雪上の竜



短い休暇を実家で過ごして、ヒューズが軍の寮に帰ってきてみると、隣人は寝込んでいた。

「なんでこんなんなるまでほっとくんだお前は!」
「別に人を呼ぶほどのことじゃない。寝ていれば治る」
「人を呼べばもっと早く治るんだよ!!」
寮の管理人からもらってきた氷を洗面器にあけながら、ヒューズは高熱を出してもひねくれたままの隣人を怒鳴りつけた。
誰彼と出入りの多いヒューズの部屋に比べて、隣室のマスタングの部屋に親しげに出入りする者はほとんどいない。ほとんどというより、ヒューズしかいないような有様だ。
軍事訓練の成績はトップクラスで上官のお気に入り、そのくせ寮の門限は破り放題で一ヶ月に一度は寮の前で女が待ち伏せしているが、夜遊びの経緯を誰に自慢するでもない口数の少ない男。そんなロイ・マスタングに寮内の友人など、そうそう出来るはずもなかった。
だが何事にも例外はつきもので、寮内で彼と口を利いたことがない者はいないんじゃないかというほどのお祭り男、マース・ヒューズがそれであった。
それほどのお祭り男なのだから、あの女たらし偏屈男ともやっていけるのだろうと寮中が妙に納得してしまい、ヒューズを媒介にしてマスタングの友人が増えるようなこともなく、かつヒューズはお祭り男ながら妙に他人のプライバシーには潔癖で、周囲が興味本位に問い詰めてもマスタングとの会話の内容を吹聴したりしなかったから、入隊から一年経っても相変わらずマスタングと付き合うのはヒューズだけで、ヒューズだけがマスタングの「友人」なのだった。
「ひでぇ。こんな熱でよくまあ丸二日寝ていられたもんだ」
「昨日から熱があったわけじゃない」
「あークソ、もう黙ってろ!えーと、とりあえず水と、塩分補給だ。なんか食いたいモンは?食えそうか?」
「……………」
「ヒトがなんか訊いてる時には返事しろ」
「…黙ってろと言ったのはお前だ」
「殴るぞ」
「好きにしろ」
マスタングに聞かせるための盛大なため息のあと、なんとも渋い顔でヒューズはわしゃわしゃと頭をかきむしった。
額を氷水で冷やすぐらいじゃダメかもしれない。こいつは嫌がるだろうが医者を呼んだほうがいいかも…病人のベッド脇に突っ立って、それこそ額を押さえて考え込んでいると、またいまいましい声がする。
「ヒューズ。もういいから部屋に帰れ」
熱のせいで、息をするのも辛いはずだ。それなのに、言葉を途切らせないよう、滑らかに聞こえるよう、ものすごい努力をしてこの男はしゃべっている。
「バカヤロウ。帰れるか」
短く返してマスタングを見下ろすと、複雑な表情と真正面からぶつかった。
な、なんだこの捨てイヌみたいなカオは…?
こいつが寝込むのは初めて見たけど、それにしたって。
「上着が濡れてる。早く部屋に帰って着替えろ」
「あぁ?」
何を言い出すのかと思えば。
確かに外は雪で、ヒューズは帰ってきて荷物を自室に置いたその足でここに来ていたが。
「疲れてるんだろう。帰れ。こんな雪じゃ医者も来れない」
頭の中を見透かされたのが悔しいような、嬉しいような。
とにかくこの男には、もう少しましな口の利き方を教えてやらねばならないようだった。




マスタングの熱は真夜中に上がり、明け方に下がった。
寝ずの番をされるのは絶対にイヤだとごねる病人の主張を聞き入れ、ヒューズはマスタングの部屋の鍵を半ば強奪して自室に戻った。夜中にその鍵を使って病人の部屋に入り、様子を見るためだ。
その晩は二度、様子を見に行ったが、マスタングはその都度苦しげに目を覚まして「大丈夫だ」と繰り返した。
そんな状態で、そんな言葉は、繰り返せば繰り返すほど、「具合が悪い」と主張しているようなモンだぞ。
こいつ、意外に鈍い。
ヒューズは腹立ちを通り越して呆れた。
ま、病人だものな、今は。
そういうことにしておくしかなかった。




