セントラル第一夜
荷物が片付かない。
ロイ・マスタング大佐と、その部下に新しくあてがわれた執務室の棚に収めても収めても、書類は箱からわいて出てきた。ここはもうセントラルなのに、運んできた箱を開けると、中の書類たちからは以前の執務室の───東方司令部の建物の匂いがした。
空に重苦しく夕焼けが満ちる頃、ロイは引越し作業をそっと抜け出した。
───時間がなかった。すまない。
花屋の仕舞いぎわぎりぎりに買った黄色いバラを、ロイはそっと墓石に沿えた。夕闇の中でそこだけ小さな明かりが灯ったようだった。
軍服のまま抜け出して、ここまで来た。またすぐ司令部に帰って、引越し作業の続きをしなければならない。
だが、今日、来たかった。
セントラルでの第一日目、今日ここに来なければ、忙しさにまぎれてもう来れないような気がした。
墓石の周りの土は、まだほのかに盛り上がり、周辺の地面とは違う色をしていた。ヒューズの、いや、ヒューズだった身体がここに埋められて、まだ日数はそう経っていない。
───おい。来たぞ。
声に出さずに、呼びかける。
───俺はまだ、おまえの仇(かたき)を討ってない。
すまないな。
謝ってばかりだと、またおまえに説教されそうだが。謝らなければいけない状況なんだから、仕方ないだろう。
これから、全力を尽くす。
───だから、待っていろ。
だが。
全力を尽くしても、仇を討っても、ヒューズはもう帰って来ないことにすぐ思い至り、またロイは息が苦しくなる。
ヒューズに話したいことが、ヒューズだけに話したいことが、胸の中に蓄積されていくばかりで、それが飽和した時のことを考えただけで恐ろしい。
遠い昔、あんなに入ってくるなと願ったのに、ヒューズは自分の心の隅々まで入り込み、根を張り、自分の感情を吸い上げ、突然、刃物で断ち切られたように、消えた。
いや違う。
ヒューズが入り込んだのではない。
自分が、ヒューズを入り込ませたのだ。
馬鹿だった。
誰かを心の奥底深く入り込ませれば、いつかはこうなるとわかっていたのに。
だから決して、そんな馬鹿なマネはするまいと、ずっとずっと昔、少年の頃からそう決めていたのに。
このていたらくは何だ。
自分を罵りながら、ロイはまた、もう一つのことにも気づく。
───愚の骨頂、馬鹿も頂点をやらかしておきながら、俺はまた。
懲りずに、次の馬鹿をやらかそうとしている。
それも、前の時よりもっとひどい、最低級レベルの。
───ヒューズ。死んでるおまえにだから言うけどな。
どうも俺には、「そっちの気(け)」があったらしい。
笑うな。茶化すな。それから怒るな。黙って聞け。
いや、聞いてくれ。
───おまえの全部がグレイシアに持って行かれたように。
「俺の全部は、どうも鋼のに持って行かれたらしい」
そこだけを、ロイは声に出した。
風に襟元をくすぐられ、緩めていたそこを元通り留め直す。
足元のバラの黄色に、薄い闇が染み込んできている。
声に出してしまうと、ますますそれが動かしがたい自分の真実であるのだとはっきり思えて、胸の鼓動が早くなった。
───本当に、馬鹿だ。
ロイは自嘲した。
背後から、寝床へ急ぐ無遠慮な鳥の羽音が聞こえた。
なおも、自分の体内のヒューズに話しかける。
───おまえに説明はうまく出来ない。
おまえはグレイシアがいかに素晴らしいか、何十時間も俺に聞かせてくれたが、俺はそんなことはしない。いや、出来ない。
照れてるとかそんな馬鹿な感情じゃない。
本当に出来ないんだ。
まあ、おまえは聞きたくもないだろうから、それはそれでいいだろう。
おかしな事を聞かせてすまなかった。
……………いや、違ったな。
その。だから。
聞いてくれて。ありがとう。
…………………………………
───これでいいんだろう?もう文句は言わせん。
ロイの胸中で、ヒューズのいつもの笑顔と、つい先日のデスマスクが交互に明滅した。
こんなに滑稽な報告をしているのに、また、喉の奥に嫌なものがせり上がってきて、目頭が痺れる。
───いいかげんに、しておかなくてはな。
痺れが水滴となって目からこぼれ落ちようとするのを、ロイはどうにか阻止した。
すっかり濃くなった、墓石の影を見つめる。
もうそろそろ、時間も限界だ。
ぼんやりしていると本当にここまでホークアイが探しに来そうで、落ち着かない。
───帰るよ。
ロイは墓石に背を向け、もと来た道を歩き始めた。
まだ、胸の中でヒューズはなにか言いたげな顔をしている。
───おまえはまた、いいかげんに諦めろと笑うかもしれないが。
俺は、諦められない。
こんな年にもなって情けないがな。
おまえにまだ、本当の意味で別れの言葉は言えない。
どうしても。
言えない。
「またいつか」。それしか言えない。
これからは、俺だけが年を取っていくが。
そっちで会った時は、老人になった俺を笑うなよ。
じゃあ。
───また来る。