セカンド・レッスン



いつも、不機嫌な顔で現れる。
それでも、最年少国家錬金術師として、いっときの話題をさらったエドワード・エルリックのその表情を、ロイ・マスタング大佐は嫌いではなかった。

ぞんざいなノックの後で、執務室のドアの向こうから、その場がぱっと明るくなるような色の髪が現れ、いつも着たきりのコートが現れ、黒い靴が床を踏み、最後に金の瞳が、自分を捉える。
その瞬間をいつも逃さぬように、彼が来ると書類を探る手が止まってしまうのが我ながらおかしく、エドワードに不快を与えると知りつつも、マスタングは薄い笑いを唇に浮かべるのが常だった。
自分がエドワードの憎悪の対象であると知っているのに、またそのことをこのうえなく楽しんでいるというのに、今さら不快を与えるもなにもないようなものだが、エドワードの日常のそんな小さな動作すら、マスタングは飽くことなく眺めてしまうのだった。
「どれもこれも空振りだった。もっとマシな情報はないのかよ」
エドワードがたった今提出した報告書を検分しながら、マスタングはその低い不満の声を右から左へ聞き流した。
「私はできる限りのことはしている。ただ、賢者の石は伝説級の代物だからな。一地方の一軍人が、すぐにどうこうできるものではないのだよ」
「あんたがそうやって、いつまでものらりくらりしてるなら、オレは転属を願い出てやるぞ」
マスタングが報告書から目を上げると、金の瞳は相変わらず、熱っぽい嫌悪に満ち満ちている。

───君が私をそんな目で見れば見るほど、私を煽るということを、君はまだ学習できないのか?

