戦争をもたらすもの



これを幸運と言わずして、何と言おうか。
アルフォンスはその胸の内で叫んだ。


この数ヶ月、研究に熱心すぎるとは思っていたのだ。
朝、研究室に来れば、彼はもうそこにいた。夜、彼が自分より先に帰るところを見たことがない。
もともと、ロケットに対する彼の熱意は半端なものではなく、その膨大な知識も、意外性のある発想もどこかクラシックでズレたところはあるものの半端ではなく、そのズレさえもが魅力的で、何よりも生き生きと空への憧憬を語る金色の瞳が、アルフォンスの心を捕らえて離さなかったのだ。

その彼が研究室に入り浸っていた原因が、「家に帰りたくなかったから」だなんて。

彼には同情を禁じえないが、アルフォンスは胸の鼓動が早くなるのを抑えきれなかった。

───家に帰りたくなければ、うちに来ればいい。

これが幸運でなくて、なんだろう?


※※※
 
 
夕食を済ませて机に向かい、借りてきた本を読もうと思ったら、それを研究室に忘れてきたのに気がついた。
返却期日は明日だ。期日を延ばし延ばしにしてもらって、あと少し¥・で読み切れる予定だった。
夜の闇の中、アルフォンスがその忘れ物を取りに、研究室へ一歩足を踏み入れると。
床に、毛布のかたまりがあったのだ。
「エドワード……さん?」
「うわ。やべ。…アルフォンス…か?」
ドアの開閉音と、明かりを点けるスイッチ音に驚いて、とっさに床から起き上がったらしいエドワードの前髪は、飼葉桶の中のワラのようにくしゃくしゃだ。
「なに、やってるんですか?そんなとこで」
「……寝てたんだよ。見てわかんねーか?」
開き直った悪童のような言葉の裏に、ひどい羞恥が隠されている。アルフォンスは、この場では笑っても怒ってもいけないと、自らの心を引き締めた。
「帰る時間が惜しいのはわかりますけど。風邪ひきますよ。今からでもいいから帰りましょうよ」
答えがない。
「エドワードさん?」
エドワードはうつむいたまま動かない。
アルフォンスはその場で首をかしげて、長い前髪に隠されて見えなくなったエドワードのまなざしを探った。
心臓の鼓動が早くなっているのを自覚する。
今、目の前でうつむいているエドワードは、アルフォンスの見たことのないエドワードだったからだ。
知り合って、一年と少し。
ルーマニアのオーベルト氏のもとから、アルフォンスとエドワードがこのミュンヘンへ帰ってきて、数ヶ月が経っていた。。
アルフォンスの知るエドワードは、ロケットの研究にとりつかれたように熱心で、陽気で、でも気が短くて、年上のくせに時々子供のような顔をして、読書中の本のわからない部分をアルフォンスに尋ねに来る少年だった。
研究を共にする仲間は他にもいるのに、なぜか、エドワードは特別に自分を気にかけてくれていた。
出会った瞬間に、深く魅入られてしまったことがエドワードにばれているのかと焦ったこともあったが、ある日、アルフォンスのその焦りはあっさりと解消されてしまった。

───弟に、似てるんだ。

そう言って、申し訳なさそうに、アルフォンスから視線を逸らして笑ったその時のエドワードは、ひとつ年上とは思えない、何か老成したような重い空気を漂わせていた。
事情があって会えない、生きているか死んでいるかもわからない弟に似ているから、つい懐かしくて、と。
正直に告白するエドワードの伏せられたまつげを見下ろしながら、アルフォンスは安心し、落胆し、そしてもう一度安心した。
自分の不埒な想いが、エドワードに感づかれていたわけではないのだ。
そして、エドワードが自分に向けてくれている想いは、肉親に対するそれと同じもので、自分のそれとは全く種類の違うものであるのだ。
だが、それでも、エドワードが、自分を「特別な人間」として見ていてくれることに変わりはない。
この複雑な状況をアルフォンスが嘆かなかったのは、彼が生来、素直で前向きな性格の持ち主であったからだった。
そして、何よりもまだ、彼は知らなかったのだ。
「想う」ことの苦しみを。

