老いと魔術と、神秘をもたらすもの



ドアの向こうから、手紙が差し込まれる音がした。
古いドアの内側にそのまま作りつけた、粗末な郵便受けに、紙束が落ちる密かな音がする。
朝、早く目覚めすぎたがゆえの頭痛を解消するために、気が向かないながらも自作のコーヒーをすすっていたロイは、ダイニングの椅子からゆっくりと腰を浮かせた。
宵っ張り者の多いこのニューヨークの街は、朝が遅い。だがこの、スラムぎりぎりに面した古びたアパートメントは、郵便の配達所から程近いため、毎朝実に早くから、手紙が配達されるのだった。ケンカだの強盗だの、周囲の劣悪な環境にもめげず、あの配達所の主人と雇われ人は、本当に真面目な人物らしい。
狭いダイニングを出て、数歩で玄関ドアにたどり着き、ロイは郵便受けのふたを開けた。
薄くも厚くもない大きめの封筒が一通、届いている。
その封筒が、移民局からのものであることに気づき、ロイはかすかに表情を歪めた。もう十年来の馴染みの、あの協力者からの手紙なら、また仕事が増えるだけからだ。
ドイツを出国させられてからこの十五年、真にプライベートな手紙など、ロイは受け取ったことがない。郵便受けに放り込まれるのは、ただただ、あのヘスの息のかかった、勤勉な協力者からの情報提供ばかりだ。自分で思考することをやめ、スパイとして、ただ業務命令に従うだけの生活には何の張りもなかったが、不思議な安定感があった。いかに魂のこもらない行動であろうと、命令に従ってさえいれば、最低限の衣食住は保障される。みずみずしい意欲を失った精神と、そこに繋がる肉体を、自分ひとりで生かすことはとても難しいが、こうして自動的に経済力を保障されていれば、あてどなく舞う水面の木の葉のように、ふらふらと沈まず生きていける。
そんな安定した生活の中でも、郵便受けがことんと鳴るたびに、心の本当に小さな片隅で「プライベートな手紙」を期待している自分に気づき、ロイは無音のため息をついた。

───ここまで年を取ると、切り替えが効かんものだな。

余計な感情を嘆いても、何の足しにもならない。
自分で自分をにやりと嘲笑してやって、ロイはテーブルのコーヒーカップを注意深く脇に除け、封筒を手早く開封した。
いつもの、亡命者のリストが目に入る。
この数年で、ヨーロッパのユダヤ人たちは、なだれを打ってアメリカへと亡命している。特に著名な知識人の亡命は、そのまま、アメリカへの頭脳流出を意味する。
アインシュタイン、フェルミ、ノイマン。ロイがいつか読みかじった、魔術とも思えた学術書の著者である彼らの名を、このリストの中に見つけた時は、えもいわれぬ物悲しい気分に襲われたものだが、次々と更新されてゆくリストの閲覧に慣れてしまった今となっては、ほとんど何の感情も湧いてこない。
いつだったか、あのロベルトの名前をリストに見つけた時でさえ、冷静すぎるほどに冷静だった。
今日の封筒には、亡命者リストの他に、もう一枚、別のリストが紛れ込んでいる。

───マンハッタン計画?

見慣れない単語に目を奪われ、ロイはそのリストをまじまじと読み直した。
アメリカ政府が、亡命者───特にユダヤ人───を集めて、秘密の研究所を設立するらしい。それは、ナチスドイツに対抗しうる、新型兵器の製造を目的としているという。
そのマンハッタン計画に招聘されている人物のリストは、まさに、これまでのユダヤ人亡命者の総括だった。
あまりにも既視感にあふれたリストの中で、ロイの目が、とある一行にもう一度釘付けられる。

───『エドワード・エルリック』。

もう一度、ロイはその行を読み直す。

───『エドワード・エルリック、アルフォンス・エルリック。ニューヨーク在住』

同姓同名の人間が、この世に何人いるのだろうか。
それにしても。
エドワードと、アルフォンス。
ミュンヘンのあの街で暮らしていたあの少年も、確かアルフォンスといった。このアルフォンスが彼だとしたら、彼の姓が、なぜ変わっているのか。
それとも、赤の他人の、単なる偶然の重複か。
彼らがドイツから亡命してきたのなら、今までの亡命者リストに載らなかったはずはない。彼らはユダヤ人ではないが、ドイツ政府に監視されていた。彼らが亡命してきたのなら、移民局の監視網に必ずひっかかるはずなのだ。
ふと我に返って、ロイは先刻繰った、今回の亡命者リストをわし掴んだ。
亡命者たちの顔写真がちらかるのもかまわず、数枚の紙を乱暴にかき分けた、次の瞬間。

紙の間で、懐かしい黄金の瞳が、きらめいた。

テーブル一面の紙束の中から、ロイはその写真をつまみ上げる。
隠し撮りなのか、エドワードは移民局らしい建物を背景に、カメラを見つめずに、傍らのアルフォンスらしき青年に微笑みかけている。写真そのものはモノクロでも、ロイの中のはるかな記憶が、エドワードの瞳を、黄金に彩る。
十五年の歳月が経っているのに、ほとんど変わらないその風貌は、相変わらずふてぶてしく、温かく、美しかった。
彼は、無事なのだ。
そのあたりまえで、かつ奇跡的にも思える事実が、ロイの心に、ぽとりと水滴を垂らすように沈み込んでゆく。水滴には熱があり、暖かい波紋が、一定の重みをもって、そっとロイの意識を叩いた。
波紋は、ロイの感情と理性の両方に等しく食い込み、どうしたことか、身体中の筋力を奪ってゆく。

