ロータス



「おや、坊や。何か悩みごとがあるみたいだね」
市場の穏やかな喧騒の中で、その声は、ひどく鮮やかに、アルフォンスの耳を捕らえた。
そう。
悩みごとなら、ある。
いつもいつも忘れられない、あの人と。
いつもいつまでも故郷を忘れようとしない、あの人の心。


***

どうしても今日は夕食にシチューが食べたいとゴネるエドワードに付き合って、ロケットの設計作業もそこそこに、アルフォンスは今朝から、かの料理の仕込みを重ねてきたのだが、その最終段階に至って、ジャガイモを切らしているのに気がついた。
シチュー製作に受身ではあったものの、設計図は隅の隅まで仕上げなければ気がすまない完全主義のアルフォンスと、ジャガイモのないシチューなど言語道断、とゴネにゴネたおすエドワード、その両者の台所でのデスマッチ…ではなく、コイントスによって、臨時の買出し当番は決定された。
無情の敗北を噛みしめながら、アルフォンスはジャガイモを購入すべく、緩く日の暮れてきた大通りを通り抜け(アパート一階のグレイシアの店ではもうジャガイモは品切れであったので)、定期的に市のたっている広場を目指した。
そして。
広場の店をいくつか巡り、閉店ぎりぎりの店先にすべり込んで、戦利品を抱えてさあ帰ろうときびすを返したその時に、店の隣から、見慣れない老婆に声をかけられたのだ。
「おや、坊や。何か悩みごとがあるみたいだね」
市場のテントのそれぞれにつるされたランタンにはまだ、ほとんど灯が入れられていない。その限りなく薄い夕闇の中で、その老婆は円卓の上に小さなガラスランプをとも灯していた。テントの軒すら借りていない、ささやかなそのスペースは、祭りの時にどこからかやって来る、ジプシーの占い師を連想させた。
見れば老婆の人相風体も、ジプシーのそれと言ってまったくさしつかえない。
「あらまあ。図星かい」
人が良さそうな老婆の笑みに緩みかける心を引き締めて、アルフォンスは辺りを見回した。一瞬のスキをついて、懐の財布を狙ってくる老婆の仲間がいないか、警戒したのだ。
「大丈夫だよ、坊や。あたしはただの物売りさ。仲間なんかいやしないさ」
疑心を見透かされて気まずく恥じるアルフォンスのことなど全くかまわず、老婆は笑顔を崩さない。
いや、正確なところを言うと、彼女の顔のしわは山脈のように縦横に深くて、その山脈の流れから「どうやら笑っているらしい」という確実な予想(?)がつけられるだけなのだが。
「悩みがあるなら、これを食べるといい」
どこから取り出したのか、老婆は小さな木の実のようなものをひとつ、指先につまんで差し上げた。
「何でも忘れられる薬さ。よく効くよ。一袋どうだい坊や?特別に安くしとくよ」
よく見ると、卓上のガラスランプの横に、手のひらサイズの小さなかごが、影を落としている。
自称「物売り」の老婆の商品は、どうやらそのかごの中身らしい。
気がつくとアルフォンスは立ち止まって、まじまじと老婆を見つめていた。
「……何でも、忘れられる薬…?」
アルフォンスには、わかっていた。
生活態度、価値観、他人に対する評価、それら全てにおいて堅実であるアルフォンスにはわかっていた。
その「薬」が、まがいものであることが。
「そうさ。この蓮の実をひとつ食べれば、何だって忘れられる。お家に帰りたい子供だって、お家を忘れてしまうぐらい、幸せな気分になれる。効き目抜群の、魔法の薬さ」

お家に帰りたい、子供。

なんでもない老婆の言葉が、アルフォンスの胸の、とんでもなく深い場所に届く。
帰りたい場所に帰れなくて、いつも心の中で泣いている小さな子供を、アルフォンスは知っているからだ。
もちろん彼を子供などと評すれば、評された本人は烈火のごとく怒るだろうが。
「ああ、味ももちろん心配ないよ。ちゃんと砂糖漬けにしてあるからね」
その素晴らしい効能(?)とは裏腹に、砂糖漬けの小さな一袋は、安価だった。
ついさっきアルフォンスが買った、ジャガイモのおつりで買えてしまうほどに。




