無風地帯



イーストシティへ向かう列車に乗り込むと。
エドワードは、身体のどこかにそうなるスイッチが付いているかのように、無口になった。
今までは、おおげさなため息と、マスタング大佐への軽口とも恨み言ともつかない文句を、アルフォンスは延々と聞かされていたものだったが。
変わったのは、エドワードだけではない。
今日は、アルフォンスも、兄に倣(なら)うかのように無口だ。
こんな時、どうやってエドワードに接すればいいのか。
アルフォンスにはまだわからなかった。
ひと月ほど前、アルフォンスは軍部に所属する自分たち兄弟の恩人───もれなくマスタングのことである───から、とんでもない事を聞かされた。

───私は、鋼のが好きだよ。

少しの照れも、ためらいもない恩人の声が、アルフォンスの意識に貼りついて離れない。
兄が深夜に宿に帰ってきた理由を尋ねても、かの恩人には笑い飛ばされるか、怒鳴りつけられるものだとばかり、思っていた。あるいは、身体に傷を負って帰ってきたエドワードを、もっと気遣ってくれるのではないかとも、思っていた。
それなのに。
マスタングは。
自分が、犯人だと言うのだ。
愛しているから、あんな目にあわせてしまった、と。
身体の傷について、沈黙を守り通しているエドワードに、直接事情を確認するわけにもいかず。
意識が破裂しそうなくらい、一度にたくさんの信じがたい情報を注ぎ込まれて、およそひと月。
アルフォンスはやはり、納得できないでいた。
どう見ても、エドワードはマスタングに、そういう意味で好意を持っているようには見えない。
ひどく素直でない兄であるから(本当はそんな事を想像するのも嫌なのだが)、あの態度は照れ隠しなのかなどとも考えてみたが、それもしっくり来ない。
あけっぴろげなように見えて、一番肝心なところはすべて自分の内に抱え込み、自分にも決して見せてはくれない兄の性格を、今ほどもどかしいと思ったことはなかった。

───兄さん。本当は、何を考えてるの?

もう何度、この言葉を、意識の底にたたみ込んだことだろう。
好きだとか、愛してるとか、そんなことじゃなくて。
本当は、何か別の秘密があるんじゃないの?
大佐は、僕たちの過去を知ってる。
軍には黙って、賢者の石を探すことに、協力してくれてる。
だから、兄さんは、大佐のことを拒絶できないだけじゃないの?

───僕のために、我慢してるんじゃないの?

窓枠に頬杖をついて外を眺めるエドワードの瞳に、通過した駅舎の黒い影が、幾筋か映って、消える。
決して風景を眺めているのではないその目を、アルフォンスは息苦しい思いで見つめた。



「え?出張?」
「すげーすれ違いだったなー大将。大佐は今出てったとこだぜ。廊下で会わなかったか?」
エルリック兄弟が、なんともいえない気分で執務室のドアをノックすると。
迎えてくれたのは、書類の束を小脇に抱えたハボック少尉だけだった。
「やーっと出発してくれて、助かったぜー。大佐、よっぽど『ご機嫌伺い』がイヤなんだろうなぁ。朝から機嫌悪いのなんのって」
「ご機嫌伺いって、誰に?」
「ニューオプティンのハクロ将軍だとさ。最近東部もごちゃごちゃして来たからなぁ、偉いさん同士でいろいろやっとくことがあるんだろうよ」
安堵のため息をつきそうになるのを、エドワードはすんでのところでこらえた。
アルフォンスの前で、露骨にそんなことはできない。
ここでため息をつくなら、それは落胆の色を帯びていなければならない。
なぜなら。
自分とマスタング大佐は、「そういう」関係であるから。
そのように、弟の前で演じろと。
あの男は言ったのだ。
そんなバカな真似が、いつまでも聡い弟に通じるとは思えない。
現に、アルフォンスは自分を疑って、ひどく口数が少なくなっている。
「マスタング大佐」の「マ」も言わなくなった弟と東方司令部を訪ねるのは、エドワードにとって二重の意味で気が重いことだった。
どんな顔をして大佐に会いに行き。
どんな顔をしてアルフォンスのところへ帰ればいいのか。
自分が大佐と会っている間、その部屋の外でアルフォンスが何を想像しているか。考えただけで、ぞっとする。
あの男は、どこまで自分を痛めつければ気がすむのか。
手を上げれば抵抗するなと言い。
従順を装えば抵抗しないのかと落胆し。