国家試験から一年余り。
最初こそ無理強いしたものの、その後のマスタングは比較的穏やかにエドワードに接した。
欲望を処理するための女性には不自由していない。一線を越えてしまえば、あとは、飽きるだけだ。
相手が自分を強く意識し、警戒し、恐れる。自分のわずかな動作にも、相手が敏感な獣のように反応して身を翻す。そんな楽しいゲームは、セックスをしてしまっては楽しめないのだ。
わざわざ自分から、最高に楽しめる時期を縮めることはしない。
それに、今度のゲームの相手は、そんじょそこらの女性ではない。
圧倒的に自分が相手より有利とはいえ、いつ寝首をかかれるかもしれぬ、天才錬金術師なのだ。
そして、その相手はこれまた貴重なことに、涙が出そうなほどまっすぐな性格の持ち主だった。口の悪さと反比例する家族への情愛の深さは、母親を愛したことなどないマスタングでなくとも、感嘆に値する。
その、まっすぐなエドワードが、最後のプライドを自分でへし折ってまでマスタングとの奇妙な関係を維持しているのも、すべてはその情愛の深さに帰する。たった一人の弟のためなのだ。
他の何にも侵されぬ心を持った彼が、自分をこの世で一番危険なものとして、強烈に意識している。
こんな極上のゲームは、生涯に二度とできないかもしれない。
マスタングはそう思っていた。
「転属など、ムダなことだ」
落ち着き払って、穏やかな笑みまでうかべたマスタングを、エドワードはぎらりと睨みすえた。
「今の軍に優秀な人材は少ない。まあ、私の次に優秀なのがセントラルのヒューズくらいか。あとは君が賢者の石を見つけるまでにはこの世にいそうもない年寄りばかりだよ」
先ほど一地方の一軍人などと言っておきながら、矛盾するその口利きは相変わらず謙遜というものを知らない。
「じゃあ、そのヒューズって人の所に行く」
「ダメだな。あんなところに配属されたら一生、中央司令部の建物の外には出れないぞ」
エドワードの言葉を封じ、マスタングは報告書の束を静かにデスクの上に置いた。
「鋼の。残りの報告をしてもらおうか」
エドワードの目が力を増した。
それは、自分がくずおれてしまわないための力でもあり、マスタングをより強く憎悪するための力でもあった。
「おいで」
椅子に腰掛けたまま、マスタングはエドワードを呼ぶ。
エドワードが、固く唇を閉じ、静かに燃える目をして自分に歩み寄ってくる。
エドワードが東方司令部に帰るたびに繰り返される、「報告義務」。
マスタングにとって、何ヶ月かに一度のそれはいつも、陶酔に近い瞬間だった。
ゆるりとデスクの縁を廻って歩いてきたエドワードの腰を、座ったままマスタングは片手で抱え込む。お互いの足と足が触れるほど近くに引き寄せ、服越しに、エドワードの機械鎧の足が擦れる硬い感触を楽しんだ。
いつもの事ながら、エドワードは顔をこちらに向けない。
身をこわばらせながら、冷たく燃える視線はあさっての方角に向けられている。
その頬に、マスタングはもう片方の手で優しく触れた。
「顔色が、良くないな。ちゃんと食べているのか?」
エドワードの滑らかな頬が、微小なけいれんと共にさらに硬くなる。
「…こんなとこに来れば、いい顔色も、悪くなる」
逸らした視線を動かさないまま、もうすでに滑らかにしゃべれないエドワードの吐息が、とても愛しい。
交わした契約は一年前だが、マスタングがこうしてエドワードに触れるのは、まだ四度目か、五度目だ。
ぎこちない憎まれ口には応えずに、マスタングはさらに優しく笑んだ。
「今日は、君からしてくれ。この間、教えた通りに。覚えているだろう?」
「アルにいっつも言われるよ。オレは、錬金術のこと以外はものすごく物覚えが悪いんだ」
「いいや。君は忘れてなどいないはずだ。強情をはると、無理矢理にでも思い出させるが、いいかね」
「好きにすりゃいいだろ」
マスタングは苦笑しながら、エドワードの頬を探っていた手を、そのうなじから後頭部へ滑らせた。
そのまま、力任せに金髪の頭を引き寄せる。
エドワードは下肢をふんばって抵抗したが、やがて諦め、上半身をかがめた不安定な姿勢で、椅子の上のマスタングの肩に、倒れかかるように両腕を回した。
エドワードの顎を肩に乗せて、低い声がささやく。
「あたりまえなんだろうが。…君はいつも、金属の匂いがするな。正確には、君の匂いと君の機械鎧の匂いが混じったものなんだろうが…」
「ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと終わらせろ」
肩の上から耳元に響いてくる声は、その言葉の内容がどうであろうと、マスタングにとって甘いものでしかない。
「とてもいい匂いだ。興奮するよ」
「…この、ヘンタ……」
短い罵倒は、マスタングの唇にふさがれた。
エドワードの顎が、強引な指先で固定され、ぐいと角度を変えられる。
マスタングはすぐにエドワードの奥にまでは侵入せず、その上唇をゆっくり舌で包んだ。
喉の奥でエドワードが息を詰める。
決して自分からは唇を緩めないと、決めているのだろう。
その顎を支えているマスタングの指先にも、歯を食いしばる力が伝わってくる。
カードはすべてマスタングの手の中だ。
どんなに抵抗しようとも、命令されれば。
国家資格を失いたくなければ、エドワードはマスタングに従わざるを得ないのに。
エドワードの行動には、まだ抵抗心が満ち満ちている。
諦めと混在しているそれが、マスタングにはうっとうしく、そして甘美なものに思えた。
こうしてエドワードを前にすると、マスタングはいつも両極端の思いに引き裂かれてしまうのだ。

───この諦めない小さな獣を、完全に自分に従わせたい。彼を無気力にするまでに苛(さいな)みたい。
───このままでいて欲しい。傷つけても傷つけても折れぬ、不屈の魂を持つ彼を、手中に収めていたい。

今のところは、どちらの望みも叶うのは不可能なように思えた。獲物が元気なのは猟師にとっては喜ばしいことだが、普通の人間であれば、こんな状態が続けばじきに諦めに支配されてしまう。
望んでいるとはいえ、エドワードが無気力になってしまえば、自分の興味もそこで終わってしまうだろうことを、マスタングは自ら予見していた。
こうしていても、いつか必ず自分はエドワードに飽きる。
予見できているそのことがただ恐ろしく、恐ろしいがゆえに、マスタングはこの罪深いゲームに救いようもなく溺れているのだった。



座っている体勢がつらくなってきた。
マスタングはすいとエドワードの唇を解放する。
あまりにも正直に、ホッと息をつくエドワードが癪(しゃく)にさわり、彼が自分の肩から腕を外しきらないうちに、その胸倉をつかんで足払いをかけた。
「う…わっ!」
胸倉だけでなく、宙を掻いた鋼の手首も、瞬きする速さで捕まえる。
ふいを突かれたエドワードが頭を床に強打しないよう、マスタングは椅子から俊敏に立ち上がり、その身体をすばやく支え、そっと床に下ろした。その一連の動作には、軍人であるマスタングをもってしても結構な腕力が要った。普通の格闘技のように、相手を地面に力任せに引き倒す方が、どれだけ楽だったかしれない。
デスクそばの床に横たえたエドワードに、マスタングはその手首を握ったまま、ゆっくりのしかかった。
空いた右手を、エドワードの頬の横につく。
「まだ、思い出せないか?」
見上げてくる瞳の金色が、ちら、と揺れる。
そこに浮かんで、すぐに消えたのは不安の色だ。

