続パーフェクト・プリンセス



頭をはたかれる衝撃があった。
衝撃は、マスタングの頭だけでなく、肩に、腕に、背中に、ざばりと音を立てて染み込んだ。
襟首ではじけて、容赦なく素肌を舐めにかかってくるその感覚の正体は、水のようである。
ひりひりする、というにはおおげさだが、衝撃の結果としてそれなりに痛む頭を傾けて、濡れ髪をかきわけながら上空を見上げたマスタングの視界に、晴天と、空っぽのバケツを抱えた少女が映る。
ヒューズ家の玄関を見下ろす二階の窓から、少女はマスタングをにらみ下ろしたかと思うと、ふい、と、バケツごと窓の奥へ引っ込んで消えた。
ずぶ濡れのわが身をどう処するかとマスタングが迷う間もなく、水音に気がついたのか、あわただしく目前の玄関ドアが開く。
「いらっしゃいま……ど、どうなさったんですか!?マスタングさん!?」
一年数ヶ月ぶりに見る旧友の妻は、濡れそぼった来客を迎えて、悲鳴に近い声を上げた。




未亡人の家で風呂に入るなんて。
なんて、不埒で魅惑的な行為なのだろう。
ヒューズ家のバスルームの、バスタブの中で熱いシャワーを浴びながら、マスタングはこみ上げてくる笑いをこらえた。
一張羅、とまではいかないが、それなりに気に入っていたジャケットとズボンは、今一度クリーニングに出さねば、着られる状態ではなかった。ジャケットの中に着ていたシャツも、すぐには乾かないだろう。グレイシアが即刻バスタオルで拭ってくれ、水が着衣深くに染み込むのを阻止してくれたこともあって、下着だけはどうにかもう一度穿けそうだ。
玄関を開けてすぐ、ずぶ濡れの来客の手を取り、ジャケットだけ脱がせて、小走りにバスルームへとその客人を引きずり…もとい、案内しながら、グレイシアは動転していた。
何があったのかと訊かれて、適当な嘘も思いつかず、到着したバスルームのドアの前で、マスタングは真実をそのまま口にした。
今ごろ。
エリシア嬢は、グレイシアにこっぴどく叱られているのだろうか。
子供の成長は早い。
1年前、7歳の誕生日を祝った時よりもずっと大人びた目で、こちらをにらみ下ろしていた彼女の顔は、早くも「女性」の香りをまとっていた。
もちろん、実際に何か匂うわけではない。
だがあれは、自分自身を「女性である」と、もう深く納得している顔だ。
年齢に関わらず、その納得の深さによって、色香というものは、あふれてきたり、そうでなかったりする。
わずか8歳とはいえ、「納得」している女性を扱うのは、大変なデリカシーを必要とする作業なのだ。
私は…彼女のご機嫌を、なぜ損ねてしまったのだろう?いつ損ねてしまったのだろう?
遅くなったが今年も誕生祝いにお邪魔する、と電話を入れた時は、あんなに喜んでくれていたのに。
うぬぼれでもなんでもなく、玄関先でいきなり水をかけられた理由がどうしてもわからなくて、マスタングは熱い豪雨のなかで眉をひそめた。




