からアルはこちらに来て、ずっと、オレを探していたのか?
彼に向けて、震える足を一歩前に出したところで、「アルフォンス」は、エドワードに気づいた。
「何か、忘れ物?」
「………いや、その…」
やっと否定の言葉を押し出しながら。
エドワードは、一瞬で絶望した。
「授業は終わったところだよ。このクラスに友達がいるの?」

彼は、「エドワードを知らない」人間なのだ。

知らないがゆえに、「アルフォンス」と別人であるがゆえに、エドワードをこの学校の生徒と間違えている。
「オレは、ここの生徒じゃないんだ。オーベルト先生を訪ねてきたら、ここに居るって聞いたんで…」
「ああ!先生のおっしゃってた、お客様ですか?」
相手が学生でないとわかり、律儀に口調を変えた「アルフォンス」は、本をぱたりと閉じて、勢いよく椅子から立ち上がった。
「僕も、ここの生徒じゃないんです。先生から直接ロケット工学を学びたくて、ドイツから来てます。アルフォンス・ハイデリヒといいます」
立ち上がったせいで角度が変わり、逆光が融けて、別方向から光を受けた彼の瞳は、よく晴れたその日の空と同じ色をしていた。




あれから、一年余り。
エドワードは今、困っていた。
別人であるとはいえ、アルフォンスの面影を持つ彼と研究を共にするのは、楽しかった。瞳の色こそ違うものの、アルフォンス・ハイデリヒという人物は、人当たりが良く、素直で、律儀で、そして、こうと決めたら動かない誠実な頑固さまでが、弟に似ていた。
ロケットの図面を挟んで議論しながら、エドワードは何度、「あちらに置いて来たアルフォンス」と話しているような錯覚に陥ったことだろう。
だが、その幸福感には常に後ろめたさがつきまとった。
「こちらのアルフォンス」は、何も知らないのだ。
偶然顔が似ているというだけで、一方的にエドワードの慰めの道具にされては、たまったものではないだろう。素直に親愛の情を示してくれるアルフォンスを見るたびに、エドワードは途方もなく幸福で、途方もなく後ろめたかった。
後ろめたさに耐えられず、彼に感情を害されるのを覚悟でエドワードはそのことをアルフォンスに告白したが、アルフォンスの態度は以後も全く変わらない。
変わらないことに落胆している自分を発見して、エドワードはおののいた。

───あんなに、後ろめたかったのは。

あんなに後ろめたかったのは、アルフォンスに申し訳ないからではなかった。
怖かったからなのだ。
エドワードは、アルフォンスが怖かった。
それは、直感だった。
あの空色の瞳は、いつか自分を、余すところなく取り込んでしまうかもしれない。
こうして図面を挟んで語り合うことに飽き足らず、彼はいつか、その手を自分に伸ばして来るかもしれない。
伸ばされても、応えることなど出来ない。
その決心を、アルフォンスに知られることが、エドワードはこの上なく怖かった。
この世界で、誰かを愛そうなどとは、露ほども思っていない。

───オレは、大切なものを、残らずあちらに置いて来てしまったのだから。

だから、断るべきだった。
行方の知れない父を思い、あちらの世界を思い、どんなに一人の夜が辛かろうと、そしてどんなにこちらのアルフォンスが優しかろうと、誘いに乗ってはいけなかったのだ。

───なら。うちに、来ませんか?

家に帰るのが嫌で、研究室で寝泊まりしている現場をアルフォンスに押さえられて、エドワードは腹立ちの余り顔が上げられなかった。
怒りの8割は、自分に向けて。残りの2割は、目の前のアルフォンスへの八つ当たりだ。

ばかやろう。
こんなに、困っているのに。
なんで、こんなタイミングでそんなことを言うんだ。

乗ってはいけない誘いに乗ってしまったのは───あまりにも、こちらの世界の夜が、寒かったからかもしれない。



その翌日、事故とはいえある意味強烈なキスをアルフォンスと交わしてしまい、エドワードは自分の直感を確信した。
事故ごときでリンゴのように赤面するアルフォンスの瞳は、憂鬱で愛しい、澄んだ色をしていた。