サバイバル・ファクター



ついこの間、直してもらったばかりだったのに。

ベッドに腰掛け、だらりと動かない機械鎧を肩からぶらさげて、エドワードはため息をついた。
頭の中で、故郷の幼なじみの憤怒の顔が、ぐるぐると回り続ける。
ここは、故郷から遠く離れたセントラルの病院で。
そんなことはありえないとわかっているのに、どこかから自分の脳天めがけて、この消毒液臭い空気を切り裂く勢いでスパナが飛んできそうな気がして、落ち着かない。
すぐにリゼンブールに電話して、盛大に怒鳴られればこの落ち着かない空気から逃れられるのはわかっているが、脇腹の傷が痛くて、歩くのもおっくうだ。
しかし、エドワードはあの崩れ去った第五研究所内で、満身創痍のまま長々と大立ち回りを演じてきたのだ。
あれから二日経ったらしい今現在、エドワードの身体は手洗いに立つ以外六十時間以上、このベッドの上にあった。
もう午後も遅い。窓の外の日差しはかげり始めている。
ある程度の休息は取った。痛みさえ我慢すれば、病院の廊下に出て電話をかけることなどそう困難なことではないのだ。
だが、エドワードは電話をかけないでいる理由が欲しかったのだった。

───明日にしよう。

どうも、今日明日中には退院できそうもない。
それに、貧血で青白い(らしい)顔をウィンリィに見せたくない。
明日電話すれば、どんなに急いでも彼女がここに着くのはあさってだ。それまでには、自分の血色もそこそこ良くなっていることだろう。
いくつかあった懸念事項のひとつを消極的に片付けて、エドワードは脇腹をかばいながら、そろそろと再度ベッドに横になった。
シーツを喉元まで引き上げたところで、病室のドアが穏やかにノックされた。
「失礼します」
入ってきたのはブロッシュ軍曹だ。
「何、その箱?」
エドワードの質問にはすぐに答えず、ブロッシュはそそくさとドアを閉め、手の中の箱をうやうやしく両手で捧げ持った。
菓子折りのようなそれと、目を丸くするエドワードの顔をきょときょとと落ち着かなげに見比べる。
「あのう、お見舞いだそうです。ニューオプティンの、ハクロ将軍から」
「はあ?」
間抜けに語尾を上げた声でエドワードは答えて、寝起きのカメのように首をかしげた。
地獄耳、というにもほどがある。
ことが軍内部に知れ渡るのを防ぐために、わざわざ軍の病院を避けてここに入院したのではなかったか。
ハクロとつながりのある者はこのセントラルにもいて、逐一エドワードの行動を見張ってでもいるのだろうか。
今は護衛付きの身の上で、それだけでもうっとうしいというのに、別口で監視されているのか?
エドワードの眉間のしわが深くなった。
ある程度、マスタングと張り合うための道具にされるだろうことはわかっていたが、こうも食い込まれると、何か別の意図があるのかと勘ぐりたくなる。
ハクロ将軍も、賢者の石を追ってでもいるのか?
そんな荒唐無稽な想像までしてしまう。
「ここに…置きますね」
シックな色の包装紙に包まれた箱を、ブロッシュは、ばか丁寧にベッドサイドのテーブルに置いた。
その態度が、なぜかひどく、ひっかかる。
「ブロッシュ軍曹」
「は、はい!!」
ベッドのエドワードに小さく敬礼を済ませて、もうドアの方向に向き直ろうとしていたブロッシュは、右手を下ろせないまま飛び上がった。
「なんか、昨日からおかしいよ。軍曹?なんかあったの?」
「べ、別に何もありませんが」
「じゃあ、なんでオレの顔見ないの?いや、オレの顔見る時だって、変な顔してさ」
「ふ…普通ですよ。そんなに、変な顔でした?」
「だから。オレ少尉にひっぱたかれたけど、少尉や軍曹を権力でどうにかする気はないって言ったろ?なのになんで、またそんなによそよそしいんだよ」
「だから普通なんですって」
「そーやって敬語でイジ張んのがますますアヤシイ。敬語なしでいいっつったらあんなになごんでた人がさ。………何をオレに隠してんの?」
ブロッシュの噛みしめた唇が世にも情けなく歪んだ。
「ロス少尉~~~~」
世にも情けない顔でエドワードに向き直ったまま、まだ年若い軍曹は病室の外の上司に助けを求めた。
すぐに病室のドアが開く。
「どうしたの!?」
廊下に控えていたロスが、厳しい顔で二歩、部屋に踏み込んで来た。
「す、すみません~~やっぱり私には無理でした~。エドワード君は意外にするどいです」
ロスは額に手をやり、肩まで揺らして大きな大きなため息を吐き出した。
「もう…しょうがない人ね!」
息と一緒に小さな声を吐き捨てて、そのままこつこつとベッドサイドに歩み寄る。
エドワードには全くわけがわからない。
「エドワード君」
背中を丸めるブロッシュの隣で、ロスは背筋をすいと伸ばして立ち止まった。
「不愉快に思ったのならごめんなさい。ケガをしているあなたに、つまらないことで気分を悪くして欲しくなかったの」
「……どういうこと?」