これは、ミスだろう。

エドワードの写真をつまんだ指が、小刻みに震え始める。抑えようとしても止まらない。
エドワードがドイツを出国出来たことも、アメリカ政府に亡命が認められたことも、その情報がロイのもとに届いたことも、ドイツ政府───いや、ヘスの傘下にとっては、重大なミステイクだ。
ロイの理性は、冷ややかにこの状況を分析する。
誰がどこでこのミステイクを犯したのか、今は推測する術もないが、ただひとつわかるのは、この状況がロイにとって、望ましいものでは全くない、ということだ。
望ましくないどころではない。
命の危険が、目の前に迫っている。
エドワードが亡命に成功したということは、彼がドイツ政府から完全に解放され、ヘスの手を離れたということである。それは同時に、ロイも、ヘスから解放されたことを意味する。
しかし喜ぶヒマなどどこにもない。
このミステイクがヘスの耳に入れば、彼らは、即刻ロイを「処分」しようとするだろう。
足枷を取り払われたロイが、アメリカ当局───例えばFBIにでも駆け込んで、この「マンハッタン計画リスト」の漏洩を報告すれば、ヘスたちナチスの率いるドイツ政府は、計り知れないダメージを受けるのである。
手が震えてしかたがない。
全身の関節が凍りついたかのようなぎこちない動きで、ロイは散らばった写真をかき集め、テーブルの上に積んだ。
指の震えが治まったと思ったら、今度は腹の底から震えが駆け上がって来る。
何年もの間、自分の魂のありかすら忘れ、これほど無為に老いていても、ロイの心の最後の一片が、死の恐怖に悲鳴を上げている。
あてなく手紙を待つ寂寥が、この世界への、ほんのわずかな執着が、一転して冷徹な恐怖となる。
だが、その恐怖は奇妙に爽やかだった。
テーブルの上の写真を、例のリストたちと共に全てもとの封筒に収め、封筒ごとくるくると丸めると、ロイは椅子から立ち上がった。
さっきのコーヒーすら飲み干していない。
昨日の夕食の片づけすらしておらず、シンクには汚れた食器が積まれたままだ。
そうして、たった今、それらは、ロイの中で何の意味もなさなくなった。
丸めた封筒を握り締め、薄っぺらい財布だけをズボンのポケットに押し込んで、ロイは上着も羽織らずにダイニングを出て、玄関ドアを開けた。
もう二度と、この部屋には戻れない。
振り向きもせずに自室だった部屋から出ると、、足早にアパートメントの廊下を歩き、正面玄関に降り立つ。
正面玄関のドアノブを握ったところで、背後から声をかけられた。
「珍しいこともあるもんだねぇ。こんな朝から、散歩かい?」
内心飛び上がりたいのをこらえてロイが振り向くと、廊下の真ん中に、顔なじみの大家である、老婆が立っていた。
家賃の期日前になると、必ずほうきを握って廊下に現われ、朝となく昼となく掃除を始めるこの老獪な大家は、店子たちからは嫌われているようだったが、ロイは彼女を嫌いではなかった。最低限の生活費には困っていないロイは一度も家賃を滞納したことがないため、彼女のロイに対する態度が、非常に柔らかかったせいもある。
今月の家賃も、もうとっくに払ってある。
「まだ冷えるよ。何か着てったほうがいいんじゃないのかい」
ほうき片手に、老婆はにっこりと微笑んだ。
「いえ。ちょっと、届け物があるだけですから」
「どこまで行くんだい」
彼女のいつもの詮索が、なぜか今日は少し嬉しい。
ロイはドアノブを押して、白い朝日の中へ半歩踏み出しながら、答えた。
「FBIまで、ちょっと」
バカなことを言った、とは思う。
でも、誰かに言いたかったのだ。一言でいいから、別れの言葉を。
老婆がどんな顔をしたのかはわからない。
朝の閃光に少々目を焼かれて、確認しそこねてしまった。
おそらく、彼女は何を言われたかわからずに目を白黒させていただろうが、嘘は言っていないし、後々追っ手が彼女に接触しても、彼女に迷惑がかかる確率は低いだろう。
歩くというには速すぎ、駆けるというにはゆっくりすぎる不思議なスピードで、ロイは石畳の上を跳ぶように前進する。
本当にFBIの関係者にまでたどり着けるかどうかはわからない。
今こうやって歩いていても、どこから弾丸が飛んでくるかわからないのだ。
恐怖は消え去らないが、それでも、朝の空気は爽やかだった。
初秋の寒さなど、まるで気にならない。
エドワードが、無事なのだから。
恐怖と解放感が入り混じったこのおかしな感覚には、覚えがあった。

───ああ。初めて飛んだ、あの日の。

軍隊に入り、訓練を積んで、初めて機体の操縦を任された、あの、かなたの浮遊感覚だ。
その懐かしさと、朝の冷気に打たれて、ロイの鼻の奥が急激に湿り始める。
安堵も、恐怖も、浮遊感覚も。鼻の湿りさえどこか可笑しくなって、ロイは不謹慎にこぼれてくる笑みを、懸命にこらえた。



翼を得たような、朝だった。