プライベート・ブルー



ドアの向こうから、手紙が差し込まれる音がした。
古くも新しくもないドアの内側にそのまま作りつけられた、小さな郵便受けに、紙束が挟まる密かな音がする。
お茶のおかわりのためにポットに指を伸ばしかけていたアルフォンスは、主人を見つけた忠犬のようにひらりと身体を翻して、ドアへと駆けた。郵便受けに挟まっていた大判の封筒を、破れないようにするすると慎重に引き抜き、差出人を視認し、またテーブルへと駆け戻る。
「兄さん!来たよ、本当に」
ブーメランのように戻って来たアルフォンスがテーブルの端に取りつく寸前に、エドワードはすばやく手元の紅茶を喉に流し込んだ。
そして、ビールでも飲み干したかのように大げさな音を立てて、カップをソーサーの上に座らせる。
「ロスアラモス…研究所。どうやら本物みたいだな」
記入された差出人をつぶやくように読み上げて、受け取った封筒の隅を、エドワードは指で小さくちぎり取った。そこに鋼の人差し指を突っ込んで、ペーパーナイフ代わりにスライドさせ、綺麗とはとても言えない切り口で開封する。
「行儀悪いなぁ…」
ペーパーナイフを取りに行かない不精をアルフォンスに非難されても、エドワードはみじんも動じない。封筒の中身を取り出し、もう真剣に書類を目で追っている。
活字を一心に追うエドワードの全身から、緊張感が湧きあがってきた。それが、とても辛いものに感じられて、アルフォンスは座ったままのエドワードから目を逸らした。
ダイニングの小さな窓から、午後の陽光が降り注いでいる。
ヨーロッパ中を訪ね歩き、とうとうこのニューヨークまでたどり着いた。
「あちら」から来たはずのウラニウムを、安全に分解する方法を探して。そして、「あちら」で完成していたその爆弾の行方を、探して、探して。
二人して、ウラニウムの研究を続けるうちに、とうとう、ターゲットは向こうからやってきたのだ。
ナチスドイツは、ウラニウム爆弾を製造するまでの技術を未だ持っていない。ならばとドイツを出国し、ロンドンに潜伏して、やっとこのアメリカに来ることが出来た。そのとたんに、政府から打診があったのだ。
新型兵器の製造に、協力しないかと。
それは、ある意味、亡命者の囲い込みだった。政府が亡命者の生活を保証し、見返りに、その頭脳と技術を漏らさず我が物とすれば、アメリカという国はとても効率的に軍事力を蓄えることが出来る。
設立されたばかりのロスアラモス国立研究所は、今後、その囲い込みの象徴となるのだろう。
この明るい日差しのあふれる自由の国も、戦争と無縁ではいられないのだ。
窓の外の明るさと、自分たちが関わろうとしている世界とのギャップは、激しい。そのことが、ますますアルフォンスの胸を締めつけたが、感傷などなかなか及ばないほどに、この十五年は長かった。
アルフォンスは視線をエドワードへと戻す。
「新型兵器、……これがウラニウム爆弾っていう保障はあるの?」
座っているエドワードの肩越しに、書類をもう一度のぞき込み、アルフォンスはエドワードに問いかける。
「オレたちの研究内容を知ってて、誘いをかけてきてるやつらだ。十中八九はアタリだと思ってる。もしもこの研究所の目標がウラニウム関係じゃなかったとしても、それに近い情報は得られる。国家機密級の情報がな」
エドワードの声は低い。傍から聞けは、そっけなさしか感じられないだろう。
だがアルフォンスは知っていた。
エドワードの声が低くなる時───それは、彼が心の内側で、とてつもない感情の大波にさらされている時なのだ。
「兄さん」
エドワードの心に入り込みたい。
入り込めなくても、その感情を、少しでいいから共有したい。
離れて暮らしたあの数年よりも、はるかに長い年月をこの世界で過ごしてきたのに、あのひりひりするような少年の日の孤独感を、アルフォンスは未だ振り捨てられずにいた。
「兄さん。もしもの時は、僕を捨てて逃げてよ?」
「はぁ?なに言ってんだ?」
書類をぺたりとテーブルに置き、エドワードが振り向いてくる。
その瞳に向けて、アルフォンスはにこやかに続けた。
「こんな国家プロジェクトの中身を探って…協力するふりしてさ。実はそのプロジェクトをぶち壊そうとしてるなんてバレたら、逮捕されるだけじゃすまないだろうから。間に合わないと思ったら、二人一緒に逃げようなんて考えないで、ってこと」
「あのなぁ…」
椅子の背に肘を置き、エドワードは半身をねじって、身体ごとアルフォンスに向き直る。
「バレた時点で、この研究所に探りを入れられなくなんのは確定だろ。それなら、オレたちのどっちが逃げ延びようが、その時点でオレたちのこの計画はパァだ。どうせパァになるんなら、おまえが逃げろ」
「だから、そんな状態がイヤだから、逃げてって言ってるんだよ」
「オレが全部ひっかぶるから、おまえは黙ってろ」
「じゃあ僕だってひっかぶる」
「わけのわからん意地を張るな」
「意地を張ってんのはそっちじゃないか!」
「うるさい!オレはおまえが無事なら、それで」
「だから僕のことなんて、」
「もう黙れ!!」
テーブルを平手で乱暴に叩かれ、アルフォンスは言葉を封じられる。
ひるんでしまった悔しさを言葉にしてたたみかけようとするが、アルフォンスの反撃よりも早く、エドワードは立ち上がり、アルフォンスの顔も見ずに、ダイニングのドアへと向かっていってしまう。
「どこ行くんだよ?」
「外!」
簡潔に言い捨てて、後頭部で結わえた長い髪が、ドアの向こうへ滑るように消えた。




