開錠者外伝・注文の多い錬金術師



その男の店に軍人が来るのは、さして珍しいことではなかった。
ニューオプティンという田舎町ではあるが、町には軍の支部があり、大通りに面した雑貨店ということもあって、男の店には時折、急な雨に降られた出張中の軍人や、仕事帰りの事務員が、傘を買い求めに来る。
店で、主に扱っているのは傘だった。しかし傘だけではショーウィンドウは寂しく、雨の日以外にもウィンドウの前で客に足を止めてもらうために、わずかながら靴や手袋にスカーフ、ネクタイピンなどという装身具も扱っている。それらの装身具はやはり傘ほどは売れないが、そこで手を抜くと店の信用ががた落ちになることを、長年の経験から男はよく知っていた。ゆえに、傘以外の品物については、傘と同じくらいの───あるいはそれ以上の高級品を揃えておくことを、男は自らの商売の信条にしていたのである。

晩秋の日がかげり、店のウィンドウが淡い夕日を映し始めると、店の中は急に薄暗くなる。店主である男が、壁面のスイッチに手を伸ばして明かりを点けると同時に、その軍人はドアを開けて店に入って来た。
「…いらっしゃいませ」
突然の光線に目をすがめる彼の顔つきは、地位の割には相当若い。青い軍服の肩に縫い止められた階級章には、金のライン四本に星が三つ。おそらく、佐官クラスの人間だ。
だが、佐官にしては彼があまりに若いので、男はこれまで何度も目にしている軍人の階級章への認識に、少し自信がなくなった。

───星三つは。「大尉」だったか、「大佐」だったか…?

一瞬の戸惑いが、つい最近かけ始めた老眼鏡から透けて見えないように、男はすぐさま、その客に軽く笑んでみせる。
「何かお探しで…?」
外は快晴だし、彼は店内の傘に目もくれていない。明らかに、傘を買いに来たのではない。
店内をすいと見渡して、年若いその軍人は口を開いた。
「スカーフ…いや、マフラーか何か、置いていないだろうか」
落ち着いた口調は、他人に命令することに慣れた人間のそれだ。
黒い髪に、切れ長の黒い目。視線を揺らすことなくまっすぐに見つめてくるその瞳には、誠実さと、得体の知れない鋭さが同居している。
だが惜しいことに、若く滑らかなその頬には、鋭利なペンでひっかいたようなかすり傷が浮かび、夜勤でもこなして睡眠不足なのか、鋭い瞳の縁はやや赤く充血しており、その赤さのせいで、彼の表情は少し精細を欠いているように見えた。
「マフラー、ございますよ。今お持ちします」
年若い男性に、買い物の意図をあれこれと尋ねるのは商売として逆効果になることが多い。しかも相手は、機嫌を損ねると後々面倒な軍人だ。中には出張のヒマをもてあまして、家族への土産を買うついでに饒舌になる軍人もいたが、どう見ても彼はそういうタイプではなかった。
男は店の奥の小さな倉庫に駆け込み、棚に積み上げていた薄い箱を端から順に三つ四つつかみ取って、できるだけ迅速に店頭まで小走りで駆け戻った。おしなべて軍人は、動作の遅い人間が嫌いだ。彼を待たせれば待たせた分だけ、商売成立の可能性は少なくなる。