「おっせーよ、おまえ。煮えすぎてタマネギが溶けちまうじゃねーか」
帰宅したアルフォンスを迎えたエドワードは、鍋の前でスプーン片手にふんぞり返り、もうすっかり食欲の奴隷だった。
買い物の労を一言ねぎらってくれてもよさそうなものなのに、という文句を胸に納めて、アルフォンスは抱えていた袋からジャガイモを取り出して、ひとつふたつみっつ、と、それをエドワードに速やかに手渡してゆく。
さっきの老婆から買った蓮の実は、ひとつかみ分ほどが、袋ごとアルフォンスのズボンのポケットに入っている。
胸に納めたエドワードへの文句もどこかへ吹き飛ぶほどに、アルフォンスの意識は、ズボンのポケットに集中していた。
まがいものなのはわかっている。
これはどこからどう見ても、どこにでもある蓮の実のお菓子だ。
こんなちっぽけな食べ物が、人間の脳の記憶装置をどうにかすることなんて、出来るわけがない。
あの老婆の言葉は、菓子を売るための、セールストークにすぎない。
だけど。
だけどもしも、脳の記憶装置をどうにか出来なくても、これを食べることで、何かの暗示をかけられる、ということだったら。
そうだ。
偽薬効果というものがある。
なんでもない小麦粉でも、薬だとだまされて飲むと、本当に元気になる病人がいるのだから。
ひょっとしたら。
ひょっとしたら、エドワードは故郷のことを忘れて、いや、忘れないまでも心の隅に押しとどめて、今のこの現実と、アルフォンスそのものを見つめ直してくれるかもしれない。

───見つめ直してくれたら、僕は、その時は。

「アルフォンス?ぼーっとしてねーで、皮むき手伝ってくれよ」
全く。
誰の希望でこんな手の込んだ炊事をしていて、誰の希望で結構な距離を歩いて臨時の買出しに行ってきたのか。
こんなに無神経な一面を持ち合わせているこのエドワードに、暗示とやらが効くのかどうかは、かなり疑わしい。

───けれど、この人の無神経さはこの人の罪悪感の裏返しで。

わざと厚顔にふるまって、行儀の悪い居候を演じてみせて、アルフォンスが必要以上に気を回さなくていいように、アルフォンスがエドワードより強い立場に立てるように、ずっとずっと、エドワードは気を遣ってくれている。
それが嬉しくていたたまれなくて。
本当に、大好きで。
「エドワードさん」
次の言葉など考えてもいないのに、アルフォンスの唇は、衝動的に目前の厚顔な居候を呼ばわった。
「んー?なんだよ?」
さくさくと軽快にジャガイモの皮をむきながら、視線は包丁の先に固定して、エドワードは声だけで返事をよこす。
「朝からずっと料理にかかりきりで、疲れたでしょう。市場でついでに、これも買ってきたんです。一口、どうですか」
自分が何を言っているのかよくわからないまま、アルフォンスはくだんのポケットに右手を差し入れる。

───ちょっと。ちょっと待って。

自分で自分に大慌てで呼びかけるものの、アルフォンスの唇は、これぞ脊髄反射という滑らかさで、よどみなく言葉をこぼし続ける。
「蓮の実の砂糖漬けです。甘くて、おいしいですよ」

───ばか。唐突すぎるだろう。何をやってるんだ僕は。

「へー。どれ」
ぽん、と手際よくジャガイモを一個丸裸にした指が、ふと包丁を離して、アルフォンスの手の中の紙袋に無遠慮に突っ込まれる。

───待って、エドワードさん。

僕はあなたに故郷を忘れて欲しいけれど。
故郷を忘れて、ずっとここで、僕だけを見て、僕といつまでも暮らしていて欲しいけれど。

『お家に』

あなたの故郷と、あなたの大切な弟のことをあなたが忘れてしまったら、

『お家に帰りたい子供だって』

あなたはきっと、あなたであって、あなたでなくなってしまう。

『お家に帰りたい子供だって、お家を忘れてしまうぐらい』。

───忘れては、ダメだ。

蓮の実をつまんだエドワードの指を、アルフォンスは、すんでのところで引き止めた。
「やっぱりだめです、エドワードさん!」
そのまま強引に引き戻して、エドワードの指ごと、蓮の実に食らいつく。
「いてえ、何すんだ!」
舌の上に落ちた蓮の実は、確かに甘かったと思う。
勢いあまって口に含んでしまったエドワードの指も、そこに付着した砂糖のザラザラとほのかな熱で、やはり少し甘かったと思う。
そこまで味わったところで、アルフォンスの記憶は、ぷっつりと途切れた。











「起きろ」
耳に吹き込まれたその声は、いとおしくて冷ややかだった。
覚醒するには頭が重くて、目を閉じたままアルフォンスは細く息を吐いた。
「起きろバカ。おまえのせいで、ジャガイモが生煮えだ」

───起きろ、って。いつのまに、僕は眠ってたんだ…?

