レッド・ムーンライト



月が赤い。
気象学的に、地学的に、天文学的に、あの赤さの理由を説明することは、簡単にできるのだろう。
だが、いつもと違うあの色を見るだけで、人はなぜ不安な心持ちになるのか。
重い足取りで石畳を踏みながら、ロイ・マスタングは考える。
月のせいだけで気分が重くなったのではない。
今夜の相手の女性を。そう、さっきまで素肌を合わせていた女性を、ひどく乱暴に扱ってしまった。
『その場限りの関係であろうと、女性を必ず満足させる』。
それが、ロイが自分に課した「遊び」の鉄則だった。
別に博愛主義、とかいうわけではない。
無様な情事しかできずに、女性が自分と別れた後、自分のことを自分の知らないところで罵るのが許せない、それだけの理由だ。
遊んでばかりでモラルの低い男、と思われることは別にかまわない。仕事さえきちんとこなしていれば、遊び人というレッテルはそう不愉快なものでもない。

───それに。

モラルなどというものは、もう何年か前に、自分で吹き飛ばしてしまったではないか。
脳裏に金色のおさげ髪と赤いコートが浮かんで、夜道を歩いていることも忘れ、ロイはごく短く声を立てて笑った。
今夜のことも、あのおさげ髪が原因なのだ。
自分できっぱりそう思えるのが少し腹が立つ。
もう、金髪の女性を相手にするのはやめよう。
心の中でロイは誓うが、その誓いが守られたことは、この数ヶ月なかった。
事の最中、女性の髪を手で梳(す)いているうちに、どうしても思い出してしまう。

───鋼のは、もっと明るい色だ。日に透けて白くなる程ではないが。
───鋼のは、もう少し短くて、柔らかい。
───鋼のは……

金髪の女性はやめた方がいいと言うもう一人の自分の声を聞きながら、ロイはいつも金髪の女性を誘った。今度こそ集中してみせると思いながら、いつもその決心は脆く崩れ去った。
エドワードがこの間「報告」に来てから、もう三月は経っただろうか。
年に数えられる程しか彼に触れられないのはつらいが、賢者の石など見つからなければいいとロイは思う。そして、もはや不可能であるはずのその考えに、いつも立ち戻ってしまうのだ。

───どうすれば、鋼のをいつまでも私の許(もと)に留めておけるのか?

人体錬成ほど困難ではないはずだが、ロイはその考えに対する解答を、どうしてもひねり出すことができないでいた。
自分はいつか血縁の者と死別し、年老いて職務を全うすることができなくなり、死からも逃れることができない。
年老いる暇もないかもしれない。任務中に、突然ぷつりと死ぬ事だって、充分に有り得る。
それらのことにはすんなり納得できるのに、エドワードのこととなると、ロイの明晰な頭脳は「納得できない」と悲鳴をあげ、急に解析速度を落としてしまうのだ。



暗く細い路地もあと十数歩、あと数メートルで大通りに出る、というところで。
「いま、帰り?」
低く、渇いた声に、ロイは立ち止まった。
振り向くと、さっきからの足音の主らしい女が立っていた。
後をつけられていたのは知っていた。だが、どうもそれが大柄な人間ではなく、殺気を感じる人物でもなかったので、ロイは放っておいたのだ。
わずかな月明かりの下でも、女がまだ少女と言えそうに年若く、そして非常にみすぼらしい衣服を身に付けているのがわかる。
「安くしとくよ。今から、時間ある?」
やっぱりそうか、と奇妙に安心しながら、ロイは口の端で笑んだ。
「すまないが、間に合っている。今日の夕方に会えたら良かったんだが」
「遊んできた帰り?」
「まあ、そういうことだ」
少女の声は妙に低く、娼婦の割には媚びたところが感じられない。どこか攻撃的なその態度は、ロイになぜか、さっきまで脳裏にあった錬金術師の少年を思い起こさせた。
「どうしてもだめ?」
食い下がる少女の瞳が、わずかな月光を反射して、ちら、と白く光った。
ロイの目が闇に慣れてきて、暗がりに溶けていた少女の身体の輪郭をはっきり捉え始める。
肩まで垂らした黒い髪に、闇に沈み込むような色の肌。
並みの成人女性ほどには身長はあるが、その身体は痩せ細り、お世辞にも健康そうとはいえない。
「どのくらい値引きしたら、買ってくれる?好きな値段、言ってみて」
いかがわしい場所で声をかけてくる女たちと、全く同じ事を言っているのに。
少女の口調には、自分で自分をごまかす笑いも、気軽さも、けだるさも、混じっていない。
ただ、必死なのだった。
「悪いが、他をあたってくれ」
少女は、足音を立てずに、ずい、と一歩踏み出してきた。
「お願いよ。あんたに、買ってほしいの」
黒い瞳が、暗がりの中でまた光をまとい、濡れて輝く。
どうも、その辺の娼婦とは、勝手が違う。
ロイはため息を長く吐き出した。
「なぜ私に?」
早く解放されたい一心で、ロイは精一杯投げやりな声を装った。
「お金がありそうで………優しそうだからよ」
少女のセリフの後半は消え入りそうな声音になった。その、いかにもとってつけたような声音に、ロイは思わず吹き出した。
娼婦たちには色々と世辞を浴びせられてきたが、彼女たちはそれなりの演技をわきまえており、こんなに、本音が透けて見えっぱなしの世辞にもならない世辞は、初めて聞いた。
やはり、似ている。
お世辞ひとつ満足に言えない、あの小さな錬金術師に。
「そんな風に見てもらえるのは、嬉しいが。間に合っているんだ。すまない」
もし、本当に夕方に声をかけられていたら、彼女を買っただろうと思いながら、ロイが彼女に背を向けた時。
何か、重いものが地面に落ちる音がした。
驚いて振り向くと、少女の姿が、かき消えていた。
とっさに周囲に視線を巡らせたロイの目に飛び込んできたのは、足元にうずくまる、黒いひとかたまりの影だった。
気分でも悪くなったのか,背後の少女は倒れたらしい。

