真紅の海に沈むもの



きな臭い地下の廊下を走って、走って。
ダンスパーティでも開けそうなほどに、がらんと広い空間に出る。
その空間には、薄煙が充満していた。薄煙は、ついさっきまで、ここで何かが激しく燃えていたことを物語っている。
エドワードは目をこする。
空間の果てには、扉が見えた。
岩壁のように、がっちり閉まったその巨大な扉の前で、大きな人影と、小さな人影がひとつずつ、床にうずくまっていた。
煙が、エドワードの目と喉にしみる。できるだけそれを吸い込むまいと努力しても、ここまで疾走に疾走を重ねてきたエドワードの肺は、新鮮な酸素をこれでもかと欲しがっていた。
エドワードは煙ごと大きく息を吸い込み、遠くの人影たちに駆け寄る。
不幸中の幸いか、薄煙に悪臭は混じっていない。物質の不完全燃焼は避けられたようで、目にしみても激痛は生じず、すぐにエドワードの肺はその場の空気に順応した。
小さな人影が、ホークアイの声で悲鳴を上げた。
「大佐!大佐!!しっかりしてください!!」
傍らの大きな人影は、がしゃりと金属音を鳴らしてこちらを振り向いた。
「に…兄さん!?どうしてここに?」
駆け寄ってみると、人影は二つではなかった。
小さなホークアイと大きなアルフォンスの鎧の足元でもう一人、乱れた軍服姿の男が横たわっている。
「目を開けてください!大佐!!」
いつもの軍服ではなく、私服姿のホークアイは、エドワードを振り向かない。床に横たわるマスタングの脇腹を両手で押さえて、悲鳴のようにマスタングを呼び続けている。
マスタングの脇腹も、ホークアイの両手も、その周りの床も、見つめる目が痛みそうなほどに、真っ赤だ。
エドワードは立ちつくす。
「どうなってんだ!何で大佐が、こんな、」
アルフォンスの問いかけも無視して、ホークアイの隣に膝をつく。
見たことのない顔色で、マスタングは目を閉じている。失神しているのか、ホークアイがいくら呼んでも、反応がない。
ホークアイの湿った手の甲が、光線を反射してぬるぬると白く光る。
いっこうに乾きそうもないその手を見て、エドワードは鳥肌を立てた。
とっさに、ホークアイの手をつかんで、そこからひき剥がす。
息を飲む彼女に声もかけず、エドワードはコートを脱ぎ、くしゃくしゃに丸めて、ホークアイが押さえていたマスタングの傷口に、それを押し当てた。
「おい!しっかりしろよ!!」
ものの十秒もしないうちに、押し当てたコートが、エドワードの指の下でじわりと湿り始めた。
その重い水液の感触に、もう一度鳥肌が立つ。
「目ぇ開けろ!大佐!」
中指に、人差し指に。
「目ぇ開けろっ!!」
そして親指の腹に、じわりじわりと重く、赤い水が染みてくる。
手のひらまで、容赦なく。

───どうすりゃいいんだ。

血管の破損を再構築する方法は、皮膚の損傷を再構築する方法は、失われた血液成分を再構築する方法は。
人体錬成の理論の断片が、エドワードの脳裏を猛スピードで駆け抜ける。
マスタングの血液は、気が遠くなりそうに温かい。
もっとしっかりと傷口を押さえなければいけないのに、温かい血液に触れたエドワードの指はがたがたと震え始め、握力が空回りする。
「アル!医者呼んでくれ!」
全身を貫く寒気に脳まで冷やされ、エドワードはやっとアルフォンスの存在を思い出す。
だが、アルフォンスの答えは、かぼそいものだった。
「ごめん…兄さん、僕、いろいろ壊れてて…動けないんだ、だから」
ふと振り向いて、まじまじと見てみると、アルフォンスの鎧は肩やら腕やらをあちこち破損している。その場にうずくまっていると思った格好は、足さえも破損して、立てないでいるからなのだ。
破損した鎧の足元には、血で描かれたらしい錬成陣が、びっしりと記号を並べている。
「中尉!ごめん、もう一度押さえてて!」
マスタングの傷口をホークアイに任せ、アルフォンスにしがみつくように、エドワードは鎧を再錬成した。
「大佐!お気がつかれましたか!?」
息をつく間もなくホークアイの声が響き、はっとする。
「……て、くれ…」
うっすらと目を開けたマスタングが、何か言っている。
「何ですか!?どうなさいました!?」
身を乗り出し、ホークアイが耳をマスタングの口元に近づける。
「やく、医者を…」
嗄(か)れたような声は、ようやくエドワードの耳にも届いた。
「……ボックに、医者を、呼んでやって、くれ」
「ハボック少尉も、負傷しているのですか!?」
「………」
ホークアイの問いに、わずかにうなずいて、マスタングはまた目を閉じる。
「大佐!!」
「目ぇ開けてろっ!バカ!!」
ホークアイとエドワードの叫びが、同時に響き渡る。
今、もう一度マスタングを失神させたら、二度と彼は目覚めないかもしれない。そんな強迫観念が、エドワードの身体をますますこわばらせていた。
自分の血液など一滴も失っていないのに、頭のてっぺんからつま先まで、氷漬けにされたように冷える。冷えたうえに心臓はぎりぎりと痛み、痛さやら冷たさやらで、エドワードの視界の縁は、ゆらゆらと歪む。
目的のためなら汚い手も平気で使い、他人の心をもてあそび、涼しい顔で嘘八百を口にする、そんな人格破綻者のマスタングは、自分のありったけのエネルギーを今、部下のために使った。口をきくのもやっとの状況で、ハボックの危機をホークアイに伝えたのだ。