ロスの話は、こうだった。
先日のイーストシティでのスカーの事件は、セントラルにも広く知れているらしい。
もともとはセントラルでの連続殺人事件だったのだから、セントラル軍内ではスカーへの関心は高かった。
しかし当地において、「イーストシティでは功を焦るあまりに、司令官が囮を使ってスカーをおびき出し、戦闘に至ったが取り逃がした」と、そういう噂になっているらしい。
「囮って…まさか、オレのこと?」
「ええ」
囮作戦自体は目新しいものではないが、その囮が、最年少国家錬金術師の少年だったということで、世論はその少年に同情しており、東方司令部の司令官は冷血漢で、軍は殺人犯の男一人捕らえられないくらい弱体化しているのか、という陰口がまかり通っているというのだ。
「スカーのせいであなたが大ケガをした、っていうのもあってね」
「いやアレは…ケガっつうか破壊っつうか。機械鎧はまた直せるもんだし」
「噂っていうのはね、正確には伝わらないものなのよ。あなたはセントラルでは両腕切断寸前の大ケガを負ったことになってるの」
「うえー……」
「だから。今回のことも、公になればどんな方向に噂が飛び火するかわからないんです。あなたもこれ以上おかしな方向で同情されたくないでしょうし、これ以上マスタング大佐の立場を悪くしたくないでしょう?」
あの男とは、あの豪雨の日に別れたきりだった。
エドワードの意識下の深いところに、しん、と居心地悪く根を張ったその男の名前を聞くのは、久しぶりのような気がする。
「軍曹は、あなたの護衛をしてるってことで、昨日周りの人に色々吹き込まれただけなのよ」
「申し訳ありませんでした。すみません。ごめんなさい」

───まさか。

頭を下げるブロッシュのつむじを見ながら、エドワードはサイドテーブルの上の、やはり菓子らしい甘い香りを放つ箱に視線を滑らせた。
箱の上には、手紙らしきものが付けてあった。
「親愛なる、エドワード・エルリック殿。
おかげんはいかがか。
一日も早く良くなることを願っている」