着替えに、と、グレイシアは脱衣かごの中に、別のシャツとズボンを用意してくれていた。きれいにたたまれ、かごの中に納められていたそのシャツに、マスタングは見覚えがあった。
それを取り上げて、その布地についた薄い折りじわをさらさらと崩しながら、遠い感慨にふける。
これは。
学生時代の、ヒューズの一張羅だった。
とがった、長めの襟が特徴的な、白に限りなく近い、緑色のシャツ。
入学祝いに、親族にもらったのだと、聞いた。
東国のシンから取り寄せた絹で出来ていて、洗濯は難しいが着心地は最高だと言って。
学校の創立祭や、女子学生を交えた、小さなパーティの時に。長期休暇で帰省する時に。
イベントごとに、ヒューズはこれを着ていたような気がする。
もっとも、士官学校内で私服を許される時間など、ごく短いものだったから、着たきり雀、という印象はなかったのだけれど。
この、襟の形以外は一見なんでもない白シャツが、真っ白でなく、光に透かされたり袖にしわが寄ったりする時に、ふんわりと緑色に輝くのを自分が知っていたのは。
いつも、これを着たヒューズを、そばで見ていたからなのだ。
ヒューズと、その夫人の物持ちの良さに感心すると同時に、いくら不測の事態とはいえ、故人の品に袖を通すことにマスタングは多少のためらいを覚えたが、ここで遠慮深さを発揮しても夫人の手をわずらわせるだけだと思い直し、一呼吸の後に、シャツの襟に手を添え、勢い良く袖へと腕をくぐらせて、その緑を淡く光らせたのだった。




借り着であるズボンの裾を、2回折らねばならないことにマスタングは軽く憤慨しながら身支度を整え、見知らぬわけではないが勝手もそう知っているわけではない廊下を歩いて、ヒューズ家のリビングルームへ到着すると、そこには至極真面目な顔のグレイシアと、よく育ったソラマメのように頬を膨らませたエリシアが、ソファの隅に座ってにらみ合っていた。
マスタングに気づき、グレイシアは無言で立ち上がる。
そして、険しい表情で、座ったままの娘の腕を引き、ぐいと立ち上がらせて彼女をマスタングの前まで引っ立てて来た。
「エリシア」
マスタングもほとんど耳にしたことのない、低い、だが猛烈に怒気をはらんだグレイシアの声が、明るく日の差すリビングに、しんと響き渡る。
エリシアは、棒立ちのまま顔も上げない。
マスタングからは、うつむくエリシアの頭に柔らかくうずまいた、彼女のつむじしか見えなかったが、彼女が頬を膨らませた表情を変えていないことはよくわかった。
やはり、悪いのは自分なのだ。
マスタングは思った。
「私はちっとも怒っていないよ。エリシア」
エリシアに謝罪を促すグレイシアを、目で優しく制しながら、マスタングは目下の金色のつむじに微笑みかけた。
「あなたが、こんなに怒っているんだ。私は何か、それだけのことをしたんだろう?」
あの、素直で、少し人見知りで、でも芯はとても強くてチャーミングなエリシアが、こんなに懸命に腹を立てているのだ。
マスタングの中からは、本当にひとかけらも、彼女に対する怒りなどというものは湧いてこない。
「だが私は本当に気のきかない男でね。あなたが、なぜそんなに怒っているのか、わからないんだ」金色のつむじは動かない。
「私はあなたに謝りたいと思っている。だから、あなたが怒っている理由を、聞かせてもらえないだろうか」
マスタングとグレイシアが返答を待つ沈黙の中。
エリシアはマスタングに一瞥もよこさず、いきなり、脱兎のごとくリビングルームのドアへと駆けた。
「エリシア!!」
我に返って娘を追うグレイシアの背中を、マスタングは0.5秒の迷いの後に、ゆったりと、だが遅すぎない足取りで追いかけた。
少女は廊下を抜け、2階への階段を、軽やかに、しかし必死の足取りで駆け上がる。
「待ちなさい!!エリシア!!」
鋭いグレイシアの叱責の声と足音が、エリシアを追い詰める。
エリシアが逃亡先に選んだのは、2階のどの部屋だろう?
何度もヒューズ家に足を運んでいるマスタングも、さすがに、一家のプライベートゾーンである2階にまで足を踏み入れた経験はほとんどない。
追いつ追われつ階段を駆け上がって行った母娘の姿を見失ってから、ゆっくりとそこを上ったマスタングは、最後の一段で立ち止まり、手すりに手を添えたまま、さて彼女らはどこに消えたのかと辺りを見回した。
短い廊下の突き当たりの、最奥から数えて二番目のドアが、開いている。
「だって!!パパの本見ていいって言ったの、ママでしょ!?」
金切り声と共に、開いたドアを再び揺らして、小さな身体がまろび出てきた。
幼い彼女は、階段の降り口に立っているマスタングを目にして、ほんの一瞬ためらったが、瞬きするほどの時間内に勇気を取り戻し、困惑し切ったグレイシアを後ろに従えて、堂々たる早足でマスタングに近づいて来る。
数秒後。
今から何が起こるのか全く予想出来ず、その場で突っ立っていたマスタングの鼻先に、一枚の封筒が突き出された。
「パパの手紙よ。本の中にはさまってたの」

