国家錬金術師実技試験



風の強い日だった。   
東方司令部の若手ナンバーワン出世頭、ロイ・マスタング大佐が、子供を国家錬金術師に推薦するというので、その日の司令部はざわざわと落ち着かなかった。
「で?試験の前に、なんか用?」
司令部の応接室で、噂の子供は物怖じ一つせず、どっかりと足を組んでソファに座り込んでいる。
およそ一年ぶりに見たエドワード・エルリックは、リゼンブールで初めて会った時とは別人のようだった。
いや、こちらが本来の彼の姿か。
差し向かいに立って、マスタングはエドワードを見つめる。
絶望と苦痛しか浮かべていなかった瞳は、どこか影はあるものの、強い輝きを放つ。
もうそれを目にするだけで、たいていの人間には、彼が普通の子供ではないことがわかるだろう。
「実技試験の前に、確認したい。君が本当に、錬金術を操れる身体なのかどうか」
「この機械鎧は特別製だ。オレはもう、完璧に、自由に動ける」
「では、その機械鎧を見せてくれ」
エドワードはけげんな顔をした。
「かー、疑い深いな。なんだよ、こんなところで脱げってのか」
「そうだ」
間髪入れない簡潔な返答に、エドワードの表情がぴたりと固まった。
数秒後。
冗談でもなんでもない空気を感じ取ったのか、彼はため息とともに、ぱたりと両手を膝についた。左、右の順で白い手袋を手から引き抜き、まとめてソファの上に投げ捨て、勢い良く立ち上がる。
「……わかったよ。好きなだけ見ればいいだろ」



痛々しい肩の傷痕が、機械鎧の接合部分から見え隠れしている。
瑞々しいリンゴの皮のように、するりと細長く盛り上がった縫合跡。見えざる力にねじ切られた皮膚は、薄く盛り上がり、わずかながら、濡れたように光る。
目に見える傷痕というものが、どんなに見る者の劣情をそそるか、などということを、この少年はまだ想像したこともないだろう。
「機械鎧とは、綺麗なものだな」
マスタングが鋼の手首をすいと持ち上げると、腕に力が入り、かすかな金属音を立てて拳が握りしめられた。
見上げてくる金の瞳は、たまらなく攻撃的で。
瞳の中には、疑いと、憎悪の色。
そして、わずかなわずかな羞恥。
本当に、たまらない。
「わかっていると思うが。君が人体錬成を行ったことは、決して軍の人間に知られてはならない。今も、そしてもちろん、試験に合格してからも。知られれば、軍属としての資格を剥奪される」
「しつこいぜ」
「君の国家錬金術師としての将来は、なにもかも私の胸ひとつ、ということだ」
突然にマスタングの言葉の意味を理解し、エドワードの瞳が見開かれた。
その驚きが、瞳の中でゆっくりと憤怒に変わってゆくさまを、鳥肌も立ちそうな気分でマスタングは眺めた。
ふいを突いて、鋼の手首を思い切り引き寄せる。
呼吸が荒くなるほどの怒りに浸っていたエドワードは、足を一瞬踏ん張って抵抗したが、恐ろしい力で左手首をもマスタングに封じられると、短くうめき、諦めてすぐ脱力した。
しなやかな身体を胸に深く抱きとめ、金の髪に触れ、素肌の背中に触れて。
マスタングは自分の唇が笑いの形に歪むのを止められなかった。
腕の中の小さな身体がぎこちなくこわばればこわばるほど、自分の身体の中から、取り返しがつかないほどに甘美なものがあふれ出してくるのを感じる。
「顔を上げて。私を見るんだ」
彼が自分の腕の中でどんな顔をしているのか、見たくてたまらない。
「顔を上げろ。命令だ」
マスタングの軍服に顔を埋めたまま、エドワードは喉をくっ、と鳴らした。
歯を食いしばり、勢い良く顔を上げる。

───視線に射抜かれる、というのは、こういうことか。

逃れられないのは、私の方かもしれない。
マスタングの胸が、快感に痛んだ。
痛みにそそのかされるまま、もう逃さぬよう、目の前の唇を、唇で封印する。
今度こそ渾身の力で抵抗されたが、腕さえ封じておけば、エドワードは錬金術を使えない。鍛えているとはいえ、十二歳の少年が職業軍人に腕力でかなうはずがないのだ。
マスタングはエドワードを壁際に突き飛ばした。
背中に衝撃を受け、むせる彼の体温のない右手を、容赦なくつかみ上げ、壁に縫い止める。
「私は上を向け、と言っているだけだ。それ以外の行動は今は許さない」
怒りで熱くなっている細い顎を、マスタングは空けた右手でわしづかんだ。
耳の下の関節を親指で圧迫してやると、エドワードは、かは、と苦しげに息を吐いた。相当な激痛のようだ。
その緩んだ唇を、もう一度味わう。
逃げる舌を舌で捕まえ、歯さえ立てられないほどに深く絡ませ、抑えつける。
エドワードの喉からは、子供がしゃくりあげるのを我慢している時のような、高くてごく短い吸気の音が絞り出され、それが繰り返し耳元からマスタングを煽る。
なんとか顎にかかる手を引き剥がそうと、エドワードの左手がマスタングの手の甲に食い込むが、全く歯が立たない。
手に力が入らないのだ。
手だけではない。
痛いほどに舌を吸われ、肩の力が抜ける。
頬の内側の柔らかい肉を舐められると、足の付け根が痺れる。
ぞっとするほど乱暴な一方で、口の中の自分のものでない舌は、不気味なほどに優しくて。
深さのわからない海に引きずり込まれるような恐怖が、エドワードの全身を支配した。

どのくらい経ったのか。
秒単位だったような気もするし、五分は経った気もする。
口付けから解放され、エドワードは、もう一度マスタングの軍服に顔を埋めていた。正確に言うと、埋めさせられていた。
背中は壁、鼻先には軍服。もう一ミリも動けない。
沸点を越えたエドワードの怒りが凍りつき始めた時、落ち着き払った声が、その頭上から降ってきた。
「…さあ、実技練習は終わりだ。本番の用意をしたまえ」
マスタングがようやく鋼の右手を壁から解放した瞬間。
布が裂ける、いやな音がした。
はっとして、一歩下がったマスタングが左胸を探る。
そこにあったはずの、あのうとましい飾りがない。
壁に背を預けたまま、エドワードは食いちぎった階級章を、ぺっ、と床に吐き捨てた。
転がろうとするそれを、落としたコインでも捕まえるように踏みつける。
マスタングの唇から、笑みがこぼれた。
「私は先に出ている。服を着たまえ」
肩で息をしながら、エドワードは壁際からしばらく動かなかったが、マスタングがこれ以上自分に触れてくる意志がないことを悟ると、乱暴に靴を鳴らしてマスタングの脇をすり抜けていった。
背後で彼が衣服を身に着けている気配を感じながら、砂に汚れた階級章をゆっくりと拾い上げ、マスタングは振り向かずに部屋を出た。
すぐさま、ドアの脇で待っていたホークアイに尋ねられた。
「階級章、どうなさったのですか?」
「いや。なんでもない。当然のお仕置きを受けただけだ」
汚れた階級章に、口付けさえしたい気分だったが。
副官の手前、マスタングはどうにかそれをこらえた。
「では、私は先に試験会場へ行く。君は、エドワード君が出てきたら会場まで案内してやってくれ」
「はい」
強い風が、ひっきりなしに廊下のガラスを叩いている。
不可解だ、と顔に書いてあるホークアイを廊下に残して、マスタングは歩き出した。


忘れられないくらい、憎まれる。
それは、セックスよりも快感だ。