聞けば、セントラルでは、国家錬金術師が不足しているという。

───マスタング大佐。セントラル招聘も近いってよ。

あの軍法会議所勤めの友人の話は、話半分───いや、話七分ぐらいで聞いておいた方がよさそうだ。
エドワードがセントラルの病院に入院して、一週間後。
この駅にもう一度降り立つ日も、そう遠くはないかもしれないと思いながら、マスタングは人でごった返すセントラル駅の構内を歩いていた。軍服で市道を巡回する時は、そこはかとない周囲の市民の視線を感じるものだが、私服姿のマスタングは完全に一市民として駅の風景に溶け込んでいる。
強引に、数日の休暇をもぎとってきた。
スカーのことで上から嫌味を聞かされるのには、もう飽き飽きしていたのだ。そして、その嫌味の内容は、明らかに事実を捻じ曲げて解釈されたものがほとんどだった。
人の口に戸は立てられず、また、人の口は事実を正確に伝達することが絶望的に下手だ。
それでも、元来、市井の人々には忌み嫌われる国家錬金術師という身分であったマスタングは、自分が軍の外でどう評価されようとこれまで興味はなかった。
だが、軍内部から幼稚に情報操作する者に、これ以上付きあう気はない。
またもニューオプティンから出て来ようと言う古狸の先手を打って、ホークアイには悪いが休暇を取ってきた。
ばかばかしくて、やっていられない。
逃げたと古狸に思われてもいっこうにかまわない。
単純に言って、マスタングは疲労していたのだ。
スカーの事件以来、休みをまともに取れなかった。
現場でガレキを掘り返しているハボックたちには何とも申し訳ないが、スコップを握る要員の代わりは無数にいる。
しかし、司令官の代わりはそうそういないのだ。
ここで自分が倒れて、さらに東方司令部を混乱させるわけにはいかない。
胸の内でさまざまな言い訳を展開しながら、マスタングは学校をズル休みする時の後ろめたさと爽快感を懐かしく思い出していた。

───本当になにもかも、言い訳だな。

苦笑い、とはよく言ったものだ。口の中が本当に苦いような気がする。
司令官だろうとなんだろうと───しょせん、自分も軍の歯車のひとつに過ぎない。自分が倒れても、いくらでも代わりの者はいる。
そもそも、今回あらぬ中傷もどきを受けるはめになったのも、将官ポストの後がつかえているからではないか。
そして、身体を休めたいならば自分の家で寝ていればいいし、自宅から呼び出されるのが嫌ならば、家の近所を好きなだけほっつき歩いていればいい。
何も、疲れたからといって、こんなに遠くまで逃げてくる必要はどこにもないのだ。
歩きながら、マスタングは口の中の苦味をゆっくりと飲み込んだ。
ヒューズから電話で聞いたのだ。
エドワードがセントラルで入院していると。
噂の渦中の人間が、噂の蔓延する場所に押し込められて、さぞかし居心地悪い思いをしていることだろう。
それでも彼は、その噂を祝福しているだろう。
マスタング自身が、子供を利用する世にもあくどい人間であることに変わりはないからだ。
その点だけで言えば、今回の噂は正しい。
それゆえ、自分が病室に顔など出そうものなら、エドワードにはどんな扱いを受けるかわからない。
それでもいいと思う自分が、自分ではないようで、マスタングは、飲み込んだ苦味が胃壁に痛痒く沁みてゆくのを、他人事のように放置していた。

***

鎧が、大きく剣を振りかざした。
避けきれずに、エドワードの脇腹に強い衝撃が走る。
肉をざっくり刺されるというのは、意外にあっけない出来事だ。
とっさにそこを手のひらで押さえて、エドワードは飛びすさり、鎧の番人の次の攻撃に備える。
真正面に立つ鎧の指先が、じり、と剣を握り直すのが見えた。
かなり脇腹を深くえぐられたと思ったのに、全く痛みというものを感じない。押さえた手が、じんわりと血で濡れてきても、ただ身体が重いだけで、痛くも痒くもないのだ。
「では、参る」
鎧が、聞き覚えのある声でしゃべった。
次の攻撃をまた、かわさねばならない。
だが、身体が重い。
鎧の番人がかすかに身じろいだ。
身体が重い。
剣の切っ先は、白々と光りながらこちらを向いている。
身体が重い。
どうしても動けない。
こめかみに冷や汗が湧くのを感じた時、剣を構える鎧はいきなり声色を変えて、言った。