───安心してんじゃねぇよ。

それさえ伝えれば、もう思い残すことはないと、閉じたマスタングの、蒼白なまぶたが語っているようだ。

───安心してんじゃねぇよ。
───オレに死ぬなって言ったの、あんただろ。なのに、自分はそんな涼しい顔して死ぬのかよ。
───あんな意地汚い根性してるくせに、自分の命はどうでもいいのかよ。こんなんで死ぬことが、カッコイイとでも思ってんのかよ。こんなとこで終わっちまうのが、悔しくねぇのかよ。

マスタングはいつも死にたがっていた。
エドワードは何度、彼に殺してくれと頼まれたことだろう。

───自分は死にたいくせに、ヒトに死ぬなとか命令すんの、おかしいだろ。あんたの性格が壊れてんのはもうわかってるけど、こんなのは、絶対に、おかしいだろ。

「生きろよっ!!」

床一面の、真紅の海に浸されて、がっくりと力を失くしたマスタングの指を、エドワードはつかみ上げる。
「オレにことわりもなく勝手に死ぬな!目ぇ開けろ!大佐!!」
つかんだ指は、ただ冷たい。
「目ぇ開けろったら!!!バカやろうっ!!!」
絶叫の語尾が、空間のすみずみまで染み通った直後。
その反響をなだめるように、鎧を揺らすせわしない足音が近づいた。
「兄さん!!」
いつのまにこの場を離れていたのか、アルフォンスが暗い廊下の彼方から駆けてくる。後ろに、数人の兵士を従えて。
「救護に来ました!負傷者はこちらですか!?」
担架を抱えた兵士たちの後ろに、医師らしい白衣の人物が見える。
安心には程遠いが、立てていた膝の力が抜け、エドワードはその場に深く座りこんだ。



深夜の病院は静まりかえっている。
連なる病室よりもずっと奥深い場所の、入り組んだ廊下の果てにある手術室の前で、ホークアイとエルリック兄弟は、並んで長椅子に腰掛けていた。
ここまでの経緯を、セントラルに戻ったばかりのエドワードに説明し、ホークアイは黙り込んでしまった。
その沈黙の気まずさをフォローするように、今度はアルフォンスがぽつりぽつりと説明を始める。
ホークアイとアルフォンスに両脇から挟まれたまま、エドワードは身じろぎもせず座り続ける。
何分たったのかわからない沈黙の後、ホークアイが立ち上がった。
「エドワード君。アルフォンス君。私はハボック少尉の容態を聞いてくるから、大佐の手術が終わるまで、ここにいてくれる?」
ホークアイの顔色は、人形のように白い。
白い顔に埋め込まれた、濃い琥珀色の瞳は、全く揺らぐこともなく、エドワードとアルフォンスを見下ろしている。
「それ。僕が行きます」
「いいよアル。オレが行ってくっから」
「兄さんは中尉と一緒にここにいてよ」
「二人とも、私のことはいいから…」
「中尉は大佐の副官なんでしょう?それならここにいる義務が」
「大佐の部下全員の状態を把握しておくことも、私の務めよ」
「それはそうかもしれませんけど…でも、それだと、僕の気がすまないんです」
「お気遣いは無用よ。ありがとう」
「でも僕は」
「すぐ戻ってくるから。お願い。これ以上何かしてもらうと、私が心苦しいの。アルフォンス君、わかってくれるわね?」
柔らかい言葉でぴしゃりとアルフォンスを拒絶し、言いよどむ彼の顔も見ずに、ホークアイは静かに靴を鳴らして歩き去る。
腰を浮かすこともできないまま、兄弟は長椅子の上に取り残された。



