この新しい空の下



十日間もいなくなるなんて。
あんまり、なんじゃないか。

脳内で響いた自分の声を、脳内でくしゃくしゃに丸めて踏みつけて大遠投で投げ捨てて、エドワードはぬるい唾を飲み込んだ。




テーブルの向こう岸で、アルフォンスはそ知らぬ顔をしてティーカップの中身をすすっている。
研究が立て込んで外食が続いていた中、久しぶりに買い物に行こうと夕暮れの街に引きずり出され、クリスマスとかいう祭りが近づいているせいで、尋常じゃない人ごみをかきわける苦行に付きあわされたあげく、帰宅していきなりの至れり尽くせり手作りディナーの後で。

───十日間、僕、田舎に帰りますから。

それはエドワードがソーセージの最後の一切れを、抜け目なくフォークで捕獲した瞬間の、問題発言だった。
「へ?」
ソーセージを皿の上にハリツケにしたまま、エドワードは顔を上げる。
「二十四日から十日間、僕、田舎に帰りますから。クリスマス休暇で、研究室も年明けまで休みでしょう?」
「田舎って…おまえの、親の?」
「いえ。前に言ったでしょう、僕に両親はいません。祖父の家です」
「どこよ。それ」
「ウィーンです」
「それって…こっちじゃ、みんなそうなのか?みんな、『クリスマス』が来たら、イナカに帰るモンなのか?」
「ええ」
断言したアルフォンスの顔に、すばやく後悔の色が浮かんだのを見て取って、エドワードはフォークを握りしめたまま内心で舌打ちする。
ミリ単位で開いて固まったアルフォンスの唇の頼りなさが、腹の底を不快にかきむしる。
またこいつ、気ィつかってやがる。
自らの出身地がどこなのかはっきり告白しようとしないエドワードを問い詰めることもせず、異邦人らしく「こちら」の習慣にうといエドワードを笑いもせず軽蔑もせず、これ以上なく親切に「こちら」の習慣をいつも教えてくれるアルフォンスは、身寄りのないエドワードに今、気を遣っている。
そりゃオレには帰るイナカなんてないけど。
厳密に言えば、イナカはあるがどうしても帰れないだけなのだが。
アルフォンスはエドワードの「あちら」の話を完全に信じているわけではない。ただ、あまりにもエドワードが「あちらへ帰る」ために必死になっている姿を見て、エドワードの希望を粉砕するのは気の毒だ、と、信じられないほどの思いやりを発揮してくれているだけなのだ。
その持ち前の思いやりを、こんなところでまで発揮しなくていい。
帰る田舎のない境遇に同情されるのが嫌で、エドワードは眉間に深くしわを刻みながら、捕獲したソーセージを口に運ぶ。あさっての方向に視線を向けて捕獲物をそしゃくしていると、アルフォンスが視界の端で、ティーカップをテーブル上にことりと戻した。
「きちんと。僕がいなくても食事してくださいね」
テーブル上のカップの取っ手に人差し指を絡めたまま、アルフォンスはこちらを見つめてくる。
「わかってる」
アルフォンスの瞳が真正面から見えているわけではないのだが、彼の「見つめてくる気配」は今現在、強烈だ。
「それから。毎日洗濯しろとは言いませんけど。脱いだものはちゃんと洗濯かごにまとめておいてくださいよ」
「…わかってる」
「物干し場の限界はシャツ五枚です。それ以上溜まると一度に干せませんから」
「………わかってる」
「それから。面倒がらないで戸締りはちゃんと」
「あーもーうるさいわかってるっ!!」
だん、と両こぶしでテーブルを叩いて、エドワードは手持ちのフォークを投げ出した。
黄色い悲鳴のような音を立てて、銀色のそれは皿の上で一度跳ねて、転がる。
ため息をかみ殺しているらしいアルフォンスの顔を見る勇気を呼び起こせなくて、そしてそんな顔をさせてしまったのが自分勝手に悲しくて、エドワードは露骨に視線を下げ、眼下で横たわるフォークを無意味に見つめた。
どうして腹が立つのかはわかっている。
研究のためにしょっちゅう寝食を忘れることや、しょっちゅう洗濯物をちらかしていることを今になって注意されたから腹が立つのでは、ない。
易々と「田舎」に帰れるアルフォンスを妬んでいるのでもない。
自分で自分をごまかしているから、腹が立つのだ。
必死で自分をごまかそうとしている自分を抑えられないから、こんなにも腹が立つのだ。
だが、何もごまかさず何も隠さず、「それ」を口にしたら、がらがらと何かが崩れてしまいそうな気がする。

───いやだ。

何が崩れるのかはわからない。
見栄か。
プライドか。
この妙に安穏な共同生活か。
そのどれでもあるような気もするし、そのどれでもないような気もする。
動揺のあまりに「それ」を口走ってしまいそうな自分が怖くて、エドワードは弾かれたように椅子から立ち上がり、すぐさまアルフォンスに背を向けて、無礼千万に食卓を後にする。
脳内を震撼させる勢いで、声は響き続けている。