「大丈夫か?鋼の」

***

高いところから落ちるような感覚の後で、エドワードは目を覚ました。
夕日も消えかけ、恐ろしいほど薄暗い部屋の中に人の気配を感じて、びくりとそちらを見る。
病室の外で護衛してくれているロスかブロッシュの許可がなければ、この部屋には誰も入ってこれないはずだ。
ベッドサイドの薄闇に浮かぶ男の顔は、あまりにも意外で、あまりにも見慣れたものだった。
「……何しに来た?」
横たわったままエドワードは前髪をかきあげた。
額を行き過ぎた手首の内側が、嫌な汗で湿る。
どうやらこの状況は夢ではないらしいが、まだ目の奥に、剣の切っ先の残像がちらついている。
「様子を見に来た」
簡潔に答える男は、エドワードには珍しい私服姿のせいか、部屋に落ちる薄闇のせいか、身体の輪郭線がどこかあいまいだ。
「うなされていたようなので、悪いが声をかけさせてもらった」
軍服を脱ぐと、人格まで変わってしまうものなのだろうか。
普段のマスタングの物言いからは考えられない素直さだ。
「何度も言うけどさ。オレは、あんたに用事はないぜ。報告書なら、退院してからにしてくれる?」
マスタングの返答はない。
いらだたしさにエドワードは唇を噛んだ。口をへの字に結んだまま、ゆっくりとベッドから上体を起こす。
「仕事放り出して来てまでケガ人をどうこうしたいわけ?この病室、結構声は筒抜けだぜ?またセントラルでオレとあんたの噂がひとつ増えるな」
「……また?」
「聞いてんだろ?オレはあんたのかわいそうなオトリで、あんたは出世のためなら子供だってなんだって使う血も涙もない司令官なんだとさ」
「君に関する部分以外、それは別に間違ってはいない」
こらえきれずにエドワードの鼻から笑う息が漏れ、その振動が傷に到達してエドワードは脇腹を押さえた。
「な…んで、そんなに殊勝なんだよ…あんた」
「ハクロ将軍から、見舞いの品はもらったか?」
眉ひとつ動かさずに、いきなり前後を無視した話を持ち出され、エドワードは脇腹に手をやったままの格好で、ひゅ、と吐息を切った。

───笑うと痛い…ということは、あばらの骨折か。切り傷か。

脇腹を押さえるエドワードの手元を見つめて、マスタングは衣服に隠されて見えない彼の傷の種類を予想した。
ヒューズにも、病室の外の護衛たちにも、詳しいことは何も聞いていない。
エドワードが弟と共に賢者の石を追って第五研究所に侵入し、ケガをして入院した、と、それだけで。
卓越した錬金術の技術と、鍛え抜かれた体術を併せ持つ彼が、入院するほどの傷を負ったということは、相当に危険な目に遭ったのだろう。
「…ああ。もらったさ。あんたの用事はまたそれかよ?オレはもう、その件は好きにしていいんじゃなかったの?」
エドワードは疲れた声音で答えて、その視線をシーツをつかむ手元に落とした。
「そうだったな。すまない、単なる嫌味だ」
ふっ、とマスタングが口元から軽く笑みを吹くと、金の瞳が薄暗がりの中から再びこちらをにらみ返してくる。
早く帰れと言わんばかりのその瞳を、抱きしめたいような思いでマスタングは見返した。
素直に、怒ってくれている。
もう、口などほとんどきいてもらえないかと思っていたが。