───君が殺してくれるのなら、それもいい。

怒りに我を忘れれば、殺されてもかまわないと微笑みを寄越すのだ。
ホントにアイツは。
どうか、しちまってる。
ああ。
どうかしてんのは、最初っからわかってたことか。
「兄さん、どこ行くの?」
がしゃ、という金属音と共に、背後から襟首をつかまれて、エドワードは我に返った。
「図書館に行きたいって言ったのは兄さんでしょ?通り過ぎちゃうよ?」
「え……ああ、そっか……」
エドワードが顔を上げると、目前にイーストシティの図書館の階段が、石造りも仰々しくそびえ立っている。
司令部を出てから、ぐるぐるとつまらない事を考えていたせいで、どこをどう歩いていたのかもよく覚えていない。にもかかわらずここにたどりついたのは、たぶんアルフォンスのナビゲーションのおかげだろう。
黙々と歩く自分に、「どうしたの?」の一言もなく、黙って一緒に来てくれる。
問い詰められるよりはマシなような気もするが。
だが。
あまりにも、気が重い。
少し、一人になりたい。
「………行くか」
苦い吐息を飲み込んで、エドワードは石造りの階段を二段飛ばしで駆け上がった。



この広い建物の中のどこまで、アルフォンスは本を探しに行ったのか。
彼が身じろぐ時の金属音は、もう聞こえてこない。
運良く、新規に入架した錬金術書を手にすることができて、エドワードは椅子に座るのも忘れ、書架の前でそれを読みふけった。
錬金術は、日々、進歩している。
まっすぐその道を歩いていけば、いつかアルフォンスの身体を取り戻す方法にたどり着けるのではないかと思っていたが。
そう思うことだけで、オレは満足していないか?
時折、意識の端に浮かぶほの暗い自戒を押しのけながら、エドワードは、インクの匂いも真新しい本の中に埋没していた。
「新書かね?」
手元が急に暗くなり。
エドワードが振り向く前に、背後から、目前の書架に青い軍服の腕が伸びてきた。
とん、と書物の背表紙に付かれた手は、発火布こそ着けていなかったが。
その声を、エドワードが聞き違えるはずもなかった。
背後に立ったマスタングと書架の間に挟まれ、エドワードはとっさに振り向くのを諦めた。
エドワードの背後から伸ばされたその腕が、頬に触れそうだ。
マスタングは片手しか伸ばしていない。
腕の中に囲われたわけではないから、まだ十分に逃れる余地はある。
だが、エドワードの本能は、「動け」とその身体に命令を送らなかった。
「……出張じゃ、なかったのかよ」
もう読み進めない本を開いたまま、エドワードはこれ以上ない低い声で問うた。
「軍用車の調子が悪くてね。駐車場でもたもたしていたら、ハボックが君の居場所を教えてくれた」
「さっさとニューオプティンに行って来いよ。あんたの大好きな将軍が待ってんだろ」
「待たせておけばいい。遅刻も愛嬌のうちだ」
「あんたが愛嬌なんて言うと、愛嬌が泣きそうだな」
「相変わらずで、嬉しいよ。鋼の」
マスタングは、エドワードの後頭部に顔をうずめた。
その感触に、エドワードの全身が冷える。
こんなふうに触れられるのは、無理やり抱かれたあの夜以来だ。
もうこの男は、自分の身体に興味は無いのだろうと思っていたのに。
エドワードを抱いている間も、抱いた後も、マスタングは少しも楽しんでいる様子はなかった。
それまで繰り返されてきた、くどいほどのキスと愛撫の行き着く先が、そんな暴力でしかなかったことが、エドワードをある意味、混乱させている。
それほどまでに、マスタングの逆鱗に触れてしまったのだと、予想のつけられないエドワードではなかった。
だが、あの暴力を思い出すたびに、エドワードの心は正反対の方向に引き裂かれてしまう。
自分への憎しみしか感じなかった、あの「セックス」という行為。
無法者と手合わせする時の緊張感とは全く違う、あの恐怖。
ただもう耐えるしかない、あの苦痛。
思うだけで、憎悪は息もできないぐらいに湧き上がって来る。
けれど。
あの時のマスタングはどこか、哀れだった。
彼が痛めつけていたのは自分だけではなく、自分の身体を通して、その先の何者か───ひょっとしたら彼自身かもしれない───を、苛んでいたのかもしれない、と、エドワードには思えてきてしまうのだ。
この世で一番憎い男を、哀れむなど、どうかしている。
そしてきっと、哀れまれているのを感じ取ったからこそ、マスタングはあれほどまでに怒ったのだ。
あの夜のことを、思考の底に封印しようとすればするほど、エドワードの心で、二つの気持ちが荒れ狂う。
憎悪と、憐憫。
ひと月の間に、混乱の中から、エドワードはようやくその両極端の気持ちに名前を付けることができたのだった。
「誰かに見られたら、あんた、終わりだぜ」
精一杯、低音を保とうとするエドワードの声にかまわず、空いていたマスタングの左腕がエドワードの首にからみつき、手のひらが鎖骨のくぼみを探る。
「ここは靴音が響く。誰かがそばまで来て気づかないのは君ぐらいのものだよ」
笑みを含んだ声が耳たぶのすぐそばに落ちてきて、エドワードの顔に血が上った。
すばやく本を閉じ、機械鎧の指を握りしめる。
右後方に繰り出そうとした肘鉄は、髪の毛一筋ほどの差で背後からの腕に封じられた。
力と力がせめぎ合い、手首をつかまれて静止した機械鎧がきしむ。その虫の鳴くような音に、マスタングの低いくすくす笑いがかぶさった。
「容赦が無いね。素晴らしい攻撃だ」
先月エドワードに傷つけられたマスタングの右脇腹は、縫うこともなくふさがりかかっている。今、肘鉄を食らったところで大出血するわけでもないが、鋼鉄製の肘ではダメージは大きいだろう。
マスタングには、相手の弱点をすかさず狙うエドワードがひどく微笑ましかった。
背後から見下ろす滑らかな頬は、やせて削げたような様子もなく、自分の声に紅潮し、健康に熱を保っている。
怒りに任せて抱いた後、執務室で倒れられた時は正直ひやりとしたが。