翌日、いつも通りに出勤しようとしたマスタングはドアの前でヒューズに捕まり、再度ベッドにねじ込まれた。
「…ムダだぞ。お前が出勤した後に、俺は遅刻してでも行くからな」
ベッドの中のマスタングは、苦虫をかみつぶして飲み下して下痢寸前のような顔でうそぶく。
「あァ、安心しな。俺の休暇は今日までだ。暇つぶしにゆーっくり、じーっくり、看病してやるさ」
減らない口だ。
ヒューズの全開の笑顔に、さしもの強情な病人もKOされ、さらにさらに深くベッドに沈まざるをえなかった。
粥だスープだ果物だと、どう寮の管理人を口説いたのかヒューズは色々な食料を調達してマスタングに食べさせた。昨夜の高熱がうそのように下がっていたマスタングは、もうすっかり大丈夫だと主張したが、ヒューズはがんとして彼をベッドから出さなかった。
「ベッドで一日何をしてろというんだ」
半身を起こして上着を肩にかけ、腕組みをしたマスタングは、だんだんといつもの迫力を取り戻しつつある。
だがそんなことに少しも動じないのがヒューズのヒューズたるゆえんだった。断りもなく、デスクの前の椅子をずりずりと引き寄せて、ベッドのそばに置いたかと思うと、馬にまたがるようにだらしなく腰掛けて、背もたれの上に肘を、肘の上にあごを乗せた。
「あーよっこらせ。…そんじゃーお話でもしてもらうか。例のウワサの」
「例のウワサ?」
「試験、受けるんだって?錬金術師の。ホントか?」
別に隠していたつもりはない。
口さがない寮の連中のこと、わざわざ自分から言わなくても誰かが勝手に吹聴してくれるだろうと予想はしていた。
「ああ。本当だ」
「お前って錬金術なんか使えたの?」
「まあ…それなりには」
「『それなり』程度で通るようなモンじゃねぇぞ、ありゃーまがりなりにも国家試験だぜ?」
「勝算がなさそうなものに俺は手は出さない」
「ひょー。大した自信だな」
「受験すると表明してるんだ、謙遜してもしかたないだろう」
ヒューズが目をぱちぱちさせるのがおかしくて、マスタングはほんの少しだけ表情を緩めた。
ヒューズはそのまま天井を仰いだり床に向かってため息をついたり、うーんうーんとうなったりと落ち着かない。その動作にあるものを感じ取って、マスタングはさらに口元の筋肉を緩めた。
「お前は、錬金術を見たいとは言わないんだな」
うっ、と息を詰めたあと、ヒューズはカリカリと首筋をかいた。困った時、図星を指された時のしぐさだ。
「うーん。いやそのー、ああいうものって先祖代々の秘伝とか、そんなカンジのもんじゃねぇの?俺ァ家族にも知り合いにも錬金術師っていなかったからさー、そのへんの事情がよくわかんなくってよ」
ヒューズらしいといえば、らしい。
誰にでもずうずうしいくらいあけっぴろげに接する一方で、踏み込まれたくないと思っている人間の精神的境界線がどこにあるか、野生のカンで嗅ぎ取っている。逆にいえば、それが嗅ぎ取れるから「誰にでもずうずうしいくらいあけっぴろげに」接するという至難の業がこなせるのだろう。
「…俺も、見せびらかしたいという欲がないわけじゃないが」
キョトンとしたヒューズの顔も、人の良さ丸出しで、なかなかいい。
「今まで、見せびらかして得をしたことがないから、なるべく人目につかないようにしているだけだ」
「見せびらかしたって、いつよ?お前が?」
人の良さ丸出しの隣人は、急に笑いをこらえられなくなったようだった。
肩が震えている。
「子供の頃の話だ」
「えー?錬金術って、子供でも使えんの?」
「才能のある錬金術師は、たいていそうだと聞いている」
「はぁー。へぇー。そうですか…」
この期に及んで謙遜しないマスタングに呆れたのかそんなことすら吹っ飛んでしまったのか、妙な丁寧語を使いながら、ヒューズは椅子に尻を据え直した。
マスタングは淡々と話を続けた。
「…子供の頃、家の近くで火事があった。その家は空家で火の気が無かったんで、俺が錬金術で遊び半分に火をつけたんじゃないかとウワサされた」
「そ、そりゃまた…」
ヒューズの笑顔がこわばる。
「ウワサする近所の奥さん連中の前で母親は俺をかばってくれたが」
「まーそりゃ当たり前だわなぁ。でなきゃ親じゃねぇ」
「でも家へ帰ってから、母親は俺にこう言った。『あんたが火をつけたなんてことになったら、父さんに何て言われるか…!』」
ヒューズの笑顔がさっと消えた。
「人を焼き殺したい、と思ったのはその時だけだな…」
言ってから、しまったと思ったがもう遅い。
治りかけとはいえ、体調がおかしいと、頭まで少々どうかしてしまうのだろう。誰にも話すまいと決めていたことがこんなにも簡単に、ぼろぼろと口から転がり出てしまう。
マスタングは慣れない気分をもてあましていた。
本当は少し嬉しかったのだ。
誰にも会わずに寝込んでいた2日間、何度かヒューズのことを考えた。
こんなに親切に、叱られるほどに看病してもらえるなどとは思わなかった。
それなのに、もうヒューズの顔が正面から見られない。
「…それ以来、物騒なことは考えたことがない。だから安心しろ」
あわてて取りつくろってみても、間に合わない。
ひどく重く思えた沈黙の後、ヒューズの鼻息ともため息ともつかないお気楽そうな吐息が聞こえて、マスタングは視線を浮かせた。
視線の先には、ニヤニヤ、と音がしそうな人の悪い笑顔が。
「俺はいつも、安心してるぜ?」
一瞬で顔が熱くなった。
「前言撤回だ。軍人たるもの、むやみに他人を信用するな」
上着をヒューズの顔に投げつけ、マスタングは毛布を引っかぶった。
ヒューズの気遣いを、心から嬉しいと思いながら。