「契約は終了だ。鋼の」

言葉は、思っていたよりたやすく、唇から滑り出た。
「私は君に、もう触れない」
嬉しさのようなものと、それに対する焦りがないまぜになり、マスタングは、冷えた思考の一隅で混乱していた。
エドワードが、ゆっくりと目を見開く。
何を言われているのか、理解するのに時間がかかっているようだ。
「近いうちに、軍で人事異動があると思う」
口調が変わらぬように気を鎮めるのは、今のマスタングにとっては、かなりの難事業だった。
「私も、人事異動の対象になる可能性がある」
微動だにしないエドワードの瞳が、どんどん闇に侵食される薄暗がりの中、微細な光を吸ってセピア色に反射する。
「私が東部を離れることが決まったら、君は自由に所属を選びたまえ。それは上も考慮してくれるだろう。東部に足場をとどめて、私の後任の人物につくか。それとも、私と共にそのまま足場を移すか。あるいは、研究所直属の身分となるか。私は君に、何も強制しない」
「どういう…心境の変化なわけ?」
「聞いてどうする?君は、契約から解放されることが、嬉しくないのか?」
「いちんち二日のケイヤクじゃなかったんだ。あんたが軍規をすり抜けてくれた代わりに、オレはあんたの言う通りにしてきた。この三年間、ずっと。それをいきなり、説明もなしに切られるのが、気持ち悪くてしょうがねぇだけだ」
「私が説明しなければ、気がすまない、と?」
「オレはあんたとの契約を守ってきた。契約解除の理由ぐらい、聞かせてくれてもいいんじゃねぇの?」
質問の答えを、マスタングは用意していなかった。
揺るがぬ答えはマスタングの中に確実に存在していたが、それをエドワードに伝えるという選択肢は、最初からマスタングの中には存在していなかったのだ。
エドワードは沈黙に焦れ、心底面倒くさそうなため息を喉から押し出した。
この男は返答する気がないと判断したらしい。
「じゃあ。あんたは、オレに飽きた。だからもういらないと。…そう解釈しておくぜ?」
金の瞳に、まっすぐ見上げられる。
「そうなんだろ?」
エドワードの視線の圧力が、自分の頬骨のあたりにかかるような気がして、マスタングはかすかに顔を背けた。
そうではない、と、ここで返答したら。
飽きたのではなく、むしろその逆であるから解放するのだと答えたら。
この少年は、いったいどうするのだろう。

───今度こそ殺されるかもしれないな。

彼の機械鎧で、今度は外さず深々と心臓を貫かれるその想像は、マスタングにとってひどく甘美なものだった。
甘美に思うことを恥じる余裕さえない。
三年前、初めて唇を奪ったあの時の憤怒など足元にも及ばないであろう勢いで、エドワードは自分を罵り、軽蔑し、やがて怒りに耐えられなくなって───マスタングの肉体を消滅させようとするだろう。
戦場で倒れるより、そういう死に方の方がよほど虚しくないものだとさえマスタングは思った。
有限とはいえ、いつ果てるとも知れない命を長らえながら、自らがこの地上で意味のない存在であることを確かめ続ける。
そんなことにはもう耐えられない。
エドワードが、マスタングの体内の闇を、余すところなく照らすものだから。それだけでなく、心地よいとさえ思っていた闇を、エドワードがことごとく剥がしてゆくものだから。
突然、耐えられなくなったのだ。
強い光に照らされ、心地よい闇の底から姿を現したのは、無限の廃墟だった。
どう修復することもできない廃墟を鼻先に突きつけられて、絶望しない人間はいない。
これまでの所業をどう詫びようと、エドワードは決してマスタングを許さないだろう。
自分にとって最も、そして唯一意味をなす者に、自らの存在を祝福してもらえる。そんな日は、マスタングには永遠に来ないのだ。
他人から愛されなくて、あたりまえだと思っていた。自分はそういう生き物で、それでも結構上手く生きていられるのだから、人生とはそういうものだと思っていた。
だが、この世には、まだマスタングの知らない理(ことわり)があった。

───この世の大部分は、実は、その自分の知らない理のもとで動いているのではないか?