───いやだ。いやだアルフォンス。

響いた自分の声を、脳内でくしゃくしゃに丸めて踏みつけて大遠投で投げ捨てながら、エドワードは狭いキッチンとアルフォンスから、速やかに逃亡を図るのだった。

───いやだ。十日もオレを、一人にするな。




水面下でどんなにあがいても時間は流れ、来てくれなくてもいいその日は容赦なくやって来る。
二十四日はすぐに訪れた。
「じゃあ、十日ほどで帰りますから」
能天気だがどこか湿っぽいアルフォンスの声が、キッチンの彼方の薄暗い玄関から聞こえてくる。
こんな時はドア前でとっくり見つめあって「行って来い」「行って来ます」の一言を交わし合うのが通常の友人関係というものなのだろうが、現在のエドワードと彼との関係は、少々「友人」の枠を逸脱している。
最初にキスをされた時は、それはもう驚いた。
それまでも、ちょっとした身体的接触に赤面しているアルフォンスを不審に思う機会はあった。だが、エドワードは目前の研究と強烈な望郷の念(あるいは肉親愛)に囚われていて、常に精神の容積を表面張力ぎりぎり一杯にしていて、アルフォンスが抱いていたらしい複雑な感情を完璧に推理する余裕がなかったのだ。
そんなぎりぎりの日々が続いたとある日曜日、息抜きに窓の外を眺めながらコーヒーを一杯やっていたら、風で揺れるカーテンの代わりにアルフォンスの顔が覆いかぶさってきた。
その直前に、アルフォンスが「僕もコーヒーの味見をしたい」だのなんだの言っていたような気がするが、まさかカップ経由でなく唇経由で味見されるとは夢にも思っていなかった。
反射的に身体を押し返して、でも片手には熱々のコーヒーカップがあるものだから大きなアクションも出来ずにエドワードが椅子の上で硬直していると、「嫌ですか?」という悲痛な声での質問が、斜め四十五度ほど上方から降ってきたりしたのだ。
いきなり言われても困る。
嫌ですか、っておまえ、それじゃ質問の解釈の範囲が広すぎて答えようがないだろうが、いや、でも逆に考えればオレは今現在この身に起こった現象をどうとでも解釈できるわけで、アルフォンスはひょっとしたらオレにそうやって返答の逃げ道を用意してくれているのか、いやいやそれは勘ぐりすぎというもので、嫌と言ったらこの場合、
1アルフォンスのキスが嫌
2キスをするアルフォンスが嫌
3アルフォンスは関係なくキスという行為が嫌
4とにかく何もかもキモチワルイ
の四種類ぐらいしか思いつかないわけで、でもこの四種類の中に自分の答えが見つからないってことはやっぱり自分の答えは嫌悪とは違う方向に行かなければならないということで。
「…あなたが嫌ならキスはやめます」
そうやって思い悩んでいる間にも斜め上方からアルフォンスの、悲痛を必死で押し殺した声が降って来て、エドワードは掛け値なしに慌てたのだった。
あの時、「嫌じゃない」と一言、それだけを答えたエドワードを、アルフォンスはどう思っているのだろう。
あの後も、何かにつけてアルフォンスはキスを仕掛けてくるが(それは朝の出がけの挨拶だったり眠る前の一言ついでだったりする)、嫌じゃないと一度答えた手前、そのたびに騒ぎ立てるのもみっともない気がして、エドワードは出来るだけ動揺する態度を彼に見せない努力をしていた。
だが、「コーヒー味見事件」以来、アルフォンスに明確な意思表示をせずモヤモヤと数ヶ月を過ごし、先日の彼の「実家に帰らせていただきます宣言」で爆発してしまったエドワードのわけのわからない感情は、今この時、もうあと数十秒後にはアルフォンスがその玄関から出て行ってしまうというせっぱ詰まった状況に追い込まれて初めて、エドワードの中ではっきりとした形を成したのだった。

───一人になるのが、いやだ。

父を恋しがっているわけでもない。
弟と会えずに悲嘆の淵に沈んでいるわけでもない。
今の自己の力ではどうしようもないことで嘆くのは、精神エネルギーの膨大な無駄遣いであるということを、エドワードは誰よりもよくわきまえている。
なのに、こちらの都合もかまわずに、休暇だ帰省だと勝手に賑わっている街の風景と、落ち着かないアルフォンスの様子がたまらなく苦々しく思えてしまうのは、全て、たったひとつの理由に帰する。

そう。
ただ、アルフォンスのそばにいたいのだ。

今、この家のドアの前で丁寧に旅行カバンを下ろして、潤む碧眼を物憂げにきらめかせて、ぼんやりとエドワードの餞別の言葉を待っている、このアルフォンスのそばに、エドワードはいたいだけなのだ。
まだそんな感情を自認するのはまっぴらだ、という思いがこの数日エドワードの意識を埋め尽くしていたが、自認から逃げようが逃げまいが、この焦りに似た寂寥感は、胃もたれもしていないのに腹というかココロの在りどころの真ん中を正確無比にしくしくと痛めつけてくる。
苦痛には免疫のあるエドワードだが、我慢できない痛みというものは割と身近に存在しているものである。
それが精神の痛みであるなら、なおさら耐えるのは困難だ。
「あの。じゃあ、行って来ます」
どうしてそこまで申し訳なさそうな態度を取るんだと胸倉を掴んで問いただしたいほどの繊細さで、アルフォンスは出がけの挨拶を繰り返す。
自分の頬骨の上で、ぴくりと小さなけいれんが毛虫のように這うのを自覚しながらも、エドワードは応答のための声を出すことが出来ない。
しかし。
このまま、アルフォンスを行かせるのはどうしても嫌だった。
乾いた下唇を前歯に引っ掛け、ようやく顔面の緊張を解く。
「………………ああ」
ようやく出た声は我ながら、地獄のような低音だ。
不機嫌丸出しと受け取られても仕方のないその声のせいで、またアルフォンスが表情を翳らせる。
どうしてもアルフォンスに申し開きをしたくて、エドワードは思わず歩を踏み出していた。
だが申し開きなどという高等なことが、とても今の自分に出来るとは思えない。
嫌だ行くな、の一言すら言えないのだ。
腹の中に転がる事実は過酷で情けない。
しかし言葉で申し開きが出来ないのなら、行動するしかない。
重い足をまっすぐアルフォンスの真正面まで運んで、エドワードは彼の両肘をがっしりと掴み止めた。

死地なら幾度か、くぐって来た。
恥のせいで死んだ人間はいない。
いや発狂ぐらいはするかもしれないけど。
いや発狂なんかしてる場合じゃねぇんだけど。
でももうとりあえず。
今は考えるな。

アルフォンスの上体を強引に引き寄せて、こぼれそうに大きな青い目の少し下の、唇に狙いを定めて。
その唇同士の接触に、失敗はなかったと思う。
歯もぶつけなかった。
鼻もぶつけなかった。
だが自分でやりおおせたことのはずなのに、ふらふらと足から力が抜けて、エドワードはアルフォンスの両肘から手を離せないまま、彼の胸元に顔を埋めるように、彼に体重を預けざるを得なかった。
「エ、エドワー…ドさ、」
「……………行けよ。早く」
その体勢から逃れようと、アルフォンスの胸板を片手で突き返してふらつく下半身を立て直し、エドワードは奥のキッチンへと逃亡を図ったが、それは実現しなかった。
「待って…!」
「おまっ、ちょっと、時間、ねーんだろうがっ」
「どうでもいいです。汽車の一本や二本」
「どうでもいいって、おま………」
何をどう解釈したのかアルフォンスは礼儀正しい泥酔者のように(それを人は大トラと言うがエドワードの身体を捕まえたその勢いはまさに虎のようだった)、エドワードを万力の腕で抱きしめ、そのあまりの力にエドワードの肋骨は確かに数回、小さく音をたててきしんだ。
「ぁ、んん…う、ううっ……」
肋骨に無体を加えられた上に唇を完全に唇で封鎖されて、エドワードの抗議の声はどこか妖しげな響きになって、その喉奥の暗闇に押し戻され消えてゆく。
「う、う……あぁ、は…ぁっ……」
舌を舌で押さえつけられるくすぐったさが、息苦しさのその端の、微妙に心地よいところを突いてくる。
その恐ろしい感覚を否応なく自覚して、エドワードの羞恥は理不尽な暴力に転化して、アルフォンスの脇腹で炸裂した。
シャツの上からとはいえ、脇腹の薄い皮膚を爪の先でつねり上げられる苦痛もこれまた、なかなか我慢しきれるものではない。
苦痛に短く悲鳴を上げたアルフォンスを今度こそ突き飛ばして、エドワードはキッチンへと全速力で退避した。
酷い聖夜だった。