「…………帰りたくない。家には」

長い長い、沈黙の後。
毛布にくるまってうつむいたまま、エドワードは、子供のように、アルフォンスにだだをこねた。
「……なら。うちに、来ませんか?」
恋情とは、こんなにもばかばかしくて、正直で、コントロールが効かないものなのか。
一呼吸もおかずに返答してしまった自分の頭を、内心でポカポカと殴りつけながら、アルフォンスはさらに早くなる自らの胸の動悸を耐えたのだった。




聞けば、この二ヶ月ほど、エドワードが一緒に暮らしていた父親が行方不明なのだそうだ。
「ま、放浪癖のあるヤツでさ。今までもちょくちょくいなくなってたし。そんなに心配はしてないんだけどさ」
夜道を歩きながら、淡々とエドワードは言った。
その言葉の裏に、彼の言いようのない不安が透けて見える。
アルフォンス以外に知り合いもいない、このミュンヘンに戻って来て日も浅いのに、たった一人の肉親の消息が知れないでいるのだ。二ヶ月も。
アルフォンスは、エドワードの家族の話を、そう詳しく聞いていたわけではなかった。父親と二人暮しで、生き別れになった弟がいる、と、それだけだった。エドワードから、以前どこに住んでいたのかも聞いたことがない。名前からして、イギリス系の移民か何かだろうと推測していた。
エドワードは、自分の家族のことをあまり話そうとしない。
エドワードに特別な感情を抱いているアルフォンスにとって、「エドワードの家族の話」は、最も興味をそそられる事項であると同時に、最も避けねばならない話題でもあった。

───話したくないっていうのは。何か、理由があるんだ。

万にひとつも、エドワードに辛い思いをさせたくない。
「仲間」としてある程度交友を深めている自信はあるが、それにあぐらをかいて、エドワードに無理やりそれを話させるようなことはしたくない。
気が強くて、自分の意志を決して曲げないように見えるが、頼み込まれたり、困り事を持ち込まれると断れない、人の良いところがあるのだ。このエドワード・エルリックという人物は。
家族のことをどうしても聞きたい、と言えば、きっとエドワードは話してくれるだろう。
だが、それではだめなのだ。

今は何も、聞いちゃいけない。
エドワードさんはただ、不安な思いをしてる。
それを、和らげてあげなくちゃ。

くすぶったように暗い街灯の下をエドワードと並んで歩きながら、一心にアルフォンスは自分に言い聞かせる。
勝気で、何かと年上風を吹かせたがるエドワードが、アルフォンスの誘いに素直に応じたということは、彼はそれだけまいっているのだ。
「んで?おまえんち、そんなに広いの?オレが寝転がれる床のスペースくらいはあるんだろうな?」
横柄な口調を装って、エドワードはアルフォンスの家の事情を気にしてくれている。ここでエドワードが必要以上にしおらしくすれば、アルフォンスはさらに気を回さねばならない。
それを予測しての、さっきとはうって変わった、わざわざの、大きな態度。
心底、エドワードが好きだと、アルフォンスは思った。
「エドワードさんを床に寝かせるようなことはしませんよ。この間、ルームメイトが実家に帰っちゃって、部屋が空いてるんです。ベッドもちゃんとありますからご心配なく」
そちらが大きな態度なら、こっちだって。
すまして言ってやった後で、アルフォンスが隣を見ると。
すまなさそうな顔が、長く結わえた髪をかすかに揺らして、慌てたような笑顔になった。
甘い衝撃に耐えられず、アルフォンスはとっさに前を向いた。
「どうした?」
「なんでもありませんよ。ほら、あそこです。僕のアパート」
うるさい動悸をどうにも出来ず、アルフォンスはやっとのことで、前方の建物を指差した。
通い慣れた道が、こんなに短く感じられたことは、なかった。