そのことに思い至った時、マスタングの背中に寒気が走った。
子供の浅知恵とはいえ、どう転がれば、死んだ母を錬成したいなどと思うのか、理解できなかった。
生身の手足と引き換えに弟の魂を望むなど、愚かとしか思えなかった。
人ならざる鎧にされて、不自由なその身体を恨まず、兄を恨まず、それどころか兄のために生きている弟がこの世にいるなど、どうしても信じられなかった。
しかし、その愚かな兄弟は、人々に受け入れられ、愛されている。
兄弟の故郷で見た隣家の老女、ヒューズやアームストロング、ホークアイを始めとするマスタングの部下までも皆、彼らを気にかけている。
重大な罪を犯した者が、なぜ再び愛されるのだ?
疑問はすぐに自問に転じた。
上手く生きているはずの私は、なぜ愛されないのだ?と。
そして、返答もやはり自分の中からすぐにやってきた。

───私が、その「理」を、知らないからだ。

私がいつも孤独であるのは、皆が知っているその理を、私だけが知らないからなのだ。
自分の中に、廃墟のようなものしかないと知って絶望したのは。それは、私が、自分には想像もつかないその理を、どうしても理解したいと思ったからなのだ。
目の前の、たった一人の少年が、マスタングのすべてを破壊しつつあった。
廃墟のような人生を長らえる覚悟が、まだ、マスタングにはできていない。
もう触れない、と告げたその舌の根も乾かぬうちに、エドワードの目を、唇を、かつて何度も手を添えた頬を、見つめてしまう。
最後に触れたのはいつだったか。
冷えた身体を抱きしめたのは、スカーの襲撃の後のことで。
唇に触れたのはその数ヶ月前の、イーストシティの図書館で。
それ以前のことは、もう、思い出したくない。
思い出したくもないのに、エドワードについての記憶はあまりに鮮やかで、それがまた、マスタングを苦しめていた。
今の自分も愚かだが、それに輪をかけて愚かだった過去の自分と向き合うのは、マスタングにとってひどく恐ろしい作業だった。
そんな作業すらできないでいる自分を、内心で罵る。
自分が、エドワードに与えた苦しみは、こんなものではないのだ。
愚か過ぎるのにも、ほどがある。
「…君が」
長い長い沈黙に、いらつく気力も無くしていたらしいエドワードは、泳がせていた視線を、けだるげにマスタングの唇に戻した。
「君がそう思いたいのなら、そう思っていればいい」

───君が、私に飽きられた、と安心してくれるなら。

それは、祈りにも似た気持ちだった。
こんなに、誰かの心へ向けて、平安であれと願ったことなどなかった。
エドワードに、罪を許してくれと乞うているのではない。
もうこれからは、自分と遭遇しても何も起こらないと、ごく単純に安心させてやりたかった。
エドワードの弱みをマスタングが握っている状況に変わりはないが、今更エドワードの秘密を暴露したとて、マスタングには何の得もない。
「…相変わらずヤな言い方するよな、あんた」
不満に鼻の穴をふくらませながら、エドワードは再び前髪をかきあげた。

抱きしめたい。もう一度だけ。

マスタングは息を飲んだ。
自分の往生際の悪さに、歯を食いしばる。
けれど、今を逃せば、もう二度と彼に触れることはできない。
エドワードはこの先も、弟のためならどんな危険にも、ためらいなく飛び込んで行くだろう。
彼の心の中枢には、アルフォンスしか存在しない。
それでいいのだと。
それが今の彼にとって最も幸福な状態であるのだと。
マスタングが自分にそう言い聞かせれば聞かせるほど、衝動は、首筋の肉を引きちぎりそうな勢いで喉元にせり上がってくる。
腕は、勝手に動いた。
前髪を、額の生え際にぴたりと手のひらで押し上げたままの姿勢で、エドワードは、鼻先に伸びてきたマスタングのその腕を凝視した。
驚愕を押し殺す金の双眸を無視して、指先だけで頬に触れる。
もう数センチ指を滑らせれば、そこはエドワードの唇だ。
中指の先だけにかすった触感は、ただ冷たかった。
指先が、もげそうなほどに。
エドワードは動かない。
罵声も上げない。
大きく見開いた目を、ただマスタングに向けている。
マスタングはめまいを覚えた。
とっさにこぶしを固く握りしめ、それをこらえる。
こぶしを握りしめ、そっとエドワードの頬から腕を下ろし、彼の視線から逃れるために身体の向きを九十度変えた。
それら一連の軽い動作だけで、倒れるかと思う。
「…自愛したまえ」
こんな状態でも、言葉を発することができる自分が不思議でならない。
「石を探し出す前に、命を落としては…元も、子もない」
きびすを返すと、ゆらりと床が揺れたような気がした。
背中に、エドワードの視線が刺さるのを感じる。
だが振り向くことなく、病室のドアまでの数歩を、マスタングは大変な努力をして歩き抜き、そこからの脱出に成功した。