───今までは、抱きしめられて、濃厚なキスを植え付けられるだけだったのに。

最初のキスを除けば、マスタングがこんな乱暴を働いたことなどなかった。
意志の力で不安を押し隠すエドワードを、マスタングは見逃さなかった。
ぞくぞくする。
「…あんたのコレは」
怯えを懸命にこらえる腕の中の獣の子が、たまらなくいとおしい。
「あんたのコレは、オレの中で、一回ずつ、なかったことになるんだ。あんたが何十回、何百回、オレにこんなことしても、オレは、何も、思い出せない。何も知らない…!」
恐怖のためか、怒りのためなのか判然としないが、上がってくる息を抑えながら途切れ途切れに宣言する少年の目は、やはり熱を持っていて、美しかった。
そうだ。もっと、もっと抗え。
契約して、まだ、たった一年だ。
まだ諦めてもらっては困る。
「嘘だな」
マスタングは、その美しい金の瞳に向けて、これ以上ない甘いささやきを落とす。
「君は、私のことを忘れることなどできないよ。君の生涯で、私ほど君の心に焼きつけられる男は、もう現れない」
「やめろ」
「今までのキスだって、君は、何回心の中で思い返した?」
「やめろ…」
「列車に乗っている時、夜眠る時、旅先で私と同じ軍の人間に会った時。君は、私のキスをずっと思い出しているんだろう?」
「やめろって言ってる!!」
エドワードの悲鳴のような否定すら、甘い。
それはもう、肯定と同じだからだ。
マスタングは鋼の手首を解放し、ベルトに締められていたエドワードのシャツの裾を勢いよく引き抜いた。
今度こそ驚いてマスタングを押し留めようとするその手を乱暴に払いのけ、現れた白い胸元にためらいもなく唇を落とす。
「う……うっ」
おそらく生涯初めての感触に、エドワードの身体は、耐えられないといった風にのたうった。
狙いすましてマスタングがその胸の飾りを口に含むと、声にならない声が空気に溶けた。
なんとかマスタングの頭を押しのけようと、エドワードの爪がその頬に食い込みかけた時、マスタングはふと顔を上げた。
「……思い出したか?」
応えはない。
その下肢に跨ったまま、マスタングは頬にあったエドワードの手を取り、白い手袋をそこから引き抜いた。
ひらりと手袋が床に落ちるのも待たず、騎士のようにその生身の手の甲に口付ける。
手の甲に急に広がる痺れに驚き、エドワードは罠にかかった獣のようにもがいたが、もう遅かった。
マスタングからやっと取り戻した手には、くっきりと赤い痣がついていて。
「さあ。この間教えた通りに、君からキスしてくれ。でないと、次は隠せない場所に痕を付けるが?」
ふうわりと、羽毛で頬を撫でるように、脅された。
エドワードが痣に視線を据えたまま、やはり応えないでいると、また両手首が奪われ、床に留め付けられる。
「あ…あっ!!」
間髪入れず首筋に顔を埋められ、エドワードはほとんど動かせない首を思い切り振った。
「……わかった…わかったから…!」
その耳の下に付けていた唇を通して響いてくる必死な声に、マスタングは顔を上げて、エドワードを見下ろした。
金の瞳に、射殺(いころ)されそうだ。
喉からせり上がってくる息を、くっ、と小さくかみ殺すエドワードの目尻が、白く光る。

───悔し涙か。

「…いい子だね。鋼の」
君は、本当に、最高だ。
マスタングはエドワードに跨るのをやめ、そっとその場にひざまずいた。
ようやく上半身を起こしたエドワードの手を取り、同じように傍にひざまずかせる。
エドワードの噛みしめた唇が、震えている。
手を離さぬまま、見つめていると、怒りに紅潮した頬が、ゆっくり近づいてきた。
間近の吐息は、涙に湿っている。
その湿度を、唇から数ミリのところでマスタングが感受した時、赤く潤んだ金の瞳が、すいとまぶたに隠されて。
誘われるように、マスタングも目を閉じた。

エドワードが、悔しさに自ら噛み切った唇は。
柔らかい、血の味がした。