───子供とは。

子供とは、声高く笑い、声高く泣き、声高く怒るものだと、思っていた。
だが、今マスタングの目の前で怒りを耐えている少女の声は、8歳とは思えないほどに深く、低い。
「…マスタングのせいで悲しい、って書いてあるわ。パパに…パパに、何したのよ!」
その語尾は、悲しくかすれた。
エリシアの身体の中で、彼女には処理しきれない感情が、彼女を覆い尽くし、苦しめている。
裏切られた、とその瞳が訴えている。

───信じてたのに。パパの、あたしの、友達だ、って。

父親がある日突然消えた、その喪失は、彼女から、「信じる」力を、強く削いだはずなのだ。
この年頃の子供ならば、みな信じている。明日も明後日もその次も、平穏に、退屈に、幸福に時間が過ぎてゆくことを。
それは、大人の視点からすると全く保証のない確信ではあるが、その確信がなければ、子供というものは子供らしく日々を過ごしてゆくことが出来ない。
稀に、その確信なく生きる子供も存在するが、「確信なき子供」として生きてきたマスタングは、なんとしてでもエリシアを自分と同列にはしたくなかった。
だが現実は容赦ない。
容赦ない現実を乗り越えて、自分を「信じて」くれていたエリシアを、自分は何らかの形で裏切ってしまったのだ。

マスタングは封筒を受け取った。

自分の罪の、ありかよりも。
無実であろうとなんであろうと、一時でもエリシアの信頼を損なった、そのことが辛かった。
自分と同じ、確信なき子供にならざるをえなかったエリシアがいとおしかった。
そして、確信なき子供でありながら、マスタングとは全く違う清澄な心の持ち主であるエリシアは、その奇跡でもって、常にマスタングに畏怖をもたらす存在だった。

───光の中の、光。

遠い日に、雪の中でささげた祈りは、かなえられていたのではなかったか?

封筒の中の便箋は、乱暴に折りたたまれていた。
紙の四隅がずれたままの折り目を、マスタングはそっと開く。

紙の上には、懐かしい字が、躍っていた。

──ロイ・マスタングへ

──俺がこんなに悲しいのはおまえのせいだ。
──人の子の親の気持ちがおまえにわかってたまるか。
──もう二度とエリシアに近づくな。
──エリシアは本当に喜んであの靴を履いて歩き回っている。
──他の靴には見向きもしない。
──腹立たしいことこの上ない。馬鹿野郎。

投函されなかった手紙の日付は、7年前の冬を指していた。




二時間も、経っただろうか。
大人二人は困った笑顔で、子供一人は、事の次第が飲み込めていない不審げな顔で、美しいリビングでの美しいティータイムを終えた。
「では。私は、そろそろ」
「夕食まで、いらしたらよろしいのに。そのつもりでしたのよ?」
「いえ。夜は会食の予定がありまして。服は、申し訳ありませんが明後日の朝、取りにうかがいます。その時に、今着ているものも、お返ししますので」
ソファから立ち上がったマスタングが微笑し、その手のひらが、着ているシャツの感触を確かめるように、胸元ですいと滑ったのを、グレイシアは目を細めて見つめた。
マスタングの指の下に、淡く淡く溜まった緑は、相変わらずの輝きだ。
この緑を、笑みながら見つめることの出来る日が、再び来ようとは。
在りし日のシャツの持ち主に思いをはせていたグレイシアは、数秒ほども沈黙してしまっていた自分の無礼に気づき、ふと視線を上げた。
かちあった視線の先で、同じく細められていた涼しい目も、その深い怜悧な黒の中で、同じことを考えているようだった。
「マスタングさん」