関わりたくない。

最初に浮かんだ思考をいやいや掻き分けて、ロイはその場にひざまずいた。
放っておくのが一番だが、こんな時間に、こんなところで少女を置き去りにして、彼女に他から適切な助けが与えられる偶然は、ほぼめぐっては来ないだろう。
後味が悪いのだ。
自分の精神の安定のために、ロイは彼女を観察した。
頭は打っていない。
呼吸も止まっていない。
ただ、脈が弱く、ひどく手先が冷たい。
少女の首の後ろに腕を沿えて、半身を起こしてやる。
「大丈夫か?」
決して肯定の答えなど返ってこない、虚しい呼びかけにも、少女は薄く目を開けただけだった。
間近で力なく光った、その目に。
その虹彩の色に、ロイは息を呑んだ。
それは赤かったのだ。
さっきまで見上げていた、月のように。

───イシュヴァール人。

冷えた少女の身体から、体温ならぬ冷気が自分の身体に染み込んでくるような気がして、ロイは肩に力を込めた。
「……家はどこだ」
どうにも、こんな質問を自分がするのはちぐはぐな気がする。
イシュヴァール人には、居住地が定められている。
軍人であるなら、そこへ彼女を連行せねばならない。
居住地を脱走する輩がいるのは、常々漏れ聞いていた事ではあるし、実際にその人物を目の前にするのは、ロイは初めてではなかった。
「このままここに居るわけにはいかないだろう。送っていくから、君の家を教えてくれ」
口から滑り出す言葉は、職業意識とは裏腹だ。
「君の家はどこだ」
再三の質問に、少女は目を薄く開けたまま、答えようとしない。
その警戒は、至極もっともではあるが。
ロイは、ただでさえ複雑な胸中に湧き上がってくる、どうしようもない苛立ちに、すぐに耐えられなくなった。
「では、君の住所を買う」
少女のまつげが、ぴくりと震える。
「金が欲しいんだろう?君の住所を買おう」
ロイは少女を支えたまま、片手で懐の財布を探り、それを地面に置いて、器用に札を一枚、抜き出した。
「言いたまえ」
少女の顔を、にらみ下ろす。
少女はかすかに首を動かして、ロイを見上げた。
「…………スラムよ。イーストシティのはずれの」
言うが早いか、目前に掲げられたロイの手の中の札を、魚が餌をむさぼるように、ひったくる。
その動作に、ロイは短く息を吐いた。



少女をおぶって、ロイは人通りの絶えた暗い道を、黙々と歩いた。
背中の少女は、信じられないくらい軽い。
ろくな食べ物も、食べていないのだろう。
彼女がこういう生活を強いられるのは、元をたどれば、ロイのせいであるともいえたし、また、そうではないともいえた。
黙々と歩くロイの心に、暗澹たる思いが満ちてくる。
イシュヴァールの民。
彼らに八つ裂きにされても文句の言えない、この身体。
自分が何事もなく暮らしている今この瞬間にも、自分が殺した子の母が、殺した夫の妻が、両親が、見知らぬ自分を恨んで泣き。そして憎しみをたぎらせている。
この世界のどこかで。
ひょっとしたら、自分はこの少女の肉親を、この手にかけたかもしれないのだ。
普段はこれ以上ないほど堅固に閉ざされている、ロイの心の最深部の扉が、ぎいと音を立てて細く細く、開く。
その聞こえぬはずの音が、自らの耳に響くのを、ロイは確かに感じとった。
その細く開いた隙間を覗けば、もう「日常」は吹き飛ぶ。
扉の内側に踏み込めば、発狂は必至だ。
心弱い者たちが発狂するのを、あの戦場でも、帰還してからも、ロイは幾人も見た。
そして、渾身の錬金術でも、この扉を永久に封印することはできないことを、ロイはよくわきまえていた。
封印できないことに絶望して、発狂に身を委ねるのは、たやすい。
だが。
私は、狂うわけにはいかない。
ロイは唇に力を込めた。
神などいないのだ。
だから私は生きているし、狂いもしない。
私は、狂わない。
扉が開かぬように。
ただただ、素手で支え続けるだけだ。



