階段の下の子供



不思議な夢だった。


マスタングは階段を降りていた。
階段は大理石のようなもので出来ていて、だが大理石独特の紋様はなく、ただ白くつるつると光っていた。
階段を照らす光線が、どこから降ってくるのかはわからない。
見上げようとも思わないのが、夢を見ている時のお決まりの法則らしい。
周囲は闇だ。
それはねっとりと絡みついてくるようなものではなく、空間は闇のずっと先まで広がっていることが感じられた。
広大な闇だ。
広大な闇の中に浮かぶ、白い階段を、マスタングはゆっくり降りていた。
階段の幅は狭く、マスタングが両腕を広げたほどの長さもない。手すりもない。階段の縁と、闇の境界線すらあいまいだ。
靴音は響かない。こつ、こつ、と渇いた小さな音が、マスタングの耳に届くだけだ。
らせん階段、という構造ではない。マスタングの視線の下に、ただまっすぐ階段が伸び、それは果てしなく下方に続いている。階段の縁が闇に溶けているのと同じに、階段の行く先も、闇に溶けていた。
足を踏み外して脇に転げ落ちたら命はないだろう。
それを自覚していても、なぜか恐怖を感じない。
降りても降りても、疲労を感じないせいかもしれない。

───夢なのだものな。

そう納得しながら降りていくと、突然、階段の行く先がまぶしく光り、踊り場のようなものが見えた。
闇の中に浮かぶ一枚の板のような踊り場は、自分の寝室の床面積と同じくらいだとマスタングは見当をつけた。そこもやはり階段と同じ素材の石で出来ているらしく、ちらちらと光を反射して、下方からマスタングの目をくすぐる。
くすぐられながら、目をこらす。
誰かが、その踊り場に立っている。
誰なのかは、わかっている。
降りる足を速めると、赤いコートの背中を見せていたその人物が振り向いた。
「誰かと思ったら。あんたかよ」
疲れたようにため息を吐いて、長い前髪をかきあげる彼は、口調とは逆に、嬉しそうだ。
「私が来ては、迷惑か?鋼の」
踊り場まで、あと十数段だろうか。
エドワードを見下ろしながら、マスタングも笑顔を浮かべてやる。
それを見て困ったように口元を歪めるエドワードを、なかなかに愛らしいと感じてしまうあたり、そろそろ年貢の納め時なのだろうかとマスタングは思った。
「別に。迷惑じゃねーよ?」
普段の彼にはありえないセリフだ。
いつもなら、「ああ、大迷惑だ!!」とふんぞり返られるところだろうに。
夢というのは、実に都合がいい。
こつりと最後の一段から足を下ろして、マスタングも踊り場に降り立った。
もう二、三歩歩けば、彼に手が届くだろう。
だがそのままの距離で、マスタングはエドワードを見つめた。
「考えてみりゃそうだよな。あんたが一番にここに来るのはやっぱ当然か…」
エドワードは顎に手を当てて、何か、マスタングにはわからない独り言をぶつぶつ言っている。
「なぜ、私がここに来るのが当然なんだ?」
尋ねてやると、エドワードは顎から手を外して、気の毒そうな視線をマスタングに投げた。
「あんた、自覚なかったのか?ここに来るまで全然?」
「なんのことだ。さっぱりわからない」
「そっか。わかんないなら、その方がいいかも」
エドワードらしからぬ、はっきりしない物言いに、マスタングは一気に不愉快になった。
「気持ちの悪い言い方をするな。なんのことだ一体?」
気色ばむマスタングに、エドワードは苦笑した。
どこか息苦しげではあったが、優しい笑顔だった。
こんなに優しいエドワードの顔など、見たことがない。
これではいつもと逆ではないか。
マスタングは少し慌てた。
腹を立てるエドワードを、笑みながらなだめてやるのが、自分の役目だったはずだ。
子供になだめられてどうする。
「ごめん。あんたを怒らせるつもりはなかった」
夢の中の子供は、本当に、信じられないほど優しい。
こつり、こつりと靴を鳴らして、エドワードはマスタングに歩み寄りながら言葉を続けた。
「オレ、だいぶ前にここに着いてさ。オレの後に必ず誰か来るってわかってたんだけど、誰が来るのか想像するのも嫌でさあ。不安でしかたなかったけど、あんたが来てくれてよかった」