───元気そうで、安心したよ。

声に出さずに、マスタングはエドワードを抱く左腕に力を込めた。
しかし。
何かが、おかしい。
ごく自然にあふれてくる安堵を、マスタングは胸中でせき止める。
極上だったこのゲームは、もう、終わりが見えている。
彼を望み通り自分のそばに置き、これから先、二度、三度とエドワードを抱けば、必ずそれは「飽き」に繋がってゆく。
飽きたくなくても、飽きる。
自分にとっての「人間関係」とは、そういうものだったはずだ。
それがどうしても嫌で、我ながら信じられないような気長さで、ゲームの終わりを回避してきたのに。
一時の怒りで、ゲームを台無しにしてしまったのは自分だが、そのことにももう、諦めがついているつもりでいたのに。
今度こそ、エドワードを気遣ってやる必要などないのだ。
もう彼は、楽しいゲームの対象になどならない。
ゲームができないのならば、元気であろうと、病み疲れていようと、知ったことではない。
それなのに。

───私は、安心している。

彼が健康であることに。

だが、マスタングに、文字通り降ってわいた驚愕すべき感情を、じっくり心の内で検分する時間は与えられなかった。
右腕を封じられ、諦めて身体の力を抜きかけていたエドワードが、にわかに暴れ始めたのだ。
「………おい!離せ!」
いつの間に新書を書架に戻したのか、エドワードの生身の左手が、その首に回されたマスタングの左手首に食い込んで来た。
「いいかげんに、離せよ!」
周りをおもんぱかっての、息の混じった低い怒鳴り声が、マスタングの軍服の袖を湿らせる。
エドワードの焦燥の理由は、すぐにわかった。
マスタングも聞き慣れた、重い金属を揺らす足音が、そそり立つ書架たちのはるか彼方から聞こえてきたのだ。
マスタングは目を細めた。
そして、エドワードの首をも絞めかねない勢いで、背後から彼をしっかり抱きしめる。
もちろん、鋼の右腕は、高く掲げるように、書架に縫い止めたままで。
「鋼の。焦らなくてもいい。君の弟に、見せてやればいいだろう?」
「バ…カ、言うな……!」
マスタングの手首が白くなるほど、そこに食い込むエドワードの指に力が込められる。
「見せてやれば、アルフォンス君は疑わなくなる」
穏やかに響く金属音は近づいてくる。
「…君と私の仲を」
エドワードの靴が床を鳴らした。
下半身から攻撃されてはかなわない、と、マスタングは一歩踏み出し、エドワードの全身を書架に押し付ける。
さっきから、しゃべる度にエドワードの耳のうぶ毛が唇に触れて仕方なかった。その耳たぶを、うぶ毛ごと柔らかく噛みしめる。
「う……!」
首をすくめ、全身を硬直させるエドワードに、考える隙を与えてはならない。
「鋼の。時間が無い。身体をこちらに向けなさい」
「…こ…の、野郎…!!」
足音は、もう三列ほど向こうの書架まで来ている。
「早く」
マスタングがエドワードの右手を解放するのと、自由になったエドワードが振り向きざまにマスタングをなぎ払うのは、どちらの動きに利があるか。
勝ったのは、マスタングだった。
振り下ろされた鋼の腕を、今度は左手で封じる。
鋼の腕を左手で握ったまま、マスタングが腕を脇に払えば、もうエドワードの顔はマスタングの胸板の上だ。
こちらを向かせたエドワードの肩をつかみ、もう一度、今度は背中から彼を書架に押し付ける。
「い……てっ!」
勢い余ってエドワードが後頭部を書架にぶつけても、それにかまっている時間すらない。
足音は、もう、すぐそこだ。
「…腕を私に回して」
鳥の羽が風を切るような声音で言うなり、マスタングはエドワードの唇を塞いだ。
「ん……んっ…!」
いきなり舌で舌を絡め取られ、罵りの言葉すら吐き出せない。
いや、この場合は、吐き出せない方がいいのかもしれない。
エドワードの思考が、ぐらりと揺れた。
アルフォンスはエドワードとマスタングを疑っている。
アルフォンスに、真実を知られたくない。
ひょっとしたら、もう、あの弟は気づいているのかもしれないけれど。
いつのまにか、マスタングの腕はエドワードの背中に回されている。
その腕が、抱きしめる力を強めながら、赤ん坊をあやすように、とんとん、と触れている背中を叩いた。

───腕を私の背中に回せ。

この、クズ野郎。
最低野郎。
