守護神への手紙



「明日、出ることになった」

昼間の銃声の喧騒が、嘘のように止んだその夜。
ヒューズが寝支度をしているテントにいきなりやって来て、マスタングは言った。



「出るって、お前…」
「国家錬金術師は、総動員だそうだ」

ついに、軍は、しびれを切らした。
このイシュヴァールの地に、「人間兵器」を投入することを決めたのだ。

他の兵士もごったがえすテントの中、マスタングはヒューズと差し向かいの位置にすとんとあぐらをかいた。
「それで、お前に頼みがある」
表情筋を硬直させるヒューズにかまわず、マスタングは珍しくも単刀直入な物言いをした。
「上に提出する遺書とは別に、遺書を、もう一通、俺の荷物の中に入れてある。明日以降、俺が帰らなかったら、荷物を軍に回収される前に、それだけ抜き取っておいてくれ」
イショ?イショだと?
理解するのを拒否したいような単語を並べられて、ますますヒューズの表情筋は不自由な動きしか出来なくなる。
「なんでぇ?彼女宛てか?」
「まあな」
とっさに出た言葉に、ニヤリと笑いながら返されて、こんな時だというのに、ヒューズの腹の底で「拗ね虫」がぴょこりと頭をもたげてしまう。
「はいはい承知しましたよ、っと。さぞかしイイ女なんだろうねぇ、あーちくしょ!」
「まあ…俺の…守護神みたいなものだ」
「かー。どうして女ってのはこんなキザなヤツが好きかねぇ」
「彼女に直接訊いてくれ」
「拗ね虫」に一生懸命演技をさせながら。
ヒューズは、内臓の奥の方から、震えにも似た不安が湧き上がってくるのを止められずにいた。
目の前の素直でない友人は、もっと恐ろしい思いをしているだろうに。
マスタングは、普段と変わらない顔をしていた。
いや、変わらないように見えるよう、努力をしていた。
マスタングが、自分の前でまでこんな仮面をかぶるということは、彼の中の感情は、相当に荒れ狂っているのだ。
慣れれば非常にわかりやすい男であるというのに、幸か不幸か、軍部内でロイ・マスタングに慣れているのは、入隊時から相も変わらずこのヒューズだけなのだった。
わかりやすい男は、どうにもこうにも表情の読めない顔で、言葉を続ける。
「お前にだから頼むがな。中身を必ず確認して、受取人に渡してくれよ」
「おっ?読んでいいの、俺?」
「手間賃だ」
「うひょー、楽しみ…と言いたいところだが。くだらん想像をさせるな」
急に一段低くなったヒューズの声に、マスタングの眉がぴくりと動く。
震えかかっていたヒューズの手が、ぐいとマスタングの襟元に伸ばされた。
掴んだそこを、締め上げる。
座ったままのマスタングの上体が、ぐらりと傾いだ。
「必ず帰って来い。それで、俺の目の前でその遺書を木っ端みじんに破れ。でないと許さん」

どんな約束も、無意味だ。
こんな泥の河を掻き分けるような戦場では。
生きて帰る、などという約束を、するだけ無駄だ。
だが、ヒューズは、失言にも似たその言葉を、どうしても撤回することが出来なかった。

「…努力する」
掴まれた襟首を振りほどこうともせず、マスタングは、非常にわかり辛い、だがヒューズだけに理解できる嬉しげな顔で、短く応えた。





イシュヴァールから撤退する日。
軍用列車に乗り込んですぐ、ヒューズは例の「遺書」を、マスタングに破棄させた。
マスタングは、終始、無言だった。
「殲滅戦」から戻って、マスタングが任務以外で会話するところを、まだ誰も見たことがなかった。

列車は、重い音を立てて故郷へと走る。
木っ端みじんの遺書を、マスタングは、車窓の外に向けて放った。
紙片の一つが風圧で車内に吹き戻され、向かいに座っていたヒューズの膝に落ちた。
「ほれ。最後の一枚だ」
突き出してやると、痩せた手のひらが伸びてきて、それを受け取った。
何のためらいもなく、紙片はそのまま、窓の外へひらりと葬られて。
列車の振動音にかき消されそうな小さな声が、ヒューズの耳に届いた。

「…………ありがとう」

それが、何十日かぶりにヒューズが聞いた、マスタングの第一声だった。




車窓から、季節外れの雪のように散った紙片を、天から遣わされた守護神が、文字通り神業を駆使して繋ぎ合わせたなら、きっとこう読めただろう。

───親愛なるマース・ヒューズへ。

ロイ・マスタングの二通目の遺書の宛先を。
軍法会議所勤めの世話好きな国軍中佐は、今も、知らない。