パーフェクト・プリンセス



雪が降り出した。
曇った夕空から、ふちの透けた白い切片が、ためらいがちに落ちてくる。
すぐに目的地に着きたくなくて、駅から車も拾わずに歩いてきたことを、ロイはかすかに後悔した。
だが、指先で振り払うことも出来ずに染み込んでくる雨に比べれば、雪はその身に浴びても濡れそぼるまでに時間のかかる物質だ。
何より、この荷物を濡らしてはならない。
黒い革手袋の右手に提げた、小さな紙袋を、ロイは脇に抱え直した。
紙袋の中身は軽く、その箱の大きさは、ロイの両手のひらにすっぽりはまるほどのものだ。包装は、充分にしてある。こうして腕で覆えば、まず大丈夫だろう。
理性はロイに早く歩けと命令するが、いそいそとこの荷物を持って来た、と、目的地で待っている旧知の友人に悟られるのが癪で、ロイはことさらに平静を装って歩を進めた。




「ロイ、きさま…いいかげんにエリシアを返せ」
「大きな声を出すな。彼女が起きる」
今年の初春。
第一子が生まれて、前後不覚に狂喜している友人に、ほとんど連行される勢いで、ロイは連れ込まれたのだ。
セントラルの、彼の自宅に。
仕事が忙しいと、のらりくらり、それまでの誘いをかわし続けていたロイが、その日セントラルに出張してきているとの情報を、ヒューズは大河の中の砂金をつまみとる執念で捕捉した。
セントラルでの仕事を終えた直後に御用と相成ったロイ・マスタングは、ヒューズ家のリビングルームで今、静かに勝ち誇った笑みをその頬に浮かべている。
生後三ヶ月のエリシア・ヒューズは、ソファに座ったロイの腕の中で、すやすやと寝息を立てている。「まあ…こんなことって、あるのかしら。今までこの子、この人以外の男の人に抱っこされて、泣かなかったことって、ないのよ。それが…眠っちゃうなんて」
妻に指さされて立ち尽くすヒューズは、愛娘が人質に取られていなかったら、すぐにでも目前の友人を引き裂きかねないほどに、見えない嫉妬の湯気をそのこめかみから立ち上らせていた。
「……ロイ。おまえ」
「何か?」
ロイは、涼しげだと女性たちに絶賛される、とっておきの笑顔を友人に奮発してやる。
「おまえは………………正真正銘の、女タラシだな」
ヒューズの低周波のごとき声は、ほとんど呪詛と化している。
「今頃気づいたのか?」
「前言、撤回だ。ロイ・マスタング。貴様には以後、ヒューズ家への立ち入りを禁ずる。エリシアにこれ以上近づくことは許さん」
「あなた、真面目な顔して、何言ってるのよ」
あわてて仲裁に入ったヒューズの妻に、ロイはいっそうの笑顔をふりまいたのだった。




しゃく、と、積もりきらない雪が、足の下で、シャーベットになる。
ほの白く染まりつつある石畳に目をやりながら、ロイはこみ上げてくる笑いをまたこらえた。
今回は、珍しく、前もってヒューズに連絡を入れておいた。
「エリシア嬢の初めての誕生日に、贈り物をしたい」と。
今頃ヒューズは、頭から湯気を立てながらロイを待っているだろう。
こういうことは、抜き打ちでない方がいいのだ。
待つ時間が長いほど、相手はイラつき、こちらはそれを想像して、こういう道中を、長く楽しめる。

───まったく。どちらが子供なんだか。

子供のいたずらにしては周到な嫌がらせだ。それを嬉々として演出する自分を、ロイは嘲った。

───子供とは、愚かな生き物だ。

ふいと、憎しみにも似た気持ちが浮かび上がる。
父親以外の男の腕の中で眠るなど、動物としては最悪に間の抜けた、自殺行為だ。
子供は、本能で、自分の危険を察知して、父親以外のオスに出会えば逃れようとするものだろう。
それを、彼女は。
顔つきすらもぼんやりとしか覚えていない乳飲み子の姿を、ロイは思い起こした。
子供は、嫌いだ。
無知で、愚かで、残酷で。
そして、絶望的なまでに、弱い。
自分の弱さにすら、気づけない。
見も知らぬ自分に、安らかに身を委ねたエリシアの愚かさが、限りなく、憎らしい。
この世に存在する大抵の罪を犯してきた、自分のような重罪人に心を許した、エリシアがわからない。エリシアが憎いのではない。
エリシアの中の無垢が、心底憎いと、ロイは思う。
そして。
無垢にひざまずかざるを得ない自分が、心底憎いと思う。
エリシアは、奇跡のように自分を信じてくれた。
まさに、生命を賭けて、理由もなく、信じてくれたのだ。
この世に理由のない信頼が存在することなど、あの時まで、欠片も信じられずにいた。
ロイは首を振って、前髪に積もる雪を落とした。
無垢は、いつまでも輝いていられない。
いつかはこの世の闇を知り、その輝きは色あせる。
だが、闇に光が必要なように、光だって、美しく輝くには、闇の存在が必要なのだ。
無垢は───光は、闇を知った時、いっそう力を得て輝くのだ。
無垢なままで生きて行ける人間など、いない。
わかっていても、ロイの心は納得しない。
エリシアには、闇など必要ない。この世の何も、知る必要はない。無垢なままで良いのだ。
それは、全く不可能で、かつ残虐な願いであった。
ロイはなおも雪を踏む。

───私は彼女の保護者ではない。彼女の将来への、最終的な責任を担ってはいない。

だから、こんなに不遜な願い事をしても、世の人々の言う「神」とやらに、そうとがめられることはないだろう。
そもそも、罪を重ねすぎた自分が、今更これしきの罪を重ねたところで、「神」は他の罪人を裁くのに忙しくて、こちらのことなど見向きもしないだろう。
そう開き直って、ロイは紙袋を抱えた右腕に、心なしか力を込めた。
店員に、月齢よりも大きめなら間違いありませんと勧められた、白い革靴が、美しく包装されたこの箱の中に納まっている。子供の靴のサイズなど、まるで見当がつかなかった。店で一番高価なものを、ためらいもなく選んできた。柔らかい仔山羊の革を使った品なのだそうだ。
彼女が生まれて、一年近く経った。
彼女がこの靴を必要としてくれる日は、そう遠くないはずだ。
暗い空を見上げた目に、雪がひとかけら、刺さる。
その冷たさが、「神」からくだされた、小さな小さな罰のような気がして、ロイは瞬間、固く目を閉じた。

───親愛なる、エリシア・ヒューズ嬢。

私は、あなた自身が、あなたが歩いて行く未来が、混じりけ一つなく光り輝くものであるようにと願う。
闇という闇は、私が引き受ける。
だからあなたは。
完璧な、光であれ。
光の中の、光であれ。

ロイは、多少温度の上がった気がする頬の上で融けた雪を、凍える革の指先で振り払った。
光の王女の住む城は、すぐそこだ。