「なんか…さっきの、中尉らしくなかったな」
小さな吐息の後、長椅子の上で縮めていた片足を前に投げ出し、エドワードは天井に向かってつぶやく。
「しかたないよ。大佐がこんなことになって、中尉が落ち着いてられるわけないもの」
アルフォンスは、うつむいたきりだ。
「けど、あの大佐の下で、涼しーい顔して、どんな時も絶対にアワ食ったりしない中尉が、まさか」
「中尉、泣いてたんだ」
驚いて、エドワードはアルフォンスの鎧を見上げた。
「僕と中尉だけの秘密にしておこうと思ってたけど…でも、兄さんにはわかってほしいから、言うね」
大きな図体を恥じるように、アルフォンスはきしきしと鋼鉄の背を丸めた。
「泣いてたんだ中尉。『大佐が死んだ』って、ホムンクルスに聞かされた時。大佐が死んだら、もう、生きてる意味なんかなんにもない、って、そんな顔してたんだよ」
鎧の中にこもる声すら、空間の内へ内へと縮んでいくようだ。
「中尉は、大佐のことが大事なんだ。すごく」
「そっか」
「僕は中尉を助けられたかもしれないけど、僕のせいで、大佐はケガがひどくなったんだ。だから、中尉はいろんな意味で、僕の顔を今はあまり見ていたくないんじゃないかなって」
「…そっか…」
「兄さんも、そうなの?」
「なにが」
「大佐のために、さっき必死になってたでしょ。あんな兄さん、久しぶりに見たからさ」
「……そ、れは…」
意外すぎる人物から意外すぎる質問をされて、エドワードは答えに窮した。
そうだ、とここで答えれば、アルフォンスは怒り狂うのだろうか。
違う、と答えれば、安心するのだろうか。
それとも、アルフォンスはもう何もかもすべてを悟っていて、最終確認をするためだけに、エドワードにこんな重苦しい質問をしているのだろうか。
急に周囲の空気の温度が下がった気がして、エドワードは膝の上の手を握りしめる。
この寒いのに、エドワードは薄いジャケット一枚きりの姿だ。今この時まで、寒さなどすっかり忘れていた。
血で真っ黒に湿ったエドワードのコートは、もう着られそうもなく、ここに来る前に、救護の兵士にそれを廃棄してくれるように頼んだ。
身体も精神も冷えすぎて、温度感覚など、吹っ飛んでしまっていた。
この殺風景な病院の廊下で、緊張しているような、ぼんやり意識がかすむような、言いようのない穏やかな恐ろしさの中で、エドワードはただ時間が過ぎるのを待っている。
ただ、あの男の覚醒を祈って。
それはとてもシンプルな感情なのに、とうていそれは、アルフォンスに説明しきれるようなものではない。
言葉を喉に詰まらせたままのエドワードを助けるように、長椅子の脇のドアが開いた。
「終わりましたよ」
術衣を着た医師の姿に、兄弟は飛び上がる。
駆け寄って来た、大きくて小さい二人に気圧されて、医師は半歩下がりながらニュートラルな表情で、言った。
「命は取りとめました」



───命は取りとめました。ですが、危険な状態であることに変わりありません。

医師の言葉が、エドワードの意識の中を、繰り返し巡る。

───出血量が多すぎました。指示があるまで、絶対に安静に。

アルフォンスは、ホークアイを呼びに行った。
暗い病室のベッドサイドに、ぽつりと明かりを点け、エドワードは立ったまま、眠るマスタングを見下ろす。
頼りない照明の下で、マスタングの顔色はいっそう青い。部屋をもっと煌々(こうこう)と照らしたいが、今は深夜だ。病棟の消灯時間は過ぎている。
この期に及んで、まだ血液の錬成理論を考えようとしている自分に気づき、エドワードは声もなくうめいた。
「しっかり、しろっての…」
目前のマスタングではなく、自分に向けてつぶやいて、自分のこめかみを数度、叩いてもみる。