───でも。

「お手紙は、あなたがお持ちください。それから、そのシャツも、よろしければお持ちくださいな」
でも、あの人のパートナーは、私です。
グレイシアは、一人、胸の中で、長い間の負け戦に勝利を宣言してみせる。
無言で、申し出を受けることをためらってみせるマスタングが、滑稽だった。
「お手紙は、もともとあなた宛のものですし。それにあの人、この頃は私の夢にもちっとも出て来てくれないんです。大事なシャツをあなたが着ていると知ったら、怒って出て来てくれるんじゃないかと思って」
妻として、恐ろしいほど寛大に、勝利の証として、夫の友人をもてなしているつもりなのに。
やはり少しも、勝った気がしない。
「そういう理由なら。喜んで頂戴します」
気障に肩をすくめ、ニヤリと笑み返して来るマスタングの短いまつげまでが、憎らしい。
「怒って彼が私のところに来たら、すぐあなたの元に行くように言いますよ」
黒髪の軍人は、切り返しまで、これ以上なく憎らしく。
そして、肺が締めつけられるほどに、温かく、優しかった。




ぶちまけられた水もようやく乾きかけた玄関口で、エリシアは額へのキスをようやく許してくれた。
「エリシア。あなたのパパが手紙で言っていたことは、全部が嘘ではないんだよ」
膝を折り、彼女の視線よりわずかに下方から、マスタングはエリシアを見つめる。
エリシアはマース・ヒューズではない。
それなのに、エリシアを通して彼をケムにまいてみたくて仕方がない、この自分の根性は、とにかくどうにかならないものか、とマスタングは自分に軽く絶望しかけたが、淑女の前で笑顔を奇妙に崩すのは、一流の紳士のやることではない。
「だからボーイフレンドを選ぶ時、私のような男を選んではいけない。わかったね?」
色水晶のようなエリシアの瞳に、また疑問の色が浮かぶ。
その愛らしい輝きと、傍らのグレイシアの含み笑いを華麗に無視して、マスタングは丁重にヒューズ家を辞した。




浮かれすぎて、車を呼ぶことすら忘れた。
どこかで気を鎮めてタクシーでも拾わなければ、いくらセントラル市内とはいえ、歩いて自宅に帰るには時間がかかりすぎる。
不自然な早足で歩きながら、マスタングは笑みを何度も噛み殺す。
キスの間際にもらった、エリシアのあのささやきが。
ごめんなさい、というあの砂糖菓子のようなささやきが、どうにもこうにもマスタングの顔から緊張を奪うのだ。
そう、こんなことを考えている時点で、あんなくだらない忠告を彼女に与えた時点で、自分は相当ダメになっている。
娘を崇め奉っていたあの旧友を、もうひとかけらも笑うことは出来ない。
引き締めても引き締めても、唇が緩む。
表情筋を固めることにばかり気を取られ、石畳につまづきかけて、マスタングはようやく我に返った。忠告は、真っ赤な嘘だ。
本当は。
本当は、あの正義ぶった忠告を、いつか春雷のごとく鋭く美麗に、エリシアに打ち砕いて欲しいと。
誰よりも願っているのだ。自分は。
どこまでも素直になれない、その士官学校時代から一歩も進歩していない気障な男は、のろのろとみっともなく歩きながら、その端に早くも紫が染み始めた午後の空を、せつなく見上げた。


雪は去ったが。
春雷を呼ぶには、空はまだあまりにも高く、美しすぎた。