「エドワードさん」
呼びかけても、エドワードは、ベッドの上で眠り続けている。
「朝ですよ。エドワードさん」
揺り起こす勇気などとても出なくて、アルフォンスはゆっくりとベッド脇にひざまずいた。
この部屋のドアを開けるだけでも、膨大な勇気を消費した。
だが、もう起きて身支度なり朝食なりを済ませないと困る時間になってしまった。
浅い眠りしか得られなくて鈍痛のする額を手の甲で撫でつけて、アルフォンスはあらん限りの勇気をふりしぼって、エドワードの眠るこの部屋のドアを何度もノックしたのだ。
ノックの返答が得られないのだから、そのドアの奥が(アルフォンスにとっての)地雷原であろうと、踏み込むしかないのだ。
薄いカーテンからもれる朝日が、光るリボンを垂らしたように、エドワードを覆った毛布の隅を細長く照らす。
毛布の山脈の果てには、長い金の髪が無造作に解かれて、うねるように散っている。
もうそれを見るだけで、アルフォンスの息は苦しくなってくる。
髪を解いたエドワード。
眠っているエドワード。
もつれかけた金糸の間からのぞく、白い頬も滑らかに。
それらは全く、アルフォンスが初めて見るものばかりだった。
動悸のし過ぎで死ぬ人間はいない、いや死ぬって、などと忙しくアルフォンスは葛藤しながら、向こうを向いて眠るエドワードの耳元に口を寄せた。
「エドワードさん。起きてください」
直後に、事故は起こった。
電源の入った機械人形のように、何の脈絡もなく、エドワードがものすごい勢いでがばりと振り向いたのだ。
肉と肉のぶつかる固くて低い音がして。
アルフォンスは衝撃を受けた唇を押さえて、ベッド脇でうずくまった。
「うぅ……」
口元を押さえて、涙目でベッドの上を見ると、寝返りをうって仰向けになったエドワードも、低くうめきながら口元を押さえている。
「…………」
その苦悶の声は言葉にならない。あくびついでなのか痛みの反射なのか、やはり涙目なその金色の瞳と正面から視線をかちあわせて、アルフォンスは何が起こったのかようやく悟った。

───あんまりだ。

そりゃいつかは。
いつかは、エドワードさんとそういうことをしてみたいとは思っていたけど。
いやほんとは「いつか」じゃなくて機会があればすぐにでもしてみたかったけど。
寝てる間にこっそりっていうのもいいけどやっぱり卑怯だし男らしくないし不意打ちは嫌われたり殴られたり拒まれたりするのが恐いし無理やりになんてとても出来ないしそもそもその前にエドワードさんに気持ちを打ち明けないとダメなのに今のところどうしていいかわからないんだ本当に。

唇への衝撃以上に、精神への衝撃が大きくて、アルフォンスはエドワードを見つめたまま、動けずにいた。
もちろん、自分の頬が溶鉱炉のように熱くなってくるのを止めることも出来ない。

なんて、ひどい事故。
神よ、あわれみたまえ。

寝転んだまま唇を押さえていたエドワードは、痛みに苦悶するうちに、ここがいつもの寝床ではなく、アルフォンス宅であるという状況をやっと理解出来てきたらしい。
エドワードは、何か思い出したように唇からそっと指を外して、出血の有無を確かめる。その姿は、壊れ物のようにはかなげで無防備だった。
アルフォンスが見つめる中、エドワードはそのままのそりと起き上がる。
「わりい。大丈夫か?」
ぐしゃぐしゃの髪を大きくかきあげなら、その頬に浮かんだ困ったような笑みは、昨夜と同じにアルフォンスの心臓を刺し、その頬の温度を、さらに上げた。


それからのことは、まるで何もかも戦争のようで、アルフォンスはよく覚えていない。
ただ、エドワードと二人仲良く研究室に遅刻したことだけが、アルフォンスの意識の片隅に記憶されているのだった。