これは、罰だろうか。
神の存在など針の先ほども信じていないエドワードだが、思わずそんな言葉が脳裏をかすめるほど、その状況はシビアだった。
アルフォンスが、帰って来ないのだ。
人々でごった返すミュンヘン駅の混雑の中、一時間も遅れてやって来たウィーン経由のその列車から、アルフォンスは降りて来なかった。
加齢でたるみかけた頬を寒さで赤くしている、その列車の車掌を捕まえて訊いてみても、今日ウィーンから着く便はこれが最後だと言うばかりだ。
アルフォンスが嘘をつくとは思えない。
昨日の電話で、彼は今日のこの便に乗って帰って来ると自分で言ったのだ。
厳冬の冷気で痺れていた鼻腔はもう麻痺して、痛みもしない。
目の前で停車していた列車は最後の客を降ろしてしまったらしく、先ほどの車掌の合図でゆっくりと動き始めた。
規則正しい列車の振動音が、ホームの端の端まで遠ざかっても、エドワードはしばらくその場所から動けずにいた。
冷え切った肺の奥で、後悔という名の、エドワードが最も嫌悪する感情がとぐろを巻いている。

───こりゃ、何のツケだ。

苦渋の果ての抵抗とはいえ、出がけのアルフォンスを派手に突き飛ばしてしまったツケだろうか。
昨日の突然の電話で、声が上ずりそうになるのを必死で我慢してしまったツケだろうか。
もっと正直に、早く帰ってきてくれて嬉しい、と、アルフォンスに向けて言葉と態度に出さなかったツケだろうか。
エドワードが昨日、電話口で正直にふるまったとしても、アルフォンスが乗った列車のスピードが上がるわけではなかっただろう。
だが、そうやって全然関係ないことを悔いてしまうほどに、エドワードの落胆は大きかったのだ。
どこへ消えやがったアルフォンスのばかやろうムダ足踏ませやがって、と一通り胸の中で怒鳴った後で、嫌な静寂がじりじりとそこを満たし始める。

───まさかアルフォンスは、あの列車に乗れなかったのか?

乗り遅れたのか、何かが原因で最初から乗れなかったのか。
何かが原因で列車から降りてしまったのか。
何かって、なんだ。
ジイさんに引き止められたとか。
向こうで具合が悪くなったとか。
列車に乗ってる間に具合が悪くなったとか。
向こうで事故に遭ったとか。
殺しても死なないほどにしぶとく健康な自分と違って、アルフォンスの体力はごく並かそれ以下だ。
半年ほども一つ屋根の下で一緒に暮らせば、アルフォンスがそれほど頑強な身体の持ち主でないことぐらい、エドワードにも見当はつく。
でもそれは、疲れると熱っぽくなるという程度の、誰もにありがちな事項だった。
果てしなく不吉な想像を振り払い、エドワードはようやく一歩を踏み出した。
帰宅する他に、今出来ることはなかったからだ。




エドワードの心境を映すように、街並みと空はとっぷりと暗い。
夕食まであと何時間もあるというのに、冬だからといって、こんなに日が短いのは何か壮大な詐欺に遭っているような気分だ。
路肩に積もった、くるぶし丈の雪のオブジェを腹立ち紛れに蹴とばして崩落させて、エドワードはアパートの正面玄関から、自らの住む部屋の窓をいつものように見上げた。
窓に、明かりが点いている。
想像していなかった事態に驚いて、端から順に窓の位置を数え直してみたが、光が漏れているあの窓は、間違いなく自分とアルフォンスが住んでいる部屋のそれだ。
「あら。おかえりなさい。今ね…」
玄関脇の店の奥から、ふいと顔を出したグレイシアの挨拶を生返事で片付けて、エドワードは目の前の扉に飛び込み、階段を駆け上がった。
鍵穴に鍵を突っ込むのももどかしく、なぎ払うようにエドワードがドアを開けたその向こうで、見慣れた背中は、椅子の上にぽつりと収まっていた。
キッチンの椅子に腰掛けたまま、その背中は筋をねじってこちらを振り向く。
「…………おかえりなさい」
この部屋に、マスターキーも使わず勝手に入ってこれる人物は、自分の他にアルフォンスしかいないとわかっていても、エドワードは驚くことを止められなかった。
驚きとそれ以上の安堵がごちゃ混ぜになり、さっきの短い全力疾走のせいだけでなく、息は上がったまま治まってくれない。
「…あ、ああ。ただいま」
声を出すと、なお苦しい。
「…帰って。来てたのか…」
アルフォンスの顔色は悪くない。身体の具合が悪そうには見えない。むしろ、色白な頬にさっと赤みがさして、その表情は本当に健康そうに見える。
アクシデントでは、なかったのだ。
「ええ。一時間も列車が遅れたんで。エドワードさんが出掛けてくれていて、ちょうど、よかったです」
椅子から立ち上がって、こちらに近づいてくる温かい声と冴えた色の瞳は、間違いなくいつもの元気なアルフォンスだ。
「エドワードさん。顔色がよくないです。大丈夫ですか?何か、あったんですか?」
のんきな問いかけが腹立たしく、そして涙が湧きそうに嬉しい。
質問したいのはこっちだしオレの顔色なんかどうでもいい、と即座に怒鳴りつけてやりたかったが、いまいましく上がったエドワードの息はまだ完全に治まってくれない。
「なんも、ねえよ」
声がなかなか出ない。