薄暗い記憶の浅瀬を探ってみても、確かな欠片がつかめない。
「オレはもう動けねぇから。おまえがシチュー仕上げてこいよ?」
重いまぶたをやっと押し上げたアルフォンスの鼻先で、エドワードが前髪をかき上げる。
その表情は、地獄の番犬が空腹に耐えかねたようでもあった。
剥き出しの彼の肩にも首筋にも胸元にも、細かいアザが散っている。
ふと、全身の感覚が戻ってきて、アルフォンスは自分も全裸でベッドにもぐりこんでいることに気づいた。
恐ろしいほどに、身体がだるい。
このだるさには、とても覚えがある。
エドワードと一緒にベッドに入り、いや、ある時はエドワードにベッドに引きずりこまれ、またある時はアルフォンスがエドワードをベッドに引き倒して、そしてすったもんだの後の、あの身体のだるさだ。
「おまえ。………あれ、わかってて買ってきたのか?」
ぐったりとベッドにうつぶせたまま、顔半分だけをこちらに向けて、エドワードが問うてくる。
「あれって、なんですか……?」
問い返す声も、自然、尻すぼみになる。
「やってられねーな。覚えてねーのかよ。こっちはおまえがおかしくなったのかと思って、焦ってたのに」
「………?」
「もう付き合いきれねぇ。………シチューはおまえが仕上げて、ここまで持ってきてくれ。オレはおまえのせいでもうここから一歩も動けねーからな」
「僕、何かしたん…ですか?」
「何かしたじゃねーだろ。思い出せねぇならこの状況から考えろ。ったく、ワケのわからないもん勝手に買って来やがって。どこで買ったんだ、あの蓮の実」
「え…市場で、売ってたから。食べると…その、えーと、だから、食べるとイヤなこと忘れちゃうぐらい…美味しい、って」

───そういえば、僕は何も忘れてない。

自分の過去も現在の身分も、エドワードのことも、アルフォンスは忘れていない。
忘れているのはただ、あの蓮の実を、エドワードから強引に奪って口にした後のことだけで。
「おまえは忘れすぎだ!!ちくしょう、もう許さねぇ!!」
ハリネズミが身体を丸めるように、毛布を頭からかぶってしまったエドワードを、なす術もなくアルフォンスは見つめる。
見つめているうちに、アルフォンスの頭の中で、全く当然で怪しげな、ひとつの結論が導き出された。

───『お家を忘れてしまうぐらい、幸せな気分になれる』。

まさか、あれは。
あれは、何もかも忘れてしまうぐらいに快楽を追求出来る、という意味で。
快楽、というのはすなわち、その、誰もが思い浮かべて誰もが口にしない、あのことであって。
今更遅いのだが、今更だと思えば思うほど、アルフォンスの身体の中から、ぐるぐると熱い何かが湧き上がって来る。
赤面しすぎて、目の前がくらんだ。




どうにか、ベッドから脱出して。
アルフォンスは台所で火をおこし、もう一度、製作中だったシチューを温めにかかった。
包丁は流しに放り出されたまま、鍋のふたはテーブルの上に転がされたままだ。

───シチューもジャガイモも放り出して、台所にいたエドワードさんを、僕は問答無用で、ベッドまで引きずっていったんだろうか。

アルフォンスの赤面は続く。
そして。
もうひとつの終わってしまった可能性を思い浮かべて、さらに赤面し続ける。

───もしも、あの時エドワードさんがあれを食べてしまってたら。

エドワードがあの蓮の実を食べてしまっていたら、それはそれでめくるめく体験になったかもしれない。
自らの非常に低俗な推測をも鍋に放り込んで、アルフォンスはせわしなく食材をかき混ぜる。
「アルフォンス!早くしてくれよ!」
向こうの部屋にも、シチューの香りだけは届いたようだ。
一刻も早くエドワードに機嫌を直してもらうためには、こんなことを考えていてはいけないのだろうが。
自分のプライドを守るためにも、エドワードへの罪悪感に押しつぶされないためにも、「蓮の実」が効いていた間のことは忘れているのが一番だと、まるっきり確信は出来るのだが。
懲りていないにもほどがある、と、我ながら情けないのだが。

「それ」を忘れてしまってとても悔しいと、アルフォンスは思った。