黒。緑。茶系に赤の差し色が効いた格子柄。最後に、マフラーとは違うが薄いラベンダー色のショール。

レジスター横の陳列台の上に、男はその四品の箱のふたを開けて、並べてやった。
「マフラーか何か」と彼は言った。もしも女性への土産なら、これからの季節、ショールも圏外ではない。
彼は軽く握ったこぶしを唇に当てて、充血した目で四品を見比べる。充血はしていてもそのまなざしは穏やかで、彼は焦ることなく落ち着いて考えているのが、見ていてもよくわかった。
「箱から出しても構わないだろうか?」
多少なりとも気に入ったのか、格子柄の縁を遠慮がちにつまんで、黒い目が男を見据えてくる。
「どうぞどうぞ。どれも、上質の羊毛です。ぜひお手に取って確かめてください」
折りたたまれていた格子柄のそれを、ぱたりぱたりと本でも読むように開いて閉じて、彼はすぐに箱へと戻した。
続いて黒と緑、そしてショールに手を伸ばさないところを見ると、彼は相当に格子柄が気に入ったらしい。
だが何に迷ったのか、またこぶしを口元に持って行き、箱四つを前にして考え込んでいる。
ご家族にお土産ですか、と、見かねた男が口を開きかけた時、かたりと表のドアが開く音がした。
「おい!いいかげんにしろよ!中尉待たせてんだろ!?」
たった今明かりをともした店内が更に明るくなるような、金色の髪と真っ赤なコート。その口調を聞けば、ドアを開けた少年が、考え込んでいる軍人の連れであることは一目瞭然だ。
だが、地位ある軍人と、どう見ても十五は越えていない少年の取り合わせはひどくちぐはぐだった。親子にしては軍人は若すぎるし、一番可能性が高いのは、彼らが親戚関係であることだったが、彼の甥っ子にしては少年は口が悪過ぎる。
さまざまな疑問を顔に出さないよう、無為無言で男が彼らを見守っていると、考え込んでいた目前の軍人は、振り向きざまに手を上げて、戸口の少年を制した。
さっきの口調とは裏腹に、少年は表情を固まらせてドアを後ろ手に閉め、その場に立ち止まる。不満そうに噛みしめた唇のすぐ下の、顎から首筋にかけて、火傷でもしたのか赤い大きな痣が見える。どうもそれが古傷ではなさそうなことに気づいて、男が少年に向けて質問しようとした時、不気味なほどに静かな声が、男の出かかった吐息をさえぎった。
「すまないが。やはり、ウィンドウの中の、あの白いのを頼む」
彼が指差した先にあるのは、ほとんどウィンドウの飾りと言っていい大判のマフラーだ。
高価すぎるのと汚れやすいその色が災いして、去年も一昨年も売り切ることができず、冬が近づくたびに、店主である男のため息と共に飾られてきたあれを、この軍人は最初からマークしていたらしい。
男は大急ぎでウィンドウの鍵を開け、かの品を取り出してレジスター横に積み、値札をハサミで切り落とした。その(男にとっては)感慨深い作業の最中に、目前の軍人は胸元から何か取り出して、マフラーで山盛りになった陳列台の隅にことん、と置いた。
「持ち合わせがない。申し訳ないがサインをさせて欲しい」
陳列台の上で光っているのは、銀色の、いや銀製の懐中時計だ。なんとも美麗に彫り込まれた、軍の意匠の細工の細かさに、男の目は問答無用で奪われる。

───まさか。

初めて間近で見る軍支給の銀時計に、男はハサミを持ったまま立ち尽くす。
軍部の名において、信用払いを申し出るこの男───平たく言えば、商売人としては歓迎しづらいツケを要求するこの男は、どうやら国家錬金術師であるらしい。
「私はロイ・マスタング。地位は大佐だ。東方司令部に勤務している」



手早くサインを済ませたマスタングは、商品の包装を断り、店の戸口で顔をしかめながらも神妙に待っていた少年に、足早に歩み寄った。
先ほど強い態度でたしなめられたのがこたえているのか、少年はおびえたようにあとずさったが、マスタングは白いマフラーの両端を持って、投網で魚を絡め取るように、ふわりと彼を絡め取る。
「やめろバカ!自分でできる!」
ばちん、と音を立てて、自らの手の甲でマスタングの腕を払った少年は、マスタングの動作のいちいちが、照れくさくてしょうがないらしい。マフラーの白に合わせたように、あっという間に紅潮した頬が、嫌悪ばかりではないそのことを物語っている。
腕を払われたマスタングは、また強い態度に出るのかと思いきや、母親に置き去りにされた子供のような、どうにも不安げに気の抜けた顔をして、少年を見下ろした。
その、あまりにも幼い表情に、男の目は釘付けられる。

───軍服を身にまとう人間が、こんな顔をするなんて。

小さな驚愕が胸に刺さり、染み渡りながら広がってゆく。
これでは、彼らのどちらが少年なのか、わからないではないか。
地位ある軍人に横柄な口をきき、たいそうな金額を負担させてその彼を振り払い、礼も言わずに品物を受け取る、奇妙な貫禄を備えたこの金髪の少年は、マスタングの何なのだろう。
そして、金髪の少年にとって、マスタングはどういう存在の人間なのだろう。
商売が成立した今、彼らの機嫌を損ねない程度に質問くらいはしてもよかったのだろうが、男はついにそうすることができなかった。
何か、直感的に、訊いてはいけないと思ったのだ。
男が動揺しているうちに、金髪の少年は自分で首元のマフラーを整え、顔を上げた。
どうやら男の視線に気づいたらしい。
その、視線がぶつかった瞬く間の気まずさを噛み砕くように唇を歪め、渋面のまま、少年はこちらに軽く頭を下げたかと思うと、脱兎のごとくドアを開けて、黄昏の大通りに駆け出していった。
諦めたようにそれを見守っていたマスタングも、開いたドアの隙間に身体を挟んでこちらを振り返る。
「ありがとう、ございました」
甲高くも低くもない彼の声は、男の耳を心地よく打った。
すぐさまの彼の会釈は深くなかったが、その笑みは美しい。
品よく静かにドアが閉められ、ウィンドウの向こうを青い軍服が颯爽と横切り、それが見えなくなった後で、男は、商売人として最も大事なことを───彼らに礼を述べることを───忘れていたのに気がついた。
あわてて外に出てみても、彼らはもう夕刻の雑踏に飲みこまれた後だ。

黄昏は、男を笑うように、ゆっくりと闇を落とし始めた。