───このバカやめろってもうそれ以上近づくな、そっからでも充分オレの顔は見えてんだろ。

早い吐息を悟られるのが嫌でエドワードはなおも胸中で咆え叫んだが、アルフォンスは紅潮した頬をたちまち心配にくもらせて、エドワードの顔をより近くからのぞき込もうとする。
「…外を。ちょっと、うろついてたから。寒いだけだ」
嘘は言っていない。
だから頼むから、オレに近づかないでくれ。
エドワードの必死の願いは通じなかった。
顔面に向かって伸びて来たアルフォンスの手のひらを避けようと背筋を反らせたところを、二歩三歩と踏み込まれて、アルフォンスにキスらしき行為を施してしまった一週間前のあの時と同じように、またエドワードの二の腕は彼によって捕らわれる。
額に張り付いてきたアルフォンスの大きな手は、痺れるほどに温かかった。
「エドワードさん!?」
アルフォンスの声が大きくなる。
ダメ押しのごとく両肩をがっしり掴まれて、エドワードは身動きもままならない。
「なんでこんなに…冷たいんですか…?何があったのか…知りませんが。無茶はやめてください」
ままならないところを抱きしめられて、アルフォンスの胸板の温かさに、身震いがした。
オレは熱なんかない、熱いのはおまえの方だろうがとエドワードは内心で反論を続けたが、部屋の空気の暖かさとアルフォンスの体温に鼻腔を突かれ、無感覚だった当の粘膜がじわじわと湿って緩んでくるに至って、自分の身体が相当に冷え切っていたことを、やっと自覚する。
思い出したように痛む鼻から流れ込んでくるアルフォンスの匂いは、飛び上がって逃げ出したいほどに、非難のつぶやきも感謝のささやきも口に出せないほどに、騒がしくきらめきながらエドワードの胸の底までをいっぱいに埋め尽くす。

───帰って、来てくれた。

涙腺までがじんわりと熱くなり、その奇妙な悔しさに、エドワードは息も出来ない。
「すぐお湯を張ります。…あ。ボイラーの具合がわからないんで、時間がかかるかもしれませんが」
胸板から直接耳元に響いて来るアルフォンスの声は、声そのものが温度を持っているかのように、深く、温かい。
「僕がいたら落ち着かないのなら…僕は自分の部屋にいますから。キッチンのストーブも点けておきます。お風呂で温まったら、キッチンに来てください」
そんなにも深く温かいのに、その声は、聞き捨てならないセリフをほろりとこぼして、エドワードを我に返らせた。
エドワードの意向などおかまいなしに、アルフォンスはエドワードを抱きしめていた腕を自分勝手に緩めて、エドワードの身体をキッチンの奥に追いやろうとする。

───ちょっと待て。

ボクガイタラ、オチツカナイ?
なんだよその言い草は。
それに。オレはまだ、離せともなんとも言ってない。
勝手に捕まえて、勝手にポイかよ。
自分がさんざんその「アルフォンスの勝手な行動」から精神的に逃げ回ってきたことも忘れて、エドワードは鼻先の綿シャツをくしゃくしゃに握りしめた。
「おまえがいたら落ち着かない、って、なんだよ」
騒がしくきらめく、その感情の悔しまぎれに、精一杯の抗議をアルフォンスに投げつける。
「いつオレが、おまえにそんなこと言った?」
エドワードの両肩に手を置いたままで、アルフォンスはぴたりと動きを止めた。
本当に、その見開かれた大きな目がこぼれ落ちて来ないのが、不思議なくらいだ。
「だって…僕を待ってるのが嫌で…外にいたんじゃないんですか…?」
驚きと戸惑いをミックスした瞳を揺らしながら、アルフォンスの途切れ途切れの質問が、エドワードの額めがけて降って来る。
「バカ!いいかげんにしろ、何でオレがそんな理由でこんな雪ん中、出て行かなくちゃいけねーんだよ」
「なら…なんで」
息の詰まるような沈黙が訪れる。
アルフォンスがストーブで暖めてくれていた部屋の温度は上着も要らないほどなのに、みしみしと凍りつく沈黙に全身を捕らわれて、エドワードは内心でひとり、悲鳴を上げる。
沈黙を破らなければならないのは自分なのに、そのための言葉が全く頭に浮かばないのだ。
なんでって。
なんでって言われても。
なんでって言われてもオレはただ、部屋でじっとしてるのが嫌だっただけで。
少しでもじっとしている時間を縮めたくて、駅まで足を伸ばしただけで。
でもそれをアルフォンスに伝えたら、オレはもう、どうやってこの家でこいつと暮らしていけばいいのかわからなくなってしまう。
みっともないのもわかってる。
情けないのもわかってる。
だけど。
その理由をアルフォンスに伝えたら、アルフォンスは、今までのアルフォンスじゃなくなってしまう気がする。
オレはただ、このまま、ずっと、なんにもなかったように、この家で寝て起きてメシ食って、研究を続けたいだけだ。
だけど。
今ここでこのまま黙っていたら、こいつは、きっと、オレにあいそを尽かす。
いやもう既に、尽かされかけてる。
こいつがオレにあいそを尽かしたら、オレは、この家で寝ることもメシ食うことも研究を続けることも出来ない。
いや。
本当は、寝ることもメシ食うことも研究もこの際、最重要事項じゃなくって。

───こいつがオレにあいそを尽かしたら、オレは、そのことに、絶対に、耐えられない。

掴んでいたアルフォンスの綿シャツをようやく解放して、エドワードは両手を下ろし、立ち尽くす。
もう顔も上げられない自分が、この世で一番のふぬけのような気がする。
ふぬけなら、ふぬけらしく。
玉砕すれば、いいんじゃないか。
ままならない感情に疲れたのかヤケクソになったのか、妙に凶暴な衝動が、さっきからしくしくと痛めつけられている腹の真ん中から飛び出して、エドワードはそれを耐えるために一度だけ目を閉じ、すぐに開いた。
「……………駅に行ったら。おまえ、なかなか帰って来なくて」
しわにしてしまったアルフォンスのシャツに向けて、顔も上げずにつぶやくしか、方法はない。
「列車が着いても、おまえ、見当たらなくて」
頼むから。アルフォンス。
「待ってても、もう、ウィーン経由の列車はあれが最終だっていうから」
頼むからアルフォンス、今まで通りで。
「帰って来る途中で…おまえ、何かあったんじゃないかって」
今まで通りでこのまま、オレと。
「僕を…待っててくれたんですか?」
低い声と同時に深々と抱きしめられ、エドワードはまたも目のくらむ呼吸困難に陥った。
ぎゅうぎゅうとアルフォンスの胸元に押しつけられ、顔の角度も変えられないまま頬骨が痛む。
悲壮な決意でうなずこうとしても、後頭部をアルフォンスに捕らえられ、上半身の、首から上の自由がほとんどきかない。
それでも。
そのとんでもなくきゅうくつな体勢が、エドワードの意識を、糸一筋の隙間もない安堵でひたひたと埋めてゆく。
頬までも捕らえられ、促されるままに顔を上げると、そこにはいつも通りの、そして見たことのないアルフォンスの笑みがあった。
「ただいま。エドワードさん」