空へと続くドアを開けると、数歩向こうで悠々とたむろしていた鳩が数羽、驚いて飛び立っていった。
アパートの小さな屋上に出て、アルフォンスは嘆息の混じった深呼吸をする。
どうせ長くは住まないのだからと借りた最上階の部屋は、安価な代わりに眺望も望めず(いくら中層の建築だったとしても、建物の林立するこんな街中ではそれはかなり無意味だった)、少々日が射す代わりに夏は暑く、乾燥した欧州の空気に慣れたエルリック兄弟をかなりの試練にさらしたが、暑さが去ってみると、この屋上をほとんど独占できるメリットはなかなかに大きかった。
エドワードは、屋上の手すりぎりぎりの場所で、こちらに背を向けて、あぐらをかいている。日差しを避けて、ちゃんと隣の建物の影がかかる場所に座っているのが、妙にほほえましい。
「…兄さん」
ドアが開いた音など完全に聞こえているくせに、振り向こうともしない子供っぽさが、アルフォンスの怒りをもう一度炙ったが、それを耐えて、アルフォンスは呼びかける。
「ちょっとは、頭が冷えた?」
エドワードの背中に近づきながら、優しすぎないよう、ぶっきらぼうになりすぎないよう、調整したトーンで呼びかける。
数歩を歩くと、もう手を伸ばしてエドワードの髪をつまみ上げられる距離にまで到着してしまう。
振り向きもせず、エドワードがつぶやいた。
「…………ちょっとはな」
少々タイミングを失した返答は、まだいらだちを含んでいたが、全体的には力無い。
「…おまえも、よくやるよなぁ」
力無い、そして脈絡の無い言葉が、うつむいたエドワードの唇から、屋上のコンクリートの上に落とされる。
アルフォンスには、だらしなく丸められたエドワードの背中しか見えないが、今はエドワードにこちらを向かせることよりも、しゃべってもらうことの方が大事だ。
「よくやるって、なにをさ?」
丸められた背中に、そっとアルフォンスは問い返す。
エドワードの白いシャツに空の照り返しが映り、うっすらと青灰色に染まっている。
本当に今日は、いい天気だ。
「研究だよ。資料も現物もほとんどない、あっちの世界から来たウラニウムを、ろくに遊ばねぇで研究し続けて、おまえ何年になんだよ。十五年か?そろそろ」
「うん。だから?」
「人生で一番体力あって気力があって、それなりにイケてるツラをキープしてて、そんな時に女の一人もひっかけねぇで、結婚もしねぇで、勝手な兄貴と十五年、研究研究で暮らしてきてさ。おまえ、イヤになったことねぇのかよ?」
「兄さんに言われたくないな」
「で、どうなんだよ」
エドワードの唐突な質問は、そのままエドワードの弱音だった。今までも、こんなやりとりは何度かしてきたが、今日のエドワードは特別なげやりに見える。
そのなげやりな態度の中に、ひとすじの迷いが見えて、アルフォンスは、腹の底に残っていた怒りがあとかたもなく冷めて行くのを感じていた。
エドワードは、怖がっている。
確信で、アルフォンスの心はいっぱいになる。
この研究はいつも危険と隣りあわせだったけれども。
けれども、ついにその最終段階に至ろうとしている。目標の達成を目の前にして、エドワードは、その危険の大きさにおののいている。
それを指摘することは、アルフォンスにはできない。
アルフォンスの中にも、同じ種類の恐怖が巣食っているからだ。