ヒューズに強制的に昼寝をさせられ、夜になって、ようやくマスタングは部屋の外に出て食事をすることができた。相変わらずヒューズはコバンザメのようにマスタングに張り付いていて、食事の後も寄り道一つさせずにぐいぐいと部屋に帰り、マスタングの部屋の鍵をホテルマンのごとく開けてやった。
「さあ、仕事も女遊びも明日から、っちゅうことで、今日ももうおとなしく寝るんだな」
おせっかいなホテルマンは、追いはぎのようにマスタングのコートをむしりとり、ベッドの方角へドンと背中を突き飛ばした。
「言われなくてもそのつもりだ」
「ほんじゃま。試験に受かって、ガンガン出世して、俺のことも引き立ててくれる日を待ってるぜ」きびすを返してドアから出て行きかけて、マスタングの返事がないのに気づき、ヒューズはふい、と振り向いた。
ベッドに腰掛けたマスタングが、また、あの顔をしている。
捨てイヌの顔だ。
「ん?どうした」
返事が来るまで、たっぷり10秒は待っただろうか。
「…………いろいろ、すまなかったな」
女を口説く殺し文句より言いづらかったであろう言葉を、どうにか喉から押し出した未来の国家錬金術師は、年よりも、ひどく幼く見えた。
まったく飽きねぇぜ、こいつと付き合うのは。
いつもの笑顔でヒューズは両の手のひらをひらひらと振った。
「ダメダメ、マスタング君。もっと世渡り上手になれる方法を教えてやろう。こういう時はな、『すまない』じゃなくて、『ありがとう』って言うんだ」
「………ありがとう」
途端にヒューズは満月のように目を丸くして動かなくなった。
「どうかしたのか」
「いや…ホントに言うとは思わなかったぞ」
次の瞬間。
ドアの前でヒューズはいきなり、フライパンの上で跳ねるソーセージと化した。
「わっ、わわわっ、なんだこの火花はぁっ!!」
マスタングがサイドボードに散らかしていたメモ帳に錬成陣を殴り書きし、ヒューズの靴のつま先を焦がしたのだった。