キスから逃れることは出来なかった。
観念してエドワードが目を閉じると、ふわりと柔らかい感触が唇に降りて来た。
もう少しその場でアルフォンスの笑顔を見ていたいのがエドワードの本音だったが、そのアルフォンスの笑顔がついと真顔になって鼻先に近づいて来れば、目を閉じるより他に出来ることはない。
恐怖と言うには柔らかく、期待と言うには寒々しいその自らの心持ちに、目をつぶって───あるいは逸らして───いるようなものだ。
だが期待になりきらない寒々しさは、アルフォンスの舌の力を借りて、エドワードの舌の先端を鳥肌の立ちそうな熱さで撫でさすり、ためらいながらも舐め上げて来る。
「…んっ……」
思わず漏れる、鼻にかかった自分の声が、のたうち回りたいほどに恥ずかしい。
それほど恥ずかしいなら、最初から口を閉じてアルフォンスの侵入を拒否すればいいようなものだが、アルフォンスの舌の動きは恐ろしく迅速に、エドワードの精神的バリケード(と唇)を突破して来る。
しかも突破されることをさほど悔しいとも思っていない自分が、意識の中にかなりずうずうしく居座っていることをふと発見して、エドワードは少なからず慌てた。
背筋がぞくぞくする。
寒気ではない。
エドワードの両の頬を捕らえていたアルフォンスの手は、それぞれ後頭部と背中に滑ってゆき、また全身を引き寄せられる形でキスが続けられる。
「…ルフォンス、…も、もう…」
もう止めてくれ。
止めてくれないと、オレは、酸欠で。
舌をねぶられながらしゃべるのは至難の業だ。
息つくひまも与えられないエドワードの口の中から一筋、水がこぼれて、その顎をくすぐる。
その水の筋を、アルフォンスは舌先で目ざとく優しく拭った。
「……!」
ぴったり顎の先端にまで這って来る舌に縮み上がり、エドワードは思わず目前の胸板を両手で突き返す。
だが、シャツがくしゃくしゃになったその胸板と、エドワード自身の胸板の隙間は、数センチと開かなかった。
「離したくないんです。ごめんなさい」
言うが早いか今までにない腕力で拘束され、エドワードは吐息だけでうめく。
これほどまでに堂々きっぱりと謝られると、呆れて身体に力も入らない。
「嫌われたのかと、思ってました」
さらに抱きしめるかたわら、髪に唇を埋められて、エドワードはわずかに肩をすくめた。
「そうじゃ、ないんですよね…?」
他人の気持ちを類推して確認することには勇気が要る。
その勇気は時々、確認された側の人間に反発を呼び覚ますことも少なくない。
だがエドワードの中の反発心は動き出さなかった。
祈るように問うて来るアルフォンスの声音に何もかも撃ち抜かれ、身体にも精神にもますます力が入らない。
アルフォンスを力で押し退けられないのなら、言葉で説得するしかない。
「こっ…こんなとこで、いつまでも、こうしてる気かよ……?するならその、……別の、部屋で」
アルフォンスの動きが、瞬間冷凍されたように止まる。
別の部屋と言われても。
バスルームを除けば、この家にはキッチンと申し訳程度のダイニングと、二つの寝室しかない。
聞きようによってはものすごいセリフを吐いてしまったことにエドワードは気づいたが、こぼれたセリフは───もちろんアルフォンスの耳の奥底深くまで響いただろうそのセリフは、もう二度と引っ込められない。
「……あ…アルフォン…う、うわっ!」
言葉に修正を加えようとしたエドワードの決心は、とうとうまっとう出来なかった。
突然姿勢を低くしたアルフォンスに両足を抱え上げられ、新婚の花嫁のように持ち上げられ、「別の部屋」のドアに向かって連行されてしまったのだ。



***

暴れるエドワードをベッドの上に降ろすのは、大変な作業だった。
キスの続きをやるなら他の部屋で、と信じられないセリフを吐かれ、あまりの衝撃にためらうことも喜ぶことも後回しにして、アルフォンスは脊髄反射でエドワードの身体を抱え上げてここまで来た。
さっきまでこの身体の中にあふれていた気恥ずかしさは、臨界点に達したとたんにどこかへ飛び去り、五秒先のことも予測出来ないまま、これからエドワードに自分がどんな行為を施すのかもイメージ出来ないまま、アルフォンスはベッドに寝かせたエドワードにのしかかり、隙間なく抱きしめる。
「おま…え、ちょっと……待てって。待てってば。ちょっと待……っ、ん、んんーーっ……」
先手必勝、唇は先に塞いだもの勝ちだ。
かけらでも否定の言葉を聞かされたら、きっと何も出来なくなってしまう。エドワードは今、暴れているものの全身で拒否を示してはいない。小さな体躯からは想像もつかないほどパワフルな彼が本気で暴れたら、こんなものでは到底すまないことを、アルフォンスはよく知っている。
エドワードに迷う隙を与えてはならない。
同時に、現在のアルフォンスにも、迷うという理性は戻っていない。
キスの続行を許可してもらえたのだから(「別の部屋」というエドワードの言葉をどんどん拡大解釈しているという自覚を、この場合は忘れていた方がいい)、とにかく今は、エドワードに口付けたい。
一週間も離ればなれだったのだ。
一週間分のエドワードの存在感を取り戻すべく、アルフォンスはエドワードの唇と吐息を深く広くむさぼった。
エドワードの冷え切っていた唇は、やっと体温を取り戻し始めている。さらにそこを温め、ゆっくり包むように濡らしてゆくと、エドワードの抗議のうめきは徐々に小さくなった。
溶けそうに柔らかい、その濡れた肉の感触が、アルフォンスの喉の底も、頭の奥も、背筋の隅々までをも、熱くする。
どうしてこんなに、やわらかいんだろう。
ただ物を食べるだけなら、言葉を発する出口であるだけなら、人間のこの器官は、こんなにとろけるように柔らかく存在する必要はないはずなのに。
なだめるようにエドワードの舌を舌でさすると、身体の下で、エドワードの身体が短くけいれんした。
もっとその舌を支配したくて、痛まないだろうぎりぎりの強さでそれを吸い上げると、さらに数回、身体のけいれんが続いた。
身体のけいれんに合わせて、アルフォンスの下腹部に触れるエドワードのそこも、驚いたように震えて、控えめに硬度を増した。
いや、硬度を増したのは自分だったかもしれない。
かーっとこめかみが燃えるような感覚に、アルフォンスは自らの興奮状態をやっと自覚した。
上半身の抵抗はほぼ止んだのに、さっきからエドワードの下肢の動きが落ち着かなかったのは、この硬度のせいだったのだろう。抱きしめながら、エドワードの下肢に自分の硬いそれを遠慮なく押しつけてしまっていた事実に気がついて、アルフォンスのこめかみはさらに温度を上げた。
「…バカ、靴ぐらい、脱がせろ……!」
速い息を漏らして、密着した身体の下からエドワードがささやいて来る。
それが、お互いの下肢から意識を逸らすための単なる照れ隠しでも、嬉しかった。
靴を脱いでくれるということは、エドワードはさらにこの行為の続きに付き合う気がある、ということだから。