クソ野郎。
罵倒する気力まで、口の中で動き回る舌に持って行かれそうだ。
こんなことで、とてもアルフォンスが自分たちの言うことを信用するとは思えないけれど。
それでも、苦しめたくない。
正常な思考のできなくなったエドワードが、マスタングの背中に手を回し、その軍服を、溺れる子供のようにわしづかむのと。
金属を揺らす足音が止まったのは、ほぼ同時の出来事だった。
わしづかんできた手に呼応するように、熱い舌が、エドワードの思考をまた揺らす。
下唇の裏側に舌先を差し込まれて、きつく閉じたエドワードの目の奥が───視神経の果てまでが、ずきずきと、痛む。
視覚が遮断された分、エドワードの聴覚はより鮮明に、弟の足音が自分たちのごく近くで停止するのを聴きとってしまった。
アルフォンスが、見ている。
まぶたが震えるほど力を込めて目を閉じ続けていても、ふさがれているのはエドワードの目で、アルフォンスの目ではない。
視神経からの痛みが、エドワードの全身に広がり始める。
マスタングの腕のせいではない。
見られている、と思うだけで、痛いような気がするのだ。
角度を変えて絡み付いてくる舌が、動きの鈍くなったエドワードのそれを捕まえ、締め上げる。
「は……!んっ……」
いつもこのやり方で、声を上げさせられて来た。
舌を押さえつけられ、酸素不足にされ、飲み込めない唾液にむせる寸前に。
こんな声が出てしまう。
自分でも聞き覚えのある淫らな声が、エドワードの脳を恥ずかしさで沸騰させた。
マスタングは、どう口付ければエドワードが声を出すか、熟知している。
振り払いたいような記憶だが、エドワードも、マスタングがどう舌を使うか、よく覚えていた。
記憶していることすらも、おぞましい。
明らかに、今のはわざとだ。
見せるだけでは飽き足らず。
アルフォンスにエドワードの声を聞かせるために。
あのやり方で、この男は口付けた。
怒りと羞恥に茹で上げられて、徐々に不確かになってくる身体感覚の中で、エドワードは、鎧の足音が、自分たちから少し離れたところで再び歩を踏み出し、遠ざかって行くのを聴き取った。
足音がもう聞こえなくなったのを確信した後。
まだ自分の頬を唇で探っているマスタングの背中に、エドワードは機械鎧の拳を固めて、思い切り振り下ろした。
どん、と鈍い音がした。
途端に咳き込むマスタングを両手で突き離し、不覚にもふらついたその脇腹に、鋼の膝で、これまた思い切り蹴りを見舞ってやる。
それがこの間の傷口に、ヒットしたのかどうか。
さらに咳き込みながらも、エドワードの次の攻撃を避けるために、マスタングはすばやく数歩あとずさった。
その場で上半身をわずかにかがめて、左手で右の脇腹をかばう。
「本当に……、ひどい、な。君は」
「どの口で、そんなことぬかしてやがる…!!」
 痛みに顔をしかめていても───どこか嬉しそうなマスタングのその表情が、心底いまいましい。
どうして、くれようか。
この男を、どうしてやれば気が済むか。
エドワードのささくれた感情は、いつも、持って行き場が無い。
風も吹かない荒野に取り残されて、じわじわと雨の侵食を待つ、巨石のように。
雨は何万年かければ、その巨石を溶かせるのだろう?
何万年かかろうと、それが自分だけの苦しみであるなら、耐えてもやろう。
だが。
この男は、アルフォンスまで、荒野に追い込んで。
二人して、荒野の真ん中で、気持ちを通わすこともできずに、息苦しく立ちすくむはめになった。
許せない。
数瞬のち、全く違う感情をもってにらみ合う二人の沈黙を、近づいてくるひとつの軽やかな足音が破った。
「……いかん」
何かに感づいたのか、マスタングは書架に手をついて、そっと、だが急いで上半身を伸ばした。
「何アセってんだよ?」
鼻で笑ったエドワードの、背後遠くで足音は止まる。
「大佐。時間オーバーです。…ごめんなさいね、エドワード君。邪魔して」
邪魔ならもう少し前にして欲しかった、とエドワードが心からがっかりしながら振り向くと、長く連なる書架の端に、相も変わらぬ美貌のホークアイ中尉が、青い軍服もりりしく立っていた。
「急ぎましょう。これ以上遅れるのは良くありません」
「ああ」
ついさっきまで書架にすがっていたマスタングは、もういつもの顔に戻っている。