「起きてたの?明かり、点けるね」
マスタングが病室から出て行って数分後、ノックと共に、夕食のトレイらしきものを片手にしたアルフォンスが入ってきた。
かちり、というスイッチ音と共に、部屋の中に光が弾ける。
光が目に沁みて初めて、エドワードは、自分が真っ暗に近い闇の中に居たことに気づいた。
「どうしたの?まだどこか痛い?」
「…いや。ちょっと、まぶしかっただけだ。それよりおまえ」
「なに?」
サイドテーブルにトレイを置き、アルフォンスはエドワードに向き直る。
「…やっぱ、いいや。なんでもねぇ」
「なんだよもー。気持ち悪いなぁ。なに?ハッキリ言ってよ」
「なんでもねーの!さー、メシだメシ!しっかり食ってさっさと退院すんぜ!」
「兄さん!」
アルフォンスを無視してトレイを引き寄せながら、エドワードは、マスタングと弟が顔を合わせなかったらしい偶然に、感謝を捧げていた。
「契約」は、アルフォンスがその存在を知らぬまま、終了した。
あの契約はすっかり、エドワードの身体と精神に溶け込んで、馴染み深いものとなっていた。
それが、突然に、なくなって。
トレイを引き寄せる肩に、力が入らない。
エドワードは、ふわふわと頼りなく浮遊する気持ちをようやっと引き締めつつ、夕食の皿に添えられたフォークを、自分のものではないような気がする指先で持ち上げた。
銀色のそれをたどたどしく操りながら、気を鎮めるために、先程までの闇の中で考えていたことをもう一度脳裏でなぞる。
なぜか、信じることができた。
マスタングは嘘を言っていないと。
数分前まで目の前にいたあの男は、本心から、エドワードとの契約を解消したがっているのだと思えた。
ただ。
「飽きた」わけでもないのに、なぜ契約を解消したがるのか、それが、エドワードにはわからなかった。
「飽きた」と、ただ簡潔に即答して欲しかったから、ああやって水を向けてやったのに、望んだ答えは得られなかった。
落胆は、むず痒い不安をまとっている。
ただ契約の解消を喜べばいい、深く考える必要も考えてやる義理も全く無いのだと思う一方で、マスタングの真意を知りたがっているもう一人のエドワードがいた。
いや、「知りたがっている」のかどうかも疑わしかった。
マスタングの真意から来る「答え」は、ひどくわかりやすく、ひどく難解であることを、エドワードは既に知っていたからだ。
知っていると認識することさえ恐ろしい、「答え」。
その「答え」に向き合えば、自分はどうなるかわからない。

───指が、震えてやがった。

数分前に頬に触れた指の感触を、エドワードは思い出していた。
あの時、あの指を振り払えなかった自分は、本当に契約の解消を喜んでいるのか?
喜べているのか?
疑い出せば、きりがなかった。
その「答え」を知ってしまえば、それにすべてを支配されてしまいそうな気がする。
他人の思惑に支配されるなど、我慢がならない。そんなものを目の前に突きつけられても、あらん限りの力で跳ね返してみせるし、そうしてきた。
マスタングの契約に従ったのは、それがアルフォンスのためであり、それしか前に進む方法がなかったからだ。身体は彼の自由にさせたが、心まで渡したわけではない。
それが、エドワードの生き方で、それを変えるつもりはない。