舌を吸われて、意識の端が溶けかけた。
反射的に、もう一度吸って欲しいと思ってしまったことが、本当に腹立たしい。
シャツのボタンを外しにかかってくるアルフォンスの顔を見上げることも出来ず、エドワードは仰臥したまま、脇に投げ出した自分の手のひらを見つめた。
いったいどこまで、アルフォンスはエドワードを手に入れるつもりなのだろう。

───最後まで出来るか?オレ。

ある意味大変即物的な男同士のこと、触って、触らせて、抜いてやって、抜かれてやって、それから。
相手に入れたいと思うのは男だったらあたりまえかもしれねぇが、オレは別に、アルフォンスにどうしても入れたいわけじゃなく。
いやでも、それが、死にそうなぐらいに気持ちいいってんなら、入れても、入れられてもいいわけだけど。
感情を高ぶらせすぎないように、わざと頭の中でエドワードは理屈をこねてみたが、そんなことでこの心臓の大きな鼓動がアルフォンスから隠せるわけでもない。
そうこうするうちにいきなり胸の突起をくわえられ、横たわったまま飛び上がる。
胸の上に落ちてきた舌は、乱暴な動きはせず、おそるおそるといった風情だったが、執拗だった。
「く、……う…、」
首を振って耐えてみるが、声は完全に殺しきれない。
セックスなんてそんなもの、黙って静かにやるのが美学だろうと常々思っていたが、どうもその認識は甘かったようだ。
アルフォンスに見られて触れられることよりも、不随意な自分の声の方が万倍も恥ずかしい。
しかしアルフォンスの舌は動きを止めない。
左手の指の腹を噛んでエドワードがしばらく耐えていると、アルフォンスがのぞき込んで来た。
「あの。そんなに、我慢しなくても」
では何か。
我慢せずにみっともない声を撒き散らせというのか。
口を押さえて横を向いたまま、エドワードは恨みがましく、視線だけをアルフォンスに滑らせる。
「……うるさい」
アルフォンスを見上げることすら恥ずかしくて、滑らせた視線をすぐに横に戻す。
顔に血が上って、頬骨から燃えそうだ。
エドワードの暴言に少しもめげることなく、長い指がその燃えそうな頬に伸びて来た。
そっと、口元を覆っていた左手を剥がされ、またエドワードの両の頬はアルフォンスの手で包まれる。
つい真正面から、間近のアルフォンスの顔を見てしまって、心臓が、またいっそう跳ねた。
「エドワードさん」
アルフォンスはこんなに、声の低い男だっただろうか。
低く、だがどうしようもなく温かな笑みを含んで、声はこの鼻先の空気を揺らす。
揺れる空気すら、快感に近い。
もう何度目になるかわからない、頬を包まれたままの深い口付けを、エドワードは微動だにせず受け止めた。




かわいい。
本人の前で口にすれば殺されかねない感想を、アルフォンスは胸の奥底深くにようやく飲み込んだ。
エドワードがこんなに盛大に赤面しているところなど、見たことがなかった。
普段から感情表現の技術について、多大な問題を抱えている彼だが、彼は感情の表し方が致命的にヘタなだけであって、感情そのものは過剰なくらいに豊かな人間である。
その今までの確信を証明してくれているエドワードの表情やしぐさは、果てしなくアルフォンスを興奮させた。
「あ、あっ」
大きく開いた足の間の彼の欲望を、舌で包んでやると、思わず、といった風情で短い悲鳴が漏れてくる。
深く口に含み、ぴったりと吸い上げる。
「やめ、あっ…んん…」
制止の言葉も言えないでいるエドワードがさらに喘ぐ。
制止の言葉の代わりに、エドワードの指がアルフォンスの頭を掴み止めて来るが、その指はもう、ほとんど力を失っている。
先端を舐め上げながら指で根元を挟み、擦り上げると、エドワードの上半身が、魚のようにのたうった。
「…やめろ、あぁ、や……ふ、あ、あああ!」
いくらも擦らないうちに、温かい飛沫がアルフォンスの口内で弾ける。
タイミングを逸して、口の中のそれを全て飲み込むことが出来ず、アルフォンスは半分ほどもあふれたものを、手のひらですくい上げるように拭った。
脱力して横たわるエドワードは、顔を腕で覆い、シーツにつっぷしている。
「エドワードさん」
濡れていない方の手で前髪に触れると、すぐに振り払われた。
「こ、のやろう……」
乱れた長い髪の間からにらみ上げてくる瞳は、赤く、しどけなく湿っている。
緩く開かれた唇は、吐息で濡れながら小刻みに落ちつかなげに震えて、その、怒っているだろうに全くとげとげしさを感じさせない形状に、アルフォンスの下肢がまた熱くなる。
だめだ。
まずい。
これ以上この人に触れたら、今度こそ嫌われるかもしれない。
この人が、僕を嫌いでなくて、こうして触れることをなんとか許してくれていても、これ以上のことをしたら、僕は自分を止められなくなる。
絶頂の余韻に、荒く息をつきながら絶句しているエドワードとそれ以上目を合わせられずに、だが彼の身体から手を離すことも出来ずに、アルフォンスは目の前で上下している彼の素肌の胸に顔を埋めた。
エドワードへの過剰な思いを自覚してからというもの、エドワードの嫌がることはしないし出来ない、と決心を保ってきたが、エドワードのこの湿った瞳を見つめていると、想像以上に、、く、る。
大切にしたい、どんなことがあっても嫌われたくない一方で、この綺麗な顔を、どうしても、なんとかして、快楽でずたずたに引き裂きたいと思ってしまうのだ。
もう本当に、だめだ。
まずいなんてもんじゃない。