───どういう、顔の構造してんだよ。

それに、あの蹴りを食らったら、数分はまともに動けないはずである。
しかし。
自分に向かって───いや、自分の背後のホークアイに向かって、何事もなかったようにマスタングは歩いて来るのだ。
本当に、全く、どうしてくれようか。
怒りの冷めないエドワードの脳は、エドワードの機械鎧につながる神経に、とうとうとんでもない命令を出した。
目前を通り過ぎて行くマスタングの手首を、鋼のそれが捕まえたのだ。
はっとこちらを見下ろす黒い瞳を、エドワードはねっとりと見つめ返した。
唇の端に、笑みを浮かべて。
その笑みの不可解さに、マスタングは刹那、慌てた。
「鋼の。どう……」
どうした、と彼が最後まで発音することはかなわなかった。
信じられないものが、唇に触れたからだ。
鋼の手のひらをマスタングの二の腕まで滑らせ、エドワードはマスタングの上半身を無理やり引き寄せて。
その唇に、短いキスを送ったのだった。
「楽しかった。…ありがと」
それだけを、背後の中尉にも聞こえるように投げつけて。
彼女の顔を見なくてすむよう、エドワードはマスタングの腕をかいくぐり、振り向かずに駆けた。

まだだ。
こんなんじゃ、全然足りねぇ。
仕返しにも、なりゃしねぇ。
バカらしい。

沸騰していた頭の中身が急激に冷えていくのを自分で感じながら、エドワードは別室の書架と書架の間に駆け込んだ。
全力疾走もしていないのにあがってくる息を、本の背表紙にもたれて落ちつかせる。
顔も見たくない、できればもう会いたくない男ではあったけれど。
心底驚いているふうであったマスタングをじっくり見られなかったのは、かなり残念だとエドワードは思った。
ホークアイはきっと、先程見たことについてマスタングを問い詰めないだろう。
それが、どんなに居心地の悪いことか。

───オレの百分の一でもいい。思い知れってんだ。

ああ、くそ。
中尉にまで、顔合わせづらくなっちまった。
ささやかな復讐のしっぺ返しを早々に自覚しながら、エドワードは、そよとも空気の動かない薄暗い書架の間で、「このあとアルフォンスに会ったら最初に何を言えばいいか」と、些末で重大なことを考えねばならないのだった。

違う季節の到来を知らせる風は、まだ、吹かない。
遠くで、アルフォンスががしゃりと身じろぎする音が聞こえた。