エドワードが何を言っているのかはまるでわからないが、彼は、マスタングを歓迎してくれている。
そのことがとても心地よくて、マスタングの様々な疑問はもう、その意識の端の方へ追いやられつつあった。
「あんたは?オレがここにいて、がっかりした?」
こつり、と靴音が止む。
マスタングが初めて見るエドワードの笑顔は消え、不安そうに、金の瞳が間近から見上げてくる。
返答する代わりに抱きしめた。
腕の中に捕らわれた子供は一瞬身体をこわばらせたが、すぐに安心したように腕をマスタングの背に回してきた。
抱きしめ合うことが、こんなにも懐かしいと思うのは、なぜなのだろう。
かつて自分を抱いてくれた「母」の記憶がそうさせているのだろうか。
 「………いいや。会えて嬉しいよ」
赤いコートの肩に顔を埋めながら、マスタングがタイミングを失した答えを返してやると、背中に回されたエドワードの手のひらの圧力が増した。
それに応えるように、マスタングも腕の力を強める。
「…………」
「何だ?」
エドワードが何か言っているようだが、彼の顔はマスタングの胸元に押し潰されんばかりに密着していて、発音が聞き取れない。
腕を緩めてやると、エドワードはマスタングの軍服の胸元を掴んで、ふと顔を上げた。
「オレ、もう行かないといけないんだ」
「どこへ?」
エドワードは顔を逸らして、答えない。
それどころか、マスタングの胸についた手を突っ張って、その拘束から逃れようとする。
「あんたが来たから、あんたと一緒に行くのもいいかと思ったけど。やっぱりダメだ。オレ一人で行く」
「だから、どこへ行くんだ!私も行く」
エドワードの両肩を掴んで問いただすマスタングの耳に。どこからか、声のようなものが聞こえてきた。
「なんだ?あれは」
マスタングは身動きを止めた。
人の、うめき声のようにも聞こえる。
動物の、咆哮のようにも聞こえる。
なんにせよ、気味のよい音ではない。
「ほら。オレを呼んでるんだ」
声に気を取られたマスタングの隙をついて、エドワードは身を翻した。
「待て!!」
広くない踊り場の縁まで駆けて、エドワードを追い詰める。
ところが。
エドワードはためらいもなく、ぴょんと白い踊り場の縁から、その先の闇へ、飛び降りたのだ。
「鋼の!!」
足を踏み外せば、死ぬ。
さっき階段を降りていた時の感覚が戻ってきて、マスタングは叫んだ。
身を乗り出して闇をのぞき込むと、エドワードの姿は、闇の中にふわりと浮かんで静止していた。
向こうの端からは見えなかったが、この踊り場から、まだ下方に階段が続いていたのだ。
下方に伸びる階段を、10段近くまとめて飛び降りたらしいエドワードは、何事もなかったかのようにこちらを見上げている。
「待て鋼の!!私も行く!!」
安堵と焦りをないまぜにして、マスタングも体勢を立て直し、再び階段を駆け下りる。
エドワードは、飛び降りたその場所で待っていてくれた。
マスタングが足を止めた場所から数段低いそこにいる彼は、いつもよりずっと小柄に見えた。
「…ホント、追っかけてきてくれて嬉しいけどさ」
まぶしげに見上げてくるエドワードの困りきった笑顔は、マスタングの独占欲をかきたてた。

───どこへも行かせない。絶対に。

「オレ、あんたが大事だから、一人で行きたいんだ」
「だから、わけのわからないことを言うんじゃない!!一体、どこへ行くっていうんだ!?」
「人体錬成の踊り場」
「は?」
「さっきオレたちがいたトコは、殺人者の踊り場。オレが行こうとしてんのは、人体錬成やったヤツが行く踊り場。これでわかったか?」
衝撃で口のきけないマスタングに、エドワードはさらにたたみかける。
「あんたが、それをわかった上で一緒に来てくれるんなら、オレは構わない」
突如厳しい表情になった子供が、階段の下からマスタングに手を差し伸べてきた。
その機械鎧の指先が、どこから落ちてくるのかわからない光線に照らされて、きらりと白く光る。

これは夢だ。
ならば、今すぐ覚めろ。
いや。覚めないでくれ。

その両方を願いながら、マスタングはゆっくりとエドワードに手を伸ばした。