好きで、耐えられない。

進めば地獄で。
戻ればまだ、天国の門くらいは開くかもしれない。
アルフォンスが動けずに、ただエドワードの心臓の鼓動を聞いていると、かの門は内側から開いた。
エドワードの手のひらが、ふんわりとアルフォンスの頭に伸びてきたのだ。
まだ震える指で髪を梳かれる感覚に、寒気がするほど安堵する。そして安堵とは違う熱い痺れが、アルフォンスの背筋を走り抜け、アルフォンスの身体の中で、何かが壊れた。
まだ濡れていた片手を、エドワードの腰に回し、後口を探り当てる。
はっ、と身体をこわばらせるエドワードの首筋に口付け、彼の目をのぞき込まなくていいように、彼が脱力してくれるように、そこをゆっくり舌で突いた。
後口に回した指で、肉の固まったそこを撫でて濡らし、爪を立てないように細心の注意を払って、中へ指を挿し込む。
腰を引きかけたエドワードの足を足で押さえつけて、さらに指を埋めると、エドワードの首筋の筋肉が、硬く締まった。
息を飲んでいる彼の顎のラインをも唇で押さえつけ、アルフォンスはひたすらに、エドワードの反射的な抵抗を防いだ。
ぎゅっと閉じたまぶたの縁のまつげを細かく震わせながら、エドワードは声も立てない。
また彼の腰が引けようとするのを逃がすまいと、アルフォンスは滑りのよくなった後口から、ずぶ、と深く指を入れ、その内部を緩く撫でた。
「うぁ、……ぁあっ…」
アルフォンスの身体の下で、エドワードの欲望が、みしりと体積を増す。腰骨に触れるそれに驚きつつ、アルフォンスがもう数回エドワードの内部を撫でると、押し殺した低い悲鳴が空気に溶けた。




声が、止められない。
アルフォンスの肩を押し退けたいのかそこにすがりつきたいのか、自分の真意もよく把握出来ないまま、エドワードはその肩を掴んで喘いだ。
何の覚悟もなかったのに、いつの間にかほぐされてゆく自分の下半身が信じられない。
さっきからずっと無言のアルフォンスに、止めろとも嫌だとも言えないでいるということは、やっぱりこの行為に少なからず快感を感じているからなのだろう、と、まだるっこしく自分を納得させようとしても、アルフォンスの指の動きは、エドワードの通常モードの思考能力を片っ端から弾いてゆく。
何本指が入っているのかわからなくなったそこが、急に空いたと思ったら。
瞬間、高い水音を立てて、熱いものが押し入って来た。
「ああっ!」
痛みと重い衝撃が、骨にまで沁みる。
衝撃も消えないまま、ずくり、ずくりとそれは侵入して来る。
「あ……あ、あ、あ、」
それは、最初よりも小さな水音を断続的に立てながら、みっしりとエドワードの中を満たした。
かなり時間をかけ、かなり深くまで来たところで、アルフォンスは動きを止めた。
「だい…じょうぶ、ですか……?」
問答無用で侵入してきたくせに、なんでそっちが死にそうな声出してんだ。
悪態のひとつもつきたいが、痛みやら、えらく上がってきて治まらない息やら、わけのわからない痺れやらで、とてもとても、「言語」らしい声など出すことは出来ない。
開けられない目を閉じてエドワードが答えずにいると、エドワードと繋がり合ったまま、エドワードの全身を抱きこみにかかってきたアルフォンスの吐息が、頬のすぐそばまで降って来た。
「ふ、あぁっ」
刺し貫かれる角度が変わり、また腰骨が気味悪く痺れる。
エドワードはアルフォンスの両肩を掴みしめ、得体の知れないその感覚を懸命に耐えた。
「無、理なら。言ってください」
耳元でささやかれる声にすら、己の欲望は反応している。
エドワードは歯を食いしばった。
連動して後口にも力が入り、アルフォンスがびくりと肩を震わせる。
その絶大なアルフォンスの質量に、エドワードの意識までもが痺れる。
痛いだけならこんなに動揺しなかった。
みっともない気分にもならなかった。
女のように扱われて、それが悔しいだけでなくて、魂の根っこから何から持っていかれそうに、心も身体も、昂ぶってるなんて。
おかしすぎる。
返答を求めているくせに口付けてきたアルフォンスに応えると、目尻すら熱くなった。
舌を舌で捕まえてやると、これ以上どうするんだと言いたいほどに、アルフォンスの欲望が後口の中で膨らんだ。
その膨張がまた、エドワードの喘ぎを呼ぶ。
とたんに、アルフォンスが腰を引いた。
「んん……っ!!あっ!あっ!」
引いたそれを即座に打ちつけられ、エドワードは顔を逸らしてアルフォンスの唇から逃れた。
ためらっていたようなアルフォンスの動きは、あっという間に速いリズムを得る。
「あっあっあっ…!!」
後口で抜き挿しされるそれが、ひっきりなしに水音を立てる。
水音はエドワードの喘ぎと、アルフォンスの吐息に混じり合って、とめどなくベッドの上の空気を湿らせた。
太いそれは、滑らかに、そして容赦なくエドワードの中に沈み、また現われ、沈む。
声も、思考も、四方八方に砕け散り、下肢から燃え出す快感に、全て飲み込まれた。
「ん、あ、もう、も……う……んぁ、ああ、ああっ、」
与えられる一撃ごとに、絶頂が繰り返される。
どこが始まりで終わりなのか、見当もつかない。
自分がどのくらい自分の身体を濡らしているのか、自分がどのくらいアルフォンスに快感を与えているのか。
激しい動きに押しやられ、エドワードの頭が軽くベッドヘッドにぶつかった。
エドワードの足を高く抱え込み、アルフォンスが短く息を飲む。
もう一度確実に繋がり合いたいと言いたげに、腿を抱えて引き寄せられ、赤く灼けたアルフォンスの欲望が、エドワードのそこにぎっしりと固く滑りながら収まってゆく。
一瞬の静止の後、砕け散るような高い水音を立てて、彼はとどめを刺すようにエドワードを追い立て始めた。
高い悲鳴が上がる。
断続的に繰り返される絶頂の果てを予感出来ないまま、エドワードは一度だけ、自らを今抱きとめている人間の名前を呼んだ。
「アル、アルフォンス!あぁあ!」




