電話はなるべく短めに



目が痛い。
白いシーツが、まぶしすぎるのだ。
まぶしいほど清潔だという意味ではない。
昨夜はカーテンを開けっ放しで寝てしまい、朝日がシーツ全域に反射している、それだけのことだ。そのことにもたった今気がついたくらいだ。
容赦ない陽光が、ベッドに横たわったロイの目に───充血したその目に突き刺さる。
痛むのは目だけではない。
実際に頭蓋骨の中から、ごうごうと低い音を発しているのではないかと錯覚するほどに、頭が痛い。二日酔いなど、何年ぶりだろう。
そもそも、昨夜どうやって自室に帰ってきたのか、覚えていない。それでも自分はどうにかあの重い礼装を脱ぎ、ハンガーに掛け、靴もちゃんと脱いで寝たらしい。
上半身はシャツ一枚、下はそれこそ下着のみという世にも情けない格好で、ロイは動かすのも億劫な身体を、猫のようにベッドの上でゆっくりと丸めた。
頭痛の上に、重い重い自己嫌悪感が、ゆっくりとのしかかってくる。
しかし。
これは、予定調和のシナリオだ。
自己嫌悪に抱きすくめられながら、ロイは右腕で両目を覆った。視界が暗くなり、それまでの光の残像がまぶたの裏の闇の中で、薄緑色の炎となって踊り狂う。
そう。こうなるのがすべてわかっていて、承知の上で、わかっていることにさらに自分でフタをして。自分で自分に知らないふりをしながら、ゆうべ。

───俺はしこたま飲んだんだった。

ロイの目の中の、薄緑色の残像が消えかけた時。
サイドテーブルの上の、電話が鳴った。




昨日、ヒューズが結婚した。
式の後、久しぶりに会った士官学校の同期の面々と、嫌々ながら飲んだ。
同期の中で、ロイが多少なりとも「友人」と呼べる人物は、今も昔も変わらずマース・ヒューズだけだということは、ロイの中でも、同期の面々の中でも、暗黙の常識となっていた。しかもすでに「中佐」という、同期の人間の中では最も高い地位にある自分が、その集まりに加わって、楽しく酒を味わえる確率など、限りなくゼロに近い。
それでもロイは、「飲みに行くか」という同期の人物の社交辞令に、首を横に振らなかった。
そんな愚かな選択をしてしまうほど、その時のロイは、嫌だったのだ。
一人で家に帰ることが。


酒場でロイは黙って飲み続けた。
最初はそちらにチラチラと視線を投げかけていたメンバーたちだったが、誰もロイに話しかけなくとも、彼はそれ以上不機嫌さを増す様子がなかったので、小一時間もたつと、その場はロイのいる一隅を除いては、和やかな盛り上がりを見せていた。
自分も近いうちに結婚したいものだとぼやく者、相手すら見つからないと嘆く者、今付き合っている相手に結婚の意志があるかどうか、聞くのが恐いと弱音を吐く者。
「マスタングは?モテんだろ、ケッコンしねーの?」
アルコールは警戒心を解くというが。
「別に不自由もしていない。する必要などない」
解け過ぎても、それはそれで、良くない。
声に温度があるのなら。
ロイの返答するその声は、彼がいま手にしているグラスの中の氷より、温度が低かろうと思われた。



凍りついたその場がようやく修復されて、また小一時間。
目立たぬよう足を組み、全く変わらぬ姿勢で黙々と飲みつづけるロイの鼻先に、店のどこから借り出してきたのか、一組のトランプの束が突き出された。
「……何だ?」
「あー、イヤならやらなくて、いいんだけども」
「だから何を」
「……新婚さんゲーム」
ロイの片眉が、ほんのわずかに痙攣した。
「カードを順番に引いてって、ジョーカー引いた奴が、ヒューズの泊まってるホテルに電話をかける」
要は、初夜中の夫婦に電話をかけて邪魔しようという、実に古典的で悪趣味なイタズラなのだ。

───バカバカしい。

心中でそう吐き捨てながら。
怒りにも似た感情で、ゲームに参加することを熱望しているもう一人の自分が居るのを、ロイはその時、確かに自覚していた。
「……………わかった」
短く応えて、ロイはカードに手を伸ばした。
特に探りも入れず、束の一番上をぐいとめくると。
よりにもよって、ハートのエースだ。
ジョーカーの方が、まだましだったかもしれない。
一瞬カードを燃やしてやろうかと考えたが、それではトランプの持ち主が後日迷惑する。
ロイは引いたカードを、平手でテーブルに軽く叩きつけると、空いた左手でグラスを掴み、そこに残っていた少なくない量の酒を、全て喉に流し込んだ。




「よぉ、ロイ。生きてるかー?」
サイドテーブルの電話に、手を伸ばす。
重症の二日酔いには大事業だったその動作に何とか耐えて、ロイがしつこく鳴り続ける電話の受話器を持ち上げると、聞こえてきたのは、昨日の挙式で、緊張の余り結婚指輪を取り落としそうになった、あがり症で能天気な友人の声だった。
「…………何の用だ」
地を這う声で返してやっても、友人はいつものごとく、欠片も動じない。
「同期のヤツから電話でさー。お前が、見たこともないぐらい酔っ払って帰ったって言うから、心配でな」
この、素直さと、おせっかいさに。
自分はどれだけ腹を立て、羨み、そして、救われてきただろう。
それでも。
身体に残る酒のせいではなく、ヒューズがヒューズであることを、ロイが今ほど悔しいと思ったことはなかった。
「こんな朝っぱらに電話してるヒマがあったら、奥さんとゆっくり風呂にでも入っていちゃいちゃしてろ」
「あ~、風呂ならさっき入っちまった~。うははは~」
誰を殺したいのかよくわからないが、殺意にも似たものがこみ上げてくるのを、ロイは重量の増したまぶたを閉じてこらえた。
「切るぞ」
「わー、待て待て!ホントに大丈夫なんだろうな、ロイ!?」
「うるさい。お前の話は長すぎる。これから電話はもっと短めにしろ。でないと切るからな」
「それは難しい注文だぜ~。グレイシアの美しさは一言や二言で語れるようなもんじゃ」
そこまで聞いて、ロイは受話器を放り投げた。
重い受話器は、フック部分を弾ませて、だが奇跡的に元の場所に収まった。
きっと、どんなに約束させても、これから先、あの男の長電話が止むことはないだろう。
自分がどんなに怒鳴りつけても、決して。

けれど、自分は待っているのだ。
頭痛の波の間からこぼれた、甘いひとしずくの水のような思いが、ロイの心臓に染みる。

これ以上なく腹を立てながら、待っている。
能天気な声が、受話器から聞こえてくるのを。
いつまでも。



カーテンも閉めずに、白く光るシーツの上で、ロイはもう一度目を閉じた。
小さな鳥が、隅から隅まで白く朝日に縁取られた窓ガラスを、その羽ばたきで密やかに鳴らしていくのが聞こえた。