少女の家は、崩れかかったアパートメントの一角だった。
鍵もない、壊れそうなドアを開け、ロイは暗い部屋の床に、少女の足をそっと下ろした。
「立てるか?」
「………うん」
ロイが身体を離すと、少女は暗闇の中でかがみこんだ。
ぎしりと床板が鳴く。
「動けるか?」
「うん。明かり、探してるだけ。ちょっと待って」
ことことと箱を探るような物音の後、少女は慣れた手つきでロウソクに明かりを放った。
ことり、とそれをベッドサイドに置いて。
「準備、できたわ。好きにしていいよ」
粗末な寝床に、身体を引きずるようにして腰掛ける。
あたりまえといえば、あたりまえかもしれない。
世の中に、金を払って助けてくれる親切な輩など、いはしない。無償で助けてくれる人物すら、めったに見当たらないというのに。
ロイに身体を差し出そうとする少女の行為は、少女にしてみれば、当然のことだ。
自分が、ろくでもない事をしている、という自覚はある。
ロイは、苦い笑みを口元に浮かべた。
「私は、君の住所を、買っただけだ」
「別に、イイカッコしなくていいのよ?」
暖かい明かりのそばで、しどけなくベッドに座り、ロイを見上げてくるその目は、安っぽくてたちの悪いその善意を、無意識のうちに糾弾している。
だが本当に、今日は、もう誰かを抱きたいとは思わないのだ。
ロイは自分に、懸命に言い訳した。
「では。私の恋人のふりをしてくれ」
「え?」
「私の恋人は、いつも旅をしていて。めったに会えない。だから今だけ、君が、その恋人になってくれないか」
「寝れば、いいのね?」
その、らしいと言えばらしい、間髪入れない応えに、ロイは短く息を吐いて苦笑した。
「私はまだ、彼女と寝ていない」
彼、と言いかけてやめた自分を嘲りながら、やっとのことで口の端の笑いを治める。
「寝てないのに、恋人なの?純情なのね」
少女も、あきれたような笑みを浮かべている。
その笑顔に不思議に安堵しながら、ロイは言った。
「彼女になりきって、言ってほしい」
「何を言えばいいの?」
「『どこへも行かない』と」
少女の目が、丸くなった。
「ほんとに、それだけでいいの?」
「ああ」
「………ほんとに、純情なのね。なんかちょっと…気味悪い」
今度こそ、ロイは笑いを治められなかった。
人前でくすくすと声を立てて笑うのは久しぶりのような気がする。ベッドサイドのロウソクの炎までが、ゆらゆらと楽しそうに揺れている。
その笑いを、低い、だがしっかりした少女の声が、さえぎった。

「どこへも行かないわ」

ひく、と笑いやめて、ロイが見下ろした先には。
月のように、透き通る赤い瞳があった。
照れ笑いも浮かべずに。
つい先程、路地で声をかけてきた必死さもそのままの、まっすぐな表情で。
「どこへも行かない。あんたのそばにいるわ。ずっと」
この赤い瞳の向こうに、透けて見える。
自分の罪。苛立ち。自嘲。
そして、あの、いかつい鋼の香りのする、金色の。
「…ありがとう」
瞳に吸い込まれる前に、ロイは短く礼を述べた。
「これでいい?」
まためまいでもするのか、けだるそうに少女は目を細めた。その変わり身は、見事としか言いようがない。
「ああ。お釣りを出したいぐらい、素晴らしかった」
「じゃあ出してくれる?」
その素直さと容赦のなさが、心地よくさえあった。
ロイはポケットを探り、偶然指先に当たった百センズコインを、ピンとシーツの上に弾(はじ)く。
「うわあ、しけてる」
「嫌なら受け取らなくていい」
笑う少女に、ロイは背を向けた。
これ以上この場所で、自分が笑っていてはいけないような気がしたのだ。
居たたまれなくて。心地よすぎて。帰れなくなる。
「怒ったの?ごめん」
ドアに歩み寄る背中に、不安そうな声がすがりついてきた。
「いいや。じゃあ、私はこれで」
「待って、まだ…!」
最後に彼女に微笑みかけて。
ロイは外に出た。
壊さないように、外れそうなドアを、そっと、だがしっかり閉める。
中で少女が何か言っているが、もう聞く必要はない。
彼女が追ってこられないように、ロイは足早に路地を曲がった。

───いいや。

怒るのは、君だ。
イシュヴァールの民として。

月光を浴びながら、ロイは一心に、来た道を歩いた。
さあ。
扉に、かんぬきを、掛けろ。
その上から押さえていれば、素手でも大丈夫だろう。

西の空に傾いた満月は、まだ赤い。
その色は、胸が詰まりそうに、つらく、優しかった。