───失いたくない。

「……そりゃ。僕だって遊びたいし、イヤになることなんて、しょっちゅうだけど」
何度でも、説明してやる。
エドワードが納得するまで、細かく、丁寧に、すみずみまで、一生かけて、しつこく。
「でも、それじゃ許されないから。僕たちがしてしまったことを償えるまで、研究をやめるわけにはいかないんだから」

───失いたくない。もう、誰も。

門を開け、人を殺め、二度と消えない悲しみを、たくさんの人に与えてしまったから。
「でも、それだけじゃなくて。錬金術を勉強してた時の、名残かな。僕、勉強したり研究したりするの、結構嫌いじゃないんだよ。兄さんだって、そうだろ?」
悲しみを他人に押し付けておきながら、のうのうとこの世界で、こうして二人で、時々笑って生きているのだから。
だからもう、これ以上、悲しみを生み出してはならないのだ。自身の犠牲を払ってでも。

───失いたくない。オレが犠牲になっても、おまえだけは。

エゴ剥き出しの、まっすぐな恐れの中に、エドワードは立ち止まっている。
それは確かに共有できている恐れなのに、その恐れの中に、わずかで重大な違いを感じ取り、アルフォンスの喉が詰まる。
それは、誰も立ち入れない、エドワードの記憶だ。

───『アルフォンス』のように。おまえを失いたくない。

アルフォンスの身体と心を透かして、エドワードはいつも、もう一人の人間を見つめている。
「彼」に内心で嫉妬することも、嫉妬心を自分で分解処理することにも、アルフォンスはいいかげん慣れていた。年月は予想もつかないほどに、人を忍耐強くするのだ。
そして、年月というものは間違いようのない胸苦しい解答も、与えてくれた。
アルフォンスがどれほど全霊かけても、エドワードの全てが得られるわけではないのだ。
家族だろうと恋人だろうと、それは普遍の真理であるはずなのに、苦い真理をどうにか納得してどんな人間も生きているのに、アルフォンスの胸苦しさは、何年経っても消える気配がない。
解答はいつも明らかだ。
これからも、自分はエドワードに、「彼」のことを訊けないだろう。
「彼」がエドワードにとってどういう人間だったか、知っているから、訊けないだろう。
こうして、エドワードが空の下に居るだけで、エドワードのシャツが空の色を映すだけで、その色彩にまで嫉妬するだろう。

───だけど、兄さん、心配いらないんだよ。

もうどこにも行かない。
この世界で、生きていく。
「だから、兄さん、心配いらないんだよ」
陳腐な言葉にこめた胸苦しさをわかってほしくて、悟られたくなくて。
アルフォンスは、ようやく振り向いたエドワードから目を逸らして、すくい取れそうに青い、空を見上げた。




***

行け、とあの時大佐は言った。
生きがいは作れる、と大佐にそっくりなあの男は言った。
そして、忘れないで、とおまえが言った。
記憶の中でしか会えない人間との約束は、どうにかこうにか果たせている気がするのに、今目の前にいてくれる弟には、オレは安心を与えてやれないでいる。
何年、何十年、同じ事を繰り返してるんだろう。オレは。
だけど、もうどこにも行かない。
この世界で、生きていく。
だから見ていてくれ。
オレの浅はかな願望かもしれないけど、肉体は消滅しても、意識とか魂は、「見る」ことだけはできんじゃないかって。
そうオレは思ってる。
まあ、オレの弟は例外で、魂だけでしゃべれたけど。
空を見るたびに。
いや、空なんか見なくても。
オレはおまえを思い出してる。
だから見ていてくれ。
オレだけが知ってる、あの瞳で。

その青で。