1ヶ月後。
積もった雪もまだ解けない早春のとある夜のことだった。
「じゃあ、今から俺の自己顕示欲をお前で満足させてもらう」
理解するのに数秒はかかるような素直じゃないセリフを吐かれて、ヒューズはマスタングに軍倉庫そばの空き地まで引きずっていかれた。
「おーい、試験は明日だってのに、こんなことしてるヒマがあんのかよ」
「今さらじたばたしてももう意味がない」
「いやいや、今日チラッとヤマをかけたところが明日ドカーンと出題されるかもしれないぜー?」
「いたずらに人の不安をあおるな」
「やっぱり不安なんじゃねーか」
「うるさい。だまって見てろ」
「で、何するわけ?こんなとこで」
 「明日の肩慣らしだ」
持っていたランタンをぐいとヒューズに押しつけ、マスタングは黒い革手袋を自分の手から引き抜いた。
革手袋の下から現れたのは、見慣れない模様が描かれた、真っ白な手袋で。
「何だお前、2枚も手袋…」
ヒューズが言い終わらないうちに、マスタングの指先から紫色の火花が散った。
火花は、ばん!という音と同時に火の玉になり、足跡ひとつない雪の上を、空き地の中心に向かって転がる。
そのまま質量を増やし、細長く伸びる。
紫がかったオレンジ色の炎の帯が、雪上にマリンブルーの溝を作りながら、長い長い蛇のようにどこまでも伸びてゆく。
いや、蛇なんてカワイイもんじゃねぇ、これは。
竜だ。
紅蓮の竜は雪の上を信じられない速さで這い、のたうち、何かを捜し求めるように、天に向けて螺旋の形にうねった。
炎に切り裂かれても解けきれない雪は、炎の勢いよりも少し遅れて飛沫(しぶき)になる。小さな小さな氷の粒が跳ね上げられ、幾万も炎に反射して、キラキラと宙を落ちてゆく。
恐ろしいほど、美しい。
本能的な炎への恐怖と紙一重ではあったが、ヒューズは恐怖でないものが確かに自分の背筋を通り抜けたのを感じ取った。
ほのかな熱が、風圧となって身体に染みてくる。
天へ向かおうとした竜は、中空で火柱に変わり、突然、ごう、という音と共に力尽きて霧散した。
ぱん!ぱん!ぱん!
ゆっくりした拍手の音が、倉庫の壁と足元の雪に吸い込まれてゆく。
「いやーーー、たいしたモンだーー。いいモン見せてもらった!!」
足元に置いたランタンに照らされ、間抜けな幽霊のような顔でヒューズは笑う。
その無邪気な笑顔を見た途端に、マスタングの肩の力が抜けた。
いったいなんだろう。
この晴れやかな気分は。
不思議な感情への答えは、どこからかすぐにやってきた。
その答えは、本当にいきなり、胸の中にすとんと落ちてきたのだ。

───そうだったのか。

疑いでも、妬みでも、羨望でもない。万来の拍手でもない。
俺が欲しかったのは。
心からの、ささやかな喝采。
それだけだったのだ。
「お前、大道芸人かサーカスに就職した方がよかったんじゃねーのか?」
「ああいう真面目な商売は俺には向かない。俺は金と地位が欲しい、どこにでもいる普通の人間だからな」
「ハハ。どーだか」
軽くいなすヒューズに答えずに、マスタングは元通り革手袋をはめて、ランタンを彼の足元から穏やかに拾い上げた。
「時間を取らせてすまなかった。帰るぞ」
また悪い癖が出た、こういう時は「ありがとう」だろうが、とヒューズは喉まで出かかったが、マスタングがあまりにも穏やかに、絵に描いたように「気が済んだ」という顔をしているので、今晩は勘弁してやることにして、黙って寮まで歩いた。




「おーい!ロイ!ロイ・マスタング!!」
翌朝、準備をすべて整えて寮の建物から出たところで、マスタングは大声で呼び止められた。
声は上の方から降ってくる。
見上げると、寮の2階の部屋の窓から、ヒューズと数人の寮生が乗り出さんばかりに自分を見下ろしている。
「なんだ!?俺はあんまり時間がないんだ!」
眉をひそめて怒鳴り返したところで、ヒューズが脇の彼らに目配せする。
ばさり、と大きな音がして。
少量のホコリが落ちてくる気配に目をすがめたマスタングの視線の先に、清潔とはいえなさそうなシーツがはためいた。
それには、汚い巨大な字で、「ロイ・マスタングを激励する!!(注・お好きな英語でご想像ください)」と書かれてあった。
突然のことに、言葉も出ない。
「では!未来の国家錬金術師殿の、健闘を祈る!!」
ヒューズの明るい大声と共に、皆そろっての敬礼を向けられて、自分が今どんな間抜けな顔をしているか、マスタングはあまり想像したくなかった。
かろうじて、おろおろと敬礼を返す。
ここで言わなければいけないのは、先日ヒューズの教えてくれたあのセリフしかないような気がしたが、大声で、しかも複数の人間が見ている前でそれを口にできるほどの素直さは、やはりまだマスタングに備わってはいなかった。
だから、仕方なく、笑ってやった。
手を大きく振ってやる、というサービス付きで。
そのまま彼らに背を向けて、門へ向かう。
背後で、ヒューズたちが何やらどよめいているが、振り向く未練も度胸もなかった。
本来なら歩くのも滅入ったであろう雪解けの泥道を、足取りも軽く歩く。
そういえば、親以外の人間にファーストネームで呼ばれたのは、いったい何年ぶりだろう。

───ヒューズ。俺の中に、これ以上、入ってくるな。

心の中で言葉にした瞬間に、それは嘘だと思えた。


あの横断幕を見て、マスタングが笑うか怒るか寮中で賭けていたとネタにされた当人が知り、ヒューズの一張羅の靴底が焼け焦げるのは、試験3日後のことであった。