目が覚めると明け方だった。
いや、実際には何度か目が覚めたのだが、あまりの疲労に、エドワードはその時間になるまで起き上がって行動することが出来なかったのだ。
狭いベッドの中、アルフォンスも同じように傍らで眠っているが、彼は夜中に目を覚まして、エドワードのために湯を沸かしたりシーツを替えてくれたりしたらしい。
らしい、というのは、エドワードはそうしてアルフォンスが起きていた間ずっと半覚醒状態だったため、何をささやかれても彼と会話らしい会話が出来なかったのだ。
部屋の闇は明け方独特の濃度で、まだ日は昇っていない。
身じろぐと下半身が痛んだが、いつまでも死んだ魚のようにここに横たわっていることは出来ない。
エドワードは全身をきしませながら起き上がり、ベッドの端に腰掛けて床に足を下ろした。
何がいったいどうなって、こんなことになったのだろう。
雪の中、ミュンヘン駅へ出かけたのが、何日も前の出来事のような気がする。
昨夜の記憶の分析を故意に放棄して、エドワードはベッドヘッドに掛けられていたシャツに手を伸ばした。
袖を通してボタンを留めようとしたところで、それがアルフォンスのものだということに気づいたが、薄闇の中で、もう自分のシャツを探し出す気力は残っていない。
何より、下手にごそごそ動けば、アルフォンスが目を覚ましてしまう。
とにかくもうこれ以上、アルフォンスに醜態をさらしたくないのだ。
絶大なためらいはあったものの、最終的にアルフォンスを殴り飛ばさず、彼が触れてくれる快楽を追求してしまったのは自分だ。
何の言い逃れも、出来ない。

───この後、どうすりゃいいんだよ。

エドワードには皆目見当がつかない。
あれほどまでに今まで通りでありたかったアルフォンスとの関係は、昨夜の一件でひっくり返りこんぐらかり、全く別のものに変容してしまった。
ここで黙って自分の部屋のベッドに帰れば、アルフォンスはまたエドワードの行動を深読みして落ち込むかもしれない。
しかし。
オレはまだ、眠りたい。なんで疲れてるのかなんて聞く方がバカだ。
幸い今日は一月一日で休みだから。
この下半身の痛みが落ち着くまで、オレは自分ちのベッドで、スペースを気にせず心置きなく横になりたいだけなんだ。
そっとベッド脇に立ったところで、何の前触れもなく手首を掴まれ、エドワードは飛び上がった。
「う………!」
身じろいだとたんに腰に激痛が走り、エドワードは立ったまま大きく肩をすくめる。
「…大丈夫ですか…?」
いつ目を覚ましていたのか、アルフォンスが横たわったまま手を伸ばし、エドワードの左手を捕まえている。
「おまえ。起きてるなら起きてるって言えよ」
「すみません」
短く謝った後も、アルフォンスはエドワードを離さない。
「おい。離せよ」
返事がない。
「離せってば」
最高に気まずい沈黙の中、アルフォンスはエドワードの手首を離さずに、ゆっくりと肘をついて上体を起こし、腰に毛布を巻いたままベッドの上に座った。
薄闇にも白い、彼の全裸の胸元があらわになり、エドワードは思わずそこから顔を逸らしてしまう。
「……怒ってますか?」
ストレートに沈黙を破られても、エドワードはアルフォンスの顔をまだ見ることが出来ない。
「無茶、してしまって……すみませんでした。…ど、うしても。……………我慢できなく、て」
消え入りそうなアルフォンスの声に、心底いらいらする。
「もう二度と、あんなことはしませんから。だから……無理かもしれないけど……、この家から、出て行くのだけは待ってください」
話を飛躍させすぎなんだバカ。
呆れるのもバカらしい見当違いを、疑いもせず抱え込みやがってこいつは。
でも本当の、一番のイライラの種は、こんな捨て身の素直さでせまって来るアルフォンスを振り返ってやることさえ出来ないでいる、小心な自分だ。
掴まれた手首の温かさが、エドワードの額を熱くし、頬に血を上らせ、エドワードの全身を巡る。
全身どころか、魂まで、ゆで上がりそうな勢いだ。
「ガマンは、………………オレも、出来なかった」
背けた視線を床に落としたまま、エドワードはやっとつぶやく。
またもや訪れる沈黙と羞恥に、焼け死にそうだ。
全て、おあいこなのかもしれない。
今現在、一方的にエドワードの下半身だけが痛んでいるというのは、ひどい不公平だとは思うけれども。
「…どういう、ことですか?」
「オレに説明させるなそんなこと!!」
察しの悪すぎるその手を振り払い、髪を振り乱してどすんともう一度ベッドに腰掛け、またも忘れていた下半身の激痛にひとしきりうめいた後、エドワードはアルフォンスに向き直った。
どうしてこいつはいつも、どうしようもないことをオレに説明させようとするんだろう。
どうしようもないことを説明するぐらいなら、いっそ行動に出た方がマシだなんて思ってしまったばっかりに、あんなことや、こんなことになって。
自分自身とアルフォンスに、それぞれ不毛に腹を立てながら、エドワードはベッドの上できょとんとこちらを見つめてくる瞳を見返した。
今も限りなく腹は立つが。
ここから消え去らないで欲しいと、一週間前エドワードがアルフォンスに願ったように、このアルフォンスもそう願っている、と、そういうことなのだろうか。
全て、おあいこなのかもしれない。
いっそ、そうだったらいい。
情緒も色気もない動きで左手を伸ばし、エドワードはアルフォンスの肩をわし掴んだ。
思考を止めて、どうしようもなく面倒な説明に代えて、きょとんとする瞳の下の唇に、また唇で触れてやる。
その口付けは、一週間前に交わしたそれよりずいぶん乱暴なものだったが、アルフォンスは変わらずエドワードを逃さなかった。
「いで!痛ぇよ、あんまりひっぱんな!」
「す、すみません、でも…もうちょっと」
もうちょっとそばにいて欲しいと、優しく背中に腕を回され、エドワードは彼の首に腕を回し、彼の肩に顎を乗せてため息をついた。
いつのまに日が昇ったのか、カーテンの隙間から漏れた光が、白い筋になってベッドの上を濡らしている。
悩んでいたって、笑っていたって、朝は来る。
オレがアルフォンスと寝ても寝なくても朝は来る。
夜明けを何か特別なことのように思うのは、それは自分が毎日夜明けを見ていないからであって。
自分がいぎたなく高いびきをかいている間に、朝はいつも窓の外できっちりと、逃げることなく訪れているのだ。
抱きしめあう肩越しに、エドワードはカーテンをつまんで、狭い都会の空を眺めた。
太陽の光線が、向かいのアパートの壁石を白く照らしている。
照らされた建物も、やっと訪れた温かさにため息をついているようだ。
狭い空は明度を増し、その紫が水色に───アルフォンスの瞳の色に、染まってゆく。
水色は、いっそ逃げ出したいくらいにざわざわと、いたたまれなく透き通っている。
それはアルフォンスの瞳の色に似ているから美しいのではなく、夜明けが夜明けだから美しいのだと、本当に性懲りもなく、エドワードは窓辺で軽く自己欺瞞を繰り返すのだった。
「…アルフォンス。とりあえず。腹が減った」


欺瞞の解決は、この悔しすぎる心地よさに浸ってからだ。