───なんでこんなに、無力なんだろう。

それは、幾度も幾度も考えて、身体の奥の奥にまで染みこんでいたはずの後悔だった。
恐ろしい代償を払い、二度とするまいと誓った人体錬成を、こんなにも振り捨てられない、自分の弱さと愚かさにくらくらする。
その愚かさの裏には、さっきアルフォンスに説明しそこなった、単純明快な感情が、ずっしりと貼りついている。
誰もが考える、禁忌の錬成。
それは、誰もが考えるから、禁忌とされたのだろう。
だが、人である限り、その禁忌の誘惑からは逃れられない。
なぜそんなものに誘惑されるのか、と笑うことができる人間は、おそらく、人としての感情を、まだ知らないのだ。
壮大な言い訳を胸にしまいこみ、エドワードは手を伸ばす。
点滴のために投げ出されたマスタングの腕の、その指先に触れようとして、ふと止める。
この指で彼はロス少尉を逃がし、ハボックやアルフォンスのために血の錬成陣を描いた。かつてエドワードを苛んだ、この同じ指で。

───わけわかんねぇんだよ、あんたは。

嫌悪という記憶で固くせき止めてきたその感情は、もうエドワードの喉元から、こぼれかかっている。
恐ろしくて、認めたくなくて、その感情ごと自身の存在まで消し去りたいと、何度も思った。
けれどももう、決めたのだ。
エドワードは、マスタングの胸元を見つめる。
目が乾きそうなほどの集中力で。
本当に呼吸しているのか、マスタングの吐息を確認したいが、かの口元に手で触れるにしろ、唇で触れるにしろ、その行為はためらわれた。そして、それを実行してしまうと、逆説的に彼は目を覚まさないような気がした。

───そんなに、怖いか?

エドワードは自問する。
地下道では、あんなに夢中でマスタングの指をつかんでいたのに、ちょっと状況が変わっただけで、もう自分の心は元通りに脅えてしまっている。
そんなに、彼が命を落とすのが怖いか?
そんなに、彼をいたわるのが怖いか?
そんなに、彼に触れるのが怖いか?
あれもこれも矛盾しつつ、それでも、自問はすべてそのとおりのような気がした。
見知らぬ人間が血まみれで倒れていたとしても、やはりエドワードは先刻と同じように動転し、何とかしてその人物を助けたいと努力しただろう。
けれども、その「良心の行動」だけでは説明できない何かが、エドワードの中からこぼれかかっているのだ。

───ああ。くらくらする。

自分の意識の中に確かに存在するそれを、どうしても言語に変換できない。
言葉を知らない幼児のように、泣き叫べば楽になるだろうか。
それとも逆に、この男に触れたいだけ触れれば、楽になるのだろうか。
マスタングの胸元にかけられた毛布は、本当にゆっくりと、上下運動を繰り返している。
マスタングは、確実に、呼吸している。
そのちっぽけで重大な事実が、今にもこぼれそうなエドワードの感情の体積を、じりじりと増やす。
点滴の管に繋がれ、シーツの上に転がる腕は、力無くその指を開いたままだ。
炎を呼ぶ、残酷で優しい指は、跡形もなくその血糊を拭かれて、ごわごわと骨ばっている。
ほんの指先だけで、エドワードはマスタングの人差し指の、爪に触れた。
硬いそれが、冷たくないことに安堵して、胸が痛む。
硬いそれから指を滑らせて、やっとそこを握り込む。
これは、彼の指を暖めようという気遣いではない。
ただエドワードが、自身の心を落ち着けるために、そうしているだけだ。
それにしても、誰も見ていないのに、バツの悪い思いをこんなにも味わっている自分が、とても損をしているような気がする。

───オレだけ一人で恥かくなんて、割にあわねぇ。

こんな行為は、この死にたがりな男が覚醒していなければ意味がない。

───目ぇ覚ませ。早く。

「まだ、オレはあんたに言ってないことがあるんだ」
口に出すと、心臓がまた、ひとしきり痛んだ。
もう決めたというのに、この身体は、どこまでも臆病者だ。
ドアの向こうから、規則正しい金属音が近づいてくる。
アルフォンスが、中尉をここまで案内してきたのだろう。
痛む胸に息を詰めながら、エドワードは握りしめていたマスタングの指を、そっと解放した。

夜明けはまだ先だ。