はた目には、静かで寂しい夕食の風景だったが。
むず痒い不安は、エドワードの精神の根幹までを、ぐらぐらと揺すぶり続けた。



幾つもの窓辺に明かりがともり、人の声と、各々の家の夕食の香りが漏れてくる。
夜のセントラルの住宅街は、人通りは少なくなっても、寂しいものではなかった。
家々の明かりが鈍く石畳を照らし出す中、黙々とマスタングは歩いていた。
とある大きな建物の前まで来て、足を止める。
病院を出てから、ここに来る道々、自分で自分をあざ笑い続けた。
セントラルで宿など取っていない。早々に駅に向かわなければ、イーストシティ行きの最終便が出てしまう。
それでも、マスタングはここに来てしまった。
何度か来たことのある家だ。道になど、迷わない。それに、家の中の住人に会おうとも思っていない。
だから、少しだけ。
今日は朝から晩まで言い訳三昧だと思いながら、マスタングはその建物を見上げた。
今まで、二度だけ、ここに来た。
彼らが結婚した直後と、彼らに娘が生まれてすぐの頃に。

───ヒューズ。

彼の幸福を象徴するかのような、その明るい窓辺を見上げながら、マスタングは胸中で呼びかけた。
おまえはいつもおせっかいで、人のことばかりかまって。
そんなものは損にしかならないからやめてしまえと、いつだったか俺は言った。

───ま、損もすっけど、たまーに、すんげーおトクなコトが転がって来るからなぁ。

やめらんないねぇ、と。
おまえは言った。

───オセッカイやってっから、おまえにも会えたんだし。

そーゆーコトがあるから、やめらんないんだよ。と。
笑って言った。

ヒューズ。おまえなら、知っているだろう。
損ばかりの世の中で、絶望せずに生きて行く方法を。
おまえは何度も俺にそれを、教えてくれた。
だが、どうしても、俺には理解できなかった。
だからもう一度教えてくれ。
この世界で生きて行く、生き残る、術を。
今聞いても、わからないものはわからないが。
聞いて、もう一度諦めたい。
おまえと俺はしょせん、全く違う世界に生きる人間なのだと。
おまえは家族と共に生き、俺は別の道を行く。

それでいいのだと、もう一度。確信をくれ。

ふいに、見上げていた窓の明かりに影が差した。
子供の、甲高い笑い声が聞こえる。
その窓に、小さな子供を抱き上げる男の姿が映し出された。
マスタングが非常によく知っているその男は、腕をいっぱいまで伸ばして、そこに抱えた子供を軽く揺すぶり、あやしてやっている。
窓の外を見下ろされてはまずいと、マスタングが歩き出しかけたとたん、その姿はふいと窓の奥に消えた。
かすかにかすかに、笑い続ける子供の声が聞こえる。
マスタングの願いは通じた。
この目で彼の幸福をしかと見ることは、どんな言葉よりも厳しく、情け容赦なく、マスタングを叱咤してくれる。

それが、マスタングが見た、ヒューズの最後の姿となった。

マスタングは、もと来た道を、歩き始めた。
別世界の住人たちの、大切な夕食のひとときを、邪魔してはならない。
もう、必要なものは充分に与えてもらったのだ。
礼も言わずに立ち去るのも何か気がひけるが、今、彼らと顔を合わせれば、もっと彼らにとって面倒なことになる。
マスタングは歩く足を速めた。
自分の足だというのに、やたらとその二本の動きが重いような気がする。
まだ大丈夫だとは思うが、セントラル発の列車の時刻を、正確に把握してこなかった。
これ以上イーストシティの家を空けておくと、休み明けにホークアイに何を言われるかわからない。
怜悧な部下の顔を懸命に思い浮かべ、マスタングはますます足を速めながら、別世界から抜け出す心の準備を無理やりに進めた。
住み慣れた廃墟へ、帰るために。

廃墟への道のりは、遠くて近い。